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人生の準備期間「学校」(8/17) ~アメリカの罠(1)~ [哲学]

 当時の坊さんは知っていた。運がよくなるには心が重要だということを。だから、心を鍛えることを教えた。そういう意味では、坊さんが先生として適任だった。坊さんは算数や理科なんかはわからない。そんなものはただの特殊技術にすぎないから、自分でやればいいというぐらいの扱いだ。人として重要なことは、何より「心」だ。学校の始まりはお寺で、先生の始まりは坊さんだ。それが日本の学校のルーツである。

 そう、学校とは元々、勉強を教えるところではない。心を教えるところだったのだ。だから、昔の日本人は心が豊かだった。アニキ過去ブログでも日本人のすごさを話してきたよな。「日本人の偉大さ」「仕事と作業」で紹介したはずだ。日本人の「道(どう)の精神」や戦後の急速な復興、さらには根に持たないサッパリした性格などで現在の地位の日本の地位ができあがっている。
 話は逸れるが、なぜ日本が今低迷しているのか知っているか?なぜ日本は、戦後の復興の勢いのまま突っ走ることができず、失速してしまったのか?これはすべてアメリカの罠にはまったためだ。そこはさすがアメリカだと言っておこう。
 実は、太平洋戦争で負けた日本という国をアメリカはなめきっていた。白人はアジア人なんか屁とも思っていない。白人は、世界で一番優秀な人種は白人だと思っている。今でも心の中の本音はそうだ。有色人種を心の中ではバカにしている。それを表に出すと、人種差別だとかなんだかんだでうるさいから、言わないだけだ。というわけで、日本人をなめていたものだから、戦後復興においてもそんなに締め付けずに、心は自由にさせていた。個人個人を見たら、アメリカ人よりも小柄だし、性格も温厚で飛び抜けた人物もいない。東洋人は欧米人に比べると脳が小さいと馬鹿にした。大したことないなと、高をくくっていたわけだ。そうしたらどうだ。みるみるうちにアメリカに近づくまでになった。アメリカは焦ったよな。大したことがないと思っていた日本人が、ヨーロッパの先進国も抜いてきたからだ。同胞である白人を抜いてアメリカに迫るその勢いは、チョット生意気だなと感じたわけだ。
 ところがアメリカはプライドが高い。直接的に手を下せば、世界から弱い者いじめとか、英雄の国がかっこ悪いとかの評価を受けてしまう。アメリカは世界が憧れる国でなくてはならないから、表だって手を下せない。そこで、罠を仕掛けて長期的に日本を堕落させようという作戦に切り替えた。貿易関税だとか法律だとかの直接的な制裁ではない。日本人の心を揺さぶる作戦を開始したのだ。アメリカは日本人というものを研究した。そこで出た結論が「心」だ。日本人は心がすごいということがわかった。心のすごさは脅威であることを、アメリカは知っていた。だから、アメリカは心を鍛えるために、キリスト教を奨励している。銃を持ってもいいような自由の国に心がなければ、それこそ無法地帯だ。北斗の拳の世界がリアルに存在することになる。
 だから、日本以外の諸外国は、宗教がなければ無法地帯となる可能性が高いのだ。

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人生の準備期間「学校」(7/17) ~昔の日本の「運」教育~ [哲学]

