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親の謎「親の心、子知らず」(1/9) ~子育ての成功基準とは~ [哲学]

 いつも、「勉強しろ!勉強しろ!」とうるさく言う親。彼らは一体何様なのだろうか。毎日欠かさず三食たべさせてくれて、住む家と衣服を与えてくれるのはありがたいのだが、別に好きこのんでこの親に生まれてきたわけではないのにと、思うことも多々あるだろう。親はいつも「子どものため、こどものため」というが、「勉強しろ!」の真意は実は親のためではないかと、思ったりする。今日は、その「親の謎」に迫りたい。
 君たちが生まれた時、親は子どもを持つのは初めての経験だ。そして、子どもを持ったなら、育てなければならない。どう、育てようかと試行錯誤してきた。そうだ、その時の親はまさに「親初心者」なのだ。初心者だから、実は何もわかっていない。そして、実際に子育てすると、なかなか思うようにいかないものだから、人に聞いたり、テレビを見たり、本読んだりして勉強する。よいと思えばその通りやってみる。
 そんな経験はだれでもするのだが、この行動は2番目だ。実は、まず1番目はなんと言っても自分の経験だ。とは言うものの、親になるのは初めてなのだから、親としての経験ではなく、自分が子どもだったときの経験から親の気持ちを思い起こし、それを実行するのである。しかしながらそこには、独断的な自分の主観しかない。自分は子どもの頃、親からこう育てられたから、「これは同意できる、これは同意できない」と、自己流に判断する。同意できることはそれを再現し、同意できないことはその反対をやる。そうやって、試行錯誤して子育するのだが、これもまたなかなかうまくいかない。しかも、うまくいったかどうかの基準もない。子育てがうまくいくとは、どういう状態を指すのかだれもわからない。犯罪者にならなかったから、子育て成功なんていう時代ではない。何が子育て成功なのか?明確な判断ないわけだから、だれにもわからない。そんなあいまいな状況の中で子供はすくすくと成長する。結局、子育てが成功したかどうかのバロメーターは、最終的に偏差値の高い学校へ入学できたかどうかだけで決まってしまう。それが今の日本の実情だろう。
 周囲の反応もそうだ。偏差値の高い高校へ合格したら、「どうやって子育てしたのか?」と、賞賛されることになる。だから余計に、その子育ては間違っていなかったのだと、自信すらついてしまうのだ。実際、当の子供本人はよいと思ってないこともあるのだが、そんなことは周囲の賞賛の影に、どこかへ飛んでいってしまう。子どもを偏差値の高い学校へ入れた親は、他の親からアドバイスを求められるから、やはり自分の子育ては成功で、やり方は間違ってないと確信を持つ。子育て成功者として、いろんな人にアドバイスすることになる。「あの塾がいい」だとか、「勉強習慣をつけるにはこうした方がいい」だとか、話はこと勉強関することばかりだ。
 ここに、子育ての問題がある。


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アニキの「変人論」(4/4) ~変人と飲め!~ [哲学]

 じゃあ、オタクと友達になるにはどうしたらよいのか?それは簡単だ、そのオタクの得意分野に興味を持てばよいだけだ。将を射んとすればまず馬からだろう。ただそれだけでよい。興味さえ持てば、人は自然と質問できるようになる。「質問はオタクの栄養だ!」オタクは質問に答えることで生き返る。
では、なぜオタクへの質問が栄養なのか?それは、人間は興味がないと質問しない生き物だからだ。質問するということは、オタクの領域に興味があることを証明していることになる。ただ、くだらない質問じゃだめだ。的を得た深い質問をすればするほど、オタクとの距離は縮まる。オタクは知識を披露したくてたまらないから、その欲求を満たしてやることになる。実はこの「質問栄養説」は、対オタク戦略ではない。元は、対女性戦略なのだ。ターゲットの女性が自分に興味があるかどうかを見るバロメータとして、かつてのアニキは使っていた。残念ながら、女性からの質問がないと自分に興味はないということになる。口説きたい女性に、自分の昔話でもよい、自分の話をした時に、何の質問もなく、「ふーん」で終わっていたなら、それはあまり自分に興味がないレベルということだ。それを単にオタク戦略に応用しただけの話である。オタクは待ちの商売だ。攻めの商売ではない。オタクというお店を開いて、いつもお客を待っている。お客の質問を待っているのだ。
 話は変わるが、ブログのほとんどはオタクの語り場だ。ブロガーの深い知識の披露と、それをありがたいと思って読む読者とで成り立っているのだ。だれでも人の役に立ちたいのだ。自分の持っている知識が少しでも誰かの役に立てばいいという想いが人間にはある。これも人間の原始機能のひとつだ。そうなると、「だれでもオタク理論」が成り立ってくるわけだが、そんなことはどうでもよいのだ。必要なことは、オタクだろうが何者であろうが、専門知識を持っている人間を辞書として使えばいいだけだ。スローガンは「質問攻めでお友達!」だ。
 「変人を変人だと認識した時点で、そいつは変人ではなくなる。」これは、アニキ哲学の概念のひとつだが、意味はわかるか?要は、変人を変人と認めてしまえば、想定内の人間となりうる。そうなれば、もはやそいつは変人ではないということで、毛嫌いする対象ではなくなるということだ。世に中のほとんどのことは、考え方ひとつで180度変わる。これを世間ではパラダイムチェンジとかパラダイムシフトという言い方をする。本質を知れば、物の見方が変わるということだ。変人を変人と認識すれば、いたわりの気持ちも出てくるかもしれない。
 変人と付き合う必要は全くないが、よき理解者というスタンスで、最初は少し距離をおいて付き合うことを奨める。そして、自分と気が合うことがわかれば、たまには酒でも飲みに行ったら楽しいぞ。ま、好き嫌い多い奴らだから食べ物にはこだわるかもしれないが、変人には気のいい奴がけっこう多いのだ。


