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サラリーマン輪廻(5/9) ~無知の人間道~ [哲学]

実は、サラリーマンは広い牧場で飼われた羊と同じである。羊は、人に飼われているとは思ってない。その生活はほぼ自由だからだ。朝になると、小屋から牧場に出される。人間で言えば出勤だ。羊は牧場の草を食べながら、日柄のんびりと過ごす。羊は自分の意思で牧場に出て、お腹が空いたから草を食べてると思ってる。広い牧場を自由に歩き回ることもできる。好きな場所の草も食べることができる。
 サラリーマンも同じだ。経営者側に飼われているのだが、そうは思ってない。本人達は羊と同じではないと言い切る。なぜなら、羊は自分で選んで牧場に入ったのではないが、人は自分で選んで会社という牧場に入ったというのがその根拠らしい。アニキは言う、別に牧場へ入る経緯などどうでもよいのだ。問題は、入ったそこは牧場であるという事実がわかってるのか?ということだ。羊は毎日牧草地へ出掛ける。人間は毎日会社へ行って仕事をする。新人は別にして、社会人年数がある程度経つと、出勤したあとは自動的に自分の仕事をこなす。いちいち飼い主(経営者)や羊飼い(上司)は「これやれ」「あれやれ」とは言わない。仕事の段取りや効率を自分で考えて業務にいそしんでいる。すべて自由にやってると思ってる。夕方になると羊は宿舎へと誘導される。そして、そこで寝る。人も同じだ、家に家族が待っている。毎日は単調であるが、食えて安全に寝られていれば、羊はそれ以上に望むものもない。いやなことと言えば、たまに毛を刈られるか、ミルクをしぼり採られるぐらいだ。人間も同じだろう。たまに上司に小言を言われるか、お客に文句言われる程度で、普通に仕事してれば解雇されずに済む。給料は自然と振り込まれているから、安全に暮らせる。こう考えれば、人は会社という牧場で飼われている羊とほとんど変わらないのだ。
 別に多くを望まないのであればそれでもかまわないのだが、せっかくの人生だ、それではつまんないだろうと、アニキは思うのだ。心ある上司は、飲みに行った時にでもこのしくみを説明してくれるのだが、仕組みは理解できたとしても、乗ってる船からはなかなか降りることはできないし、降りたところは嵐の大海だ。何とかしようと考えてるうちに月日は過ぎ、気がつけば先の心ある上司に今度は自分がなって、部下を説教しているのだ。仕組みがわかってもその流れには逆らえず、気がつけば以前の上司のように自分がなってしまっている。先にも話したが、これがサラリーマン輪廻の構成要素のひとつである「骨抜き修羅道」である。骨抜き修羅道の会社の洗脳により、いつの間にか歩かされていた自分に気がついても、時すでに遅しという状態だ。
 骨抜き修羅道で能力が上がることを抑えられてしまい、そのまま年月が過ぎるのだが、そのことに気がつかないで後悔する状況が「無知の人間道」である。人は、自分が羊であることすら気づかないで、そう指摘する奴には牙をむく。まさに無知の極地であり、そのことを知ってしまった時には、後の祭りに悩むのだ。知った途端に、今まで心の支えであった会社に対する忠誠心が大きく崩れる。心の柱が折れた状態では、無防備だ。今まで信頼していたものに裏切られたという感が大きく、心が浮遊してしまうのである。何事にもやる気が感じられなくなり、すべてに疑いを持つようになる。ぽっかりと口を開けてしまった心はなかなか埋まらないもの。目は死んだ魚の眼のように曇り、多くのサラリーマンが行き着くこの場所は、荒れ果てた心の荒野である。
 これが「無知の人間道」の最も厄介なところである。

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サラリーマン輪廻(4/9) ~骨抜き修羅道~ [哲学]

 社員を骨抜きにすることは、日本企業にとってとても重要だ。社員教育もこの点を重要視しているという。よく外部委託される社員研修などは、レベルを下げてくれとの依頼を人事から受けるという。あまりレベルの高い研修を行うと、社員に気づきが起こり、会社を辞めてしまうらしいのだ。だから、会社の人事は外部の社員教育会社に対して、「レベルを下げてお願いします」という風に研修を依頼するという。それを受けた教育会社は、まあそこそこのレベルで研修を行うのだが、それを受講した社員はいまひとつ感を受ける。で、あまり大した研修じゃないな、この教育会社もいまいちだなというだけで終わってしまう。社員教育なるものは、社員のやる気を保てればよいだけで、能力を上げるためのものではない。アニキ哲学における「物事の本質を見極めろ」のひとつだ。社員教育における本質とは、ここにある。だから社員教育は、「それを受けることを選ばれた者」という部分を会社は強調したいだけであり、研修の中身などは最初から空っぽで得るものなどない。下手に世の中を悟ってしまって、会社を辞めたり、会社に楯突いたりするからだ。会社は社員に武器なんか持たせるようなことはしないのだ。ここにも、サラリーマンと奴隷の共通点がある。
 話が逸れたので戻そう。会社の意図はこういうしくみになっている。若い頃はバリバリ働けるから、安い給料で馬車馬のごとく働かせる。会社とは洗脳組織だから、他に目が向かないように上司や先輩はしっかりと「仕事道」を教え込んでゆく。これはちょっとおかしいぞと気付くのが、40~50才ぐらいだ。こんなに頑張ってるのに給料が上がらないとか、出世しないとかという疑問が湧く。そうだ、会社とは上に行けば行くほど、好き嫌いがその選定基準となるから、いくら仕事ができても、上に気に入られなければ待遇はよくならない。ここに気付くのもちょうど50歳前後だ。会社の本当のしくみに気がつき、「こりゃまずい」となるが、時すでに遅しだ。もうその時点では、その会社以外では通用しないことがわかる。骨抜きにされているのだから、もう、その船を下りることはできない。
 いいか、会社は初めから船から下りれないように洗脳してゆく。50歳で洗脳が解けたとしても、その時点ではどうすることもできない。転職しようにも、自己PR文すら作成することができない。いざペンを持っても何も書けないからだ。会社は書けないように仕向けていたのだ。いざ書こうにも、活字にできる技能は与えられてないから、結局は「部長をやってました」とか、「課長をやってました」とか、その程度だ。肩書だけはあるものの、実際アピールする能力自体がないから、転職の面接でも、「見積もり書が作れます」とか、「報告書が書けます」とか「マネジメントやってました」程度の悲しい話しか言えない。まさに修羅の道だったのだ。
 このように、従業員に能力を与えず骨抜きにすることを、サラリーマン輪廻における「骨抜き修羅道」と呼ぶ。

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サラリーマン輪廻(3/9) ~あめ玉餓鬼道~ [哲学]

 年齢は40歳を過ぎた頃だろう。自分に何の能力もないことがわかり、「このまま会社にいても…」と、資格取得や転職に考えが向かう。なぜなら、自分の将来を見るなら、目の前にいる先輩や上司を見ればよいのだから。自分の5年後は?と思ったら5年先輩を、10年後は?と思ったら10年先輩を見ればよい。彼らのその姿に一種の不安を覚え、「俺は違う、こうはならない」と考えなおすことになる。がしかし、会社もバカじゃない。そんなサラリーマンの心理などはお見通しだ。だから、駄々をこね始めたその年代に対し、あめ玉を用意しているのだ。そう、会社はそんな駄々っ子には、課長というポジションを与える。そして、「君には期待している」という魔法の言葉をかける。これは、サラリーマンにおいて、最上級の洗脳言葉である。これを言われると、サラリーマンは息を吹き返すしくみになっている。人は目の輝きを取り戻し、会社から離れたその心の軌道が修正される。また、この会社のためにがんばろうという気持ちになるから、まさに最上級のあめ玉だ。
 しかし、あめ玉もいつかは舐めてなくなるもの。舐め切ってしまったあめ玉の効果は約10年ほどだ。すると、ここで会社は次のあめ玉を用意するのだが、ここまで引っ張ると会社も鬼の顔を出してくる。つまり、天国と地獄に振り分ける。会社の役に立つ人間には「部長というあめ玉」を与えるが、役に立たないと評価した人間は突き放す。50歳を超えて突き放されても、どうしようもない。突き放したその裾にしがみつき、「どうかお側に!」ということになってしまう。つまり、会社の思うつぼだ。羊肉としてしか価値にない羊が、「まだ役に立つから生かしておいて」と懇願するようなものだ。
 これが、サラリーマン輪廻の流れのひとつである「あめ玉餓鬼道」だ。あめ玉につられ、地獄の餓鬼のごとく貪欲にあめ玉をしゃぶり続ける。あめ玉がなくなると、更なるあめ玉を求めて欲望をあらわにし、会社に居座り続ける。会社側のあめ玉に操られるそんな姿を形容して、アニキが命名した。
 あめ玉餓鬼道について補足しよう。大企業なら課長まで、中小企業なら部長までなら、こつこつと仕事してれば何とか出世できる。しかしそれは、会社が与えたエサ(あめ玉)にすぎない。餓鬼道の怖さここにある。これが会社の罠だと知らないがために、知らず知らずにあめ玉を舐めてしまう。要するにここまでの出世は、従業員を骨抜きにするための手段だ。会社から心が離れそうな年代に対し、会社に気持ちを引きつけておくエサが必要で、それがないと自分で他でエサを探し回るから始末が悪いのだ。エサを探す行動は、会社の罠に気付くことになる可能性が高いからだ。
 そして、日本の企業の罠の目的は、社員を骨抜きにすることだ。