 中学校を卒業したら、大海へこぎ出す奴がいるというのに、何の武器も持たせないで行かせることは、見殺しにするのと同じだ。前途を期した旅立ちではなく、やっていることはまるで流刑だ。武器も持たずにリアル人生ゲームで勝てるわけがない。だから、武器を持たせて旅立たせるのが学校の役目なのだが、小手先の技能ばかりに注目するものだから、肝心の心が疎かになる。心の成長に教育の焦点を当てないでどうするのだ。親は、自分の子どもの心が全く成長していないことがわかるから、進学しろというのだ。親は、もう一つ上の高校へ行かせて、心の成長を願う。創造主もまた魂がカワイイから、心が育ってないなら、自然と進学の道を選ばせることになる。
 そう、だから人生最大の武器である運を手に入れて社会へ出ることが理想だ。だが、運とはアウトプットだ。直接鍛えることはできない。運というアウトプットを出すためには、インプットである心を鍛える必要があるのだ。これができてないまま社会に出て行くものだから、大人になっても運のない奴がどれほど多いことか。それで、世の中が荒むことになる。
 結局、小中学校では競争ばかりに目がゆく。この教育を変えるためにまず必要なことは、先生の質だろう。子どもに心を教える先生の心がどうなのか?という問題だ。教える人間がわかってなければ、それを教えることはできない。今の先生は、社会で最も大事な技能は「運」で、それは「心」を育てなければ手に入らないということを知らない。それは、本人もそういう教育を受けてきていないからだ。だから、別に先生に責任はない。今、エラい誰かがこの教育の流れの過ちに気づき、これからどうするかということが重要だ。日本を運の悪い奴らの巣窟にする前に、気づかなきゃダメだ。正直、これは陰謀かもしれないとも感じる。
 その答えは日本の過去を見ればよい。まだ日本が西洋の影響を受けていない頃だ。その当時は日本独自の文化で教育を行ってきた。その元は仏教だ。そう、仏教こそが日本の教育の源泉だ。アニキは特に仏教を奨励しているわけではないが、仏教など宗教がベースにあると、必ず心の教えから始まる。宗教の教育は、それを受け取る人間の器を整えるところから始まるからだ。仏教がベースにあるなら、そこには、科学的に証明されている事実を踏まえる必要性はなかった。なぜなら、仏教はお釈迦様の教えであり、それが科学的に証明されているかどうかなどは愚問だ。「そういうものだ」ということで、疑問を持つなど誰も考えなかった。仏教の教えが胡散臭いと思う人は、野良仕事に精を出し、勉強などしなくても生活できたから、近づかなければよかった。そして庶民は学校で物事を学んでいった。学校って昔からあったの?と思うかもしれないが、学校は昔からあった。
 昔は寺で勉強を教えていたのだ。奈良時代から面々と作られてきたお寺の目的、それは学校だ。寺とは元々学校だ。寺は死んだ人にお経をあげてもらうだけの場所ではない。庶民やその子どもに勉強を教える場所だ。当然、先生は坊さんだ。坊さんは、仏教やお経を勉強してきているが、そのことを教えるわけじゃない。お釈迦様からの教えを、世の中でどういう風に使うのかということを教える。そして、それをすることにより「運がよくなる」ということを教えていたのだ。

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人生の準備期間「学校」(6/17) ~リアル人生ゲーム~ [哲学]

 「運が良くなる」ことが人生で一番大事なことだろ。それなら、学校でそれを教えてゆくことが最も優先順位の高いことだ。そのために、「素直さ」「感謝」「優しさ」を教えてゆくことが絶対だ。それなのに、「そういうものは自分で学べ」「家庭で教えろ」というような世の中のスタンスだ。

 幼稚園では、先生から挨拶などを教わる。先生の言うことをきくという「素直な心」を学。そして、友達に対して注意したり、いたわったりという「優しい心」、ありがとうという「感謝の心」を学ぶ。そこで、心に広がりができる。なのに、小学校ではその心の広がりをさらに大きくしようとせず、そのまま固まらせてしまう。つまり、せっかく幼稚園で心のストレッチを終えたのに、そこで心を鍛えないものだから、また心が固くなってしまったり、縮んでしまう子どもも多いのだ。心も筋肉も伸び縮みさせなければすぐに固まる。世の中の柔らかい物はすべて、動かさないと固まるという性質を持つのだ。心は手で触って伸び縮みさせることは不可能だ。だから、外側から力を加えてやるのだ。それがプレッシャーだ。プレッシャーで心を鷲掴みにして、揉んでやるのだ。で、固い物をいきなり揉んだらどうなるかわかるよな。そう、ひびが入って壊れてしまう。だから、柔らかいうちにもみほぐし、さらに柔らかく大きく広げてやる。こうすることで、より大きなプレッシャーにも耐えられる。心の病はすべて、大きなプレッシャーでガチガチの固い心を揉んでしまうことで起こるのだ。

 社会に出たら、見たこともないような大きなプレッシャーの連続だ。それに対する耐性がないと、簡単にひねり潰されてしまう。大海にこぎ出した瞬間から、「リアル人生ゲーム」が待っているからだ。卓上での人生ゲームとはわけが違う。おもちゃのお金や債券が飛び交うのではなく、現ナマが飛び交い、そこに人間関係からむ。うまさにリアル。このリアル人生ゲーム上をサラリと進んでゆかねばならない。そのためには、ルーレットの目の出し方が最も大事なことだと、子どもの頃「人生ゲーム」で学んだはずではないのか!貧乏農場行きは、すべてはサイコロの目が決めた。人生ゲームでは進むスピードも重要だったよな。そう、スピードもサイコロの目だ。だからアニキは過去ブログ「サラリーマンの武器シリーズ」でも、その第二番目に「サラリーマンの武器スピード」を紹介した。

 卓上人生ゲームでは、ゲームにおける技能などなにもいらない。すべてサイコロの目だ。良い目を出せや奴が勝った。つまり、運のいい奴だ。リアル人生ゲームには努力は必要だが、最小限の努力にしたいはず。ならば、まずは好きな目を出すことができる技能である「運」だろう。欲しいサイコロの目を出せなければ、人生回り道もしくは貧乏農場だ。そんな簡単なことに文部科学省は気づいていない。