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アニキの「変人論」(3/4) ~ハッピーな絵を描け!~ [哲学]

 だから、アニキの定義では、オタクも哲学者の一つの形であり、味方につけるのが正しい。そのニッチな世界で、膨大な知見を持ち合わせているのがオタクだ。だから、オタクの形も様々で、いろんな分野に生息している。すべての分野において、そこにはオタクが存在している。すべての分野に全く興味がないという人はいないはずだ。自分が興味のある分野には必ず、その道のオタクが生息している。探さなくてもすぐに見つかる。そんなに遠くない場所にいることに気づくはずだ。オタクはシャイだから、隠しているだけのことが多い。こっちから得意分野の話題を出すと、目を輝かせて会話に乗ってくるという性質がある。そこをうまく見つければよいだろう。オタクを釣り上げることはたやすい。まあ、付き合ってみなよ、オタクには意外と良い奴が多いんだよな。変人との付き合い方の中でも話したように、オタクとの付き合い方も基本は同じである。敬遠するのではなく、味方につける。お友達になってしまうのが得策だ。お友達になってどうするのかというと、自分の知識のひとつとして活用するに限る。その最も効果的な活用の仕方は、「オタクは辞書として使え!」ということである。様々な分野のオタクといかに多く友達であるかが人生では重要だ。自分の引き出しとしてこれほど頼りになる奴はいないからだ。気になることがあれば、すぐに電話など連絡できるオタク友をどれだけ持っているかで、君の懐の深さが決まる。人間の幅と言ってもいいだろう。自分で努力して知識をつけるとなると、大変だ。そこはオタクを使ってしのげばよい。サッカーについて知りたかったら、サッカーオタに訊く。芸能について知りたかったら、芸能オタに訊く。それが一番だろう。
 それじゃあ、オタクをただ利用しているのと同じじゃないかと、反論する人もいるだろう。それは違う。アニキは哲学の根底には、「みんなハッピーな絵を描け」がある。この理念はこの場合でも曲げてない。自分もハッピー、オタクもハッピーだ。自分のハッピーはわかった。オタクを辞書として利用すればよい。では、オタク何がハッピーなのか?折角一生懸命に蓄えた知識を、ただで利用されてしまうことのどこがハッピーなのか?実は、オタクは自分知識が人の役に立つだけでハッピーなのだ。自分の深い知識を喜んでくれる相手さえいればよいのだ。いろんなウンチクを語れる相手に不足しているオタクは、その知識をだれかにありがたがってほしいのだ。オタクは、自分の知識が人の役に立つことが至上の喜びだ。つまり、オタクは常日頃から自問自答している。 「こんなに深い知識をつけたところで、世の中の役に立たないんじゃないか」と、常に不安にサラされている。だから、自分の知識を隠してしまう。その知識が必要にない人には、全く意味をなさないからで、うっとおしがられることで心が傷ついてしまう。ナイーブな心の持ち主が多い。そんな純粋な心を持つオタクとは、その知識を必要としている人間と、フィフティーフィフティーの関係になれる。ここでハッピーな絵が描けることになる。
 オタクと友達になり、自分の辞書として使うことは理にかなった行為なのだ。

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アニキの「変人論」(2/4) ~オタク~ [哲学]

 そのような変人との付き合い方だが、変人は一般人とは違う考え方を持つ人種であることを認識しさえすれば、自分達と違うからといって敬遠することはもったいない。普段は別に全く害はないのだから、難しいことをよく知っているという意味では、逆に利用するのが得策だ。自分の知らないことを何でも質問してやればいいのだ。それが正しい変人との付き合い方である。なぜか変人は質問されるとうれしい。質問が彼らの栄養なのだ。逆に、絶対にやってはいけないことは、怒らせることだ。変人は滅多に怒らないのだが、バカにしたりすると怒るときがある。変人は逆上型で怒るタイプは少ない。表面は冷静でも、腹の中は煮えくり返ってるというパターンの怒り方だ。覇気は内に宿るのが変人だ。細かい膨大な知識があり頭がいいから、怒らせると厄介だ。必ず復讐されると思え。ひ弱で気が小さいからといって侮ると大変なことになる。ひ弱なのはカラダだけであって、頭と心は一般人より気丈であると言っておこう。まあ、悪いことは言わない。お友達になって得した方がよい。お友達になると必ずメリットがある。これだけは本当だ。絶対にいじめてはいけない。彼らは、「恩も仇も倍返し」なのだ。
 もう一度言うが、哲学の道にいる変人とは、行動や習慣が変であるという概念ではなく、日頃考えていることが一般人と少し違うということで、それ以外は気のいい奴らだ。日頃の行動が少しおかしい人もいないことはないが、少数派としてここではあえて取りあげない。人生の意味や生まれてきた意義なんかを考えてるうちに、変なモノを信じたりして、変な習慣も身につけてしまうのだろう。まあ、気味が悪いかもしれないが、大目に見てあげてほしい。まずは、変な奴に興味を持つことだ。
 アニキは昔から、そういう変人は嫌いではなかった。暗くて取っつきにくいにくいのだが、話してみたら面白いのだ。性格は比較的穏やかな人が多く、しかし自分が興味のない分野の話は絶対にしない。そして得意分野において、その知識の深さに驚く。16才でこの知識かと、昔よく驚いたものだ。そうだ、今で言うオタクなのだ。オタクという言葉は、アニキの学生の頃には存在してなかったため、当時のオタクは変人の一つとしてかたづけられていたのだ。
 そう、アニキの生き様の一つに、「オタクは味方つけろ!」というのがある。実は、オタクも哲学者の一人なのである。


