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人間の仕掛け各論「人間関係」(8/12) ~第2の性質「膨らむ」 [哲学]

 次に、人間関係第2の性質は、「放っておくと大きくなる」ということだ。最初は大したことがない行き違いだが、それを野放しにしておくと、大きく育ってくるという性質だ。それは、風船のように膨らんでくる。そして最後に破裂するという感じだ。そう、人間関係の悪化は、知らず知らずのうちに「膨らむ」という怖い性質がある。
 世の中の大概のものは、放っておけば時間が解決してくれる。時間が経てば小さくなってゆく、若しくは消滅するというものだ。しかし、中には時間が解決してくれないものもある。その代表格は生活習慣病だ。まさに、人間関係とは生活習慣病と同じ性質を持つ。最初は些細なことが原因ですれ違う。そして、それが度重なると、段々と人間関係がギクシャクしてくる。ここで、厄介だと思いそのままにしていると、いつの間にか関係はさらに悪化していることに気づく。その間、何も話したり行動したりしていないにも関わらず、関係の悪さが熟成されているのだ。なぜこんなことが起こるのかというと、合わない相手との関係を絶ったからといって、相手との関係が消滅したわけではない。相手との関係を絶っていた期間中に、自分の心の中で合わないその相手が増幅されている。好きな人と会えないでいると会いたい感が増幅されて、会ったときの感激もひとしおだ。まあ、その逆版だと考えればよい。会いたくない人のことが自分の中で増幅されて、久しぶりに会った時は憎悪全開だ。
 そう、人間関係の悪さというものは、絶対に時間は解決してくれないのだ。アニキは生活習慣病と同じだと言った。生活習慣病は生活を変えない限り悪くなる一方だろう。それ以外には完全治癒はあり得ないのは、誰でも知っている。そう、生活の習慣を変えるのだ。じゃないと、入院・手術でカラダはボロボロとなり、その後の生活にもアレダメ、コレダメという制限のオンパレードだ。人間は、そういう例を横で見ているにもかかわらず学習しない。というよりは、横展開できない生き物だ。人生のそこら中に良い見本があるにもい関わらず、それを取り入れて横展開を図らない。仕事では常に部下に対して、「横展開だ、横展開しろ!」と声を張り上げてるくせに、プライベートの話は別なのだ。
 世の中の起こることはすべてに法則性がある。ひとつの例は他でも同じ結果になるものは山ほどある。人類はホモサピエンスが登場してから700万年も経っているのに、いまだに同じことを繰り返してる。文明の問題ではない、人間の心の問題だから科学の進歩は関係ない。700年前に起こった個人レベルの人間関係と現代で個人レベルで起こる人間関係にはほとんど違いがないはずだ。せいぜい、人間関係悪化の原因の違いだ。LINEでいじめられたか、口でいじめられたかの差だ。だから、700万年前の人類も人間関係を放っておいたら、関係悪化は増幅されていたのは同じなのだ。
 まあ、人間が愚かな生き物であるから、何度も生まれ変わらせる必要があり、輪廻転生は今も続いているのだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(7/12) ~創造主の最も嫌いなこと~ [哲学]

 余談が続いてしまったから、話を大きく戻そう。人間関係第1の性質「逃げられない」とは、逃げようとすると自然とペナルティがかかるということだ。逃げ方によりペナルティの種類や大きさも様々だ。 最もポピュラーなペナルティはカラダに不調を起こさせることだ。カラダに不調を起こさせるしくみは以下のような具合になっている。
 まず、人間関係がよくない相手に対して嫌悪感を抱くことになる。これは人間としては普通の感情だ。嫌悪感を抱くことにより、脳からカラダを攻撃するホルモンが発射されている。これが長い年月をかけて、カラダをむしばんでゆく。これらは、人の内部で起こる作用だから、表向きには変化はない。対外的には全くわからないものだ。そして、攻撃する場所はその人の一番弱いところだ。内蔵だったり腰だったり皮膚だったり、いろいろだ。そのうち、だんだんその弱い部分に不調が出てくることになる。本人は、なぜ急にカラダに不調が起こるのかは全くわからない。その作用は人により異なるし、起こる理由も単純なものではなく、仕事やプライベートのイライラなども加わるから、原因の特定は難しいのだ。
 最悪の逃げ方は、 その相手に危害を加えるということだが、その代償は大きいだろう。これは間違いなく「戻ってこい!」の警告が出るはずだ。魂の強制送還だな。こいつは最終手段だ。もう一度、魂の状態で修行し直して、再度転生ということになる。あまりにも高度な人間関係の課題を掲げて生まれてきたのはいいが、ハードルが高すぎてクリアできないだけでなく、その課題に押しつぶされたような形だ。それがわかると、「戻ってこい」ということになる。ウルトラセブンのカプセル怪獣(かなり古いな)みたいなものだ。関係の悪い相手のカラダを傷つけたり、自分のカラダを傷つけたりすると、強制送還が待っていることになる。
 おっと言い忘れたが、もっと悪いことがあった。それは、「魂を傷つけること」だ。上記の場合の危害はあくまで「肉体」だ。肉体は魂の乗り物だ。アニキブログ「今世の乗り物を乗りこなせ」では何度も言っているが、創造主にとっての最悪の憤りは、肉体への危害ではなく、魂への危害だ。肉体への危害も良くないのだが、創造主的にはそれはただの乗り物であるから、まだ許せる。しかし、魂への危害を創造主は絶対に許さない。それ相応のペナルティが準備されている。いじめで相手を自殺に追い込んだりしたら、「戻って来い」とはならない。現世での苦悩を味合わせることになる。それがどういうものかは想像してくれ。人生がねじ曲がるぐらいの迫力だ。
 まあ、そんなマイナスの話をこの辺でやめておこう。アニキは暗い話は嫌いだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(6/12) ~ペナルティ~ [哲学]