 アニキは言う、すべては「運」だ。だから、小中学校で心を育てなければならない理由はここにあると。

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人生の準備期間「学校」(5/17) ~人生で最も大事なもの~ [哲学]

 人間の創造主が一番嫌うことは、「心をいじめる奴」だ。いつもアニキは言うが、アニキ哲学の重要な部分だから、よく理解してくれ。自分とは、肉体ではなく魂だ。で、心とは魂の意識だから、心とは魂だ。魂は創造主が作るから、魂は創造主の子どもだ。つまり、魂の親は創造主だ。

 前回も話したが、今一緒住んでいる親はカラダの親で、子どもの本当の親は創造主なのだ。いじめられると親は怒るだろ。それと同じで、創造主にとっては、心をいじめる奴は、自分の子どもがいじめられていることになるから、それを平気でする奴とそれを見過ごす奴は許せないのだ。創造主ができることは二つ。ひとつは運を悪くすること。そして、もうひとつは呼び戻しだ。運の話は、また後日ブログ「運」のところで詳しく話すが、「呼び戻し」はもうわかるな。魂が魂の故郷へ呼び戻されるわけだ。

 では話を戻そう。前回の終わりに話した「自分の心だけじゃない、他人の心を伸ばしてやる」ということの意味はわかるか?誤解しないでほしいのは、やみくもプレッシャーを与えることではない。自分の心はプレッシャーで育てる。プレッシャーの克服が成長だ。他人の心を伸ばすというのは「優しさ」だ。プレッシャーから救い出すことではない。せっかく成長のチャンスを掴んだのに、そのプレッシャーを他人が取り除いてはダメだ。プレッシャーを和らげてやるのが優しさだ。ここではき違えてはならないのは、甘さは優しさじゃないということだ。この概念の違いは、アニキ過去ブログ「『優しさ』と『甘さ』」を読んで、本当の優しさを与えてやってくれ。

 な、小学校から中学校という場所は心を磨くところだ。心が凝り固まった状態で社会に出て行くとどうなるか分かるか?ゆがんだ狭い心のまま大人になる。カラダという入れ物だけが大人になっても、肝心の中身がガキのままだ。大人になってからの方が気づきが多くなるが、それはいろんな壁にぶつかるからだ。狭い心のままじゃ、何事もうまくいかないから、「おかしいな?」と気づく。「なぜ、自分だけうまくいかないのか?」とか、「なぜ自分だけ運が悪いのか?」そこで立ち止まり苦労することになる。それはすべて、学校でもっと心についての勉強をしておけばよかったのだ。むかしの日本では、周りの人達が育ててくれた。悪いことは注意してくれた。注意された人も素直にそれを聞いた。昔の日本人には素直さがあった。この素直さも、心の大きな機能のひとつだ。これがなくなると、心に受け入れの準備が全くできない状態だ。自分の固定観念の殻で覆ってしまい、自分が悪いのに注意した人に対して逆恨みするようになる。これをやるから、創造主は益々運を悪くするのだ。でもうひとつ運を悪くする心の機能に、「感謝」がある。そして前述の「優しさ」だ。「素直さ」と「感謝」と「優しさ」が運をよくするのだ。何もしなくても、淡々と人生は過ぎてゆく。だが運があれば、人生を上向かせることができるのに。

 このしくみをなぜ学校で教えないのだろうか。一番人生で最も大事なのは、どう考えても「運」だろう。それ以外にはないはずだ。

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人生の準備期間「学校」(4/17) ~小学校は「心の教育の場」~ [哲学]

 魂を鍛える前に、脳を鍛え上げなければならないが、脳はストレスで鍛えられる。アニキはストレスを「心のストレッチ」と呼んでいるが、まずは幼稚園で軽いストレッチから経験してゆくのがとてもよい。カラダのストレッチと同じで、心地よいストレッチが大事だ。いきなり相撲の股割りなんかさせても無理だろう。それと同じだ。カラダが壊れてしまう。魂だって同じだ。魂を育てるためには、その防御役である脳を育てなければならない。脳はストレスというストレッチによって成長する生き物だ。いきなり過度のストレスを浴びると、防御できずに壊れてしまい、精神に異常をきたしてしまう。だから、適度なストレスから人生もスタートすべきであり、幼稚園で軽いストレスを経験して、次の小学校という重めのストレス社会に耐えられる基盤を作ることになる。