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アニキの「変人論」(1/4) ~変人とはいかなる者か?~ [哲学]

 アニキがここで話題とする「変人論」とは、巷にいる「本物の変人」のことではない。その変人のことを期待しているなら、この先を読んでも意味がない。アニキが言う変人とは、一見巷の変人風ではあるものの、その根底にはしっかりとした自分の哲学を持っているという哲学の道にいる人間達である。「あいつ少し変だ」というところの変人である。そのことについて話題にしたいと思う。
 まず、多くの人が哲学者から連相されることは、まず「変人」だ。過去の偉大な哲学者は変人だらけだ。それは偉人も街の哲学者も変わりはない。日常の他愛もないことを深く追求してゆくという行為は、どうしても変に映るのだ。アニキが学生の頃も哲学好きは変人扱いされた。アニキも当時は、哲学などは変人の領域であり、哲学好きは変人という偏見を持っていた。そして哲学好きに共通していたことは、暗い性格、運動嫌い、難しい本ばかり読む読書家、細かい雑学の知識が豊富、理解不能なルーティーンを持ち、食べ物の好き嫌いが多いなど、かなりのマイナスの特徴を持つ。さらに、性格が神経質な割に他人には無神経に振る舞うというおまけが付いていたからなおさらだ。アニキはものすごい偏見を持っていた。哲学好きは頭が良かったのだろう。一般の人が考える奥をさらに考えていたのだから。人生の意義や生きる価値、なぜ人は生まれてくるのかなど若者には似つかわしくないジメジメしたテーマだ。スポーツや勉強に打ち込んでいる連中や、オンナのケツを追いかけまわしていたアニキ達や、お笑い好きテレビ好きな子どもらは、到底そんな深いことは考えない。普通に考えないことを考えるから、変人として見られるのだ。人生の意義なんてことを、子供の頃から考えているから頭がおかしいと思われてしまう。諸君の周りにもこんな奴いただろう。しかし、彼らから見れば、我々が変人なのである。なぜ、人生の意義や生きる意味などを考えないのか?と。
 しかし、人生は順風満帆ではない。学生の頃はスパースターでも、社会人になれば凡人というのがほとんどだろう。それが人生のギャップで、普通にしているとそこに落っこちてしまう。ギャップに落ちると、日常生活ではそこからなかなか抜け出せない。なぜなら、人の内面の話であるから、他人からはその状況が全く見えない。心が鎖に絡まっているのだ。そこから引きずり出してくれる物が必ず要るのだが、それが師匠だったり、本であったりする。
 だが、変人と呼ばれる哲学好きな連中は、そのことを知っていて事前に準備している。人生には落とし穴があるだとか、理念や信念がないとうまくいかないだとかを常に研究しているから、彼らにとっては想定内だ。「ほら来た」とばかりに対策を講じるから、何でもないのだ。皆が悩んでいるところで平然としているその姿、そこも変人に映るゆえんである。


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傑作「私をスキーに連れてって」に酔え!(4/4) ~時代の産物か~ [映画・ドラマ]

 この映画を見終わった後、自分が原田知世ばりの彼女を連れてスキーに行く。又は、ゲレンデで原田知世似の娘と出会うはずだと、本気で考えていたから、すぐにでも出掛けたくなったものだ。健さんの任侠映画を見た後に、映画館から出てくる男達はみな、肩をいからせて歩くのと同じだ。自分が三上博史になったつもりでいるのだ。都会のOL達と週末にスキーに出掛ける。その言葉だけで、なんだか、楽しそうだよな。そう、「OL」や「女子高生」という言葉には言霊が宿る。「ありがとう」という言葉だけに言霊が宿るわけではない。この映画の中に登場する「OL」「スキー」「ロッジ」という単語にも魂は宿る。その言葉を聴くと心がウキウキして、最高にモチベーションが上がるという「パブロフの犬」となる。映画の中にちりばめられた言霊キーワードを駆使した戦略的映画ともいえる。
 繰り返すが、当時はアニキも大学生から社会人になる頃だった。夏は海、冬はスキーという浮ついた人間であったことは否定しない。アニキだけではない、当時の若者の男達の行動は皆似ていた。だから、嗜好も似ていた。現在のように各人の嗜好が細かく分かれていなかった。音楽の好みもしかりで、サザンが流行りユーミンが流行ったのも、それを聴かないと田舎者扱いされたからだ。今の時代のように、好みが多岐にわたって分かれてしまい行動ひとつひとつに個性があるから、音楽がなかなか流行らないのだ。
 今の若者の方がよっぽど思慮深いと感じる。物事の本質をよく見ている。意味ない行動はあまり取らない。はちゃめちゃな奴が少ない。これにはイイ面と悪い面がある。公共の場において、周りに迷惑かけるような輩が少ないのは、嫌な気分にならないからいい。逆に、後先顧みずに行動する型破れタイプが少ない。浮ついたばかげた行動で失敗することを恐れてしまうのだろうが、そこが若者のよさでもある。下手に物事の損得や成功率などを真剣に考えるものだから、失敗する確率の高いことを敬遠してしまう。とりあえず、ダメ元でもいいからやってやろうという輩が少ない。要は、何でも緻密に考える分析型が主流のようだ。これではなかなか心のストレッチも難しいだろう。
 ばかげた行動が心の可動範囲を広げる。心が伸びたり縮んだりするから、心に幅ができるのだ。それにより、簡単にはへこまない強靱な心ができあがる。実は、若い頃のばかげた行動というのは、人生においてはムダではない。逆に、思慮深さに欠けて失敗した方が、人間に厚みができる。失敗は人生に華を添える。やはり、アニキ哲学通り、人生には一切ムダなものはないということだ。
 この映画はだだの娯楽映画と思ってみてもよいのだが、当時のばかげた若者の姿も学べる映画でもあるのだ。だからまあ、今、リメイクしても流行らんだろうな。


