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創造主と神様(2/3)  ~神様とは何者?~ [哲学]

 次に神様だが、神様とは我々と同じ魂だ。特別な存在ではない。がしかし、そのレベルは桁違いだ。最も優秀な魂であり、レベルは最上級クラス。優等生の魂と考えてもらおう。そんなハイレベルの魂は、修行内容も一般人を超越している。出生前に創造主との課題検討において、「人々をいい方向へ導く」という修行内容を決めて生まれていく。生まれた時からすでに魂レベルが高すぎるから、出生したその瞬間からその人の周りには人が集まってくる。自然と弟子もできるし、その教えから教義ができあがり、宗教となるのだ。神様という名の優等生は、世の中の人々を導くという壮大な課題にチャレンジする魂なのだ。しかし、所詮は魂の優等生だ。創造主ではないから完璧ではないのだ。一般人から見れば完璧に見えるのだが、ミスも起こす。どんなミスかと言えば、教えにおける弟子達の理解が異なるために、後に宗派が分かれてしまう。元は一つの宗教のはずが、いくつもの宗派に分かれてしまっている。ただ分かれるだけならよいが、お互いが争うようになる。そんなことを、教祖は許しているはずはないだろう。そこにまずミスがある。教祖は自分の死後に、その広がり方までは統制することができなかったということだ。人間の一生が短すぎるというのもあるだろうが、それは課題の期限でもあるから、元々からわかっている。それまでに自分の課題を遂行しなければならないというのも課題であるはずだ。自分の弟子達が分裂して争いを起こすなど、まだまだ足りない証拠だ。しかも、他の宗教まで攻撃しようとする。そんなことを教祖は望んでいたのだろうか?このことから、神様は万能ではないということがわかる。だから、神様は創造主ではなく、創造主が作った魂の優等生であることがわかるのだ。
 さらにまた、神様と創造主が同じであるなら、神様が何人もいるということも説明できない。キリストやマホメットや仏陀など、宗教ごとに神様は存在する。彼らは一般的には神様のお使いみたいに思われているが、アニキはそうじゃないと考えている。神様そのものが人間に化けただけだ。そう考えなければ、神様はキリスト教、イスラム教、仏教などそれぞれに神が存在して、神様が何人もいるのはおかしいことになる。これはどう説明するのか?優等生の魂であるということなら、何人いても納得できる。神様は魂の優等生であれば、何人いてもおかしくないし、神様は無数に存在しても、それは腑に落ちる。アニキ哲学の方がよっぽど矛盾がない。
 だから、神様が世界や人間を作ったわけではない。創造主が作った世界に、神様は生まれてきた。神様が生まれてくる前に、すでに人間はたくさん存在していた。ここからも、神様と創造主が同じではないということがわかる。
 ということで、神様も人間の出であるから、小さなミスも犯す。今まで世界各地で起こった宗教間の問題は、各教祖のミスであり、完璧ではないということを表している。自分の死後までも人々を導くという課題は、優等生の魂でもできてないのだ。これは、どう考えても難しすぎであろう。なのになぜ、創造主は世の中の人々を導く仕事を自分でやらず、神様に任せているのだろうか?そこはアニキもまだ説明できない。

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創造主と神様(1/3)  ~創造主の仕事~ [哲学]

 「アニキの言う創造主とは、神様のことじゃないの?」という質問がよくある。創造主のことを神様と考えている人が意外に多いことに驚いてしまった。はっきり言っておこう。アニキ哲学において、神様と創造主は概念が異なる。神様は神様で、創造主は創造主だ。ここが混同してしまうと、アニキ哲学の理解が不十分となるから、その違いについて説明しておかねばならない。ほかの人がどう使おうかは知らないが、アニキ哲学においては違うということを、まずは知っておいてほしい。
 創造主とは、言葉通り人間を作った存在だ。どこか遠くから人間を見ていて、人間の魂を管理している存在だ。創造主という名前から、すべてを作り出すのが仕事なのだが、まず、魂を人間界に修行に出すのが仕事だ。魂を人間界に修行に出し、魂に修行をさせることを課題としている。その目的は、魂レベルを上げることだ。それと同時に、世の中と人間を進化させようとしている。そのために、生前にあらかじめ魂と課題を決めて、どの親から生まれてくるのかも一緒に決める。で、現世に送り出し、寿命を全うしたら魂を引き上げる。それを何度も繰り返し行い、少しずつ魂レベルを上げてゆくことをサポートする。ただ、創造主にはPL法が適用されるから、製造者責任の立場で、問題のある魂を人生の途中で引き上げたりする業務も行う。そして、創造主は万能であり、ミスは決して起こさない。人間に与えた原始機能には、無駄なものはひとつもないのだ。創造主が行うことすべてには意味がある。
 さらに創造主は、天災をも引き起こす力がある。人間の進化の方向性が間違っていると、天災を起こして「そっちじゃないよ」と教えるのだ。いわば、ニワトリをかごに追い込むような仕事だ。逆に言えば、人間の進化の方向性が間違っているというだけで、天災を起こして人命をいとも簡単に奪ってしまうはどうかと思うのだが、創造主にとって人間のカラダなどはどうでもよい。アニキ過去ブログ「原始機能『好み』」でも話したが、創造主にとって大事なのは「魂」であって、「カラダ」はどうでもよい。カラダは魂の乗り物であるから、取り替えが利く。しかし、魂は永遠であるから、一度その方向性が間違ってしまうと修正に多大な時間がかかるし、魂レベルが上がるどころじゃなく、下がっていく方向に向くからだ。そうなると、何千年も前から輪廻転生を繰り返して、魂レベルをせっかく上げてきたのが無駄になってしまうからである。
 要するに、創造主とは魂の創造主であり、魂レベルを上げるサポーターでもある。魂の管理者である。そこでは、魂の方向性をも管理する。つまり、我々のような修行しに来た魂とは対局の立場にある存在である。

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人間の原始機能「好み」(6/6) ~天災の謎~ [哲学]

 だから、昔の人が「天災は神のたたりだ」と言ったのは、あながち間違ってはいないと言えるのだ。ここで誤解してほしくないのは、アニキ哲学においては「神と創造主」は異なる概念だ。話が長くなるから、この話は後日ブログ「神と創造主」で話すことにするが、ここでいいたいのは、天災は創造主が起こしているという事実だ。だから、これをアニキ哲学で言うなら、「天災は創造主のたたりだ」ということだ。そして、「この世に意味のないものはない」という鉄則がある。無駄だと思うものにも必ず意味がある。意味がないと思うのは、あんたにがその意味に気づいてないだけの話であり、本質的には必ず意味がある。この鉄則により、天災にはすべて意味があるということになる。天災は突然に起こる。場所を選ばない。犠牲になる人には何の罪もない。創造主は犠牲者のことをどう思っているんだ?と憤慨もするが、創造主にとっては、「悪いね、犠牲になってもらって」程度で、罪のない犠牲者には次の肉体を与えさえすればそれで丸く収まると思っている節がある。輪廻転生はほぼ永遠に続くから、1回ぐらいの修行の中断などは関係ないということなのだ。
 こんなことを話すと、冷たいと思われるかもしれないが、アニキが長年研究してきた天災の謎に対するひとつの結論である。こう考えなければ、天災が起こることに対して納得がいかないからだ。そして、天災が起こる時は、人間の努力の方向が間違っている時に起こる。創造主は、努力の方向を修正するように示しているのだ。ここに気づかないから、また天災を起こす。天災だけとは限らない。エボラなどの謎の対処不能の病気かもしれない。飛行機などの大事故かもしれない。優秀な人間がいくら束になっても、予知は不可能だ。予知したとしても、それは決して当たらない。創造主の目的は、天災を予知してほしくて起こしているんじゃないからだ。科学が進歩して予知できる世の中になれば、創造主は予知できない何かをまた引き起こすだけである。まるでイタチごっこなのだ。
 だから、天災が起こるそのこと自体が問題なのではない。問題は、「なんで今、起こるのか?」なのだ。「なぜ今じゃなきゃいけないのか?」ここを考えなければならない。創造主は、「今起こす必要がある」と考え、それを実行しているだけだ。だから、天災が起こった時、世界のどこかで、創造主の意図に逆らう何かが起こっていると考えるべきなのだ。
 また、好みの話からだいぶずれてしまったが、許してくれ。アニキブログは好きなことを書いているから話があっちこっちに飛ぶ。要するに、好みが分かれるというのは当たり前でよいことであり、自然なのである。好みがあるから、人間は頭を使ってここまで進化してきた。これが創造主の狙い通りであり、これからも好みを与えられて人間は生まれ続けるだろう。ということだから、自分の好みには自信を持てばよい。他人に合わせる必要は全くない。それは創造主の意図に逆らうことになるから、何一ついいことはない。つまり、自分の好みは自然にできあがった個性であり、それを素直に受け入れればよいのだ。ブ男が好きならそれでよい。隠す必要は全くない。ブ男を受け入れ生きている男は魂レベルが高いから、一緒にいるだけで気持ちが温かくなるはずだ。
 「好みにうるさい性格」は、人間として当然の機能であり、こいつをどう使うかが人生の鍵となる。自分の好みに正直に生きることが、創造主の意図するところであり、ただそれだけで運のよい人生を歩めるはずだ。