 小中学校は日本人なら大体だれでも行く。義務教育だからあたり前だな。現代は高校・大学まで行く人も多い。通算16年は勉強だ。ここから本当の人生の準備期間が始まる。ある程度、幼稚園で最初の心のストレッチを終えた子ども達は、ほとんど小学校に入学する。ここで勉強を教わったり社会を経験するわけだが、一番大事な心の教育が疎かにされている。小学生から中学生にかけての時期に、最も心が成長する。その時期に、カラダと脳ばかかりを成長させてしまう。算数や理科などの技術は脳を機能的に作り上げるためにはいい。それは誰でもわかっている。体育やスポーツでカラダが作り上げられるのもよいこと。それも常識だ。しかい、その影で疎かなにされているもの、それが心だ。心の教育と言えば、学校では道徳しかないのだが、その道徳についても、「道徳的教育はすべての授業の中でおしえられねばならない」という精神論だけ旗揚げされたような、曖昧な状態だ。今年から見直されるらしいが、受験科目にでもしないかぎり、学校教育の柱とはならないだろう。それに、「道徳の授業だけで心の教育はOKだ」みたいな感覚じゃ、子どもの犯罪は減らないだろう。スマホやネットが広がり、昔では考えられないような心をいじめる犯罪が増えている。特に、心が未熟な子どもにはたまったもんじゃない。子どもは大人のようにある程度社会で鍛えられていない。親が、「我慢しろ、無視しろ」とか、「やられたらやり返せ」的なアドバイスは大人を基準として考えている。柔軟な心がないと、心がちぎれてしまう。

 だから、幼稚園で少し伸び始めた心に、もっと柔軟性を持たせないといけない。それが小学校の役目であり、そこでやらなければならないのは、自分の心だけではなく、他人の心も同時に伸ばしてやらなければならないのだ。そのためには教師のレベルも上げなければならない。そういう意味では、坊さんは心の授業が本業だから、歴史上の日本ではお寺で勉強を教わっていたというのは理にかなっていたのだ。

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人生の準備期間「学校」(3/17) ~初めての社会「幼稚園」~ [哲学]

 前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入ろう。要するに、学生時代までは人生ではない。人生の準備期間だ。ではそのことは、人生においてどんな意味をもたらすのだろうか。順番に見てゆこう。

 学校生活となると、日本では小学校からが義務教育となるわけだが、大概の日本人の子どもは幼稚園や保育園に行く。幼稚園はさらに小学校への準備期間となる。だから、アニキ哲学では学校の一部、すなわち人生の準備期間の一部に組み入れている。生まれて幼稚園に行くまでの間は、家庭中心の生活だから、親の管理の元いろいろ学ぶことになるのだが、親のレベルによってその教えはまちまちだ。過去ブログ「親の謎『親の心子知らず』」「『優しさ』と『甘さ』」でも話したが、親も「親(おや)初心者」だから、子育てに関してはいろいろ迷う。間違っていることも多い。家庭内においては、他人が誰も見ていないから、間違っていてもそれがいいのか悪いのかわからない。だから、子どもが苦労するわけで、早く幼稚園などの社会で磨かれた方がいいわけだ。

 何度も繰り返すが、親とはカラダの親であって魂の親ではない。魂には親はいないのだ。人間は魂が主体であって、カラダはその乗り物だから、親はその乗り物を作ってくれた人にすぎない。自分の乗り物を作ってくれて、それを大きく育ててくれたのだから、そこには恩義は感じないといけない。詳しい話は、過去ブログ「『今世の乗り物』を乗りこなせ」を読んでくれ。とするならば、親も子どもも魂においての上下はない。同格なはずだ。親は子どもよりも少し早く生まれただけで、この世での魂の先輩という位置づけだ。

 だから、先輩であるカラダの親が、人生のしつけをいつまでもやろうとするからおかしくなるのである。先輩は自分のこの世での経験を踏まえてアドバイスしているつもりだろうが、子どもにとってそれが本当に正しいかどうかはわからない。小さな子どもは脳が発達していないから、魂で物事を見るわけだ。親のしつけも魂で見ているから、親の言うことがなかなか理解できない。それは、親が自分の都合で物を言うからだ。だから、子どもには理解ができない。親の言うことが難しいからではない。子どもはその魂で見ると、親の言うことが矛盾だらけだからだ。物心が着く前の子どもが親の言うことを聞かない本当の理由はここにある。

 世間でよく言われる、「子どもは親の言う通りには育たない、親のように育つ」と。だから、早く「人間のしがらみの世界」へ放り出すのが正しい対処方法だ。人生は人間関係を学ぶ修行だと言われている。それなら、「人は人の中で磨かれる」これが真理だろう。幼稚園に行かせる本当の意味はここになる。