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サラリーマン輪廻(2/9) ~輪廻の流れ~ [哲学]

 サラリーマンとは修行僧のような存在だ。報われない毎日に耐えて、ひたすら仕事にいそしむ。その中で、働く価値とは?人生の意味とは?という命題に対し、自分で答えを見つけてゆく。そうしてゆくうちに、そのサラリーマン人生において輪廻があることに気付く。人間が一生の修行を終え、次の修行のために何度も生まれ変わるように、サラリーマン人生の中にも輪廻が存在するということに。それはやってはいけないとわかってはいるのに、繰り返してしまう。その道はよくないと気がついているのに、同じ道を知らず知らずに歩いてしまう。それが「サラリーマン輪廻」である。本やテレビ、あるいは先輩の話で、失敗例をかなり見聞きしているのに、なぜか自分も同じ道にはまってしまう。サラリーマン輪廻は、わかっているのに同じ道を辿るということだ。これはなぜなのか?実は、かなり意図的なことが作用していることに、誰も気づいていない。個人的な性格の問題もあるのだが、ある大きな意思がそこを利用して罠を仕掛けているのだ。そう、仕掛けているのは会社だ。それがまるで個人の意思であるかのように仕向けて。ならばそれは、どんな意思であるのか?
 会社の巧みな罠とは?サラリーマンという一種独特な人種の心理的部分を操り、自然とはまるようになっている罠である。人は、出世、異動、結婚、住居購入などを経験しながら、どっぷりと会社という沼地に両足をおろしていくことになる。新入社員の時はすべてが新鮮であり、おこづかいしかもらっていなかった人間が、給料を毎月もらえるというそのこと自体に感動する。学生時代のアルバイトの方が収入は多かったかもしれないが、その時は収入はあれど、まだ親のすねかじりだ。自分の足で立っているわけではない。そこから会社に洗脳されてゆく。しばらく働くと、なかなか給料が上がらない現実に直面するが、周りを見ても似たような状況だから、大概の人はここでがんばるしかないと奮起する。一部の人は、ちょっとおかしいなと感じながらも、先輩や上司に「数年でケツを割るような甘ったれじゃ、どこ行っても通用しないぞ」とはっぱをかけられて、考え直す。
 そのまま勤めていると、今度は結婚が待っている。結婚という鎖に縛られ、自分勝手な行動はできなくなる。そのまま悶々と過ごすうちに、子どもができてマイホームを購入する。こうなると、完全に手足は見えない鎖でがっちり縛られた状態で、アニキが言う「奴隷の進化形」を見事に形成することになる。鎖を引きずったまま、社会で奮闘する。このままじゃいかん、何とかこの鎖を軽くしなければならないと考え、いろいろ将来を見つめることになる。

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サラリーマン輪廻(1/9) ~サラリーマンは奴隷の進化形~ [哲学]

 世の中の社会人のほとんどは、サラリーマンだ。要するに、使われる側の人間だ。使う側より使われる側が圧倒的に多いのは、太古の昔からの社会のしくみだ。そりゃそうだ、常識で考えても、羊より羊飼いが多いわけはないのだから。
 サラリーマンが多い理由は他にもある。人間が生まれ変わるそのしくみだ。使う側の少数派とは、使われる側の魂レベルより低い。使う側の魂レベル方が高いだろうと考えがちだが、それはこの世界での勝手な論理である。魂社会、つまりあの世というか、生まれる前の世界では、魂レベルの高い人ほど悲惨な境遇の人に生まれ変わる。魂レベルの低い人は、耐えられるプレッシャーの大きさに制限があるから、耐えられないと簡単に自殺したり、自暴自棄になったり、犯罪を犯したりと、いろんな問題を起こす。だから、生まれる時にはイケメンで生まれたり、大金持ちの家に生まれたり、抜群の頭の良さを持っていたりと、人間としての境遇はよい。それに、使う側の魂レベルは、動物から初めて人間になった魂とかも多いらしい。おたくの社長も実は前世は犬か狸だったかもしれないのだ。なんだよ、俺たちはそんな獣に使われてんのかよ!とがっかりするかもしれないが、落ち込むことはない。君たちも何百万年も前は動物だった可能性は高いのだから、気にすることはない。大事なことはそこではない。じゃあ、まずはその圧倒的多数のサラリーマンという人種の社会的価値を考えてみよう。
 実はサラリーマンとは、奴隷が進化したにすぎない。奴隷から丁稚へ、丁稚からサラリーマンという進化の流れだ。何が進化したのかというと、自由になるお金が増えただけだ。給料が増えただけである。それ以外は何も変わっていない。「そんなはずはない、カラダも奴隷に比べれば自由じゃないか。」と思うだろう。確かに、見た目の自由は獲得できているものの、精神的な束縛でがんじがらめだ。しばられている鎖が眼で見えるものなのか、眼で見えないものなのかという話だ。そして、その鎖が短いのか長いのかだけのこと。言わば、給料が上がったついでに、眼に見えない鎖に変えてもらい、長さも長くしてもらっているだけだ。サラリーマンとは、奴隷の進化形であることを理解する必要がある。アニキの過去ブログでも主張しているが、「物事の本質を見抜け」は、ここでも同じだ。サラリーマンの本質とは、奴隷の進化形なのだ。じゃあ、奴隷の進化形とは、何を意味するのであろうか?杭を抜くことができない象の話を聞いたことはあるだろう。

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物事の本質を見極めろ!(5/5) ~サラリーマン悟りの境地~ [哲学]

これが面接など試験官の判定による試験の本質で、面接においての本質を見抜くとは、「主観がものを言う」ということを意識して準備するかどうかなのだ。そして主観を考える場合、「常識的にはどうか?」と見ることがすごく重要となる。常識は人によって解釈が違うかもしれないが、この場合の常識はわかるだろう。面接を受ける側の常識とは、好感度だろう。第一印象で好感が持てるかどうかだ。見た目と礼儀などの態度だよな。そのくらいはわかるはずだ。
 つまり、面接に限らず、判断基準が「主観」であるケースは、世の中にはものすごく多い。面接に代表されるような主観の判断とは、判断者の考えですべてが決まるということだ。逆に、世の中において、客観的な基準で決まることはほとんどない。まあ、学校のテストぐらいなもんだろう。ガキは、世の中の何でもが客観的な基準で決まると思ってるが、大人はそうは思ってない。世の中は主観で決まると思っているのが大人だ。客観的な基準で決まると思っているから、「理不尽だ」という言葉が出るのだ。世の中は主観で決まる、だから理不尽は当たり前だとわかっている人は、本質を見抜いているわけだ。つまり、本質を見抜いてる人は最初から、それに備えて行動しているから、全く慌てない。物事を大局で見る余裕さえ生まれるから、女性にももてるというオマケまでついてくる。
 サラリーマンなら、いろんな問題が毎日起こる。理不尽なことも毎日起こる。理不尽だと思う事が起こった場合、それはまだ本質が見えてないということになる。訓練だと思って、日常の問題の本質を自分で考えてみればよい。アニキの過去ブログでもテーマにした「評価」「残業」「給料」を覚えているだろうか?その本質はこうだ、「評価は好き嫌い」「残業は前向きな人間の仕事」「給料はプレッシャーの対価」だ。今後テーマにしようと思う「接待」「つきあい」「結婚」など、本質を見極める必要があるテーマは、身近にいくらでもある。
 だから、よく考えなければならないのは、自分が直面する問題について、その本質はどこにあるのか?ということだ。それにはまず、「その真の目的は何か?」をじっくりと考える訓練をすることが必要だ。じっくり考えることで脳が活性化する。すると、次第に物事の本質が見えてくるから、無駄な行動がなくなる。本質をじっくり考えなくても、自動的に答えは出てくるようになる。これがサラリーマン悟りの境地だ。
 悟りとは、「物事のしくみが理解できること」だ。要は、その物事の本質が理解でき、そのことがどう生活の中で機能しているかがわかるってことだ。平たく言えば、「人間は何で生まれてくるんか?」とか、「運の良し悪いは何で決まるか」がわかっているということだ。「人間とは…」などという難しい哲学は行者や変人にでもまかせればいい。だから、サラリーマンの日常で起こる身近な現象については、自分で見極めてゆくのが賢い生き方だろう。本質を見極める訓練を積むことで、物事がどう流れるかわかるので、結末が予想できる。ということは、準備できるってことだ。準備ができれば、すべて想定内ということになる。想定内なら焦ることもなくなり、ハッピーな毎日を送れる。
 そうだ、本質を見極めるとは、ハッピーな毎日を送るために欠かせない重要な能力である。まずこいつを手に入れないで、何を手に入れるっていうんだ?金か?女か?そりゃ、順番が逆だろう。まずは、自分がほしいものを望む前に、本質を見極める能力を手に入れろ!な、そうだろう若者よ。
 今回は説教になってしまって悪かった。
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物事の本質を見極めろ!(4/5) ~言葉の槍で突け~ [哲学]