 それは、自分のカラダの内部で起こる。自分が決めてきた約束から逃げようとする行動を取ると、今世の乗り物である「カラダ」にペナルティを与えられる。カラダとは、魂の乗り物だ。自分とは魂で、カラダはただの乗り物だ。詳しいことは、過去ブログ「今世の乗り物を乗りこなせ」を読んでくれ。要するに、創造主は魂にペナルティを与えることはしない。その乗り物にペナルティを与えるのだ。正確には、創造主は直接的にはカラダにもペナルティを与えてはいないのだ。ペナルティを与えているのは自分自身なのだが、ややこしいので、とりあえずここでは、創造主はカラダにペナルティを与えるとしておこう。
 カラダとはとても不安定な乗り物だ。ちょっとした操作ミスにより故障する。メンテナンスを怠ると、長く乗ることができない。非常にナイーブな乗り物なのである。いくら鍛えても、その鍛える方向が間違っていると乗り物の使用期限は短くなってしまう。
 じゃあ、創造主はどのようにペナルティを与えるのかと言うと、操縦者の操作ミスを起こさせるのだ。操縦者の心を揺さぶるのだ。どんなに頑強なカラダでも、操縦しているのは人間である。その人間の心がカラダを操縦しているのである。カラダが頑丈だからといっても、心も頑丈だとは限らない。プロレスラーのような肉体でも、おどおどした態度の人もいる。一方、プロレスラーのようなカラダで、物怖じしない横暴な性格の人もいる。しかし、アニキの言う心が頑丈な人とは、そうじゃない。
 誤解があるといけないから、ここで頑丈な心の持ち主について説明しておこう。心が頑丈な人というと、何でも積極的で物怖じしないジャイアンみたいな性格の人を想像してしまうだろうが、魂の世界ではそうじゃない。人を人とも思わない横暴な心の持ち主は、魂の世界では最悪な奴だ。魂の世界では、人が嫌がることをするのは最もダメであり、威張ることも御法度だ。それは人を不幸にするからで、そのような行為言動は、何よりも悪であり、魂の世界ではそんなことをする奴には大きなペナルティが下る。
 人間にとって一番大きなペナルティとは、「戻ってこい!」だ。どういう意味かわかるな。今世の乗り物を無理矢理壊されて、魂の世界に呼び戻されるということだ。創造主にとってそんなことは朝飯前である。ちょいと事故や災害や病気を起こせばよいのだからな。
 話が逸れたので戻すと、心が頑丈だという人は、物怖じしないとか、気丈だとかそういう話ではない。人に優しく面倒見がよく、楽しいことが大好きで、その軸がぶれない。親分肌的な人が多いが、決して威張らない。義理人情を大事にする。弱者を放っておけないようなタイプだ。こんな人を心の気丈な人というのだが、病的な痩せ細ったカラダで、一見やさ男風の人でも、上記の心を持っている人がいる。こんな人も心が気丈だといえる。心が気丈だというのは、カラダの見た目の価値観ではない。
 乗り物の価値で人間の価値なんか決まらないだろう。ベンツに乗ってる奴が偉いのかといえば、そうじゃないのと同じだ。ベンツもカラダも、その価値は乗ってる人の人間性で決まるのだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(5/12) ~第1の性質「逃げられない」~ [哲学]

 人間関係の意義を理解するために、人間関係の性質の理解が必要だ。人間関係に性質なんてあるのか?と思うかもしれないが、いくつかあるのだ。ここを押させておかないと、人間関係の意義の理解はありえない。どんな性質があるのかを説明してゆこう。
まず、前回の終わりにも触れたが、「逃げられない」という性質だ。そう、人間関係からは決して逃げられない。これが人間関係第1の性質である。
 目の前に現れた人、自分と全く合わないこの人とは、できれば避けたいものである。なるべく自分の視界に入らないように努力するのであるが、どうしても接点があるために会話しなければならない。避けたいのに、なぜか避けられない。実は、世の中はそういう風にできているから、避けることはあきらめた方がよい。この世は人間関係の修行である。あなたがそう決めて生まれてきたのだ。とすると、この世は試練なのだから、当然あなたの目の前に出てくる奴は、合わない奴ばかりだ。それは自分で決めてきたわけで、「なんでこんなに性格が合わない人と仕事をしなきゃならないのか?」という疑問は論外となる。創造主にしてみれば、生まれる前は威勢のいいこと言ってたわりに、大したことないなということだ。自分で決めたわりには、意外に根性がないと見られる。性格の合わない奴が現れるのを、あなたが自分で決めてきている。そして、その目の前の合わない奴とは、生前に「ぜひ嫌な奴を演じてくれ」と、あなたがお願いして頼んでいることを忘れているのだ。創造主にしてみれば、「なんだ、こいつは?口ほどにもないな」という感じだ。でも、せっかく生前に打合せした役割関係だから、逃げてしまっては意味がない。「何とか、逃げないで修行に結びつけてやろう」という力が影で働いている。これが、「逃げられない」という「人間関係第1の性質」である。お互いが、「この日この時、この役割で」と決めて性格が合わない関係を無意識に演じているのだ。
 だから、逃げようと考えても、相手も「この日この時この性格で」と予定を合わせていているわけだから、簡単には逃げられないしくみになっている。単なる他人であれば逃げられるだろうが、会社の上司部下や夫婦や親戚関係などでは無理だ。そんな逃げられない関係に中に、性格が合わない人ができてきたら、まさに修行スタートという話だ。ところが、やはり何とか逃げようと努力するわけだが、本人が逃げたと思っても、全然逃げられてない。ただ、顔を合わせないようにする程度の逃げでは、関係が余計悪化するようにできている。で、逃げよう逃げようと考えることにより、関係が悪化するだけではなく、大きな罰を受けることになる。


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人間の仕掛け各論「人間関係」(4/12) ~共感という名の麻薬~ [哲学]