 で、日本人の場合、小学校に上がる前の2,3年を幼稚園や保育園で過ごす。子どもにとっては初めての社会である。それまで家で親と遊んでいた世界とは全く異なる。まるで異次元だ。家では王様気取りだったワガママな子どもも、幼稚園ではその自由さを奪われる。内向的な子どもは、いきなりたくさんの子どもの中に放り込まれ、どう対処したらいいのか不安だらけだ。嫌でもストレスが溜まるのだが、それでいいのだ。

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人生の準備期間「学校」(2/17) ~技能がないことが技能~ [哲学]

 「技能がないことが技能」について補足しよう。
 野球やサッカーだけが技能ではない。例えば、代々続く老舗の企業やお店の跡取りとして生まれること、これも技能だ。跡取りとして生まれたなら、それだけで人生の選択肢はない。職業選択の自由はない。生まれた時すでに、将来のレールが敷かれている。跡取りという技能を、生まれた時すでに持っているからだ。だから、アニキ哲学においては、技能がある人は残念だと言う。それが目の前に立ちはだかり、それ以外の可能性をなくしているからだ。まあ言ってしまえば、跡取りはそういう星の下に生まれたことがデメリットであるけれど、それを決めて生まれてきたのは自分自身なのだから、哀れむ必要はない。アニキ哲学では、「自分の人生は自分で決めて生まれてきた」というのがある。生前に親を選んで生まれてくるという説が今は主流だ。アニキもこの立場を取るから、老舗企業の跡取りという不自由な状況も、自分で選んだのならしかたない。それでプラスマイナスちゃらである。何のことはない、世の中は平等にできているのだ。

 じゃあ、技能があることは本当にデメリットなのか?ということだが、確かにデメリットでしかない。いまを時めくサッカーを例にとってみよう。子どもの頃からサッカーが上手だからと、プロを目指してしまい、運悪くプロになれてしまったら、それは悲劇なのだ。ワールドカップに手が届くレベルの技能がある選手はよいが、プロの世界では日の目を見る人はごく一握りだ。大概は、スピンアウトする。しかし、ずっとサッカーしかやってきてないものだから、他へのつぶしが利かない。サッカー関連の仕事にしがみつくしかない。だから現在問題となっているのが、Jリーグで芽が出なかった選手の再就職先がないことだ。プロを辞めても、サッカー関連の仕事に就くことすらできない。少年サッカーチームのコーチぐらいしかない。そこは、給料もメチャクチャ安い。でも、仕方ない。さらにだ、今のご時世は少年サッカークラブが乱立して、子どもの取り合いだ。サッカーコーチも、子どもを勧誘してインセンティブをもらうことで稼いでいる。サッカーしかしてこなかった人達が、営業をやらされているわけだ。だから、Jリーグの各チームでは、資格取得の斡旋や一般サラリーマンへの転職斡旋がさかんに行われている。芽の出ない選手達には早いうちから転職を薦めているのが実態だ。この状況は、サッカーに限った話ではない。プロスポーツ界はどこでも似たような状況だ。ただ、選手人口が多いサッカーにおいて、社会問題が顕著化しているだけだ。

 な、中途半端な技能があるより、何の取り柄もない人の方が幸せだろ。だから、自分にはなんの取り柄もなければ、そのことにガッツポーズすべきなのだ。「俺には、何の取り柄もなくてラッキー」だと。「何の技能もないこと」がどれだけ有利な技能なのかということだ。友達の中で、スポーツができるだとか、勉強ができるだとか、そんなくだらない技能をひけらかす奴がいたなら、「かわいそうに」と言って同情してやればいい。

 そして、貧乏な家に生まれたら、いろんな可能性にチャレンジできることに感謝して、それを喜べ!

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人生の準備期間「学校」(1/17) ~人生は大海~ [哲学]

 人は生まれて学校へ行って勉強し、社会人となる。大概の日本人はそのルートを辿る。アニキ哲学では、人生は社会人から始まる。人生は海である。そこはまさに大海だ。その大海へ船で単身こぎ出すことが人生だ。だから、学校は人生とは言わない。学校は人生という海を渡るだけの準備をする期間である。ここをはき違えたらいけない。学校も一つの社会だから、人生は学校も含まれるんじゃないかと思うかもしれないが、そこは混同してはいけないのだ。基本的には同じでもかまわないのだが、人生から学校を分離することの方が理にかなっている。だからアニキは分離する。

 例えば、学生時代にスポーツや勉強でかなりの技能を発揮した学生がいたとしよう。学校からが人生であれば、自分の得意な技能をそのまま社会人に生かすことが得策じゃないかと考える。しかし、学生が人生ではなく、ただの準備期間だと考えるのであれば、社会人になるときに、その得意な技能は社会に出るのに必要なのかどうかを冷静に判断できる。社会という大海への船出の時、必要な装備をリストアップして積み込むわけだが、そこで要るのかいらないのかを立ち止まって考えることができる。学校は人生の準備期間であると考えるなら、学生時代の技能に縛られることなく、社会に出ることができる。