 まずは、相手の固定観念に風穴を開けてやるのだ。固定観念ができてしまうと、書かれたものや友人の言葉を簡単に信じてしまう。別に、すぐに何でも疑う天の邪鬼になれと言ってるのではない。前提の本質を見極めた上で、それは表面しか見ていないなとか、本質を見誤ってるなとか、正しくないなと思ったら、相手の固定観念に風穴を開けてやるのだ。風穴を開けるためには、やんわりと言っても意味がない。風穴は「一言で短く」だ。アニキはこれを、「言葉の槍で突け」と教える。すばやく短くだ。何でもそうだろう、穴を開ける時は、「すばやく短く」が基本だ。固定観念とは風船だ。すばやく鋭く短く槍のように突かなければ変形するだけだ。やんわり言っては元に戻るだけで意味をなさない。元に戻ると厄介だぞ。矛先が自分に向かってくるから、間違いなくケンカになる。だから、一撃必殺だ。すばやく鋭く短くだ。
 先ほどの「お前バカか」がこれに当たる。これを言われてカチンときた瞬間に、もう一突きだ。「目的を考えろ、バカ」とか、「もっと大人になれよ」「本質見ろよ、ボクチン」ぐらいで突く。トーンはあくまで穏やかな方が効果的だ。この槍は、心に穴をあける槍だから、小さく鋭く突く。動きは最小限だ。最小限の動作、これが短くの意味である。声を荒げると、相手の心は防護壁を立てるから、穴が開かない。相手が無防備な状態で、すばやくチクッと突く。お友達なんかは、チクッと突くだけでいい。深傷を負わせるのが目的ではないから、ここは気をつけるポイントだ。勝つための秘訣と同じだ。相手に防御させないという基本がここでも生きてくる。最小限の力で勝つ秘訣は、相手が無防備にしておくことで、人生でも全く同じだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、本質を見抜けない友達に、それが見抜けるように導いてやる。人生で最も重要な能力である「本質を見抜く力」を、早くから鍛えるように向けてやるのが友達ってもんだろう。言いにくいことでも、本人のためなら本気で教えてやるのが本当の優しさだ。だから、くだらない固定観念なんか、破ってやるのが友達の優しさなのだ。
 ゴメン、アニキブログの基本は相手を変えることではなく、自分を変えることだから話を戻そう。「面接官が自分だったら」と考えるのが最もリーズナブルだ。面接を受けた人がギリギリの点数の時、合格にしようか不合格にしようか迷うよな。印象が悪いと落とすはずだ。これが人の主観だ。ここに公平さは存在しない。なぜなら、公平かどうかなんて、面接官以外のだれも判断できないからだ。落とす理由など、あとからいくらでも取って付ければ済むことだ。前述の運転免許一発試験の話も同じである。面接など試験官の裁量により判定する試験の場合、技術の出来不出来ではない。あくまで試験官の主観がすべてを決めるのだ。
 そう考えると女性はすごい。面接管が男だろうと想定すると、胸が開いた服で行く。すばらしい戦略である。女性は物事の本質を見抜く眼は男よりあると言える。

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物事の本質を見極めろ!(3/5) ~前提に潜む本質を見ろ~ [哲学]

 だから、ここでよく考えなければならないのは、面接要項に書かれてある「ラフな格好でもいい」という点と、友人の「何でもいいんだよ」という言葉だ。本質を見抜くということは、まず第1に目的を考えることだが、もう一つ重要なことは、「前提を疑う」ということだ。書いてある事や友達の言葉は鵜呑みにせず、まず疑ってかかれということだ。面接を受けるのは自分である。面接要項を書いた人じゃない。ましてや、友人でもない。まず、面接要項を作った人の意図を考える。試験を行う側は、面接でかしこまらずに普段のありのままを出してもらおうという意図で、こう書いたのだ。それをそのまま受け取って、ラフな格好で行く奴は本質がわかってない。よく考えなければならないのは、「ラフな恰好で来い」とは書いてことだ。それと友人の「何でもいいんだよ」の一言。これは、「所詮人ごとで自分事ではない」という発想だ。本質のかけらもない。その友人はいい奴かもしれないが、あまりにアホだ。友達つきあいはそのままにしても、本質がわかってないから重要なことは相談してはいかん。アニキがいつも言う「言葉は耳で聞くな、物事は目で見るな」だ。
 そして、評価は第一印象だ。この世の真理だ。ナンパだって、まず顔だろう、違うか?人は顔から入る。人はまず顔、そて形だ。形とは身なり、中身はその次だ。これは、騙そうと思って近づく奴の話じゃない。人間と人間のプラスの関わりの話だ。これが初対面の本質だろう。第一印象が重要だ。特に面接などのピンポイントの関係では、中身を知るというレベルではなく、第一印象しかないというレベルだ。そのピンポイントに意識を集中するのは当たり前。当たり前論の基本である。当たり前論の話は長くなるから、後日ブログ「厳しさと当たり前」で詳しく話そう。
 アニキは何が言いたいのかというと、先の例を取ると「ラフな恰好でもいいよ」この前提は疑わなければならいない。罠ではないのか?と。現時点の問題はこの前提を鵜呑みにしてしまうその性格になる。前提を鵜呑みにする正確を変えるべきなのだ。前提はすべて自分の固定観念によって決まるから、前提を与えられると、それをそのまま文字通り軸として考えてしまう。そういう自分の性質にメスを入れてやる。前提が目的を網羅しているのか、前提が腑に落ちるのかをじっくりと見る。ほとんどの前提はオブラートに包まれているのが世の中だ。前提の奥に潜むその本質を見つけることが大事だ。前提を目的に照らし合わせて、自分で解釈しなければ世の中をうまく渡っていけない。本質を見極めるとは、そういうことだ。
 この前提を疑うということは、自分事だけの話でない。自分に影響を及ぼす家族や友人においても、重要な概念だ。他人は、自分に意見を押しつけてくるからだ。自分が正しいということに疑いを持たないから、前提を信じる人間であれば、それを否応なしに押しつけてくる。前提を疑わないという固定観念ができあがっているのだ。他人に影響のない範囲で固定観念で判断しているのならほっとけばいいが、誰かにそれを押しつけてくるというのは問題だ。特に、その相手の矛先が自分であったなら、立ち向かわなければならない。自分に向かってくるなら、正してやるのが友というもの。友達として、今後の人生がよくなるように、よい方向に仕向けてやる。その場合、何をするのか?友達ってのは、実に温かいんだよな。
 難しい話になったが、簡単に言えば表面的な話に騙されるなということだ。

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物事の本質を見極めろ!(2/5) ~クールに熱く~ [哲学]