 人間関係に悩み疲れ、その心労の末、宗教にはまる人も多い。実は、人間関係と宗教とは切っても切れない関係だ。宗教とは、まさに人間関係で悩み疲れた人の駆け込み寺である。人間関係がなぜよくないのかという問題に悩まされ続けた人達の集まりの場だ。しかし、ここでも教祖は人間関係の存在意義を明らかにするのではなく、血止めしかしない。そりゃそうだ、根本原因やしくみを教えてしまっては、あとは自分で乗り切ることができるので、その人にはもう宗教は必要なくなってしまうからだ。また信者に来てもらうために、血止めだけ行うのだ。まあ、アニキはいつも言うが、宗教は心の医者を謳っている存在だ。同じ悩みを抱える人達を集めて囲い込めば、そこには一種の共有感が生まれる。共有感、つまり共感のことだ。共感とは人間にとってはアドレナリンだ。共感とは、自分が相手を味方と認めた瞬間の感情で、共感によって楽しくなるように人間は作られているから、これも人間の原始機能である。他の生き物にはない感情だ。
 共感について詳しくは、後日ブログ「原始機能『共感』」で話すが、ここでは宗教は共感を煽る集まりであり、それによって心が少し楽になるだけという認識が必要だと言いたいのだ。
まあしかし、宗教の場が楽しくて、そこで自分の心が楽になるならべつにいいが、それはただの趣味の世界だろう。趣味としての宗教なら、アニキは特に何も言わない。「どうぞ、趣味を楽しんでください」だ。しかし、宗教において、人間関係の改善を目的としていたならば、少し考え直した方がいい。自分のその悩みが解決したのかどうかに焦点を合わせて宗教を見てみる必要もあるということだ。一生そこの教義に縛られて生活したところでどうだろうか?教義の実行で心も忙しいから、生活は充実して心労も開放されているかもしれない。がしかし、宗教から離れて日常に戻った瞬間に、何も解決してないことに気づくんじゃないだろうか。だから、人は常に宗教に触れていないと不安になる。日常の人間関係の悩みを改善しようと宗教に参加したのに、宗教から離れると不安になるのだ。
 自己啓発セミナーにも似たところがある。セミナーに関わっていると自分は思いっきりポジティブな人間になったつもりでいるのだが、現実生活に戻ると周りは今まで通りに自分に接してくるし、いじわるな奴はいじわるなままだから、またネガティブな自分に戻ってしまうのだ。だから、常にセミナー仲間と行動を共にして自分をポジティブに維持しておく必要があるのだ。共感の麻薬とでも言っておこうか。ここに問題があるものだから、自己啓発セミナーは廃れてしまったとアニキは理解している。
 悪いが、アニキの考えは、宗教は人間関係からの逃避にすぎないということだ。人間関係は、創造主が人間に仕掛けた試練であり、冒頭でも話したが、人間関係の克服が生まれてきた目的である。だから、逃げること自体が無益であり、人生の修行そのものに逆行することになる。
 ここに、人間関係の性質のひとつが隠されている。人間関係からは「逃げられない」ということだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(3/12) ~真の原因の追及~ [哲学]

 だから、もっとも考えなければならないのは、「人間関係の存在意義」であり、それがわかってないから、人間関係に悩むことになるのだ。血止めしかしないから、応用が効かず、人間関係が改善されないのだ。「すべての出来事は真の原因がわからないと解決しない」というのが、世に中のしくみだ。ならば、人間関係の意義が明らかにならないと対処できないはずだろう。仕事では真の原因は追及するくせに、うまくいかない個人的な物事においては、それをしようとしない。仕事では、思い込みがダメ!とわかっているくせに、自分の人生における出来事では、いつも思い込みで進めてしまう。だから、うまくいかないし、真の原因も見えてこないのだ。結果、何も解決してないことになる。解決しないまま人生を進んでいくもんだから、問題は大きくなるばかりだ。血止めをして、一時は解決したように見え一息つくことができるかもしれないが、根本が解決してないから、また新たな問題が発生する。人間関係のややこしいところは、対象が人間であるだけに問題はその都度変化するから、同じ問題は起こらない。だから、新たな違う問題が発生したと思ってしまうのだが、実は発生原因は同じである。根本原因を究明せずに血止めだけするものだから、元は同じ問題であることに気がつかないだけである。対象となる相手が変わったり、対象となる状況が変わっただけで、発生するメカニズムは同じだ。で、人間関係はややこしいと考えて、悩むことになる。できれば避けて通りたいと思うことになる。しかし、この世の生まれてきた以上、避けては通れないのが人間関係なのだから、うまくやるしかないのだ。
 そう、本当は、学校で教えることは勉強でなく、この世に生まれてきた理由から説明して、人間関係の存在意義も説明して、うまくやることを教えてほしいものだ。しかし、人間関係のしくみは科学で証明されてないから、教科書には載らないし、教育課程にも組み込まれない。さらには、教える側の先生は人間関係については達観してなければならない。つまり、先生は人間関係においては悟りの境地にいなければならないから、それは無理な話でもある。だから、このブログで話すしかないのだが、別に信じなくてもいい。アニキの話が腑に落ちるのであれば、信じればいい。自分で検証して、そこに矛盾がなければ信じてもいいはずだ。
 まず、人間関係の謎など今世で証明されることはないのだから、疑ってるとジジイになってしまうだけだ。これからの人生、さらに人間関係で悩む歳月と心労を考えると、心が楽になる方法を自らで見つけないといけない。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(2/12) ~人間関係の存在意義~ [哲学]