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傑作「私をスキーに連れてって」に酔え!(3/4) ~心のストレッチ~ [映画・ドラマ]

 その全編において、いろんな原田知世を見ることができる。周りのキャストは全員原田知世の引き立て役にすぎない。「美人は美人とつるまない」の鉄則通りだ。さすがに裸のシーンは出てこないが、そんなものを期待してはいけない。この映画にそんな卑猥なシーンは似つかわしくないからだ。原田知世は脱がしてはいけない女優で、そんなことは誰でも知っている常識だった。彼女は厚着でいいのだ。薄着が似合う美人は多いが、厚着が似合う美人は本当に少ない。「いいから服を着てろ」と言いたくなる女性、そこが彼女の最大の魅力だ。そんな原田知世をじっくりと堪能してほしいものだ。大げさかもしれないが、歩く芸術である。芸術といえば、そのバックに流れるユーミンの音楽もこの映画の価値を格段に上げた。
 当時の若者にとって、サザンとユーミンは音楽の象徴だった。時代は、レコードからCDに変わり、カラオケが世の中に出始めた頃だ。若者なら誰しも、サザンとユーミンの歌を気軽に口ずさむことができた時代だ。カーオーディオにはサザンとユーミンのカセットテープがないと、女性から見向きもされなかった。なぜか、夏はサザンで冬はユーミンだった。夏は、浮き足だって海へナンパしに行く男達の心を捉え、仲間と車でサザンを聴いて士気を高めたものだ。
 そんな浮ついた夏に捕まえた彼女は、本物ではなかった。「夏に絶対彼女を作る!」という目標を掲げ、かわいい彼女をゲットすべく燃える。うまくゲットする奴もいるが、夏も終わりに近づいても彼女ができず、焦りまくったあげくに残り物に手を出してしまう奴も多かった。そういうことを皆、経験してきた。いろいろあっていいのだ。楽しいひとときを過ごしたという充実感がある。冬には、夏につきあった相手とは、クリスマスを過ごす前に必ず別れてしまっている。クリスマスは大概一人である。ヤローでつるんで飲むのが定番なのだ。そして、家に帰ってひとりになると、別れてしまった彼女を思い出し、しんみりとユーミンを聴いたのだ。まるで心のストレッチだな。そして、それが毎年輪廻の如く繰り返された時代だ。絶頂期とどん底期でとにかく心が忙しい。心が伸びたり縮んだりさせられる。
 アニキ哲学でもよく話すが、実は心もストレッチが必要だ。ストレッチで心を伸ばしておかないと、心が簡単に折れたり切れたりする。逆切れとは、まさに心が切れる状態で、心の柔軟性が足りない奴に起こる現象だ。当時の若者は、遊びを通して無意識に心をストレッチしていたから、自然と心の可動範囲を広がっていった。だから、アニキ世代の男は、簡単に心が折れない。カラダは固くても心は柔らかいから、結構心がタフな奴が多い。彼らの根底には、「命までは取られない」という信念があったから、仕事でもナンパでもゴリゴリいけた。心もカラダと同じように柔軟性が必要なのだ。カラダのストレッチの重要性はよく言われており、本屋いけばよく目につくし、雑誌ターザンなんかでは重要なテーマにしている。なのになぜか、心のストレッチを教えてくれるところはない。心とカラダ、どっちも大事で似た性質なのに、おかしいよな。
 おっと、心のストレッチの話は長くなるから、別の機会にしよう。


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傑作「私をスキーに連れてって」に酔え!(2/4) ~最高の美女、 原田知世~ [映画・ドラマ]