 学生は、横を見て行動する生き物だ。よく本質を見抜く若い奴でも、友人なんかに、「何、すかしてんだ!」と茶化されると、そこでひるんでしまう。仲間はずれになりたくないものだから、周りの友達の意見に迎合する。その繰り返しにより、本質を見抜く純粋な眼がさび付いてくるのだ。ここで考えてほしいのは、本質も見抜けないようなくだらない友人なんか、相手にしなくてもいいということだ。社会に出たら、本質を見抜く力がどうしても必要になる。ボンクラで一生を終わりたいならそれでもいいが、そんな奴はいないだろう。だから、友人の意見が本質とはかけ離れていて、自分はそれを見抜いている場合、ひるんでいてはダメだ。「お前、バカか?」で返せばいい。一切迎合する必要なし。でその後、本質を説明してやればよい。
 例えば面接試験だ。最近の資格試験やなんかでも面接試験がある。「ラフな格好でもいいですよ。」と言われても、信じてはいけない。ここから試験は始まってる。ここで「本質とは何か?」を考える。面接は受かることが目的だ。そして、面接は面接官の主観で決まる。面接官の採点基準はあるだろうが、チャラチャラした格好やだらしない格好の奴に対しては、印象はよくない。先にも書いたが、飛び抜けて優秀なら問題なかろうが、そうじゃない奴がほとんどだ。最終的に判断に迷うレベルの場合、必ず落とされる。チャラチャラした格好は、「俺を落としてくれ」と言っているようなもの。前述の運転免許の一発試験と同じだ。そう考えるなら、どんなに大したことない試験でも、面接があるならチャラチャラした格好なんてできないはずだ。たとえ友人が「何でもいいんだよ」とそそのかしても、学生なら制服で行く。一般人でもビジネスライクな服装がよい。夏ならネクタイまで締める必要はないが、ジャケットとワイシャツを着ていくのは当たり前だ。試験官の性格にもよるが、きちんとした服装なら減点はない。スタートラインからマイナスになることはばかばかしい。スタートはゼロからスタートするのが当たり前だろう。
 織田信長が嫁をもらうため実家に行った時の話だ。その道中は信長スタイルのだらしない恰好だったそうだ。その様子を嫁さんの親である斎藤道三は部下を使って見ていたそうだ。そう、信長の奥さんの親父はあのマムシの道三だ。「うつけもの」これが信長のあだ名だが、やっぱりそうかと斎藤道三は思ったそうだ。しかし、道三に会うその時は正装だったという。ちょっとやそっとの事では動じないあのマムシの道三が驚いたという。これが物事の本質だ。信長ほどの人間になると、自然とわかってしまうのかもしれない。しかし、我々一般ピープルは本質の理解が浅いから、常に神経をとがらせ物事の本質を考えるくせをつけないといけない。
 話を戻す。面接官の性格なんかわからないんだけど、彼らは人を見ることが仕事だ。若造風情が、その日限りの身なりをしてきても、それは面接の時だけの態度だと見抜いている。面接官の見どころはそこじゃない。面接に臨むその姿勢を見るのだ。着慣れない服を着て七五三状態でもよし。努力を見せることがここでの本質だ。だから、俺は努力してますよ、がんばってますよということが伝わればOKだ。それ以上は必要ない。本気の姿勢をみせればよいのだ。本気度は大概の人間はわかるもの。発するエネルギーが違うからだ。本気のエネルギーは熱いからよく伝わる。「なんか、あいつ熱いよな」という感じが伝わる。昔から、気迫という言葉があるが、これは本気度を表した言葉だ。ここ一番という時に、その気迫を見せつけてやればいい。
 やりすぎちゃダメだ、暑苦しいからな。ほどほどに、クールに決めるのだ。合い言葉は、「クールに熱く」だ。どうするかは自分で考えてくれ。君たちは他の動物より脳がでかいんだから。

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物事の本質を見極めろ!(1/5) ~物事の目的を考えろ~ [哲学]

 中学生以上の若者全員に聞いてほしい話をする。身につけたら、一生持って行ける話だ。最初に結論を言う。物事の見えている部分じゃなく、見えてない部分で判断してゆくのが人生をうまくいかせるコツだ。それが物事の本質ということであり、若いうちから鍛えてゆかないと、大人になっても物事の表面しか見えない人間になってしまう。それがどれだけ恐ろしいことかという話だ。大体、社会人を何十年もやってるのに、全くうまくいってない人をよく見かけるが、すべてはこの能力の欠如だ。それほど重要な概念である。物事の表面しか見ていないと、それが当たり前となり、固定観念化してしまう。これが最も恐ろしい現象で、固定観念は自分では破ることは不可能に近い。自己啓発セミナーなんかで、固定観念の殻を破るというミッションがあり、プロの講師が破ろうと試みても、それでもなかなか破ることは難しい。そうならないためにも、物事の本質を見る力を養ってほしい。では、はじめようか。
 最近の若者はおしゃれだよな、服装もスタイルも装飾品も、アニキが若かった時代よりも数段おしゃれだ。それはそれでいい。おしゃれもカッコつけるのもTPOだからな。
 例えば、面接などでラフな格好して行く奴がいるが、首をかしげてしまう。個性をアピールしたいのだろうが、全くわかっていない。本質がわかってないのだ。面接の目的はなんだ?受かることだろう。飛び抜けてすごい奴なら何をしてもいいかもしれないが、大概はドングリだ。それと、面接官は人間だ。感情もあり、好き嫌いもある。私情を挟むことは不公平になるから、面接官はそんな不公平なことをしないと思っている。ところが、それをするのだ。世の中に出たらわかる、すべて好き嫌いで決まるということが。
 昔、免停になったアニキが講習を受けに行った時の話だ。講習の教官は、元一発試験の試験官だったことがあり、こう話していた。「その時、チャラチャラした奴は全員落としてやった」と言っていた。どんなに優れた運転技術を持っていても、落としたという。そんな奴に免許渡しても、すぐに事故を起こすからという理屈らしいが、落とされた理由など何とでも言える。本当の理由である身なりや態度のことを一切言わなかったということだ。つまりその教官は、「自分で気付け」ということが一番言いたかったのだ。そして、10回ぐらい落とされると気付くらしい。最後にはきちんとした身なりで受けに来るというから、そのときにはすぐに合格としたという。
 運転免許とは、運転技術に与えられたものではなく、それを操る人間に与えられるものだ。事故を起こさないような人間、若しくは交通ルールを確実に守る人間に与えられるものだ。だから、第1印象が大事であり、身なりや言葉遣いなどの態度でそこを見るのである。物事の本質を見るとは、そういうことなのだ。目的をじっくり考えれば、本質が見えてくるから、なにをすればよいかがわかってくるのだ。とんがりたいのはわかるが、君が敵対しているのは世の中だということをわらないといけない。

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サラリーマンの謎「残業」(5/5) ~前提を疑え! [哲学]