 さて、諸君は「人間関係が悪い」とか、「人間関係がよくない」ということに対して、深く考えたことがあるだろうか?いつも、「あいつとは合わない」とか、「あの性格が苦手」だとか、そんな風に対象となる相手について思いを巡らしているはずだ。しかし、本来考えなくてはならないのは、そんな対処療法的なことではなく、「なぜ、相性が悪いとか、なぜ合わない人間がこの世に存在しているのか?」という事実だ。人間は創造主によって作られた。これはアニキ哲学の真理のひとつだが、ここから考えると答えは容易に出てくる。創造主が性格の合わない人間同士をわざとたくさん世に送り出したことの意図を探ればよい。もし、創造主は性格が合わない人間を世の中に送り込み、それが良くないことだと考えたなら、最初から性格の合う人間だけをこの世に出しただろう。なぜ、そうしなかったのか?相性の合わない人間がなぜ、自分の近くにいるのだろうか?そこをもっと考えるべきだ。
 なのに、世の中に出回ってる本は、「人間関係はこう切り抜けろ」とか、「人間関係をよくするには…」とか、そんなものばかりだ。それはただの対処法だ。こんな本をいくら読んでも、人間関係はよくならない。無数の性格の人間が存在する中で、対処法だけで解決するはずもないのだ。対処法の本が悪いと言っているわけではない。偉い学者さんが研究して書いた本なのだから、確かに得るものもある。要はすべてを鵜呑みにするなということだ。対処法はノウハウ本だ。万人に当てはまるわけがない。腑に落ちるところだけを取り入れれば良いのだ。
 ところで、ノウハウ本といえば、アニキが昔はまったホットドッグプレスのデートマニュアルと同じだ。人間という生き物相手に、同じマニュアルで通用するはずがないということがよく考えればわかるのだが、若い時は聞く耳を持たない。目の前の獲物しか見えてない。アニキは当時、「人が信じたものを否定する者こそが悪者だ」という偏見で突っ走ってたバカ者であった。今でこそそれはよくわかる。
話は逸れたが、そもそも、人間関係がなぜ存在するのか?これについて書かれた本は今のところない。人間関係の対処法などアニキに言わせれば、ただの血止めだ。大事なのは人間関係の対処法ではなく、人間関係の存在意義であり、その理解だ。人間関係の存在意義がわからなければ、本当の対処はできない。そこに早い段階で気づくべきだ。この「人間関係の存在意義というものがあること」、ここに気づくだけでも、人生は大きく変化する。なぜなら、人間関係とは自分の人生の前に立ちはだかるハードルだ。100M走だと思ってスタートしたら、コースにハードルが置いてあったら、「なんだよ!」と思うだろう。しかし、100Mハードル走だと最初からわかっていれば、なんでもないはずだ。腹の立つ話ではない。アニキは何が言いたいのかというと、「人間関係には存在意義がある」ことを知ることは、自分がこれから走るレースは「100Mハードル走なのだ」ということを、走る前から知ることなのだ。走り始めた時にハードルに気づくのではなく、走る前に自分の目の前のコースにはハードルという障害物が最初から置かれていることに気づく。ハードルが置かれてあることを了解しているのかどうかということだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(1/12) ~生まれてきた目的~ [哲学]

 人間の仕掛けを語る上で、避けられない事がある。ここを説明しておかないと、仕掛けは成り立たない。それは、「人間関係」だ。まずは、この「人間関係のしくみ」を理解しないと、人生を有意義に過ごすことは困難であるといいたい。これがわかってない人が多すぎる。ほとんど人は、わからないまま死んでしまうことになる。死んだ時、創造主にから、「何度輪廻転生したら、人間関係のしくみがわかるのだ?」とお説教されることになる。
 人間は生まれる前に、「今世こそは人間関係のしくみを理解してこよう」と心に誓って生まれてくるのだが、生まれた瞬間にそのことは忘れてしまい、同じような人生を何回も過ごすことになる。いいかげん、みんな気づいてもいいのだが、それがなかなかできない。生まれ変わる度に世の中は複雑になり、そのことに慣れようとがんばるから、余計に人間関係のしくみがわからなくなる。そんな図式だろう。「人間関係」は何のために存在し、何のためにややこしいことになっているのかを、今世では少し理解するよう心がけるべきではないだろうか。ということで、人間の仕掛け第一弾は、「人間関係のしくみ」だ。
 まず、この世で暮らしていると、必ず人間と接触する。これは避けることができない。山奥で生まれ、オオカミにでも育てられた人間なら、一生人間と接触しなくてもいいかもしれない。しかし、そんな例外を除くと、どうしても人間との接触は避けられない。特に、親は生まれた時からそばにいる。生まれた瞬間に60億人の人間の社会があり、そこで人生がスタートする。そう、人間との接触は、創造主が元々仕組んでいるのだ。
 逆に、創造主が人間との接触を必須であると考えなければ、人間は親から生まれてくる必要はない。人は植物から生まれてもいいことになる。例えば、ジャングルの奥地の花や、砂漠の一輪の花から生まれてきてもいいことになるからだ。生まれた瞬間に周りに人間がいなくてもいいということだ。あとは、一人で木の実でも食べながら大きくなればよい。そして、死ぬまで他の人間に出会わなくてもよいことになる。しかし、現実はそうじゃない。必ず親から生まれてきて、親又は他の人間に育てられる。生まれたてで放っておかれると死んでしまう弱い生き物だ。他の生き物と違って、生まれたてでは一人で生きてゆける生き物ではないのだ。創造主は人間の元で育てられなければ死んでしまうように、人間を作ったのだ。それは明確な事実であり、そのことは理解できるはずだ。
 そして、最初に結論付けてしまうが、この人生でやることはただひとつ。「人間関係をうまく乗り切ること」、これだけだ。生まれてきた目的はこれだけだ。いろんな職業で努力して出世したり、特技を生かしてがんばってよい成績を残したとしても、それは人間関係をうまく乗り切るための飾りにすぎない。出世や金持ちや成績を残すことが生まれてきた目的ではない。そこへたどり着くための努力を通して、人間関係を築き上げることが人生の目的である。逆に言えば、人間関係を築くことにより、容易に目指すものを手に入れることができる。なかなか自分の夢が実現しないのは、次回から話す「人間関係の存在意義」がわからないために、努力の方向が間違っているからなのだ。
 哲学者が何世紀にもわたって研究してもたどり着かなかった結論である、「人はなぜ生まれてくるのか?」に対する答えをアニキは簡単にこう定義付ける。いつの時代も、「真理は単純」でなければならない。そして、この話は大事なので、12回の長編にさせてもらった。


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人間の仕掛け(7/7) ~総論まとめ~ [哲学]