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人間の原始機能「好み」(5/6) ~この世で最もやってはいけない事~ [哲学]

 好みの話に戻そう。好みは原始機能である。だから、それを否定してはいけない。万人に好かれようとか、逆にえり好みはいけないとか、無理に自分を律することはよくないと言っておこう。それは、なぜか?
 実は、人間がこの世で一番やってはいけないことがある。それは原始機能の否定だ。せっかく創造主が必要だと考えて備え付けた機能を否定してしまうことは、ぜったいにやってはいけないのだ。創造主の目的を妨げる行為となるからだ。創造主は、人間の進化を目的として原始機能を与えている。それを否定するということは、進化を拒否している者で、創造主にとっては好ましくない存在なのだ。そういう魂は、「戻って来い」ということになる。ウルトラセブンのカプセル怪獣のように、創造主は、その人間がダメだと思ったらあの世へその魂を戻す。魂の「戻って来い」とは、つまりは肉体の死を意味する。原始機能を否定して生きるということは、元々設定されている寿命を廃止して、即返還命令が下ることになるのだ。ここがわかってないから、欲を持つなとか、夢を見るなとかいうような行動を続けていると、不幸が待っていることになり、病気や事故に遭う確率が高まる。だから皆、人生がうまくいかない。努力の方向が間違っているのだ。アニキ哲学的に言えば、正しい努力をしていないことになる。何でも、単に努力をすればいいというものではない。いくら努力しても、それが正しい努力でない限りうまくいかない。いくら努力しても、思い通りの成果が出ない場合、その努力が正しいのかどうかを疑ってみる必要がある。稲盛さんも言ってるだろ、努力の成果は考え方で決まると。
 で、今回のテーマである「好み」の否定だ。「えり好みは悪だ」という考えは最も危険だ。何が危険なんだ?と思うかもしれないので、少し説明しよう。
 実は、創造主にとっての悪とは、人を殺すことでもモノを盗むことでもない。そんな小さなことは、創造主にとってはどうでもいいことだ。創造主にとって人を殺すことが悪だというのなら、天災を起こすはずがない。そこでは何千人という人が死ぬわけだが、創造主はそれにはかまわない。なぜかっていうと、創造主が大事なのは魂だ。魂が大事であり、カラダは大事じゃない。そう、カラダは魂の入れ物であり、「死」とはカラダの死であり、魂は永遠のものという考えだ。だから、創造主は入れ物の破壊には何とも思ってない。これが基本だ。魂が重要なのだから、その魂の修行である転生も大事なのだ。課題を持って生まれ変わり、現世で修行をする。その修行を妨げるものや妨げる考えが、創造主にとっての悪となる。我々一般ピープルが考えている「悪」と、創造主が考える「悪」とには大きな相違がある。ここが理解できると、世の中の理不尽がわかってくる。大きな災害が起きると、この世には神も仏もいないとか?となってくるのだが、そうじゃなくて、創造主が何かを伝えたくて天災を起こすと考える方がリーズナブルだ。
 好みという話題からだいぶ話がずれてしまったな。でも、これは大事だから、アニキ哲学では何度でも話すが許してほしい。

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人間の原始機能「好み」(4/6) ~ワールドテクニシャン~ [哲学]

 ここまで話せばもうわかるだろう。つまりは、外見とは餌だ。花で言うところの蜜であり、アンコウの提灯だ。フェロモンでもいい。それはただのまやかしかもしれない。だからまず、餌に惑わされないようにしろということだ。惑わされないようにするために、自分のワールドを作り防御する。
 身持ちの堅い隙のない女性は、防御ワールド、つまり防御シールドを張っている。この防御シールドは、自分の捕らわれやすい心をガードするためのワールドだ。自分の目の前に霧が立ちこめたら、すかさず巨大な扇風機で吹き飛ばす。そんな感じだ。シールドを張る女性は、自分の心が惑わされやすいのを知っており、相手のワールドにはまりやすいのもわかっている。さらに彼女には、ストライクゾーンのど真ん中のみを確実に狙いたいという願いがある。だから、男のワールドの霧が立ちこめたことをすばやく察知する必要があるわけだ。過去に悪い男にだまされた苦い経験を持つ女性や流されやすい性格の女性の防御策だ。しかも、1度じゃなく何度も過去同じような苦い目に遭った経験の持ち主に多い。これをアニキは「シールド女」と呼ぶ。そしてその対処法は、「シールド女にはワールドを張るな!」が、アニキ哲学の鉄則である。シールド女は世の中に非常に多い。要は、隙のない女という印象を持たせる女性だ。そういう女はワールドを見抜くからワールドを張らずに正攻法でいく。アニキ哲学「背中で語る!」だ。男は元来背中で語るものだ。
 話を戻そう。アニキは何が言いたいのかというと、「ワールドは『好み』を守るためにも必要だ」ということだ。逆に、自分が相手から見て、ど真ん中からほど遠いとか、外見がままならないというなら、ワールドでごまかせ!と言うことだ。ワールドはストライクゾーンに霧をはり、相手には自分がど真ん中であるように見せる技だ。昨日も話したが、蜘蛛の巣のごとく、相手の心を捕まえる攻める罠である。
 どちらにしろ、攻めでも守りでも人はだれでも自分のワールドを持たねばならない。スポーツ選手や芸術家がなぜもてるのかという答えがここにある。彼らには目に見えるワールドがあるからだ。人間は目に見えないワールドを作ることに苦心するものだが、目に見えるワールドを持つ者が、スポーツ選手や芸術家などの特殊技能者である。それに引き替え、サラリーマンにはワールドはない。目に見えない技能はあるかもしれないが、それでは第一印象にインパクトを与えることはできない。第一印象におけるインパクトとは、外見とワールドを一気にたたきつける力だ。いきなり「ど真ん中だ」と、相手に思わせる能力だ。悲しいかな、サラリーマンにはそれがない。営業力や素直さなど、サラリーマンにおける武器がいくら強力でも、ワールドにはなりえない。好きな女性の心にガツンとクサビを打つ力は皆無だ。女性はそんなものより、男のワールドに陶酔したいのだ。ここに乖離があるから、サラリーマンは営業力を磨くより、ホストのワールド力や仕事以外でワールド力を磨きたくなるのだ。
 仕事以外でのワールド力とは、サラリーマンをやってないオフのときに、自分のかっこよさを見せようとすることだ。つまり、趣味や特技の技能のことで、日常の現実とのギャップを見せることにより、女性を陶酔させるというワールドテクニックである。ここでは深く話さないが、確かにワールドテクニシャンは女性にもてる。合コンでも人気独り占めだろう。それが実現していたら、さぞ楽しい日々だろう。しかし、人生においてはサラリーマンの技能を磨いた方がいい。
 また、話が逸れすぎてしまった。ワールドの話はここまでにしておこう。