 つかみの凄さがこの映画のよさだ。スキーなどやったことがない奴でさえ、行ってみたい気にさせる。当時のアニキは、哲学などとは無縁のミーハー野郎だったから、大学入学と同時にスキーを始めた。それは、バイブルであるホットドッグプレスやポパイなどでも、「スキーをしない奴は人にあらず」という勢いがあったからだ。そんなご時世だったからこそ、この映画も若者に崇められたのだった。
 で、次にこの映画のよさだが、それはロッジだ。ロッジに泊まるというシーンは何度も登場する。当時、ロッジに泊まるというのは、スキーヤーの憧れであった。格安スキーツアーを利用していた極貧学生は、混み混みした不衛生なスキー宿に泊まっていた。トイレはくみ取り式で、風呂は男女が時間を決めて交代で入る。布団は湿っており、部屋はどこからか隙間風が入ってくる。メシは冷たい揚げ物と乾いた野沢菜だ。ご飯だけはおかわり自由がよかったが、たまに芯があったりした。しかたない、普段メシなど作らない学生バイトが作るからだ。とりあえずお腹を満腹にすると、部屋に戻って乾き物で宴会だ。そんなスキーしかしたことがないアニキ達にとって、ロッジという言葉は黄金の響きがあった。映画の中に出てくるセレブな雰囲気を味わうことができる貸し切りロッジに陶酔した。「こんな環境でギャルとスキーに行きたい」という一般ピープルの欲望が、すべてここに集約していた。安宿では得られないアフタースキーも理想形であった。この映画には、当時の若者の想いがすべて詰まっていた。
 ストーリーは何の変哲もないアメリカン映画のような恋愛サクセス物だ。結果は最初からわかっている。じゃあ、この映画の何がいいのか?何と言っても、ヒロインの「原田知世」だ。この映画のよさは原田知世、これに尽きるといってもよい。この映画が好きな人は、まず間違いなく原田知世好きであると断言しよう。原田知世の魅力満載の映画だ。原田知世は地味なキャラクターなのだが、アニキの美人分類ではストライクゾーンのど真ん中だ。外角高めとか内角低め系のギリギリ美人ではない。当時、これほどのど真ん中美人はそういなかった。ぱっと見、かわいい系のアイドルは多い時代だったのだが、トータルバランスに優れた美人はいなかった。アニキの好みは小動物系で清楚な感じだ。性格も控え目がいい。最近は、男を引きずり回していじり倒す美人なんかが世にはびこるが、そんな色物系美人など言語道断である。映画の中での原田知世は、とにかく何をやってもかわいいのだ。愛くるしさ満載なのだ。この原田知世が愛くるしくてしかたないという感覚は、同性である女性にはわかるまい。という意味においては、女性はあまりこの映画を評価しないかもしれない。原田知世を愛でる感覚は、男だけが持ちうる。そして男だけがそれを楽しめる。で、月並みな話だが、原田知世が自分の彼女になったと錯覚させる。


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傑作「私をスキーに連れてって」に酔え!(1/4) ~つかみの凄さ~ [映画・ドラマ]

 毎年冬になる前に必ず見る映画がある。アニキのバイブルでもある映画だ。この映画こそが、過ぎ去りし日の自分の心に戻れるスイッチだ。そんなスイッチは誰しも持っているはずだが、過去にいい想い出のない人にはこの感覚はないかもしれないが、このスイッチを見つけるために、人生の棚卸しをしてみるのもいい。面白い事実が見つかるかもしれないからだ。おっと、今日は哲学の話は抜きだ。過ぎ去りし日の郷愁というか、想い出というか。
 余談だが、アニキはくだらないものが大好きだ。くだらないとは、それに価値を見いださない人の批判なのだが、そんなことは世の中にいくらでもあるのだから、人の意見など気にしなければよい。まずは、くだらなさの中に自分なりの意味を見つけて、楽しみを見いだすのがこだわりだ。それがアニキの趣味哲学である。だからこの映画も、くだらないと思う人にはあまり価値はない。この映画がサイコーだと言う人と分かち合えばよい。この映画、まさに芸術であると言っても過言ではない。では、アニキが芸術であると確信するシーンを紹介してゆこう。これらがあるから何度でも見てしまう。
 まず、スキーに行こうとする主人公が、タイヤをスタッドレスに交換するシーンから始まるのだが、ここでグッと映画に引き寄せられる。かなりのつかみである。ワクワク感を重要視したつかみであり、当時の若者の心をわしづかみにしている。家の場所は、世田谷区当たりの住宅地だろう。若いくせに屋根付きガレージを持っているという贅沢な身分だ。親父が金持ちなんだろうということで、視聴者は許したのではないかと思う。サラリーマンの現実がよくわかってなかったあの頃、その程度は努力すれば手の届く範囲であると考えていたから許せたのだと思う。アニキ世代は、車やバイク、オーディオなどのメカニカルなものが大好きで、ガレージとは当時、その趣味の最高峰に位置する憧れだった。今でいう羨望の「ガレージライフ」である。そこで、ひとり黙々と出発の準備をする姿に、自分をラップさせたのだ。そして爆音と共に出発するのだが、ガレージのシャッターもリモコン操作により、電動で閉まる。20代のサラリーマンの生活ではない!その憧れに陶酔した。だがここで、車をトヨタのFF車としているところに、少し庶民的な部分を残しているのだろう。車がアウディクアトロやベンツのゲレンデファーレンだったら、この映画は流行らなかっただろう。ここでのキーワードは「手が届く憧れ」だ。憧れは手の届く範囲でなければならない。という意味では、主役の三上博史も手が届く男として映っていた。今のご時世でいうところのイケメンではない。イケメンを起用していたら、間違いなくダメだったであろう。ブ男じゃ原田知世と釣り合わないから全く話にならないが、三上はまあそこそこという感じで許されるイイ男系だ。そして極めつけは、出発した直後から流れるユーミンの歌のタイミングが絶妙さだ。つかみとはこうあってほしいという典型である。
 このつかみを超える映画を、アニキはまだ見たことがない。


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サラリーマンの武器「右左攻撃」(5/5) ~知らないことは罪~ [哲学]