 ここが人生で大事なところだ。自然を相手にするなら、後ろに下がることができる。それは、自然には勝てないと思っているのと同時に、波のしくみもわかっているからだ。しくみがわかっていて、自分には勝てないと判断したことに対しては、人間は後ろに下がることができる。しかし、しくみがわからないことには素直に下がれない。ここに人間の愚かさがある。波という物理的に自分を襲う脅威には対応できたとしても、目に見えないしくみがわからないものには下がることをしない。本来なら、正体のわからないものが襲ってきた時こそ、一歩さがるべきではないかと思うのだが、どうもそうではないのだ。理由のわからない「不幸な出来事」が襲ってきたのに、さらにその場に居たり、逆に前に出てしまうから余計にたちが悪い。だから、より大きな厄介事が起こるのだ。
 前回も話したが、まずは元の場所へ戻ってみること。これがわからない事柄に対して当たり前の対応であり、特に命に関わるかもしれない事態の対処法だ。登山やハイキングで道に迷った時には必ずやることだ。
 でも、これらはあくまでも対処法であり、ただの血止めにすぎない。次に起こる不幸な出来事を大きくしない対処であり、実は何の解決にもなっていない。根本の災難が起こる理由を突き詰めないと、何度でも軽い災難は降りかかり、不幸の連鎖は止まらない。前向きな姿勢を続けることで、不幸を小さくはできているのだが、その根気はいつまでも続かない。いきなり上司に怒られたりすると、前向きな心の壁が崩れてしまう。すると、待ってましたとばかりに、大きな不幸が身に降りかかることになる。いわば、前向きな心と災難との根比べになるのだが、心が折れた時に負けてしまうのだ。でも、前向きに生きる姿は立派であり、アニキ達一般ピープルはなかなか真似できない。
 普通、何か嫌なことが起こるとすぐに機嫌が悪くなるし、気分も悪い。悪いことばかりじゃなく、良い事と悪い事が交互に起こる。その比率は1:1だから、あまり気にならないのかもしれない。でも、こいつをすべて良い事ばかりにすることが可能だとしたら、どうする?そのためには、創造主が人間に仕掛けたことを理解することにある。災難の原因は人間の仕掛けを理解することにより、いろいろとわかってくる。「なるほど、そうなっていたのか」と理解することは、どんな人生勉強よりも重要なのだ。逆に、生きている間は、これだけを研究していてもいいくらいだ。ここがわからないと、人生のおいていろんな努力をしても、その方向が違っていると、思ったような結果が出ないことになるからだ。
ということで、「人間には仕掛けがある」と理解することが大事だ。これが事実であり、その本質を見抜いていくことが人生である。仕掛けに気づくことにより、その仕掛けの意図がわかってくる。意図がわかると、対応策がわかってくる。対応策がわかれば世の中のしくみがわかり、うまくいくように行動する技が身につく。これが悟りだ。悟りとは世の中のしくみや道理がわかり、それに従って生きることだ。真理は生活の中にゴロゴロところがっているから、別に、真冬に滝に打たれる必要はないのだ。荒行しても悟れず、命を落とす行者は過去から数知れずだ。そう、滝なんかに打たれるより、もっと身近なところに修行の場は存在している。人間はこのことにまず気づかなければならない。
 そう、日常生活という身近なところにある修行の場こそが、創造主の第一の仕掛けである。荒行ではなく、日常生活こそが修行の場であると気づくこと、それが創造主の意図を見抜く第一歩である。社会生活とは、人間に修行させる目的で仕掛けた罠と言ってもいいかもしれない。アニキは思う、生きた人間を相手にする日常生活の方がよっぽど荒行のような気がするな。
 では、世の中にはどんな仕掛けがあるのか?個別に見てゆくことにしよう。次回から各論に入る。「人間の仕掛け」総論はここまで。

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人間の仕掛け(6/7) ~不幸は満ち潮時の波の如し~ [哲学]

 もうひとつは、常に物事を前向きにとらえる人だ。何でも良い方向に物事を考える心を持つ。小さな不幸が身に起こった時、「この程度で済んでよかった」と考えられる人だ。この手の人は、起きた不幸が都度リセットされるから、次の大きな不幸が襲ってこない。不幸というのは前にも言ったが、満ち潮時の波のようなものである。
 最初は小さな波が足に当たる程度だ。自分が同じ場所にいたなら、潮が満ちてくるに従い、足にかかる程度ではなく、膝から腰、さらには上半身まで波にかかる。それがわかかっているから、足にかかったときに対処することになる。不幸な出来事も、実はこれとかなり似ているのだ。最初は小さな不幸が少し起こる。そのことを無視していると、次第に自分に降りかかる不幸が大きくなる。不幸がかなり大きくなった時点でそのことに意識するのだが、不幸にどっぷりと浸ったその状態では、冷静に不幸が起こるしくみを考えることはできない。その場で右往左往しながら、「なんでこんな不幸が俺ばかりに起こるのか?」と嘆くだけとなる。まあ、相手がどんなものかわからない場合、一歩引くのが人間だ。いきなりトラが襲ってきたら逃げるよな。それと同じで、「わからない場合は逃げる」のが、生き物の正しい姿だ。逃げないでその場にたたずんで嘆いているから、物事は好転しない。さらには、神頼みと称してお祓いとかに頼るから、より状況は悪くなる。言ってみれば神頼みとは、前に出るような行為である。相手が何で、そのしくみがわからないのに神頼みするのだ。これは、創造主にケンカ売ってるようなものだ。お守りを掲げて、「来るなら来い!」と叫んでいるような行為だ。満ち潮時に、自分の足に波がかかり、お守り掲げて前進してゆくようなものだ。モーゼじゃないんだから、お守り掲げても絶対に海は割れない。頭まで水に浸かり、自殺行為もいいとこだ。実は不幸な出来事はとは、人間に降りかかる多くの事柄と同様だ。ただ、それが目に見えるか見えないかの違いで、相手が何者かわかってるかわかってないかの差だけである。
 とにかくだ、不幸を始めとして、わけのからないことが自分に起こった場合、足にかかった波と同じで、少し後ろへ下がればよい。または逃げてもよい。相手が何者かわからないのに戦うことは危険きわまりない。そして、その場合のポイントは自分が動くこと。当たり前のことなのだが、波ではできるくせに不幸が起こった場合はなぜかできない。不幸が起こったら、自分でよくその原因を考えて、後ろに下がるのだ。前に動くのではなく、後ろに下がる。ここが重要だ。
 後ろに下がるとは、つまり、なぜ足に波がかかったのかの原因を追及することだ。そうすると、なぜ自分が波のかかるところに来ているのか?という根本理由まで明らかになってくる。この探求が「後ろへ下がる」いうことであり、原因がわからないのなら、元の場所へ戻ってみることが大事になる。神社参りや断捨離の前にまず我に返ることだ。


