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アニキの「正義論」(2/4) ~絶対正義~ [哲学]

 では話を戻そう。正義とは、その場その時に正しいと思うことだ。そしてそれは、立場によって変わる。どういうことかというと、この世の中のすべての正義は、勝者側の論理であって、人として正しいかどうかは別の話だ。だから、広義での正義は、国が正義であり、警察が正義なのだ。勝てば官軍とはこういうことで、国家に逆らった反逆者は、負けたから反逆者なのであって、もし勝ってればそっちが正義であり、英雄だったのだ。で、今度は負けた方が反逆者のレッテルが貼られる。歴史はそれで成り立っている。この世の歴史は、すべて戦いに勝った者の歴史であり、負けた者の歴史は闇に葬り去られる。最近はそう言われてくるようになった。しかし、その部分は決して語られない。負けた側が本当は正しいかもしれないが、負け側に有利な文献はすべて消滅させられて、この世にはほとんど存在しない。せいぜい、小説家が想像で繋いでいるにすぎない。
 世界を見渡せば、大統領と犯罪者を行き来している人も多い。これも結局は、正義が勝者の理論であるから、大統領を追われると政治的反逆者となってしまう。で、時期をみて大統領に当選すれば、今度は英雄となり、自分が正義となるのだ。だから、いつの時代も一方の論理だけを見てはいけないのだ。
 この正義における判断基準は良い悪いではない。自分がいる方が正しくて、自分と反対派が正しくないという、ただそれだけだ。主義主張が異なるからと、争いになる。全くくだらない話なのだが、これで人類は戦争を繰り返してるのだ。まあ、今ここでそんな大それたことを語ってもしょうがない。ここでは、広義の正義ではなく、狭義の正義、いわゆる個人の正義が重要だ。アニキはエラそうに国を語れるような大それた人間じゃなから、個人の正義を語ってゆこう。
 個人の正義とは何か!、それは、「本当の正しさの追求」だ。自分達の正義を主張して戦争している連中は、個人の正義から見れば、両方ともバツだ。個人の正義とは、「人として正しいか」という基準だ。これを信念とおいてる人は少なくない。京セラの稲森さんもその一人だ。稲森さんの経営哲学も「人として正しいこと」がまずありきだ。それから、細部に入る。アニキも稲盛さんの考えをベースにしている。
 人して正しいこと、これがアニキ哲学における「絶対正義」だ。絶対正義は、立場によって変わらない。それは、その正義が「人として正しいかどうか」で決まる正義であるからだ。アニキが名付けた絶対正義という言葉は、その語感から想像すると警察ばりのガチガチの悪の排除みたいにとられるが、全く違う。アニキの「絶対」のニュアンスは、国(法律)が違っても、言葉が違っても、民族が違っても、何が違っても不変の正義だ。
 これが絶対正義の定義あって、これは「人として正しいこと」というひとつしか見当たらない。

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