 もし、攻撃に気づいていたのなら、この攻撃を防御するのは簡単だ。意識して攻撃してきた奴に対しては、万全の準備も可能だ。人事考課のバッテンや、激しいパフォーマンス付きお説教で、楽しくいじめてやればよい。そして、無意識に仕掛けてきた奴には、直接「それを右左攻撃って言うんだぞ」と、教えてやればいい。それが部下教育だ。無防備に受けてしまうと、自分が弱るばかりだ。
実は、この右左攻撃の厄介なところは、意識的だろうが無意識だろうが、その攻撃に気づかなければ、必ず人間はダメージを受け、心が弱るところにあるのだ。今、体調が悪い管理職や経営者は、この右左攻撃を疑ってみてはどうか。意識的か無意識かはわからないが、だれかが仕掛けてきている可能性があるかもしれない。アニキ哲学では、「心が病んできたなら、まずは部下の右左攻撃を疑え!」とよく言っている。
 アニキが言いたいことは、この右左攻撃を奨励するがためにブログに書いているわけではない。右左攻撃を使われる側、すなわち攻撃される側が「こんな武器がある」ということを知っている必要があるからだ。知らなければ対処のしようがない。「知らないことは罪」という言葉があるが、罪というよりは「損しないため」という方が適切だろう。右左攻撃という新種の攻撃が世の中に出てきたことを、もっと認識すべきなのだ。ウィルスと同じだ。人類を苦しめるために次から次へと新手のウィルスが登場するだろう。サラリーマンを苦しめる攻撃も時代と共に変わり、新手の攻撃が登場し、それは複雑かつ水面下で人を苦しめている。
 実は、相手を傷つけるがゆえに、反正当派の武器については極力触れてこなかった。なぜなら、悪用する輩が必ずいるからだ。アニキの武器は直接肉体にダメージを与えるタイプの武器ではないから、一旦攻撃を受けてしまうとたちが悪い。心が病んでしまい、放っておくと内面的な病気になってしまう。心の病が原因の病気はなかなか治らない。ひどいと死期を早めることにもなりかねないから、アニキは右左攻撃をはじめとする反正当派に武器の紹介をためらってきた。無意識に使うのはしかたないのだが、意識的に使うことはやめておいたほうがよい。
 今回紹介した目的は、使うことを奨励しているのではなく、だれかに使われた時に、使われたことにいち早く気づいて、心を防御するためなのだ。世の中のしくみはすべて二面性がある。何度も言うが、物事自体が悪いのではなく、悪用することが悪いのだ。使う使わないはすべて人の心が決める。物事は全く悪くない。だから、すべての物事の両面、すなわち二面性を理解して、反対面(ダークサイド)を使わないように気をつけることが正しい生き方だと考えるのがアニキ流である。
 ということで、また反正当派の武器を少しずつ紹介しいくから、楽しみしてくれ。


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サラリーマンの武器「右左攻撃」(4/5) ~最も怖いその性質~ [哲学]

 この武器の特徴をもう一度まとめておこう。破壊力はすさまじいものがあるのだが、1発でダメージを与えるタイプの武器ではなく、ボクシングのジャブのように回数を重ねて相手を弱らせるという性質を持つ。そしてこの武器は、攻撃した相手の外表面を破壊する武器ではない。攻撃相手の内面を破壊する。破壊の様子は目に見えないところに、その恐ろしさがある。攻撃跡が目に見えないから、周囲は全く攻撃に気がつかない。本人のみに確実にダメージを与えてゆく。その攻撃対象は相手の心だ。心を攻撃する武器のため、精神にダメージを受け、心に傷がつく。さらに、カウンターパンチのごとく、相手の攻撃を利用するミラー型武器である。相手の命令が強ければ強いほど、教え込む思いが強ければ強いほど、跳ね返ってくるダメージは大きくなる。つまり、「こいつには真剣に教えてやろう」という思いが大きければ、それを右左攻撃で返された時、その失望感も相まって心が折れるのだ。そして、それが繰り返されることにより、毎日が悩みの日々となり、人間不信に陥る。そのあげく、カラダに変調をきたして病気になってしまうという流れだ。反対に、右左攻撃を使った側はピンピンしている。この攻撃にはあまり罪悪感を感じないという傾向がある。攻撃した者の心にも負担をかけないという特徴があるから、かなり始末が悪い。
 だから、これを無意識にやってしまう奴がいる。というより、このサラリーマン社会では無意識に使っている奴の方が多い。無意識に上司を攻撃しているのだ。すると段々、上司の体調が悪くなってくる。上司自身も、部下の右左攻撃によりカラダの具合が悪くなってるということに気がついていない。年に一度の健康診断で、胃潰瘍と言われたり、糖尿病と言われたりするのだ。右左攻撃を無意識に仕掛けた部下は、それを聞くと、「課長、カラダを大事にしてくださいよ。無茶したらダメですよ。」と、無責任な言葉をかけてしまい、上司の体調はさらに悪化するのだ。この右左攻撃は無意識に成り立ってしまうところにもその怖さはある。無意識の攻撃の方がよっぽどたちが悪いのだ。さらに上司自身も、部下の右左攻撃により自分の体調が悪くなったとは全く思ってない。いたわりの言葉をかけてきた部下こそが、右左攻撃を仕掛けてきた者かもしれないのだが、上司は逆にありがたいなどと思ってしまう。
 実は、右左攻撃の最も肝心なところは、仕掛ける側と受ける側のお互いが、その攻撃に気づかないというところにある。お互いが無意識である場合が大いにあるのだ。だから、攻撃を仕掛けた者が、「なんで、課長は体調が悪いのだ?」と本気で気にしてしまうという現象が起きる。これでは、誰も防ぎようがない。
 ここに、右左攻撃の最も恐ろしい性質が潜んでいるのだ。

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サラリーマンの武器「右左攻撃」(3/5) ~その武器の威力~ [哲学]