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人間の仕掛け(5/7) ~災難に勝つ人~ [哲学]

 創造主は、常に人間を正しい方向へ進化させようと監視している。大概のことには目をつぶるが、「どうしてもこれはだめだ。」と思った時、不幸という形のイエローカードで知らせることになる。このイエローカードを偶然のことと考えて放っておくから、2枚目のイエローカードという不運なできごとがまた起こることになる。サッカーではイエローカードは3枚までだが、創造主が渡すイエローカードは際限がない。イエローカードはどんどん溜まっていくことになるのだが、さすがに創造主も嫌気が差すだろう。不幸のレベルを上げてくることになる。言ってみれば、不幸なできごとがひどくなるということだ。最初は愚痴で済むぐらいのできごとも、だんだんとそれがひどくなり、危害に変わってくる。病気なら、最初は風邪程度だが、最後は癌になるような感じだ。どこで気づくかが創造主と人間の根比べとなるが、当たり前だが大概は創造主の勝ちである。あまりにひどい不運な出来事には、人間の肉体は耐えられないからだ。
 つまり、創造主の元へ魂が呼び戻されることで終わる。それが人間の輪廻転生のしくみの一つである。どんなにケンカが強くても、それを自慢できるのは相手が人間だからである。ケンカの相手が創造主なら、だれも勝てない。相手が人間なら勝てるかもしれないが、天災や不慮の事故に勝てる人間はいないのだ。天災までいかなくても、自分に起こった嫌な出来事ですら勝てない。ケンカがいくら強くても意味がない。どんなに屈強な心の持ち主でも、不幸にはなかなか勝てない。不幸が続くと挫けてしまうのが人間だ。
 しかし、勝てる人が2種類存在する。ひとつは、世の中のしくみを理解し、それを受け入れて日々を過ごす人だ。不幸や災難は創造主の「お知らせ」であり、その都度きちんとそのお知らせの理由を考えて反省する人だ。こんなタイプの人は本当に希だ。大概目立たずにつつましく生きている。世の中のしくみを知っていても、ひけらかすことはしない。いつも笑顔で穏やかに生きている。周りに多くの人が集まるから、探すのは簡単かもしれない。がしかし、間違ってはいけないのは、宗教の教祖だ。教祖には多くの人が集まるが、なんかきな臭いよな。アニキの調査では、本物じゃない人がいる。大きな声では言えないが、お金を要求する宗教は要注意かもしれない。そう、金の匂いがする教祖には要注意だ。そんな教祖はある意味、人間の仕掛けがわかっている。わかってそれを金儲けの道具にしている節がある。そこがアニキには許せないが、ついてゆく奴にも問題がある。まあ、宗教の自由の国だから、自分で考えて本質を見抜いてほしいと思う。宗教に関しては、アニキは言いたいことが山ほどあって切りがないので、まあこの辺でやめておこう。

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人間の仕掛け(4/7) ~イエローカード~ [哲学]

 つまり、人間に仕掛けられているしくみに耳を傾ける必要があるということだ。そこには必ず規則性があり、偶然で起こったことは単なる偶然ではなく、なんらかの法則に基づいて働いていると考える習慣を付ける。例えば、友達と横に並んで歩いている時、自分の頭にボールが当たったとしよう。それがなぜ友人ではなく、隣にいる自分だったのか。なぜ、ボールが通るそのコースにちょうど自分の頭があったのであろうか。しかもボールは1個である。何十個もボールが飛んでいたなら、1個ぐらい自分に当たることもわかるのだが、飛んできたのはたった1個だ。なぜだ?なぜなんだ、これは?
 そこで冷静になれば、出来事のそのすべてに法則性があり、必然的に起こっていると考えて、本質を探ることができる。たぶん、出来事を外から見ただけでは偶然にしか映らないだろう。ボールが当たったという事実だけをとらえて考えていると、しばらくすると、今度は犬の糞を踏むという不運に見舞われる。その時にまた新たなものが見えてくる。またしても、不運はとなりの友人ではなく、自分に起こったという事実だ。しかも連続で嫌なことが起こったことになる。すると、度重なる不幸の偶然は、実は偶然ではないことがわかってくる。不運は起こるべくして起こっており、2回も連続して起こるということは、さらなる不幸はまだ起こる可能性があるということにも気づくべきなのだ。そこで一旦、地に足を付けて考えてみることが必要となる。不幸の連続で気が立っている状況では、冷静な思考は働かず、正しい判断はできない。この不幸の連続は何なのか?なぜ自分によくないことが起こるのか?そういう考え方を展開することにより、物事の本質を見抜く眼を鍛えて、考えてみる習慣が必要なのだ。そうしないと、不幸の連鎖は永遠についてまわることになる。何かを変えないと何も変わらない。これが真理ではあるが、その前に「なぜ?」がわからないと、変えようにも何を変えたらいいのかがわからない。
 なぜ?を追求すると見えてくる事がある。それは、「不運とは、だれがどういう目的において起こしているのか?」ということだ。アニキ哲学でもよく話しているからわかっていると思うが、「お知らせ」だよな。何のお知らせかと言えば、「イエローカード’」だ。そして、だれからのイエローカードかというと、人間の創造主だ。つまり、不運な出来事は創造主からのイエローカードなのだ。