 ゴメン、残業の話からだいぶそれてしまった。話を戻そう。だからだ、残業も人気取りの一つだから、残業代が出ない時こそアピールのチャンスなのだ。「残業代が出なくても平気です」みたいな顔して、バリバリと残業しなければならない。そんな姿に、上司はうれしく思うものなのだ。暗い顔して残業する奴なんかは、すでに終わってるというのが正直なところだ。
 そんな悪しき残業であるが、実は残業はポーズでするものではない。当たり前だよな。残業は悪くないし、もっとやるべきというのが理にかなっている。先にも話した通り、外国勢の陰謀で日本を弱らせる罠にみすみすはまるようじゃ、日本の未来も会社の未来もない。残業が悪いというのは、その内容だ。業務に追われてしかたなく残業する時でも、会社は残業代を出したくないから、サービス残業となってしまう。これも辛いのだが、それ以前に業務に追われる残業は、疲れがどっと出るからストレス以外の何ものでもない。これを続けていると、病気になるのは当たり前だ。嫌々する仕事のストレスの大きさといったら、人間一人を楽に病気にさせてしまう。カラダの病気か心の病気かは人によるのだが、必ずどこか悪くなると思った方がよい。だからアニキは言う、追われる仕事の残業は本来の残業ではない。本来の残業とは、自主的に行うものなのだ。
 仕事に前向きな人間は残業する。これが真理だ。忙しいから残業するのではない。「残業代が出ないから残業しない」という貧しい根性の人間は、仕事のレベルは上がらないし決して出世しない。出世しないと給料も上がらないから、益々腐る。悪循環だ。過去を見てみるとよい、今頂点に君臨する各企業の上層部の人達はまちがいなく残業してきた。それも、ほとんど残業代なんかもらわないサービス残業だ。彼らはそんな微銭より、もっと先を見て仕事をしていたからだ。その結果が現在の地位だ。現代社会においても、仕事ができる人間は残業なんかいとわないし、サービス残業しまくってるはずだ。周りを見てみれば明かだろう、仕事ができる奴っていうのは、苦労をいとわない奴ばかりで、そういう奴らが会社の未来を継いでゆくのだ。で、そういう奴らがやってる残業は、中身が違う。
 ほんものの残業とは、日常の業務をする時間ではない。前向きな戦略をじっくりと練る時間なのだ。そして、仕掛ける時間だ。仕掛ける仕事をするなら、時間はいくらあっても足りないはずなのだ。仕掛ける仕事をする人は、定時で終わるはずがない。現状分析から目標を決める。そのための作戦を練り、徹底的に資料を練りまくる。そして、具体的行動を考えて実行する。そして、その効果を振り返り、作戦の練り直しだ。これは、昼間の喧騒な状況では無理である。昼間は日常の仕事に追われているから、いいアイデアなんかは浮かばない。
 仕事に追われてる人の残業は苦であるが、仕掛け仕事の残業は楽しいものなのだ。さらに、そこに結果が伴ってくれば、残業はさらに楽しくなってくる。これが仕事の極意である。残業が悪だなんて言ってる場合じゃない。残業が悪で、極力残業を減らそうという意識が間違っているのだ。会社の言うとおりにしていたら、能力が上がらないから出世しないし、ライバルに置いて行かれる。このことが本当の「悪」であり、本質を見極めていないのだ。
 何が本質か?を見極めるなら、大前さんも言っている通り、「前提を疑え!」だ。「残業は悪だ」という前提を疑ってみるのだ。この考えがないから見間違うのであり、物事の本質がわかれば、やるべき方向が見つかる。ただそれは、万人が通る道ではないことは知っておくべきだ。少数派がそれを理解することができ、その中のほんの一握りだけが実践する。それが世の中で、会社も国もほんの一握りの人達で動かされている。
 群れをなす羊は、羊飼いの命令通りに誘導されている。「群れからはずれると危ないよ」「エサはないよ」と囲い込まれるが、実際群れからはずれてみなければ、エサがないかどうかはわからないのだが、羊はそんな前提に対する疑いは決して持たない動物なのだ。
 人間は羊じゃない。「残業は悪である」という前提を根底から疑う必要があるということに気付くこと、これが残業の謎に迫ることである。

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サラリーマンの謎「残業」(4/5) ~芸人とサラリーマン~ [哲学]

 しかし、なんと言ってもこの現代においては、残業は悪とされている。サービス残業こそが、日本発展の秘密であり、それが悪とされていること自体、日本のいいところがまた一つなくなってゆくということだ。先にも触れたが、長期的に世界の中で競争力を失わせようとしている外国勢の罠であり、ゆとり教育と並ぶ陰謀だ。早く目を覚まさないとひどいことになるのは目に見えているのだが、すぐに改善できるような世の中ではない。世の中とは、大きな船だ。いくら舵を切っても、動き出すまでに時間がかかるのだ。残業に関して、具体的に会社の中ではどう扱われているのであろうか。
 まず上司は、会社側から「残業は悪」と洗脳されている。部下の業務配分が悪いだとか、仕事の効率が悪いとか言われ、配下の残業量が多いと、管理職としての管理能力を問われる。残業に関して、会社側からかなりのプレッシャーを与えられている。中間管理職である部課長にとって厄介な問題なのだ。プレーイングマネージャーが当たり前の昨今、部課長がそんな細かいことまで管理できるはずはないし、細かく管理したところで、何のメリットもない。ただの時間の浪費だ。会社側が心配なのは、残業代よりもむしろ、嫌々のサービス残業で会社の空気が悪くなり、ブラック企業として吹聴されるのを恐れている。そんな空気が大きくなると、全体の士気にも影響を受けるし、会社の評判も落ちる。組合がある企業なんかは、大きな問題を抱えることになる。
 じゃあ、残業しない方がいいのかというと、これもまた問題がある。理由は二つだ。一つ目はオーバーフローだ。どこも会社もそうだが、人件費削減のために課内の人員を削る。課長は課の採算で評価されるから、一番採算をよくする方法として人を減らせばよい。人件費削減が最も採算に効果がある。人を減らすと、自ずと残った人達の仕事が増える。そのままでは仕事はオーバーフローしてしまうから、残業してそれをこなそうとするが、残業は禁止される。上司はただ、「効率よくやれ」と言うだけだ。しかし、どうしても時間のかかる業務もある。結果どうなるかと言えば、手を抜くことになる。業務の細部が疎かになるだけだ。そこからの結果は当然業績に響く。まさにこれを外国勢は狙っているのだ。アニキのサラリーマン哲学的には、そんな結果よりも「自分の人生における仕事の追求が疎かになる」ダメージの方が重要だと思う。神は細部に宿るのに、その細部ができなくなってしまう。話がずれるのでまたの機会にしよう。
 二つ目は特殊な事情かもしれないが、サラリーマンはある程度の残業をしないと、仕事しているとみなされない風潮がある。オーナー社長なんかは、特にそういう傾向が強い。サービス残業をしてると、オーナーの機嫌がよい。すぐ帰るような奴は、オーナー社長には給料泥棒に見えるという。サラリーマンはここが辛いところだ。ある程度のポーズ的残業も必要悪なのである。アピーラー的要素は少しは必要なのだ。
 サラリーマンはプロだが、職人ではない。結果のみで評価される仕事ではないということは、過去ブログ「サラリーマンの謎『評価』」でも話した。サラリーマンも人気商売だ。結果が出ても人気がなけりゃ、評価はマイナスだ。仕事を軌道にのせるには社内にも社外にもファンが必要だ。だから、全方向型の人気が必要だ。芸人よりもよっぽどプロ度は高い。
 芸人は人気商売だが、その根幹は職人だ。結果がすべてである。「人気=結果」であれば文句ない。だから、芸人は舞台やテレビだけで人気を取ってれば評価される。実力で先輩芸人を追い抜けば、別に媚びなくても敬わなくてもいい。態度のでかい芸人なんかよく見るだろう。舞台裏ではいばり散らしていても、舞台で人気があればそれでいい。しかし、そんなことしていると、落ち目になった時にひどい目に遭うのだが、人気絶頂の時は自分に酔っている。アニキは芸人ではないから深いところではよくわからないが、個人事業主の経験があるから、推測できる。芸人の世界は実は不義理が絶対に許されないヤクザと同じ世界だ。だから芸人はいくら報酬が高いのも仕方ない。いつもアニキは言ってるが、不義理が許される唯一の職業はサラリーマンだけだ。他にそんな仕事はない。その話も長くなるから別途だ。
 話を戻そう。サラリーマンも気を遣わなければならない。お客だけの人気では半人前もいいところだ。舞台裏(社内)でも気を遣い、人気を得なければならない。サラリーマンに舞台の表も裏もない。全方向型のファンを作らねばダメで、日常のすべてが舞台なのだ。サラリーマンとは、そんな全方位に気を遣い、かつ低い給料で黙々と地道な努力を重ねる仕事だ。しかも人気だけじゃダメで、注文を取ってこないと話にならない。なぜなら、それが本業だからだ。人気は当たり前であり、注文を取ってくるのが仕事なのだ。芸人とサラリーマン、同じ人気商売だが、どっちがすごいと思う?サラリーマンの方が断然すごいだろ。すごいよな、安い給料で舞台裏がない仕事だ。世のサラリーマン親父達は大学生よりお小遣いが少ないのに、周りからのプレッシャーは半端じゃないのだ。
 そう、だから、家ではダラダラしている君らの親父は、実は本当にすごいんだぞ。

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サラリーマンの謎「残業」(3/5) ~上司の仕事~ [哲学]