 がしかし、部下の機嫌を気にするようなヤワな上司ほど、この攻撃はよく効く。ヤワ上司は右左攻撃の格好のカモなのだ。昔のように、体育会系上司が社内にのさばっていた時代では、この攻撃は絶対に効かない。上司の話を「右から左」なんてことをしようものなら、ビンタと説教の毎日だ。それも生半可な説教ではない。それは拷問されに毎日会社へ通うもので、地獄の日々だ。右左攻撃をかけた者が音を上げることになる。自分のカラダと心が保たない。どうせ、こんな攻撃を使うような人間は、元々弱くて暗い人間だ。言っちゃなんだが、誇らしい武器じゃない。どちらかと言えば卑怯な武器である。だが現代では、こんな武器が恐ろしく大きな精神的ダメージを与えることができる時代だ。時代の流れを利用したウエポンなのだ。
 右左攻撃が効かなかった時代の話はこの辺にしておこう。今の時代は確実に効くのだから。右左攻撃により、上司は思いっきり精神的ダメージを与えられて、日に日に弱っていくことになる。それが慢性化して心が病んでくる。さらには、肉体までを蝕む。卑怯な武器なのだが、恐ろしく破壊力がある。それが右左攻撃の最も恐ろしいところだ。さらに、右左攻撃により心が病んだとしても、それで訴えることは困難である。何より、上位者が下位者にいじめられたなど、世間で通る話ではない。上司の命令が理不尽でカラダを壊したという話ならわかる。部下が言うこときかなくてカラダを壊す上司など、世間の笑いものだからだ。なぜなら、上司は人事権や査定権という武器を持っているはずだ。それを使わないというのはおかしい。人事異動までのレベルまでいかなくても、人事考課で大きなバッテンをつければよいのだ。それを怠って自分の中だけで解決しようとするからおかしくなる。武器には武器を持って対処しなければ、闘いに負けるのだ。諭すのも結構だが、聖人君主でもない限り人はなかなか心変わりはしない。それに、相手は右左攻撃を使ってくるようなレベルの低い人間だ。諭してもムダであろうと読み取らねばならない。
 まあ、ここまでしつこく右左攻撃を完成させてくる奴はいないだろう。少し懲らしめる程度ぐらいで使うのがちょうどよい。何でも、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。他の反正当派のサラリーマン武器も同様だ。武器と見抜かれる前にやめておくのが正しい使い方だ。武器は正しく使うことで良い武器となる。適度な右左攻撃を心がけてくれ。
 右左攻撃が悪いのではない。それは使う人間の心が決める。使う人の心のあり方で、よい武器にもなり、悪い武器にもある。アニキはいつも言う。「人の話は耳で聞くな、物事は目で見るな」と。その意味でこの右左攻撃は、アニキ哲学の根幹を見事に裏切る武器である。そのため、アニキはあまりこの武器をオススメしないのだ。

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サラリーマンの武器「右左攻撃」(2/5) ~武器の使い方~ [哲学]

 「人の話を右から左に聴く」ことが、右左攻撃だ。じゃあ、なぜこれが攻撃になるのか。これが攻撃と言えるのかどうかは意見が分かれるところだが、確実に相手がダメージを受けるわけだから、武器だと考える。
 この武器のターゲットは上司か先輩だ。自分より立場が上の者に対して威力を発揮する。命令や教育など上からの力に対して効力がある。使い方簡単だ。人の話を右から左に聞き流すだけだ。上司や先輩のありがたいお言葉を聞き流すだけ。聴いて、「わかったか」と言われて、「わかりました」と元気よく答えるのだが、実行してはいけない。聞き流すわけだから、命令を実行してはいけないのだ。「なんだ、そんなことか」と思った奴は、大して世の中がわかってない。やることは簡単なのだが、やり続ける度胸が必要だ。1回目の命令は何とかできたとしても、2回目以降においてやり続けることはかなりの度胸が要る。相手は上司だ、言うことをきかなければ、次の手段に出てくる。言われる回数が増えるに従い、声のトーンは激しくなり、長時間の説教も覚悟しなければならない。体罰に近い状況になるかもしれない。それでも我慢して、右から左に聞き流す。この単純行動をやり続ける。上司と自分との根比べだ。ここで注意すべきことは、意地を張るわけではない。ただ聞き流すわけだから、平然とやらなければ意味がない。上司が真剣に説教する中で、ボーッと聞き流すような態度だ。
 すると、上司は次第にやる気がなくなってくる。そう、ここからが相手のダメージに変わる。いくら言ってもいうことをきかない部下に、悩むことになる。精神が弱るのだ。で、もうひとつ上司を悩ませるポイントがある。それは、右から左攻撃を出すのは、嫌いな上司のみとすることだ。嫌いじゃない上司には、普通に対応するのだ。こうすることにより、自分の言うことをきかないその部下が異常なのではなく、言うことをきかせられないその上司の指導力が問われることになるからだ。
 でもなぜ、その程度で上司は弱るのか。そんな部下はさっさとどこかへ異動させてしまえばいいではないか。そう思いがちなのだが、現実はそんなに簡単なもんじゃない。若造ひとりコントロールできないとなると、そこから上には上がれなくなる。企業とは上に行けば行くほど狭き門になる。どんな小さなゴシップだってマイナス要素になり得るからだ。だから、昇格が見えてるエリート上司ほど上司と部下の関係にこだわる。なぜなら、部門の長は組織作りがうまくなくてはならない。それは、マネジメントの基本であり、マネジメント能力を一番手っ取りアピールするには、上司部下の関係の円滑さだろう。なぜなら、上司と部下の関係がうまくいってる状況を作りたいがために、部下への接し方が慎重になっているからだ。だから、話のわかる上司という態度を取る。今の時代はパワハラだとか何ハラだとか、とにかくうるさい。部下が人事部に駆け込もうもんなら、そこの上司には大きなバッテンがつく。
 だから、穏やかに物事を解決しようとするため、諭すような説教をする上司が最近やたらと多いのだ。

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サラリーマンの武器「右左攻撃」(1/5) ~反正当派の武器~ [哲学]