 大概の学生は、何の技能もなく大海へ出て行く。技能が何もないから、いきなり大企業という大船に乗り込み、そこで下働きしながら航海することを選ぶ。自分の仕立てた小舟では、嵐になった時にはひっくり返ってしまうからだ。大船には何百人何千人という人が乗っているために、なかなか出世も難しいのだが、嵐にはめっぽう強い。船が大きければ大きいほど、外が嵐だということさえもわからない。大きな船での下積みをすることにより、自分の適性や能力を発揮できる場所をじっくりと探ることができる。これが、大船に乗るメリットだ。意外に居心地がよくて、ずっと最初の船に乗っている人もいる。しかし、大船が楽だからと手を抜いていると、大船から小舟に乗り移らせられてしまうかもしれないから、そこは気をつけなければならない。

 つまり、アニキは何が言いたいのかというと、実は、人生という海に出ていくのに、特別な技能は要らないということだ。人生は社会人からがスタートであり、学生時代は準備期間であると意識して、日々を過ごす。そうすると、無理に自分の適性を探す必要はないし、嫌いな技能を無理に磨くとこもない。「幼稚園⇒小学校⇒中学校⇒高校⇒大学」と、目の前の課題に集中して行動すればいいのだ。勉強が嫌いだから、大学行くのが嫌だなと思っても、大海へ飛び出す準備が出来ていないと思うなら、あえて高校や大学まで進んで時間を稼げと、いうことだ。大学行くのは親の為じゃない、自分の為なのだ。大学で充分な時間と余裕を確保する。それを使って、自分の人生をどうスタートさせるかを考える期間である。社会人になってから技能を磨いても遅くはない。

 実は、「技能がないことが技能」であり、そのメリットはとてつもなく大きい。それは、学生時代の技能に縛られることがないために、どんなことにもチャレンジできるからだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(11/11) ~会社は誰の物?~ [哲学]

 クリスマスキャロルという話をご存知だろうか。中学か高校の英語の教科書に出てきたよな。この話は強制的に完全変態させる話だが、こんなことは現実には起こらない。特に、右上がりで伸びている会社のオーナー社長は、己の力に慢心しており、だれの意見も聞かなくなる。自分がすべて正しいと思い込んでおり、それに意見する者は悪であり遠ざける。だから、人の意見を聞かないオーナー社長は、自分で気づくしか道はないのだ。急成長した会社のオーナー社長はさらにその傾向が強い。氷山に向かって突き進む船の船長に御注進したところで、「うるさい、俺の進路に間違いはがない!」と一蹴されてしまうのがオチだ。そして、氷山に突っ込むのだ。だから、それがわかっている従業員は早々に船を下りるだけの話だ。大体、10~15年ぐらいで終わる会社は、理念や行動哲学がなく、そこで働く従業員の「立場の心」もわかってないバカ殿が指揮する会社だ。

 人数が増えると、会社は別の生き物になる。10人の会社と100人の会社は全くの別物だ。そして、100人の会社と200人の会社でも全く違う。要するに、人数が異なると会社はその様相が変わるため、それに見合ったような組織作りが必要になる。組織だけではない。社長と末端の従業員との思いがひとつでなければ、会社ではない。それは、ただの群れである。だから、そこに魂を吹き込む作業が一番重要な仕事となる。

 繰り返すが、そのためには従業員による「会社の心」と、社長による従業員の「立場の心」という相互理解が不可欠なのだ。そのベースがあって初めて、魂を吹き込むことが可能となる。そして盤石な組織となる。100年も続くオーナー企業はこれがきっちりできているはずだ。

 会社はオーナーである社長ものではない。社長のものであるとしたならば、それは起業した直後の状態までの話だ。そのあとの会社とは、社長とその従業員とで作り上げて発展したものだ。だから、会社が機能しているのであれば、それはもう社長のものではない。確かに法律上は社長のものかもしれないが、そんな意識では従業員はついて行かないだろう。アニキに言わせれば、社長はただの出資者にすぎないのだ。会社とは、「そこで働く人達と、彼らが作り上げた機能」だ。社長一人で会社を大きくしたわけじゃない。従業員がいなければ、会社は大きくなっていなかったはずだ。ならば、「それを作り上げた従業員そのもの」と、その彼らが作り上げた結果、すなわち「今存在する会社の機能そのもの」が会社であろう。俺がオーナーだと気取っているような社長がいる会社じゃ、「立場の心」がわかってない無能社長だ。「絶対に将来破綻する!」と、アニキは太鼓判を押す。だからそうなる前に、オーナー社長は「完全変態」を遂げなければならないのだ。