 日本人は愚痴り場さえあれば、どんなに痛みつけられても復活する生き物なのだ。しかし、近くに愚痴り場のない環境においては、日本人はけっこう弱い。
 余談になるが、アニキが中国で働いていた時、日本人向けの医療サービスを利用していた。これは、言葉がわからない海外で急に病気になった時、電話1本で病院へ連れて行ってくれたり、そこで通訳してくれたりというサービスだ。アニキも何度か世話になったありがたいサービスだ。その医療サービスの営業マンと話していた時、彼が質問してきたことがある。「中国にいる日本人の死因で最も多い原因は何か?」と。この医療サービス会社の特徴は、海外現地で死んだ場合、仏さんを日本まで搬送してくれるというサービスもついているのだ。普通、仏さんを海外へ送ることは極めて困難な国が多い中、そんなありがたいサービスを展開していたから、そんな日本人の死因なんかのこともよく知っていた。で、日本人の死因の原因であるが、交通事故あたりではないかと思った。しかし答えは、「自殺」だ。中国駐在の日本人の死因では、自殺が圧倒的に多いのだ。自殺する人の特徴は、現地の会社で日本人がひとりしかいないといった環境の会社である。社長のみ日本人で、あとは中国人という構成だ。そんな企業はけっこう多い。中小企業なんかは、日本人をそんなに海外に派遣できないから、日本人一人というパターンは意外と多い。スタッフは言うこときかない。「早く業績上げろ!」と、日本からのプレッシャーもきつい。そんな会社は近くに憩いの場所となる居酒屋はないような田舎にある。しかも、他の日系企業が近所にないというシチュエーションだ。アニキは何が言いたいのかというと、日本人は一人では圧倒的に弱い民族だから、落ち着く場所がなければ、ストレスにより追い込まれやすいという証拠だ。そう、愚痴をこぼせないと人間は弱る。
 どこまで話したっけ?話が飛躍しすぎて、よくわからなくなった。おおそうだ、残業の話だった。要するに、日本人にとって残業は、残業代という見返りがなくても、愚痴り場さえあれば充分に働けるものなのだ。別に愚痴り場だけが癒やしではない。そのほかの見返りでもよい。例えば、上司からのねぎらいの言葉でもよいのだ。だれかの役に立ってる、若しくは誰かに期待されているという心理が人を動かす。仕事ができる上司はそこを巧みに使いこなし、部下を慰労するのだ。ほったらかしにするような上司は、マネジメントを全理解していない。前線の場においては、マネジメントの教科書なんかはなんの役にも立たない。いかに部下のケツを押せるか、又はいかに部下の鼻ににんじんをぶら下げられるかが大事なのだ。
 ただ気をつけなければならないのは、口先だけの上司じゃ、ねぎらいにはならない。だれでもマネしてうまくいくものではなく、常日頃から部下に背中を見せる行動で示す上司でなくてはならない。これを付け加えておく必要がある。
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サラリーマンの謎「残業」(2/5) ~愚痴り場~ [哲学]

 日本はサービス残業のおかげでここまで来たという事実がある。戦後復興から高度成長という発展は、日本人の残業の集大成である。当時の日本人は、残業代が出ないのになぜよく働けたのであろうか?確かに文句は言っていただろうが、周りが皆真剣に仕事をする状況では、自分だけ怠けるわけにはいかない。夜の居酒屋で、同僚と会社や上司の悪口でも言ってればそれでスッキリしていた。そこでアカを落とし、明日も仕事に出掛けたのだ。
 当時は右上がりの時代だ。次から次へと仕事が来る。立ち止まって、「サービス残業は是か非か?」なんて考えてるヒマはない。とにかくこなさないと後が大変だからがむしゃらだ。しかし、給料は上がっていたので、安心して働けたはず。企業も余裕があったし、人も雇えた。実はここが現代との大きな違いだろう。業績がよければボーナスも上がった。給料も倍々ゲームで増えた。右上がりとはそういう状態なのだ。
 アニキは思う。以前アニキは中国で働いていたことがあった。やはり、雰囲気は右上がりだ。残業代なんか付かないが、それでも別に心が荒まない。それ以前にいた商社でも同じようにサービス残業していたのだが、疲れ方が全然違う。ストレスのたまり方が違う。この差は何だったのか?とよく考えた。人は、残業代よりも業績という見返りがあれば、何とかやっていける。仕事をした分が形として現れれば、ストレスはたまらないのだ。伸びてる国で働くということは、精神衛生上よいことだ。それなりの苦労はあるが、仕事のおもしろさを実感できるから、全く苦にならない。海外現地での日本食の居酒屋では、同地域に進出している日本人達が集まる。話題は現地ローカルスタッフの悪口が中心だ。それを愚痴って帰れば、それでスッキリする。日本人はいつの時代もどこの場所でも、愚痴ることができればよい。愚痴るための集う場所さえあれば、それでOKなのだ。だから、海外の過酷な場所に進出するなら、工場の建設と同時に「愚痴り場=居酒屋」を用意してやればいい。猫のおしっこ場や犬の座布団のようなもので、日本人は愚痴り場があればそれで落ち着く人種なのだ。それさえあれば、いくら痛めつけられようが復活するのが日本人だ。ここに日本人の特質のひとつがある。逆に言えば、愚痴る憩いの場がなければ、日本人は極端に弱るのだ。
 日本人は団体で力を発揮する民族だ。自分一人だけ残業していると滅入ってしまうが、周り全員が残業していればモチベーションは保たれる。その根底には「みんなの考えが同じだ」という安心感がある。がんばるためには、同じ目標に向かい同じように残業するというその姿が必要だ。いろんな事象に対し共感を抱けた時、日本人のストレスは吹っ飛ぶ。同じ境遇の者同士、「おまえもそう思うか!」という感情が吹き出した瞬間にもう全員仲間なのである。会社が違えど仲間だ。働く場所が違うだけでみんな同じ境遇なのだ。そういう共感を感じたいがために、異国の地の居酒屋へ毎日通うのだ。そこで精気を養い、また明日からの仕事に繰り出すことができる。過酷な環境での日本人とは、ここで成り立っている。
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サラリーマンの謎「残業」(1/5) ~日本人よ、罠に気付け!~ [哲学]

 今の世の中、残業は悪いことの象徴のように言われているよな。しかし、日本がここまでになったのも、先人の残業の賜物なのだが、そんなことは忘れられている。高度成長期に馬車馬のごとく働き、弱音は一切吐かない先輩達がいたのだ。そして、一気に世界のトップ集団に追いついた。あの頃は給料も倍々ゲームのように上がったとアニキは聞いている。まあ、だからブラックな環境でもモチベーションを保てたのかもしれない。要するに、日本人はやるときゃやる民族なのだ。
 そんな日本の姿を見て、外国人は脅威を持った。そう、外人が脅威なのは、馬車馬のように働く日本人なのだ。これが東洋の神秘であり、残業及び休日出勤という上司が見ていない環境においても、手を抜くことをせずに黙々と働く日本人がとてつもなく恐ろしいのだ。日本以外でここまで必死に働く人種はいない。個人的にバリバリ働く奴はどの国にもいるのは当たり前だ。そんな連中はどこ国でもほんの一握りで、そいつらは国を牛耳って甘い汁を吸っている。ところが日本人は、アリンコのごとく団体となってバリバリ働くのだ。多勢に無勢で、こんな国に勝てる他国はない。脅威以外のなにものでもない。戦争で被害を受けても、災害で被害を受けても、あっという間に復興する国は他にない。
 ちょっと話は逸れるが、太平洋戦争の復興について少し話そう。昭和20年に戦争で負けた日本は、アメリカの指導で復興したことになっている。確かにそうなのだが、実はアメリカの指導なんかは関係なく日本は自力で復興したのだ。アメリカ自身も、日本を復興させたという自信を持っていた。だから、アメリカはその後もいろいろ戦争仕掛け勝利してきたが、日本以外のどの国も復興していない。アフガンや湾岸戦争なんか見れば明らかだ。日本を復興させたようにやれば、どの国も復興すると。しかし、そうなっていないのは、今の中東の状況見ればわかるよな。益々混乱している。それを目の当たりにしたアメリカは、あれっ?と思ったはずだ。そして、気がついたのだ。戦後の復興はアメリカに指導の賜物ではなく、日本人の自主努力であると。で、急いで日本人を研究した。その分析からわかったことは、日本人は追い込まれるほどに一致団結する民族であるということに。すると、急に日本という国が恐ろしくなり、日本を表だって攻撃してもダメだと気付いた。攻撃すればするほど強くなる国なのだから、別の方法で長期的に陥れなければならない。
 そう、長期的に力を削いでゆく方法だ。まずは子どもを骨抜きにするして将来の芽を摘む作戦だ。それが「ゆとり教育」だ。人間の持つ競争心や野心を子どものうちから奪うのだ。そして、現役世代を骨抜きにする作戦が、「残業は悪」という概念の定着化である。
 そうだ、これらはアメリカの罠である。