 今までアニキは、正当派の武器のみを紹介してきた。正当派の武器とは、相手を傷つけるものではなく、あくまでも自分の能力を高めることを目的としたものだ。いわば、「自分の能力を高めて、相手を出し抜くための武器」とで言った方がいいかもしれない。前向きなサラリーマンにこそ有益な武器だ。そう、前向きで積極的な人間にしか使いこなすことができない武器だ。サラリーマンの武器については、「優等生しか扱えないような武器ばかり紹介している」との批判がある。正当派じゃない武器も紹介してほしいとの声も聞くのだ。「正当派ではない武器はないのか?」と、たまに質問される。
 正当派ではない武器ということだが、ないわけではない、ちゃんとあるのだ。実際に存在するのだが、あまりオススメしない。相手を直接攻撃する武器をアニキ哲学においては好まない。なぜなら、人間は魂の成長を目的としてこの世に生まれてきているのに、相手を陥れるというのは魂の成長にはならずに、逆に魂の退化になってしまうからだ。また、この社会にはいろんな人間が存在するから、紹介すると悪用してしまう可能性もある。しかし、アニキ哲学における二面性論では、すべての現象に裏と表の二面性があると説いているわけだから、片方だけ紹介するというのも片手落ちである。しかも、反対面の武器の存在も知っておかないと、防御することもできない。よって、正当派じゃない武器もたまに紹介しておこうと決めた。今回の武器は反正当派の武器だ。
 表題にもある通り、今回の武器は「右左攻撃」という。破壊力満点の武器だ。まさに、相手を直接攻撃する武器で、威力は強力だ。読み方は「さゆうこうげき」ではない、「みぎひだりこうげき」と読む。この読み方でピーンときた人は、アニキ哲学がよくわかっている。で、この右左攻撃だが、攻撃とはいいながら、これを攻撃型武器と呼べるのかどうかは議論が分かれるところだ。この武器のアニキ哲学における分類は、ミラー型武器となる。また新しい言葉が出てきたが、簡単な分類なので覚えておいてほしい。ミラー型ということは、「跳ね返す」という意味だ。つまり、跳ね返すことで武器としての効果を生む。バリヤ型武器と似てるのだが、ちょっと違う。バリヤ型は表面で跳ね返すのだが、ミラー型は一旦受けてから跳ね返す。微妙に異なるのだが、これは本題ではないから、後日ブログ「サラリーマンの武器分類」でゆっくりと説明しよう。今日知ってほしいのは、右左攻撃はミラー型武器であるということだけでいい。
 では、この「右左攻撃」という武器を説明しよう。諸君は、右左(みぎひだり)という言葉から何を連相するだろうか?「みぎひだり」だから、みぎとひだりという意味か?違う。では、往復という意味で、往復ビンタみたいなものか?それも違う。往復は行って戻るという意味だ。近いのだが、少しニュアンスが異なる。右左攻撃の「みぎひだり」とは、「右から左」という意味だ。ここまでくれば、なんとなくわかるだろう。
 そうだ、「人の話を右から左に聴く」という意味における右左だ。

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人生テクニック「上位概念」(8/8) ~人生の覇者~ [哲学]

 アニキが言いたいことは、実はこの悪魔を吹っ切る決断こそが人生そのものだといいたい。だから、その究極の決断の時に助けになる概念が上位概念である。悪魔を追い払う十字架が上位概念である。決断しなければならない問題に対して、何が上位かを考え、その順位に純粋に従うことができるかということだ。例えば、自動車会社のトップは損を覚悟の上で、リコールをするかどうか悩む。食品会社のトップは市場品の全回収をするかどうか悩む。そのときには常に上位概念を使うことになるのだ。
 そして、上位概念に私情を挟んではいけない。淡々としてただ事務的に従わなければならない。私情を挟まない限り迷いはないのだから。この場合の私情とは雑念である。信念という上位概念があるにもかかわらず、私情を入れてしまっては、それは決断にはならない。私情により、軸がブレてしまうからだ。信念は信念としてそれに従わなければ、軸のぐらついた頼りない人間にしか映らず、人の上に立ったとしても、下から絶対に尊敬されない。そんな上司を常に見てきたはずだから、自分は絶対にそんな者にはなりたくないはずだ。
 結局、社長やマネージャーという職務の最大の職務は、大事な選択の時において、信念に基づく答えを出せるか否かにかかっている。役職者なんて者は、この時のために存在するといってもいいだろう。平時の時の選択には全く必要ない存在だ。部下がきちんと会社の利益を考えて、ルールに従って答えを出すからだ。しかし、非常時は違う。過去に例があればそれに従うが、なければ自分の考えで答えを出すしかない。前例のない裁判みたいなものだ。自分の決断が後世の判断規準となるからだ。利益を出すのが従業員の職務だが、会社にマイナスの利益をもたらす事件が起こった場合、従業員にその権限はない。損する権限など会社からは与えられてない。損する権限、それを持っているのは、トップだけなのだ。だから、会社の存亡をも左右する決定はトップしかできない。アニキ哲学における社長の定義とは、「損する権限を持つ者」である。
 話をまとめると、人生は損得ではなく、常に上位概念で問題を解決してゆかねばならないってことだ。ということで、上位概念というテクニックがいかに大事で、それを駆使した者が人生の覇者となりえる。大金持ちが覇者じゃない。有名人が覇者じゃない。覇者とは、信念に基づいて人生を生きた者、上位概念で人生を切り開いていった者だ。
 そいううことなのだ、上位概念、こいつは人生の友である。このテクを死ぬまで持って行け!必ず、人生の運が向く。

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