 何度も言うが、オーナー社長という生き物は、「会社は自分のものである」というゆがんだ心を持ったがゆえに、人と区別されてしまうのだ。さらに、企業理念を疎かにし、本人の行動哲学もないような状態だから、「珍獣」と言われてバカにされるのだ。

 アニキは別にオーナー社長をこき下ろす事が目的ではない。アニキは何が言いたいのかというと、オーナー社長が未熟な考えでふらふらしていちゃ困るということだ。社長は、従業員とその家族の人生をも背負っているはずだ。行動哲学もない、企業理念もないなんていうお粗末さで、従業員の人生を背負っていると胸張って言えるか?と問いたい。もっとよく考えてほしいということだ。そうなると、理念・信念を疎かにできないということが見えてくるはずだからだ。

 それは違うという社長がいたら、アニキの前に連れて来い。思いっきり説教してやるから。
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「オーナー社長」という生き物の生態(10/11) ~立場の心~ [哲学]

 見よう見まねで組織をきちんと整備して、階層的な組織を作り、中間の管理者を置くのはいいことだ。しかし、10人の規模の時のように、社長自らが現場の不満や愚痴を聞いてしまうのはよくない。そうなると、中間管理者の立場がなくなるからだ。すべて自分で把握しなければ気が済まないのはわかるのだが、段階組織においては社長が直接口を出してはいけない。末端の従業員は自分の上司である管理者の指示より、当然社長の指示を優先するからだ。中間管理者と社長の意見がぴったり合えばいいのだが、お互い人間だからそんなことはまずありえない。細かい部分では意見が食い違う。すると、中間管理者の意見はないがしろにされるから、当人のモチベーションは極端に下がる。また管理者は、自分がやろうとしていることを強引に推し進めることができなくなる。末端の従業員がそれに反対すれば、社長に直接文句を言うからだ。そうなると管理者は、いちいち社長にお伺いを立てなければならなくなる。
 だから、会社が大きくなり組織ができたのなら、それぞれ管理者にすべて任せなければならない。社長は、末端従業員からの愚痴を聞くのはいいが、聞くだけにすべきで、直接答えを出してはいけない。すべて管理者と相談し、管理者より答えや指示を出すことをルール化すべきなのだ。なぜなら、社長は自分が任命した管理者を信頼してないということになるからだ。そんな簡単なことにも気づかないなら、その社長は真のバカ殿である。
 上記はほんの一例であるが、行動哲学が欠如したオーナー社長はそういう中途半端なことをよくやってしまい、組織が機能しなくなる。行動哲学や理念がないと、「すべては人の心が決める」ということの意味がわからない。人の心とはどういうものなのかがわからないのだ。自分が任命した管理者の心だけではない。従業員それぞれの「立場の心」を理解する必要があるのに、それが何だかわからないのだ。オーナー企業に限らず、組織のトップの重要な業務は、この「立場の心」の理解である。これができないのであれば、実は社長失格なのである。
 だから、有能な社長であるかどうかは、どれだけ早く「立場の心」に気づけたかだ。会社の信念・理念がないと、「会社の心」が末端まで伝わらないし、社長が行動哲学を持って日頃行動してないと、「立場の心」に気がつかない。だから、目に見えない理念や行動哲学がいかに需要であるかということだ。理念や哲学という軸の上を歩いていないと、「立場の心」を見落としてしまう。立場の心に気づけば、従業員の幸せが最も大事であるということや、組織のあるべき姿とは何かということに気づく。そうなった時、社長はアオムシから蝶への「完全変態」を遂げ、名経営者への道が開けることになる。
 これが、社長業の悟りである。

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「オーナー社長」という生き物の生態(9/11) ~「完全変態」を目指せ~ [哲学]