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人間の原始機能「好み」(3/6) ~ワールドマジック~ [哲学]

 しかし、好みとは単なる外見だけの話なのだろうか?人間の場合の外見だけではないはずだ。
 余談ではあるが、昔、アニキの会社の女性社員に、くまのプーさんが好きな人がいた。その嗜好から、みんなから「かわいい」と言われていた。ある日、取引先の若い男で、プーさんというあだ名の人が来社した。そのあだ名から、くまのプーさんによく似ているのだが、特にお腹周りにその特徴は顕著に表れていた。当然、くまのプーさん好きな会社のその女性に会わせた。あとで「気に入ったか?」と訊いてみたが、返ってきた答えは「ノー」だ。彼女は、くまのプーさんは好きなのだが、プーさん似の男は好きではなかったのだ。ここに好みの矛盾がある。人ではないものが好きな場合、それが現実にいたとしても、好きにはならないという矛盾だ。まあ、プーさんに似た奴を想像してくれ。現実にそんな奴がいても、かわいさのかけらもないだろう。暑苦しいただのデブである。
 じゃあ、プーさんとプーさんに似た奴との差は何なのだろうか?単なる漫画と現実の違いだけなのか?そうではない、そこには大きな違いが存在するのだ。プーさんはかわいい外見だけでなく、行動もかわいいのだ。かわいらしい仲間がいて、その仲間とほのぼのとした日常を過ごす。このワールドこそがプーさんなのであり、現実のプーさん似の男にはこのワールドはない。太って重たそうなそのカラダからほとばしる汗と常に息切れする姿は、全く絵にならない。しかも気の利かない仕事仲間とのストレスの日常は、ほのぼの感もゼロだ。殺伐とした空気さえ流れてくる。さらに、プーさんのように蜂蜜ばかり食べていたら、現実のプーさん似の男はとっくに糖尿病だ。
 つまりアニキは何が言いたいのかというと、人の好みは外見だけではないということなのだ。好みとはまずは外見から入るのだが、外見だけにとどまらない。その人の周りにある世界観(以下ワールド)が重要なのだ。ワールドこそが好みを決定づける。ワールドは外観がストライクゾーンの外側でも、ど真ん中に見せてしまう魔力を持つ。暴投もど真ん中に見せてしまうのが、ワールドの幻術だ。実は、その世界観の中では、性格や人間性をも脚色されてしまう。ワールドの恐ろしさはここなのだが、外見に捕らわれると自分の判断基準が乱されてしまい、その幻術がわからなくなる。人間も蜘蛛同様に巣を仕掛けることができる。蜘蛛の巣のように目に見える巣ではなく、人間の「心」を目に見えない糸で絡め取り自由を奪う。ご存じの通り詐欺も人の心を利用した罠のひとつであるが、相手のワールドという蜘蛛の糸に捕まってしまうと、心の身動きがとれなくなる。これをアニキ哲学では、これを「ワールドマジック」と呼ぶのだが、つまりはワールドが作り出す幻術である。ワールドマジックについては、後日ブログでまた話そう。名前はかわいいのだが、人に及ぼす影響は多大だ。
 さらにそれは心を利用した罠であるが故に、本来なら「疑う」という心の機能すら働かなない。幻術を見せられたまま人生は進むことになる。結婚したあとに「こんなはずじゃなかった」という話を聞いたことがないだろうか。これはワールドにやられたいい例だ。はっと我に返ったとき、「なんでこんな人を好きになったのだろうか?」と自分の心を疑ってしまう。
 そう、相手のワールドの霧が晴れてしまうと、実はストライクゾーンの縁の人間であったことがわかってしまうからだ。

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人間の原始機能「好み」(2/6) ~美人は悪じゃない~ [哲学]

 「白と黒」の話は長くなるから、後日にしよう。ここで言いたいのは、白と黒の中間であるグレーという「あそび」が必要だということだ。好みにもあそびの部分が存在していて、どちらかというとほとんどがグレーな部分が大きいはずだ。白はど真ん中で、黒はストライクゾーンの外である。世の中のしくみから見ると好みの選定はすべてグレー部分からの選択のはずだ。自分の奥さんを見てみるがいい、果たしてど真ん中か?そんな人はめったにいないはずだ。アニキはこのかた、そんな人を見たことがない。好みのど真ん中は手に入らないことになってるのも原始機能なのだ。
 じゃあ、努力したって駄目かって?そんなことはない。努力とは、ど真ん中に近づくための手段ではないか。それを放棄したら、ストライクゾーンの周辺から選ぶことになる。これが妥協だ。ど真ん中から少し反れるのが「折れる」で、ストライクゾーンから反れるのが「妥協」だ。この違いがわかるか。この話は後日ブログ「折れる」と「妥協」で話そう。
 さて、外見の話が出たから、ついでに話しておこう。人間は特に外見が重要だ。世の中では、「外見だけじゃない」ってだけの話だ。すべては外見が先で、中身は後だ。きれい事言ったってはじまらない。これが世の中の真理だ。普通、何かを選ぶ時、人はすべて外観から選ぶ。それは、創造主はそう仕組んで人間を作った。創造主は、人間の進化のためには外見が重要だと考えたから、ひとりひとりの顔やカラダを別々のものにしたのだ。人間の目の機能はそのためにある。
 要するに、人間の原始機能には必ず意味があるのだが、ここでも考えなければならないのは、なぜ創造主は全員の人間の顔をすべて別々になるように仕向けたのかだ。そして、「好み」という機能も人間に備えつけた。それはただ単に好みの集中を防止するだけの目的か。それだけじゃない、わざとブ男で生まれてくる魂もある。つまり、外見を人生の修行の課題としている強者だな。外見に頼らずに幸せに一生を終えようという見上げた魂なのである。これがアニキの、「ブ男ほど心がきれい」であり、「ブ男ほど魂レベルが高い」という結論に通ずるのである。
 好みとは、現世の修行である。好みに惑わされないという修行ではない。それではただの行者という趣味の世界だ。そうじゃなくて、好みをうまくコントロールすることで、幸せな一生をおくることになる。人は太古の昔より、美人に惑わされてきた。クレオパトラや虞美人など絶世の美女により統治者はおかしくなっている。別に美女が悪いのではない。その美女がたまたま彼ら統治者のど真ん中であり、それを手に入れることができる地位にたまたま自分達が居合わせたということだ。実はこの偶然にも見えるお膳立てが彼らの修行であったのだ。美女にうつつを抜かして国を滅ぼしてしまったという歴史では、美人すぎることが悪であるように言われているが、そうではない。その美人がど真ん中であったという好みの原始機能が備わっていただけだ。
 見る人が見れば、大した美人ではないというかもしれない。好みや美人とはとてもファジーな概念で、客観性はない。客観的に見ての美人とはつまり、そう思う人が多いというだけの話だ。

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人間の原始機能「好み」(1/6) ~「好み」の不思議~ [哲学]