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人間の仕掛け(3/7) ~すべては必然~ [哲学]

 まず、よく考えてほしい。世の中の大前提として、「すべては必然」だということを理解すべきだ。ここが一番肝心なところで、まさに、すべての現象を語る上での原点だ。つまり、「この世に偶然なんてことはない」と考えるべきなのだ。偶然に何かが起こったと感じたなら、そこには必ず必然性がある。その必然性を探ることからはじめなければならない。天災や災害についての必然性は、話が反れて長くなるので、また後日ブログで話そう、今は省く。ここでは、個人的に起こる偶然の問題について、深掘りしてゆこう。まずは他人のことより自分事だよな。自分の人生を豊かにすることの方が先決だからだ。明日も食えない人が、世の中の恵まれない人に募金なんかしないだろう。それと同じだ。まずは、自分が食え!だ。これは世の摂理だ。贅沢しろとは言ってない。明日も食えて、風邪引かない程度の雨風を凌げてから、募金しろよということだ。話が逸れるから戻そう。まずは個人に起こる偶然の出来事だ。
 そして、この個人的な偶発的な出来事が起こった時に、ぜひ注意を払ってもらいたい。少し立ち止まってよく考えてほしいのだ。「なぜ今、この出来事が起こったのか?」と。そして、「人生なぜなぜ」を行ってほしい。例えば、満員電車で足を踏まれたとしよう。アニキの友人でも、過去に電車で足を踏まれた奴がいた。そのとき、足を踏んだ奴から、「なんで、俺が足を置こうとする場所に、足を置くんだ!」と怒られ、アニキの友人はすかさず、「すみません」と謝ったというエピソードを、過去ブログに紹介したことがあるのを覚えているだろうか?そう、どう考えてもこの話は理不尽なのだが、そこはさておいて、問題は、「なぜ、その友人がそんな奴に絡まれたのか?」というのが重要なのだ。電車で立っている隣の人には全く被害はない。そう、たまたまそんな理不尽な奴の隣に、アニキの友人が乗り合わせただけなのだが、これを偶然と片付けてしまってよいのだろうか。じゃあ反対に、これが必然と考えてよいのだろうか?生まれる前に、足を踏んだ奴と、足を踏まれるような約束をして生まれてきたのだろうか?
 するとそこから、人間に元々仕掛けられたとしか言いようがないしくみが浮き彫りになる。そのしくみとは、巧妙に人間に仕掛けられており、その目的は「魂の成長」なのだが、非常に手の込んだ仕掛けだ。魂を成長させるために、なぜそこまでして人間の創造主は細かい仕掛けを作ったのか?わざと分かりづらく、わざと苦労させるように作っていることが見えてくる。人生とはまさにこの仕掛けを見抜くことであり、悟りとは仕掛けを見抜いた人のことを言う。悟りとは、べつに行者が荒行で身につけるものではない。人間の本質さえわかっていれば、そのあたりのおばさんや兄チャンだって悟れる。そのためには、人間の本質について深くじっくりと考える必要がある。ここが哲学と結びつくのだ。


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人間の仕掛け(2/7) ~目に見えない力~ [哲学]

 すべての災害や事件は、進んでいる方向や努力の方向性の間違いに気づかせたいがために起こる。偶然のように見える事件でも、実は起こるべくして起こっているのに、人は全くそこに気づかない。大概は、「運が悪かった」とか、「偶然が重なった」ぐらいの理由で済ましてしまう。そして、同じ災害や事件を繰り返さないために、予防や対策を施すだけで、そんなに深くは考えない。起こった原因についても、物理的な原因追及のみで、「なぜこのタイミングで自分に起こらなければならなかったのか?」までは調べない。調べてもわからないからだ。真の原因は他にあるのに、結局は対処療法だけで終わる。科学者は検証可能なことしか調べられないからだ。
 アニキはいつも話していることだが、実は大事なことは、「それがなぜ起こったのか?」ではなく、「なぜこのタイミングで、しかもそれが自分に起こったのか?」だ。それを考えるには、物理的な要因だけでは検証できない。それを説明するには、スピリチュアルな要素を考慮しなければならない。しかし科学者は、スピリチュアルな要素が加わると、お手上げだ。全く手が出ない。なぜなら、それは実証できないからだ。実証できなければ、その理論を使ってはいけないのが科学者だ。科学者も個人的には仮説を立てているはずだが、裏付けの証明ができないから発表できない。しかし、真の根本原因はスピリチュアルの世界にあることは、うすうす感じ始めている。そこに話を持って行かないと、この世の現象すべては説明できない。目に見えない力がこの世を動かしているという事実だ。この領域になると、科学者は手の施しようがない。がしかし最近、目に見えないエネルギーの存在を研究し、実験によりその存在を証明している科学者も増えてきつつある。そうなのだ、「目に見えない何かの存在が、意図的にいろんな事件や災害を引き起こしているのではないか?」という途方もない仮説が、実はまかり通ろうとしている状況でもある。「スピリチュアル?うさんくさい」というのが現実社会であろうが、うさんくさいとフタをしていたものに、真実が眠っているのだ。
 まあ、そんなことはどうでもよい。アニキ哲学は、生き方の道理とスピリチュアルの融合だ。この精神に乗っ取って仮説を立てていくしかない。答えがないなら、自分で探すしかない。アニキ哲学は、「それが実証できなくても、矛盾がなく腑に落ちればそれが真理」という軸で判断してゆく。

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人間の仕掛け(1/6) ~人類の愚かさ~ [哲学]