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サラリーマンは「ノーサイド」で締めろ!(2/2) ~心のジャージ交換~ [哲学]

 実は、仕事を引退した後、自分の元働いていた会社の人間と交友を持つ人が多いのだが、しばらくして気付くことがある。どうもそこには一体感はないなと。それは自分が会社から離れたからだと決めつけてしまっているが、それは違う。
 会社という組織は、社内の人間関係が複雑である。そう、社内の人間同士とは、同じ釜のメシを食ってきたという共有感から、一瞬、信頼できる仲間という感性が生まれるのだが、本当に心を許せる関係ではない。距離が近すぎるために、心をあらわにすることが難しい関係だ。社内のよきライバルという言葉を聞くが、そんなきれいな関係は現実には存在しない。同期の間での出世競争や上司部下との軋轢など、挙げればきりがない。気心の知れた同僚とはたまに飲みに行って、愚痴をこぼせるかもしれないが、本当に心を許せる状況にはならなかったはずだ。どんなに仲が良くても、出世が絡んでくると人間関係がギクシャクする。新入社員から若手の時期までは、同期も仲が良いのだが、課長や部長の年代になってくると、関係も複雑だ。自分の将来が見えてくるから、同僚とは違う将来が待っていることもわかる。すると、社内の人間関係はだんだんと重たくなってくる。そこで人は、割り切ることを覚えて自己防衛をはかるのだが、それはだれから見ても本音ではないということがわかる。会社というひとつ屋根の下では、欲望やねたみなどが充満しており、各人の思いもさまざまで、そこで働く社内の仲間は真の仲間ではないのだ。
 アニキは何がいいたいのかというと、会社引退後に遊ぶ仲間は、元の社内に求めるのではなく、共に仕事上で闘ったライバルに求めるべきなのだ。今ではライバルを憎む必要はないということだ。お互いが背負っていた会社という重荷を下ろしたなら、当時のライバルと昔話に花を咲かせればいい。これが、「心のジャージ交換」だ。
 ノーサイドを使って人生を有意義にまとめたいなら、このライバルとの心のジャージ交換にて、人生の棚卸しをすればよい。自分のやってきた仕事が、果たして会社の役に立っていたのだろうかと落胆している人はなおさらだ。今まで自分側からしか見ることができなかった視点からの意見ではなく、敵側から映る自分の姿に人生の価値を見いだすことができる。俺も少しは役に立っていたのだなと思うこと、その考え方を持つことで人生は大きく動く。これが人生の棚卸しだ。世の中に役に立たない人間など存在しないというのがアニキ哲学の柱にある。自分に有利なように好きなように、昔を振り返って棚卸しをすればよい。基本は、役に立ったはずという前提で思い出すことだ。それが一番よくわかっているのが他社のライバルだ。相手の行く手をふさいでいたわけだから、相手は自分ことを本当に邪魔者と思っていたはずだ。それだけでも大きな存在感であろう。そう、自分がいなければ相手は伸び伸びと仕事ができていたわけだから、それを阻んでいたということで、非常にその存在価値は大きかった。ここを指摘してもらうことにより、自分の存在感が実感でき、存在価値を認識できるのだ。往年のライバルとの回想の中において、これが最大のメリットである。
 心のジャージ交換とは、言わば自分の評価を敵にしてもらうことなのだ。「あの時は本当におまえは邪魔だったよな」という会話に花が咲く。現役時代のライバルがお互いの行く手を阻んだという過去があればあるほど、自分の存在感を認識することができるから、酒がとてつもなくうまい。そんな自分の存在価値を引きずり出してくれるライバルこそが、ノーサイドする相手なのだ。
 ぜひ往年のライバルとの飲み会を企画して、「人生、無駄な事はひとつもないのだな」と思う瞬間を噛みしめていただきたいものだ。そこには必ず人生の価値を見いだすことができる。くー、熱いぜ人生!

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サラリーマンは「ノーサイド」で締めろ!(1/2) ~往年のライバル~ [哲学]

 「ノーサイド」とはつくづくいい言葉だと思う。ラグビーなどのスポーツの試合のあとに、ジャージ交換するシーンがあるが、見ていて実に気持ちがいいものだ。こんな終わり方が最高の終わり方であり、人生にもぜひ応用しなければならない。
 人生においてのノーサイドとは、そう、退職の時だ。スポーツにおけるゲームセットは、仕事においては退職の時となる。自営業や現役オーナーなどは退職とは無縁であるが、まあ引き際と考えてもらえばよい。第一線を退いて後進に道を譲る時だ。この退職の時、ノーサイドと言えるかどうかが人生のカギとなる。しかし、そんなに難しい話ではなく、だれでもできる簡単な話だ。
 では、人生のノーサイドで何をするのか?という疑問だ。ノーサイドというくらいなのだから、ただの終わりではない。人生の何十年を過ごした仕事である。そこには多くの人々との出会いがあり、多くの喜怒哀楽があったはず。それらをよき想い出として整理するのだ。苦労話や悪いできごともよい想い出だ。真剣に関わってきた仕事だけに、いろいろな思いはあろう。しかし、悪い想い出をすべて水に流し、それらをよい想い出に変えてしまう。それは何かというと、現役時代にしのぎを削った人々との縁を大切にすることにある。では、しのぎを削った相手とは、どんな人達なのであろうか?
 例えば若い頃、競合関係にあったライバルだ。彼らと退職したあとに飲めるような関係を作る。要は、同じ目的のため真剣に渡り合った相手とはなぜか心が通じ合う。なぜなら、闘っていた当時、お互いに同じ悩みを抱えており、同じような作戦を立てていた。ちょっとした差で、相手に勝ったり負けたりする。まさに互角の勝負だったはず。この場合、相手はまさに敵であり、敵を負かすためにはギリギリまで考え抜く。それぞれに会社を背負っているから、お互いが「自分の会社のために」というのが「己の正義」である。正義は立場によって変わると、過去ブログ「アニキの正義論」でも話した。どっちが正しいということはない。そう、お互い自分の正義のために必死になっていたのだ。その時は、お互いは忌み嫌う関係ではあるが、よく考えてほしいのは、その相手が嫌いなのではなく、そいつが自分の会社を背負って自分の前に現れ、行く手をふさぐから嫌いだったのだ。ただそれだけだ。だから、会社という背負うものがなくなれば、自分の前で邪魔することもなくなるから、嫌な存在ではなくなる。自分と張り合っていただけに、仕事の時はいつも気にしていたはずだ。好きな女性の次に、良く出てくる人物だったはずなのだ。現役時代は「あの野郎~」という感情で対峙していた関係だが、相手も同じ思いであるから、ノーサイドを共有できる間柄なのだ。
 つまり、自分の会社のために必死になって闘うことができるすばらしい男なのだという事実がそこにある。お互いがそんな男同士なら、仲良くできないはずがない。男として信用できる人物だ。ワンピースでも出てきただろう。ロジャーが息子のエースをガープに預けるシーンだよ。(ワンピースを読んでないとわからないだろうから、アニキブログ読者は読んでくれよ。ワンピースはバイブルだからな。)
 そう、気持ちが同じで、考え方も似ているからライバルなのであって、実はこの世で一番信用できる人間だということに気付かなくてはならない。とても気が合う似たもの同士ということを理解しなくてはならない。プロスポーツ社会なんかでも、OB連中はチームが異なっても仲がいいだろう。別にジャージ交換なんていうものはなくても、真剣勝負のあとには、ノーサイドが自然にやってくるのだ。
 そうだ、ノーサイドとは相手を認めることなのだ。
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アニキの「正義論」(4/4) ~人生、胸張れるか~ [哲学]