 なぜか、人には好みがある。好きなモノと嫌いなモノがある。食べ物や人間に対して必ずある。好き嫌いがない人はこの世には存在しない。もし、そういうことを言う人がいたら、それは嘘をついているだけなのだ。
 そう、人には必ず好みがあり、これは誰の指示でもない。なぜか自然と好みが生まれ、それが自分の嗜好の一部となっている。子供の頃から親が押しつけるわけでもないのに、自然と自分の中にできあがってしまう。これは実に不思議な話なのだ。というのも、人間以外の動物には、好みなどというものは存在しないからだ。厳密にはあるのかもしれないが、あまり文献にもなってないところから見ると、そこまで研究する価値はないのだろうと思う。ということは、「好み」とは人間における原始機能ということになる。
 原始機能について未知の人もいるだろうから、少し説明しておこう。原始機能とは、創造主が人間に元から与えた機能で、地球上の生き物の中で人間にしかない。そしてそれは、人間を進化させるという目的で、創造主が与えた力だ。以前の過去ブログで、「欲望」という原始機能について話した。基本的にはそれと同じで、「好み」も人間を進化させるために創造主が備え付けた力なのだ。
ではなぜ、人間には好みがあるのだろうか?なぜ、創造主は人間に好みなどという機能を与えたのだろうか?それを考えるにはまず、好みがあることによって、どんなメリットやデメリットが存在しているのかを、考えなければならない。
 ではまず、「好み」というと何を想像するであろうか?食べ物の好みか、人間の好みか、趣味の嗜好なども好みだな。スポーツや芸術などの興味もすべて好みがなせる技だ。いろいろあるだろうが、アニキ哲学に通ずる話としては、ここでは特に人の好みについて話そう。
そう、人の好みはいろいろあるよな。性格の好みや生理的な好み、そして外見の好み。そう、好きな異性の好みなどは、だれに教わったわけでもないのに、なぜか友達と違ったりする。同じ場合もあえるかもしれないが、厳密は違うと言っておく。外見の好みなんかは、非常にはっきりしている。ストライクゾーンが広いなどと表現するが、好みの広さもまた好みのひとつだ。自分の歴史を振り返ってもらいたい。だいたい毎回同じ顔を好きになってるはずだ。
 ストライクゾーンの話が出たから、ついでにその話もしておこう。アニキは美人好きだ。そして自分でも女性の顔の好みのストライクゾーンが広いと思っている。年を取るほど年々広くなってるんじゃないかと思うほどだ。今では若い女性はみんな美人に見えてしまうのだ。しかし、ど真ん中は決いつもまってる。このストライクゾーンとど真ん中も実は創造主が与えた原始機能である。これを与えた理由は簡単に説明がつくだろう。ど真ん中しか好みの対象ではないとしたら、人を好きになる確率はぐんと減る。そうなると、人類は繁栄しなくなるからだ。
 だから、創造主はある程度の許容範囲をもうけたのだ。車ハンドルやブレーキのように世の中のものはなんでもそうだ、必ず「あそび」がある。昼から急に夜にならないように、白か黒では成り立たないのだ。

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サラリーマンの武器「営業力」(8/8) ~友達の自動連鎖~ [哲学]

 そんな機能的な身の回りこそが、自分を守る最高の参謀室であり、戦略室である。自分の足りないものは常に周囲に揃っているという状態を作り出す。仮に直接の友達がその答え持っていなくても、その友達のまた友達から得ることができる。友達の輪は幾重にも絡んでいて、チェーンのようにつながっているのだ。友達の連鎖が生み出す知恵の宝庫を自由に利用することができるようになり、どんな問題でも簡単に解決できるようになる。そんな様子は友達作りの大切さがわからない人には、君がスーパーマンに見えてしまう。何でも解決してしまう周囲に羨むことになる。だから何度も言うが、周囲に厚く友達の壁を作ってゆく。そして、それが自動的にできあがってゆく形にしてゆくのが人生の完成形である。
 ここで注意しなければならないのは、自分の心だ。友達を利用しようという気持ちがどこかにあると、そういう友達の連鎖になる。心が汚れていると汚れた心の仲間の輪ができてしまう。「そんなことはないだろう」と思うだろうが、これが世の中の道理だ。だから、友達の連鎖を作る前に最も大事なことは、自分が決して友達を利用していないという確信を持つことだ。見返りなど期待せず、友達の困りごとに真剣に対応する姿勢がなくては、本当の友達連鎖は完成しない。「俺には友達がたくさんいる」などとうそぶく奴ほど、心が汚れた仲間集団だ。友達だと思っていた奴らはみんな、おまえの何かを狙っているだけだ。財力なのか名声なのか、まあそんなところだろう。見返りを期待しない関係を築けないと、それは本物ではないのだ。単に友達といっても、そこには黄金のルールが存在しているということを知るべきだ。それが大人の交友関係だ。
 おっと、また話が逸れてしまったから、戻そう。友達の連鎖が自然と起こり、それが次第に膨らんでゆく。この自動化する流れを作り出すのがまさに営業力だ。営業トークだとか専門知識だとかはただの「撒き餌」にすぎない。「自分をお友達にしてください」という時のための手土産だ。営業トークという手土産をぶら下げて相手に近づくだけだ。がしかし、その手土産が安っぽければ相手にされないから、手土産とはいっても侮れないものはある。いい手土産をぶら下げてお友達の仲間入りをさせてもらうのが人生だから、人は努力をするのだ。な、だからこのブログの冒頭でも話したが、営業マンだけが営業力を備えると考える奴はアホなのだ。営業マンは元々営業力があると思われてしまうから、営業じゃない奴ほど営業力があれば目立つということに気がつかなきゃならない。
 結局、営業力とは人間関係をスムースにする能力であるから、相手に評価されて初めて営業力があると認められる。測定することができない力であり、長年見続けていないとわからない能力なのだ。ぱっと見では見抜くことができないから、その人の周りの人間関係を見て計ることになる。営業力があるということは、仕事での結果を出し続けていること、そしてその結果はその人の周りに構築された人間関係に裏付けされていることで見るのだ。
 そんな状態を言葉にするのは簡単ではあるが、全方位において実行し続けるのは非常に困難であるが故に、営業力が人生における究極の能力であると言われているのだ。
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サラリーマンの武器「営業力」(7/8) ~お友達とベッド周りは同じ!~ [哲学]

 まずは、相手の気に入ることを精神誠意してあげることを習慣とするだけだ。そんなことをしているうちに、相手に感謝されるようになったらしめたものだ。そして、気心が知れたなら、飲んだり遊んだりして関係固めをすればよいのだ。恋愛や友人との付き合いとなんらかわらない。強固な関係を築くだけなのだが、なかなかできない。どうしてもプライベートと線を引いてしまうから、仕事がうまくいかないのだ。
 つまり、営業力などとたいそうなことを話しているが、結局営業とはお友達作りだ。年代を超えた友達作りなのだ。友達作りといっても単純ではないことはみんな知ってる。ただの友達なら、気が合わなければ友達にならなければよいが、仕事ではそうはいかない。気が合わない人とでも友達にならなければならない。かなりしんどい作業になるのだが、地道にやらねばならない。だから会社は、そこに給料を払ってるのだ。お友達になれば、仕事は自然と流れるから、給料も自然と上がる。世の中とはそんなしくみだ。考え方を変えてみてもいい。つまり、会社はお友達作りに給料を払っているということだ。
 営業力とは、いわば嫌いな人間とお友達なる能力だ。表面上だけの友達ではない。そんな浅はかな奴はいつか見抜かれてしまう。見抜かれたら、せっかく長年作り上げた人間関係が一瞬で終わりだ。そんなくだらないことで人生の時間を費やすのはバカだ。表面上の友達作りも、本当の友達作りも、かける労力や時間は同じである。ただ、本当の友達作りは労力を労力だと思わないし、時間をかけたという意識もないからわからないだけだ。だから、せっかく時間をかけるなら、真剣に本当のお友達作りをしてみろということだ。心から友達になれる人こそが、営業力があるといえるのだ。
 友達作りを真剣に行うと、自分の周りに友達の輪ができる。最初は、仕事の能力を高める目的で始めた友達作りだが、徐々に自分の周りに友達の層が幾重にもできる。なにか困ったら即、友達に助けを求めることも可能だ。言っておくが、友達とは一方的な関係ではない。持ちつ持たれつの関係だ。頼られるだけの一方的な関係は友達ではない。常に相互に機能する。取引先だとか、年齢が上だから下だからとか関係ない。友達だと思うなら、遠慮することはないのだ。君が「頼ることに遠慮するなら、そいつはまだ友達でない」といことだ。そいつが得意なことはお願いするのが友達関係で、「よくぞ俺を頼ってくれた」と相手は喜ぶものなのだ。友達を持つ環境とはいわば、ごちゃごちゃとした自分のベッド周りと同じだ。何かほしいものがあれば、手を伸ばせばすぐに取れる状態だ。ベッド周りにはいつも、携帯電話や本やリモコンなどでごちゃごちゃしているが、それが機能的で使い勝手がよい。友達関係もそれと同じで、自分の心の周囲に常にごちゃごちゃと存在して、何か必要であればすぐに連絡を取って、問題を解決するということだ。