 なぜか毎日、自分の思い通りにならないよな。周りにはうまくいってそうな奴らがたくさんいるのに、なんで自分だけうまくいかないのだろうか?なんか理不尽なんだよな。というような感じの若者が実に多く見受けられる。若者だけじゃない、けっこうサラリーマン経験も長い人でも、こんな感覚で日常を過ごしているように見える。
 なぜ思い通りにならないのか?なぜ理不尽な世の中なのか?こんな感じで生きていると愚痴りたくもなるだろう。では、みんなはこの世が理不尽である訳について考えたことがあるか?思い通りにならない人間関係や物事、なかなか実現しない願望、数え上げたら切りがない。人類の歴史においても、これらはずっと起こっていた。故事成語やことわざなどを見ればわかる。因果応報や万事塞翁が馬、棚ぼた、自業自得など、思いもよらないあまりよくない事件を表す言葉は実に多い。そう、思い通りにならないことや理不尽な事件は、人類の歴史と共に過去からある。原始人の頃は別にして、文明と呼ばれるものを営んできてから数千年も経つのに、人間はこの理不尽さを未だに克服してないのだ。文明や科学のように目に見えるものは発展してきた。生活も豊かになった。しかし、心は全く豊かになっていない。
 物質的な不足から理不尽さや不満が起こっていると人間は考えた。だから、一生懸命に文明や科学を発展させてきた。国が豊かになれば、心も満たされるという思いがあった。個人レベルでも同じだ。貧乏だから、お金がないから不幸であり、思い通りの人生を歩めない。そこで、自分や自分の家族の生活を豊かにすれば、心も満たされると思い、一生懸命に働いてきた。そして個人的には豊かになっても、満たされない人達が多いことだ。家族を豊かにするために、家庭を犠牲に仕事してきた結果、お金はそこそこ残せるようになったものの、家族の心はバラバラになり、家の中は相変わらず殺伐としている。「お金のない頃の方が、家族がみんな仲良かったんじゃないか」と、自分のとってきた行動のジレンマに悩まされる。結果、心がちっとも満たされない。だから親父は空虚なその心を満たそうと外で遊ぶのである。これが現実だろう。それを何千年も繰り返してきたのが人間だ。
 そろそろ気づくべきだろう。「あれっ、おかしいな?」ということに。「やり方が間違ってんじゃないのかな?」と。そろそろ、「実は、努力の方向が間違っているのでは?」との疑問を持つことが必要なのだ。しかし、だれもこの部分にはメスを入れない。すべては、努力の方向が間違っているから、思い通りにいかない。それなのに、そんな状況に耳を傾けないでさらに突き進むから、ついには理不尽な事件が起きる。アニキ過去ブログでも何度話しているように、進む方向が正しくないと、見えないブレーキがかかる。方向の間違いに気づかせようとする警告やシグナルが出る。個人レベルでの警告が「思い通りに進まない」ということ。国家レベルとなると、警告も大きくなり、天災や大災害となる。
 つまり、個人レベルでの理不尽なできごとも、天災や大事故も起こるべくして起きているのだ。すべては偶然のできごとではなく、必然的に起こっていることに、人類は未だに気がつかない。数千年も経つというのに、誠に愚かと言わざるを得ない。

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創造主と神様(3/3)  ~システムの自動化~ [哲学]

 優等生の魂の課題は、世の中の人々を導くことだ。これを創造主と約束してこの世に生まれてきた。それだけじゃない、自分(神様)の死後もその教義が継続するシステムの構築までも課せられている。アニキ達のような一般ピープルの魂は、自分のことだけで精一杯なのに、神様の魂は世の人々を導くという課題をこなす。さらに、自分の死後永遠に継続するシステムの構築までも要求されている。きついなんてレベルの課題ではないはずだが、教祖は文句も言わず淡々と実行してゆく。さすが優等生だ。機械の目指すところが永久機関であるなら、心の永久機関が宗教である。つまり、「人の心を導くシステム」の自動化である。いちいち教祖があれこれ言わなくても、弟子達やさらに孫弟子達が自然と引き継いで、人々を自動的に導いてゆくシステムだ。何ともアナログ的な行動ではあるが、優等生達は「人間の導きはアナログでないとうまくいかない」ということを知っているのだ。アニキ哲学でもよく、幸運の自動化や感謝の自動化などを強調しているが、あくまでも個人レベルの運のよさを目指すのみだ。優等生の自動化はレベルが違う。宗教というシステムを用いて、最終的に永遠の自動システム化を目指している。
 システム自動化では、小さなほころびや少しのズレも許されない。完璧さが求められるが、そこは神様も人間のはしくれだ。多少のズレも起こるだろう。しかし、ほんの少しのズレでも何百年もの月日を経ることにより、そのズレは少しずつ大きくなる。ズレが大きくなりすぎると、システムの崩壊を招く。宗教における宗派の分裂や争いは、まさに過去の小さなズレのなれの果てだ。現代においてもなお、戦争や紛争を引き起こす。そう、システム自動化の難しさから、見ての通りどの宗教の神様もクリアしていないのだ。
 神様の魂は自分の死後には、弟子にその思想を引き継いでゆくが、受け継ぐ側は神様のような優等生ではないから、そこから新たなズレが生じる。その繰り返しにより、宗教は分裂し、教義も分かれてゆく。そのことは神様も生前からわかっているはずなのだが、有効な手段は未だ講じられていない。それは、各宗教が未だに争っている姿を見れば明らかだろう。本来は人々をよい方向に導くのが宗教なのだが、こうも多岐に分裂していると、収拾が付かない。死んだ神様は、次回の転生の機会までにさらなる作戦を練っている。いつかはわからないが、再度この世に自動化のチャレンジに来るはずだ。後世までぶれない自動化システムの構築を目指して何度も来るだろう。そのうち現れるぞ、とんでもなくパワーアップした神様達が。優等生の魂とは、とんでもない課題にチャレンジしているのだ。
 神様は創造主が作った人間だが、とんでもなく優秀になってしまった魂だ。優秀になるまで、何回輪廻転生を繰り返したかはわからないが、我々一般ピープルだって神様になり得る。そこまで何千年かかるかわからないが、いつかそういう時が訪れることになるはずだ。その時、君たちは、虫から初めて人間になった未熟な魂達を導くのが仕事になるのである。「そんなの、いやだ!」と思っている人は、まだ自分が未熟なレベルの低い魂だからそう思うだけだ。何度も転生を繰り返すと魂のレベルは上がり、いつの間にか「人々を導くこと」が楽しくなってくるのである。

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