 さらに言えば、女達はケンカに強い男を全然かっこいいと思ってない。それよりは、ケンカを避けて逃げきる男の方がかっこいい。無益な争いは遺恨を生むだけという信条さえ掲げていれば、逃げることが作戦行動となる。みんなハッピーで終わるから、「闘わずして勝つ」という結果に女は惚れるのだ。一方、ケンカを売られたからと、女の目前で逃げることはできないという変なプライドは正義でもなんでもない。ただの意地であり、男気などでは決してない。ヤクザ映画の見過ぎである。ヤクザ映画はSF物となんら変わりはない。ヤクザ映画の中の菅原文太や高倉健などは、超スーパーマンだ。いくら切られても倒れないし、ピストルで撃たれても倒れない。ターミネーターと同じだ。設定がロボットでなく人間ということであるから、登場人物の生き様は実生活でもかっこよさの象徴と映ってしまうのだろうが、あれはただのロボットの生き様だと思えば、何とも思わない。たぶん女性は皆、そう思ってる。だから、彼女達はあまりSF物やヒーロー物を好きじゃない。ヤクザ映画などもってのほかだろう。ターミネータのくせに、人間くさい動きをするものだから、余計に違和感があるのだろう。つまりは、すべては非現実であるから、そこで掲げられてる正義など全く評価に価しないのだ。
 しかし、たとえその正義が人として正しくない部分を含むものであったとしても、正義がない奴よりはマシである。じゃあ、正義がないとなぜ「ふぬけ野郎」なのか?
 例えばだ、目の前でいじめられている奴を見て、知らんぷりできるか?杖をついたお年寄りを見て電車の席を譲らないのか?道ばたで苦しんでる人を見て、逃げるか?だれでも弱者を助けるだろう。それを見て見ぬ振りする奴をどう思う?どう考えてもダメだろう、そんなの!無関心な奴とはそういう輩で、自分の中に正義がないから、見て見ぬ振りができてしまう。心に正義があれば、見捨てることはできない。
 そう、これが狭義での正義であり、「人として正しいか」という正義である。全然難しくない、簡単なことだ。別に、世の中を良くするために革命を企てることだけが正義じゃない。サラリーマンなら、ダメ課長を引きずり下ろすことだけが正義じゃない。それよりももっと身近で大切なことがある。自分の家族や友人や弱い者を守るという正義だ。守るだけじゃない。さらには、その人達を喜ばすことも正義である。これが最小にして最大の正義である。
 「弱者を守り、さらには喜ばす」という簡単なことを信条として持つことは、自分の中にいつでも正義の炎を燃やすことに繋がる。そして、真の正義の味方とは、ケンカで相手をコテンパンにやっつける奴じゃない。最適な方法で弱者を守りきり、周りの人達を喜ばすことができる人間を指すのだ。
 何度も言うようだが、正義とは「人として正しいことをする」という理念を心に持つことだ。それを行動の軸として日常を過ごす。日々目の前に現れる問題を、自分の正義に基づいて解決してゆく。そして、皆が喜ぶ姿を拝むことができるように立ち回る。これが正義の正しい姿だ。くだらない戦略で相手を陥れることを考えるより、そんな普通のことを念頭に行動することで、人生において胸を張れる。父親なら子どもにも胸を張れる。
 それが楽しい人生となり、毎日飲む酒もうまいのだ。

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アニキの「正義論」(3/4) ~正義感のない奴~ [哲学]

 じゃ、「人として正しいこと」とは何か?これって、説明必要か?とも思いたくなるのだが。全然難しくない、常識で考えてもらえばいいのだ。だから、アニキとしても当たり前のことしか言えない。「人を傷つけるなよ」とか、「人が嫌がることはやめろよ」などだ。ここで重要なことは、つねに「人に対してどうか?」だ。社会においての正しいこととは、人に対しての正しさだ。この「人として正しいこと」こそが、共通の正義であり、立場が変わろうが時代が変わろうが不変のものだ。そしてそれは、別にだれにも教えてもらわなくても、自然と身についている感性だ。これに反する行為を見つけると、人は「よくない」と感じる。そういう風になっているのだ。
 反社会的な行為であっても、それが将来の人々のためというのであれば、戦いも辞さないという考え方がある。これは、その立場の人間の正義であるが、そのために多少の犠牲が伴うという考えは、「人として正しくない」から正義とは言わない。少し難しくなってきたから、簡単にまとめよう。精神論や思想においての正義はどうでもよい。問題は、それを掲げることにより、傷つく人や生き物がいるのなら、それは正義でもなんでもない。ただの自分の思い込みだ。正義という言葉を掲げて自分達を正当化しようとしているにすぎない。
 だから、正義という言葉を掲げてきた場合、立ち止まって考えてみる必要があるのだ。「それは本当に正義だろうか?」と。判断基準は簡単だ。掲げられた正義において、だれも傷つく人やものがなければ、それはその人の正義といて認めてあげればよい。すべての基準は、何度も話しているからくどいと言われるかもしれないが、アニキ哲学の基本概念である「皆、ハッピーか?」ということである。もっと砕いていうと、「だれも損してないか?」という基準だ。別に得する必要はないのだが、損してはいけないのだ。心や体に傷つくことも損だ。
 こんな難しいことなら、正義感なんてなくてもいいと思う冷めた野郎には、アニキから厳しくお説教だ。自分の正義がないというのは、ポリシーがないのと同じだ。理念や信条がないのと等しい。こんな軸がない奴は、ただの「ふぬけ野郎」だろう。ふぬけ野郎じゃ、女にもてるはずがない。男はケンカに強い奴がかっこいいと思ってるだろうが、それはただのまやかしである。昭和60年代からのヒーロー神話やアメリカからの勧善懲悪の思想に洗脳されてるだけだ。
 ちょっと話は逸れるが、アメリカの勧善懲悪思想やヒーロー願望について話しておこう。アメリカの勧善懲悪の思想は、アメリカ政府のよる洗脳行為だ。アメリカは世界のリーダーであるという考えがあるため、アメリカ政府が敵と見なした相手は悪なのだ。アメリカが世界のヒーローであり、その敵は悪だ。それを武力でもって懲らしめなければならないという風に洗脳している。だから、世界でアメリカが起こす戦争はすべて正義であるという考え方であり、アメリカ国民はだれもそれを疑わない。それは、アメリカ側からみれば正義かもしれないが、やられた側にも正義がある。戦争では、正義の勘違いが国レベルで起こっているだけなのだ。

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アニキの「正義論」(2/4) ~絶対正義~ [哲学]

 では話を戻そう。正義とは、その場その時に正しいと思うことだ。そしてそれは、立場によって変わる。どういうことかというと、この世の中のすべての正義は、勝者側の論理であって、人として正しいかどうかは別の話だ。だから、広義での正義は、国が正義であり、警察が正義なのだ。勝てば官軍とはこういうことで、国家に逆らった反逆者は、負けたから反逆者なのであって、もし勝ってればそっちが正義であり、英雄だったのだ。で、今度は負けた方が反逆者のレッテルが貼られる。歴史はそれで成り立っている。この世の歴史は、すべて戦いに勝った者の歴史であり、負けた者の歴史は闇に葬り去られる。最近はそう言われてくるようになった。しかし、その部分は決して語られない。負けた側が本当は正しいかもしれないが、負け側に有利な文献はすべて消滅させられて、この世にはほとんど存在しない。せいぜい、小説家が想像で繋いでいるにすぎない。
 世界を見渡せば、大統領と犯罪者を行き来している人も多い。これも結局は、正義が勝者の理論であるから、大統領を追われると政治的反逆者となってしまう。で、時期をみて大統領に当選すれば、今度は英雄となり、自分が正義となるのだ。だから、いつの時代も一方の論理だけを見てはいけないのだ。
 この正義における判断基準は良い悪いではない。自分がいる方が正しくて、自分と反対派が正しくないという、ただそれだけだ。主義主張が異なるからと、争いになる。全くくだらない話なのだが、これで人類は戦争を繰り返してるのだ。まあ、今ここでそんな大それたことを語ってもしょうがない。ここでは、広義の正義ではなく、狭義の正義、いわゆる個人の正義が重要だ。アニキはエラそうに国を語れるような大それた人間じゃなから、個人の正義を語ってゆこう。
 個人の正義とは何か!、それは、「本当の正しさの追求」だ。自分達の正義を主張して戦争している連中は、個人の正義から見れば、両方ともバツだ。個人の正義とは、「人として正しいか」という基準だ。これを信念とおいてる人は少なくない。京セラの稲森さんもその一人だ。稲森さんの経営哲学も「人として正しいこと」がまずありきだ。それから、細部に入る。アニキも稲盛さんの考えをベースにしている。
 人して正しいこと、これがアニキ哲学における「絶対正義」だ。絶対正義は、立場によって変わらない。それは、その正義が「人として正しいかどうか」で決まる正義であるからだ。アニキが名付けた絶対正義という言葉は、その語感から想像すると警察ばりのガチガチの悪の排除みたいにとられるが、全く違う。アニキの「絶対」のニュアンスは、国(法律)が違っても、言葉が違っても、民族が違っても、何が違っても不変の正義だ。
 これが絶対正義の定義あって、これは「人として正しいこと」というひとつしか見当たらない。

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