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サラリーマンの武器「営業力」(6/8) ~真似からオリジナルへ~ [哲学]

 次に、よい見本を見つけることだ。営業力とは抽象的な概念すぎるため、それを具体的に実践している人を探すのだ。その営業力を持っている先輩や上司などを見つける。周りのどこかにいるはずだ。自分の社内にはいなくても、取引先には絶対いる。結果を出しているにもかかわらず威張らない人だ。いつも笑顔でいて、話していても嫌みがない。話題も豊富で、決して人をバカにせず、楽しい人だ。そんな人を見つけたなら、ぜひ近づいて分析することだ。半ば弟子になったつもりで慕ってみてもいい。その人の周りの人達との関係が見えてくるはずだ。人生には先生が要る。自分の力だけでは決して伸びない。そういう風に創造主は人間を作ったから、「自分は違う」といったって始まらない。
 とにかく真似る。ひたすら真似る。全部は真似しなくてもいい。見本になる人の「よい部分」だけ真似るのだ。世の中、完璧な人間などいない。必ず、人はよい部分と悪い部分があるから、極力よい部分だけを真似る。多くの人のよい部分だけを真似て自分のものとすることだ。有名な画家だって音楽家だって、過去の有名人のコピーから入っているのだ。オリジナルとは、コピーの積み重ねで練られてできた自分である。それと同じで、人のよい部分だけを真似て実践することで、オリジナルの自分の軸が完成する。まずはひたすら真似ること、自分流のアレンジは二の次だ。真似てるうちに自然と自分のスタイルができあがるから、気にしないでもよいのだ。
 そんなによいところばかりを真似すると、聖人になってしまうという懸念があるかもしれないが、心配しなくてもいい、よいところばかりを真似しても君は絶対に聖人にはならない。というか、なれない。聖人と君らとは、元が違うからだ。
 アニキは何が言いたいかというと、営業力を磨くには先生が要るということだ。本を読んだだけでは身につかない。なぜなら、営業力を示す相手とは「意思を持つ人間」であるからだ。本を書いた人は、たまたまその相手によって成功しただけであり、別の相手なら結果はまた違っていただろうからだ。そう、だから本を読んで頭で考えていても結果は得られない。相手が意思ある人間であるなら、ぶつかっていかなければ何も得られないのだ。
 つまり、営業力とは「意思を持つ人間を相手とする能力」で、基本は恋愛と同じだ。相手を口説くという目的は同じであり、実は男なら普段から実行している行動だ。相手の気持ちを引くために段階を踏むのと同じだ。分別のある人なら、いきなり押し倒したりしないだろう。営業力は恋愛とほとんど同じであるのだが、給料をもらうという点において、仕事ではどうしても義務感が出る。否が応でもそこには嫌々感がにじみ出てるのだ。だから、まずは相手を好きになることから始めるしかない。営業マンなら、「客を嫌いにならない!」という思いだ。
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サラリーマンの武器「営業力」(5/8) ~営業力を軸に置け! [哲学]

 このサラリーマンの武器として営業力は、一番強力な武器になるのだが、実は一番手に入りにくい武器だと断言しよう。ロールプレイングゲーム(RPG)でもそうだろう、強力な武器は、ゲーム序盤では手に入らない。じゃあなぜ今ここで、こんなハードルの高い武器を紹介することには意味がある。営業力は簡単には手に入らない。人間的な成長やコツコツと長い年月をかけて作る人脈も必要だ。信者(ファン)も作る必要もある。要するに時間がかかるのだ。だから、若いうちから営業力の強化を頭の片隅において、毎日の仕事に励むことが重要だ。
 人生において、ハードルの高いものは「自分が望まなければ手に入らない。」どんな分野においてもそうだ、簡単なものは望んでなくても手に入るかもしれないが、レベルの高い結果を手に入れようと思うなら、まず望むべきなのだ。その上で、どうやったら手に入るのかをじっくりと考える。時間がかかるものなら、早くからスタートを切れ!ジジイになってから手に入れてもしかたないだろう。人生のあがり近くなって身につけても使うべき機会は少ない。RPGで、強力な武器を序盤から使えたなら、雑魚キャラに翻弄されずにサクサクと進む。それと同じだ。特にこの営業力は若いうちに開花しておきたい能力だ。第一の武器である「教わる能力」が受け身の能力であるなら、営業力は攻撃型能力だ。正統派サラリーマンなら持つべき最大の能力である。そうと決めたら、すぐに行動だ。スピードもサラリーマンの武器であると、過去に言ったはずだ。じゃあ、どうするのか。
まずは、営業力を高めることを決意する。決意することが重要だ。くだらない英語や簿記なんかの技能を高めるなんて、そんなことは考えないでいい。どうせ、営業力を高めようと考えた場合、仕事によっては必要となるから、そのとき考えればよい。最初に思うべきは、営業力を高めてやるという決意だ。ここがブレるからおかしくなる。人間は考え方の軸がないとふらつく。ちょっと良さそうな考え方があると、ふらふらしてしまう。軸の話は長くなるから、後日しよう。ここで言いたいことは、とりあえず「営業力を極める」という軸を持ち、その軸をブラさないという気持ちだ。それができれば、次に進める。
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サラリーマンの武器「営業力」(4/8) ~人脈とは~ [哲学]

 

 信者を作ってしまえば、極端な話、自動的に仕事が流れるから、どこでサボっていようと誰にも文句言われない。営業力を究極に高めるというのは、いかに自分の信者を多く作ることができるかということだ。言い換えると、「自分の信者からしか継続的な仕事は来ない!」と言っておく。もっと言うと、「信者からしか儲けさせてもらえない」ということだ。ならば、どうやって信者を獲得するのか?信者とは自分を100%信頼している人だ。実は信者とはつまり、人脈のことを指す。
 話は逸れるが、信者の獲得の前に人脈の話をしよう。人脈作りというと、大概みんな間違ってる。人脈とは、名刺交換した人じゃない。アニキ哲学の人脈の定義は、「困ってる時に助けを借りられる人」のことだ。果たして何人いる?異業種交流会に参加して、「500枚名刺交換しました」って奴がいたとして、電話してその内の何人が助けてくれる?一人もいないんじゃないか?助けに応じないなら、それは人脈とは言わない。自分の呼びかけに応じてくれるのは、古い友達か職場の同僚か家族だろう。普通はそんなもんだ。じゃ、人脈を増やすにはどうするのか?簡単だ、古い友人や職場の同僚との関係ができた経緯を辿ってみればよい。かなり時間をかけ、濃い付き合いをしてきたはずだ。または、相手の危機を救ってやったか、困ってるときに力になれたか、ということだ。人脈とは、そんな状況からしか生まれない。つまり、「信頼」が根底にないと人は動かない。自分を信用してくれる関係や自分を大切に思ってくれる信頼関係は一朝一夕にはできないということだ。人脈の詳しい話は、後日ブログサラリーマンの謎「人脈」で話すとしよう。
 話を戻すと、人脈作りと同じように仕事上での自分の信者を作る。信者を作る力こそが営業力なのだ。ここまでくれば、どうすればいいのかがうっすらとわかってきたかと思う。人脈作りとなるとどうしても、「人に好かれるにはどうするのか?」という禅問答でよくあるようなありきたりの話になるが、我慢して聞いてくれ。キーワードは、「笑顔・手助け・感謝されることをする」だ。これを無償でやってゆく以外にはない。相手の困りごとに耳を傾けて、面倒でも笑顔で対処することを繰り返す。そして、相手の愚痴を聞いたり、相手と共感を増やすことになる。そこに、損得という物差しが挟まると、途端に相手との距離が離れてゆき、信者にするという目的は遠退いてしまう。利害関係であるからこそ、損得勘定の仕草を一切見せてはいけない。常に心の軸は「人間として見過ごせない!」だ。さらに、苦労して会得した自分の技能を惜しみなく教えてゆくことこそが、信者獲得の近道でもある。
 信者獲得とは結局、友人作りみたいなものだ。損得抜きに無償の境地で相手と接する。無償であるがゆえに信頼が生まれ、心を許される。要するに営業力とは、無償の人間関係を築くことができる能力なのだ。だから、人から教えられてできるものではなく、いろんな人間関係に身を置き、自分で身につける以外に方法はない。





 自転車の乗り方や泳ぎ方を教わるのと同じで、失敗して身につけてゆくものだ。



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サラリーマンの武器「営業力」(3/8) ~信者を作れ!~ [哲学]

 じゃあ、笑顔ができたとしよう。そして次にやることはただひとつ、自分の売り込みだ。で、売り込むものは、それぞれの能力ではない。そんなものはあとでよい。その人が気に入れば、自然と自分の能力を頼ってくれるものだ。それよりもまず、営業とは人とのつながりを作るのが仕事である。どんな仕事でも、人のつながりを築くのが目的となる。これを実践しているならば、客が減るなんてことはない。いきなり能力を売ろうとしているから、お客はできず仕事が減るのだ。儲からない士業(さむらいぎょう)の職人はここに勘違いがある。
 人とのつながりをつくるのが仕事なのに、高飛車な態度で臨んでも、だれも相手にしないだろう。本当に困った時にしか頼まないし、そんな不遜な奴をだれかに紹介しようとも思わない。仕事は信頼関係とよくいうが、人とのつながりを作るというのは、まさに信頼関係を築くということだ。
 そう、だからだれもが自分は営業マンであることを認識することから始まるのだ。そうすると、笑顔がいかに重要で、人との絆を築くことがいかに重要かということも理解できるはずだ。この前提がなかなか理解できる人は少ない。でもこれはできなくてもいい。なぜなら、意識してもすぐにできるような話じゃないから、まずはこのことが重要だということを頭に置いておけばよい。まあ、できたとして営業力の各論に入るとしよう。ここからが営業力のテクニック論である。
 アニキの強者論でも少し触れたが、「技術力×営業力=金を稼ぐ力」という公式がある。いいか、足し算じゃない、かけ算だ。この意味はわかるか?要するに、営業力がゼロなら、金は稼げないということを意味するのだ。技術力とは、まさに自分の持ってる技術で、学生時代や社会人になってから必死に努力して会得した力だ。言ってみれば、目に見える技術で、資格や経験から得た知識などがそれに当たる。それは職業によって異なる。基本的にはこの技術力が売り物となるわけだが、それだけでは金を稼ぐ力にはならない。ここに営業力という何とも抽象的な概念が加わることになる。目に見えない力であり、一般的に測る基準はないから、なんだかよくわからないのだが、確実に仕事で結果を残す力だ。この営業力とは一体何であろうか?
 実は、本当の仕事とは「信者からしか来ない」ものだ。後日ブログアニキの「信者論」で詳しく説明する。語弊があるといけないから、ここでの信者の意味を説明しておこう。ここで信者とは、宗教での信者ではなく、自分のことを本当に信頼してくれる者のことを指して「信者」と呼んでいる。教祖とかそんな話ではない。信者と言う言葉が生理的に受け付けないなら、「ファン」と言い直してもいい。相手を自分の信者(ファン)にしてしまえば、すべてが思い通りに動く。うわべだけの仕事をしているから、競合相手や同業者におびえながら仕事をしなきゃならない。仕事を取ったり取られたりで一喜一憂しなければならない。技能の売り先が社内であるなら、上司又は受け手部署を信者にしてしまえばよい。つまり、相手を自分の信者に仕立てあげることこそが、その営業としての仕事であり、それができる能力が営業力なのだ。
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サラリーマンの武器「営業力」(2/8) ~まずは笑顔~ [哲学]

 世の中全員が営業マンだ。ならば、ディズニーランドでは当たり前である笑顔も、当然営業マンでも当たり前のはずだ。ここの理解も甘い奴が多い。営業職でなければ、笑顔はいらないと思ってるバカ者は意外に多い。自分が何を売ってて、だれに売ってるのかに気がつけば、笑顔がないのは仕事ができてないのと同じだということがわかるだろう。この点は、仕事ができる奴が勘違いしてる部分であるが、しかめっ面で周りが避けるような態度を取ること自体、仕事ができない奴だ。周りにそんな奴はいるだろう。特に組織の中で歯車的な仕事しかしてないから、そんな態度でも給料がもらえるのだ。自分は仕事ができると勘違いしているといことに気づきたいなら、会社という組織がなく、自分ひとりなら今の仕事ができるかどうかを考えてみればよい。会社という組織の中には、あらかじめ仕事が用意されている。最初から与えられる仕事があり、それが当たり前だと思っているから不遜な態度が出る。しかし、自分でやるとなると、その仕事を一から取りに行かねばならない。と考えるならば、今の態度でいいのか?ということだ。仕事を取ろうとした場合、どうしても笑顔が要るだろう。必ず相手を気遣うだろう。まず、笑顔のない奴に仕事なんか出さないのが世の中だ。
 警察官も笑顔だ。お客は住民で、その安全を守るという能力を売っている。元々警察官は怖いご職業だ。ならば、もっと笑顔だろう。人のかっこよさはギャップだと、過去ブログ「かっこよさの定義」でも話しただろう。怖い職業の人ほど笑顔が必要なんだな。公務員という人種に笑顔は無縁だという観念があるが、笑顔を出した方が仕事がうまくいくのは目に見えている。最近、市役所でも気持ちのいい対応をする人が増えてきたような気がする。窓口業務にサービス精神を取り入れてきたのだろうが、最初は嫌々笑っていたかもしれないが、それ以上に相手から返ってくる笑顔に気づいたのではないだろうか。人から笑顔をもらうと、プラスのエネルギーも一緒にもらえる。そのメリットが大きい。そうすると病気にならないんだよな。自分のやりがいにもつながるし、その方が大きいんじゃないだろうか。というか、はっきり言おう、営業マンは笑顔が足りなきゃ、次に進めないのだ。

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サラリーマンの武器「営業力」(1/8) ~君は何を売っている?~ [哲学]

  久しぶりにサラリーマンの武器シリーズが登場だ。だんだんと武器レベルが高くなる。今回は磨き上げれば究極の武器といってもよい。ただし、磨き方を間違えると人生をも破壊するお荷物となってしまう。今日はその最高武器である「営業力」だ。そう、営業力とは究極の能力だ。
 「な~んだ」と思うかもしれないが、営業力が重要であるとわかってる人も、もう一度その能力たるものを見直してみてもいいんじゃないだろうか。大概のサラリーマンは、営業力が武器であるとわかっていても、それがなんなのかわかっていない。さらに悲しいのは、営業じゃない人間には営業力はいらないとさえ思ってる節がある。それは大きな間違いだ。実は、営業だけが営業じゃない。社会人すべてが営業であり、サラリーマンじゃなくても営業だ。だから、どんな人間にとっても、営業力は必要だということになる。学者だって何だってすべては営業が必須条件なのだ。
 営業は嫌だっていう奴が多いが、それはまぬけな奴のいう言葉だ。よく考えてみろ、世の中すべてが営業マンだ。どんな仕事も、何かを売っている。モノを売る人だけが営業マンではない。学校の先生は知識を、研究者はその研究する力を、警察官はその守る力を、弁護士はその法律スキルを、医者は医術を売っているのだ。何かを売っていれば、それはすべて営業マンである。営業は嫌いだなんていうのは、世の中を全く理解していない。自分は営業マンだとわかってないから、仕事が行き詰まるのだ。だから、みんな、自分がなにを売っているのかをよく考えるべきであり、それを買ってくれる人に対してどうするのかを考えればよいだけだ。
 アニキは昔、東京ディズニーランドでアルバイトした経験があるのだが、そのオリエンテーションの時に、「デイズニーランドの売り物は何か?」というテーマの話があった。そのとき、オリエンテーションを受けていた学生達は皆、「アトラクション」とか、「食べ物」「土産もの」などと答えていたが、全部はずれだった。答えが出尽くしたところで、説明者は正解を答えた。それは「笑顔」だった。それを聞いた時、アニキは感動を覚えた。意表を突いたその答えにしびれたね。アメリカの考えはすごいな、こんなことを言うのかと。お客さんは「笑顔」にお金を払っていたのかと。その1本筋の通った理念があるからこそ、今でもディズニーランドは繁盛しているのだ。
 アニキも営業マンでいろんなモノを売ってきたが、一度でいいから言ってみたいものだ。お客さんに、「あなたの商品は何ですか?」と訊かれた時、「笑顔です」と答えてみたい。そうなのだ、すべての売り物は笑顔である。これにまさる売り物はない。
 しかし正直なところ、ディズニーランドでは笑顔は当たり前であり、そこで働く人にとっては最低限なはずだから、それが本当の売り物であるはずがない。経営者は笑顔だけに給料を払ってるわけではない。働くスタッフの能力に笑顔をプラスして、お客を楽しませることだろう。売り物は「よかった、また来たい」と思わせるその能力だ。経営者はそこに給料を払っているのだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、営業職ではないサラリーマン諸君も実は営業マンであり、そこで自分が何を売っているのかをまずは見極める必要があるということだ

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お金の真理に迫ろう(8/8) ~お金とのつきあい~ [哲学]

 話を戻すと、代々お金持ちの家というのは、子供が生まれるとすぐにお金のマイナスエネルギーに負けない人間に教育してゆく。マイナスエネルギーのお金をプラスにひっくり返す訓練が行われるのだ。訓練された子供自身はそんなことは全く自覚しないで成長してゆく。しかし、成長の過程で、お金との距離感やお金の扱い方を自然と親から学ばされているのだ。つまり、親はお金の真理を知っていて、代々それを継承していく。それがお金持ちの秘密である。世の中のお金がほぼ黒であり、それをどうやって白に変えてゆくのかをわかっている人達である。お金持ちが欲に目がくらむことはない。それも訓練されているからだ。お金に関しては、決して軸がぶれない。それが金持ちだ。
 だから、金持ちの財布は一般人のそれとは違う。お金持ちの財布は、黒のお金を白に変える力を持つ。しかしそれは、財布が特別なのではない。その辺で買ってきたただの財布だ。そこになぜ、そんな力が備わっているのだろうか?先にも述べたが、金持ちはお金を自然とねじ伏せることができる。マイナスエネルギーのお金は、新たな人の手に渡ると、そいつを金の亡者にしてやろうと企む。「お金がほしい」と考えてる一般ピープがそれを手にすると同時に、自分の財布にそのエネルギーが付着する。財布自体がマイナスとなるわけだから、次に入ってきたお金がそんなにマイナスなお金でなくても、財布の中でマイナスに染まってしまう。類は友を呼ぶのだ。
 金持ちの財布というのは、マイナス浄化の機能を持つ。財布自身にその力はない。持ち主であるその金持ちが財布をも浄化する力がある。よって、お金も浄化してしまうことになる。それは、代々受け継がれるお金とのつきあい方の教育のたまものである。それをお金持ちのオーラと呼ぶ人もいるくらいで、一般人が一朝一夕にまねできるわけがない。
 お金は寂しがり屋で、お金は自然とお金のあるところに行くという話を聞いたことがあるだろう。あれも同じ話で、まとまった悪いお金は悪い人のところに集まり、よいお金はよい金持ちのところに集まる。そして、そこに集まったお金は同じエネルギーに染まってゆく。悪い念のお金はさらに悪くなり、よいお金は良くなってゆく。たとえよいお金を貧乏人が手にした場合、すぐに悪いエネルギーに変わる。オセロの白が黒になるように、あっという間にひっくり返る。お金をほしがる感情はマイナスのエネルギーだからだ。ということは、ほとんどの人の財布はマイナスの念でいっぱいだということだ。これじゃ、お金が貯まるわけがない。
 アニキは何が言いたいのかというと、お金が貯まらない人というのは、お金の悪い念を大量に浴びているのだ。だから、お金の悪い念を避けるには、先にも述べたが、財布は早めに買い換えて、お金はなるべく持たないようにする。安い長財布でよい。高い財布を大事に使うより、安い財布を頻繁に変える方が望ましい。車のエンジンオイルの交換と同じだ。別に財布で人間性が決まるわけではない。逆に擦り切れた財布を持つ方が、かえって相手に品格を疑われてしまう。まとまったお金は銀行に預けて、必要なときにおろしてくればよい。サラリーマンは、いざというときのために、ある程度のお金を入れておかねばならないが、できる限り財布の中身は滞留させてはならない。
 一般ピープルである我々ができることと言えば、お金の悪い念をいかに自分に滞留させないかということを考えながら行動することしかない。あとは、金持ちから財布をもらうことぐらいか。金持ちの財布には不思議な力がある。もらってしばらくの間は、金持ちのプラスエネルギーが財布に存在しているから、それを使った方がよい。自分の財布よりかなりよい状態だといえる。お金は生き物で、だいたい我々が手にするお金には、マイナスのエネルギーが充満していると思って間違いない。
 そういうお金というものの本当の姿を理解してゆくことが、サラリーマンのお金とのつきあい方である。

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お金の真理に迫ろう(7/8) ~金持ちの秘密~ [哲学]

 お金持ちとは、お金の念に負けない人のことだ。オセロで言えば、黒を白にひっくり返せる人だ。悪いお金は黒である。世の中に出回っているお金のほとんど黒である。何人もの人の手を渡っていくうちに黒くなる。汚れていくのだ。ところがだ、金持ちの財布にそのお金が入ると、黒が白に変わる。これが金持ちの秘密だ。つまり金持ちはどんな状態のお金を受け取っても、それをどこに身につけようと、どこにしまおうと関係ない。黒いお金が白くひっくり返る。財布を頻繁に変える必要もない。お金持ちは、財布さえも浄化させてしまうエネルギーを持つのだ。
 これはなぜか?金持ちには2種類いるのだが、にわか金持ちと代々の金持ちだ。にわか金持ちは、いわゆる成金というやつだ。商才があって運に恵まれると、大金をつかんでしまう。成金は一瞬大金を手にするが、黒を白に変えるだけのエネルギーは持ち合わせていないから、お金に踊らされていつの間にか財産を失ってゆく。しかも、お金持ちになる以前よりも状況が悪化して終わるという話が多い。これは、アニキがいうところの金持ちではない。実は、代々の金持ちこそが、黒を白に変えるエネルギーを持つ真の金持ちだ。お金というものは、「大金を維持してなんぼ」だ。大金を一瞬つかむことより、それを何百年と維持する方が何倍も難しい。だから、代々の金持ちはお金を維持する技を継承してゆく。代々の金持ちにはいろんな技が存在する。つまり、金持ち一族は、お金を継承する技を代々伝えてきた家だ。また別の機会に少しずつ紹介してゆこうと思うが、このブログでも紹介した「金持ちは空気を読まない」という資質もその一つだ。
 お金は生き物である。これは間違いのない事実だ。生(せい)あるものだけが生き物であるという考え方では、物事の本質は見抜けない。どういうことかというと、魂やら感情移入する対象物はすべて生き物になりうるということだ。お金でも人形でも家でも何でもだ。簡単に言うと、あこがれる対象はすべて生き物になりえる。一見ただの物体ではあるが、それがあこがれることにより魂が入るのだ。魂とは物騒だから、念と置き換えてもよい。念が込められた物体にはエネルギーが蓄えられる。それを人間が所有すると、いろいろな災いを起こす。お金を例にとると、お金に蓄えられたマイナスエネルギーが、金の亡者みたいな人間が所有すると、そのお金に操られてしまうということになる。一瞬大金をつかんだ人間が人格まで変わってしまうという例は数多く存在する。
 この話は、「物体の生き物化」で詳しく話そう。

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お金の真理に迫ろう(6/8) ~厄落としの謎~ [哲学]

 太古の昔から人間は風呂に入った。古代文明の遺跡からもその証拠は発見されている。昔の人は果たしてそんなにきれい好きだったのだろうか?単にカラダをきれいにするだけなら、こんな昔から風呂は存在していない。それは、人がどうしても風呂に入ることが必要だったからであり、必要不可欠な理由が存在していたからだ。それが、念や霊の排除であり、聖水やお清めの水だけがその役目ではない。日常では風呂で充分なのだ。 だから、風呂好きな日本人は、昔から霊にとりつかれて変な行動を起こす人が少なかったのだ。
 ところで、厄落としって話を聞いたことがあるだろう。人間は厄年ってものがある。これが意味するものは何なのかまだよくわかっていない。アニキは今、この厄年の謎についても研究中だ。厄年とは統計学的裏付けで存在すると見ているのだが、とりあえずその存在だけは肯定しておこう。結論が出たならまた発表するとして、今日は、この厄年ってものを肯定した場合の厄落としについてだ。まあ、ひとつ言えるのは、いろんな厄だとか憑き物だとかで一杯になったカラダの状態であることは間違いないのだ。
 厄年になると、厄落としをすることが日本の風習だ。厄払いのために神社に行くのだが、前厄と本厄とお礼参りの3回も行くことになる。3回も神社はもうかるのだ。アニキの哲学でいえば、お礼参りだけでいいということになるのだが、一般人は逆に、前厄と本厄にしか行かない。お礼を忘れてしまうのが日本人だ。のど元過ぎればとか、釣った魚にえさをやらないとか、今の日本人は典型的に感謝を忘れてしまっている。
 おっと、今日はそんな話ではない。アニキは何が言いたいのかというと、実は、厄落としは神社に行くことではない。それはただに気休めだと言っておこう。アニキも42歳の厄年には、人並みに神社でお祓いをしてしまったが、それは周りの人達を安心させるためのご愛嬌だ。そんなことを言うとバチが当たりそうだが、そもそも神社とはお願いに行くところではなく、お礼を言いに行く場所だからだ。だから、厄落としをお願いに行くのではなく、厄もなく生きてこれたということに対してお礼を言うのが大事なのだ。その観点から考えると、神社で厄落としはできないということだ。神様が居る場所だから、願いを叶えてもらえそうだという見込みだけである。じゃあ、どうすれば厄落としができるのであろうか。
 一番効果がある厄落としとは、散財だ。お金を使うことだ。それも、大きな金額を使うことや、大きな買い物だ。この年に家を買ったり、車を買ったり、又は海外旅行へ行ったりするのだ。お金を使えば、お金とともに溜まった厄がいなくなる。実は、厄年というのは、自分の財産に厄が溜まった状態だ。お金に厄がつくと言う話しをした。そうなのだ、厄というのは自分の持っているお金に厄が着くのであり、人間個人ではない。お金が貯まるということは、厄も一緒に溜まっていると解釈するのが正しい。溜まったお金の厄に自分が飲み込まれる形が厄年だ。そう考えると、厄落としとは散財であることがわかると思う。神社への玉串料を思いっきり奮発するのもよい。それならば、神社へ行く価値もあるのだが、みんな一番安い金額しか出さないから、目的を逸する。でも、神社でお金包むより、家族のために大きな買い物した方がよっぽどいい。家族が喜ぶからな。

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お金の真理に迫ろう(5/8) ~金を洗え!~ [哲学]

 よく長財布がいいとか、パンパンに太った財布はダメだとか、お金に対する気遣いの本は多く出ているが、この本当の意味は何か知ってるか?お金持ちがお金を大事に扱ってるということで紹介されてるが、実ははそうではない。長財布がいいのは、お金を伸ばしていれることにその意味がある。お札が洗濯物に例えるといい。そして、悪い念は水分だと考える。洗濯物を乾かすには、広げた方がいいだろう。畳まれて乾かしても、なかなか乾かない。それと同じだ。広げて入れておくことにより、お札に付いた念が発散される。しかも、財布自体も悪い念を発散させる面が大きいから、中に溜まった念が外へ逃げやすい。少しは財布の中に蓄積されるのではないかとの意見もあるが、それは否定しない。その可能性も多いにある。だから、1年ごとに変えろというのだ。長財布は、お札を伸ばしてしまうということだけに捕らわれているが、頻繁な交換こそが最も重要だ。折り畳み財布には逆に、財布のじめじめがお札に写り、さらに財布に溜まった念が発散しにくい形状だ。さっきの洗濯物の話からわかるだろう。そして、小銭だ。小銭には悪い念や霊が憑きやすい。だから、小銭同士をまとめるなんてもってのほかだ。特にやってはならないのは、長財布に小銭を入れること。小銭の念が財布や紙幣に写ってしまうからだ。だから、小銭入れは別に持ち歩く。決して小銭と紙幣は一緒にしないことだ。さらに、小銭入れがパンパンになるくらいの小銭を入れることも厳禁だ。なぜだかわかるな。悪霊の塊を持って歩くのと同じだからだ。こんなことしてたら、不幸に向って走るのと何ら変わりはない。結局、お金を身に着けない方がいいのだが、サラリーマン生活の中では、そんなことはできないだろう。おすすめはしないが、方法はある。
 ところで、銭洗い弁天って知ってるか?洗ったお金をお賽銭とする弁天様だよな。なんで、お賽銭をあげる前にお金を洗う必要があると思う?何となく御利益がありそうだと思ってそうしてるだけか?それは考えが浅いな。実は、この行為には深い意味がある。実は悪い念のほとんどは水で洗い流せるのだ。そんなことで落ちるの?と思っている人が大半だろうが、ほとんどの悪霊や悪い念というものはこれで落ちてしまう。この考えからすれば、家にあるのもはなんでも洗った方がいいのだ。念の付きやすい物は特によく洗うべきである。それも、水道水で充分だ。
 そういう意味では、人間が風呂に入るということの本当の意味はここにある。シャワーを浴びたり、風呂に入ったりするのは、カラダをきれいにするのが目的ではない。カラダに付いた悪い念や霊を落とすことが本当のお風呂の目的だ。だから、風呂に入らない人は運が悪くなる。反対に風呂好きな人は、霊がつきにくくなるから、いつでもさっぱり感や爽快感がある。風呂に入ると気持ちがいいだろう。それはカラダの表面がきれいになったからではない。カラダから霊や念が抜けたからだ。

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