 では、オーナー企業とはどうあるべきか。その正しいあり方をアニキ哲学の観点から見てみよう。企業は生き物だ。特にオーナー企業はオーナーが直接指揮を執れる状態である理想の形態だ。オーナーの意思がそのまま直接会社全体に行き渡るからだ。であるならば、オーナーはふんぞり返っている場合ではない。利己的な考えや慢心が少しでもあると、会社は動いてゆかない。会社の信念・理念を明確化して、社長自身も行動哲学をきちんと持ち、それを行動で周りに見せる。社長は人間的にも正直者であり、公明正大な心を持って、周りから尊敬されなければいけない。そこで初めて会社に魂が吹き込まれる。社長は私腹を肥やしてしいる場合じゃない。我が身より、従業員のことを第一に考えるスタンスを持つべきだ。もしそれが嫌だというのなら、自分は国王のように完全に会社運営から身を引いて、誰かを社長(首相)として立てなければならない。大概、番頭さんと呼ばれるサラリーマンの親玉が首相の役目を演じる。国王であるオーナーは最終実績の報告だけを聞き、その業績に対して番頭に意見する程度でいい。表にはしゃしゃり出てこないのが筋だ。上手く回っているオーナー企業はこれができている。オーナーは出社してこないから、これならどこで何やっていてもいい。平日ゴルフ行ってもいい、愛人宅に入り浸っても、従業員の眼に届かないから、会社はうまくいく。
 ここまで、創業オーナー社長をこき下ろしてきたが、アニキが言うような会社ばかりじゃない。うまくいっているオーナー企業も当然ある。それは、なぜか?それは、ある時期に、オーナーが「完全変態」を遂げたからだ。「完全変態」とは、露出魔とかの変態のことじゃない。虫なんかで、幼虫から成虫になることだ。例えばアオムシが蝶になることが、完全変態だ。学校で習ったよな。完全変態で蝶になった時、アオムシの記憶はないという。詳しいことはわからないが、昔、本で読んだ時には、さなぎの中で脳も一旦分解されて作り直されるから、アオムシの頃の記憶もなくなるのだと言う。要するに、オーナー社長も考え方を180度変えることが必要だと言うことだ。オーナーは生き物のなかで、むしろ虫に限りなく近いのだ。
 最初、どの会社も数人からの従業員でスタートしている。どんな会社も、起業した直後からしばらくは、会社の黎明期だ。そのときは、社長のかけ声ひとつで、社長の思い通りに会社の舵を取れる。そして、会社が軌道に乗り始め、規模は段々と大きくなる。従業員も増えてくる。100人を超える従業員を抱えるようになる。すると、段々と社長の言う通りには会社が動かなくなってくる。いくら社長が檄を飛ばしたところで、末端には社長の意志が伝わらない。そんな状態で、さらに従業員は200人、300人と増えてくる。益々従業員が思うように動かなくなり得、社内にも問題が噴出してくる。で、社長は多くの社内の問題に悩むことになり、社長室へとこもる。


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「オーナー社長」という生き物の生態(8/11) ~年上者を惹きつけろ~ [哲学]

 さらに創業オーナーという珍獣には、大きな問題がある。実は彼らは、自分より年上を使うことができない。大概のオーナー企業はベンチャーからの出発が多い。成熟しきった業界より、新規の将来が期待できる業界だ。そうなると、やはり若い社長がベンチャーとして起業するわけだが、彼らは自分より年下の人間しか使えないのだ。年上の人間をいかに使うかが、オーナーの器量の見せ所なのだが、年上はくだらない若造に簡単には従わない。相当高給待遇にでもしないかぎり若造の下で働く気はしないのだ。年上は、若造社長に対して、「こいつにはかなわない」と思った時初めて従うことになる。昔の武将が参謀を引っ張ってくる時の状況を作ればいいのだが、まあ、難しいだろう。ただの若造オーナーでは、ただのハナタレじじいならついていくかもしれないが、参謀クラスの能力者を惹きつけることはできない。
 じゃ、年上者を惹きつけるにはどうしたらよいのか?それは、「信念・理念」だ。信念のない若造になんか、年上は決してついて行かない。会社の信念・理念だけでなく、社長自身の信念や哲学も重要だ。たとえ信念や哲学があったとしても、それを口で語っただけじゃダメだ。それを行動で見せることができて初めて有能な年上者は仕える。もし、信念がない社長の下で年長者が働いたとしたら、常に社長はその年長者に信念のブレを指摘されることになる。そうなると、年下の若造社長は、小うるさい年上者が煙たくってしょうがない。なぜなら、そんな正論を振りかざされたところで、会社運営において、信念や哲学が何よりも重要だということが、珍獣には理解できてない。有能な年上者は、すべての物事は信念や行動哲学に照らし合わせて遂行されなければならないことがわかっているから、そんなこともわからないひよっこ社長に、物事の本質を教えたくなる。そんなことでは、若手社員に対してもメンツ丸つぶれだ。だから、プライドが高いオーナー社長としては、口うるさい年上者には居て欲しくない存在となる。
 だからアニキは言う、「年上者を使い切れないオーナー社長は、ダメ社長だ」と。ホンモノのオーナー社長であれば、年上者をねじ伏せるだけの力量を持ち、難なく年上者を使いこなす。だから、若造オーナー社長の下で働く社員はすべて年下という状況は、対外的には好ましくない。自分がダメ社長であるということを周りに知らしめているだけだ。会社の形を成してはいても、実態は会社ごっこだ。ベンチャー企業は往々にして平均年齢の低さをアピールして、若々しい会社だというイメージを出しているが、その裏を返せば、「年上は使えない」という小者社長の存在が隠されているのだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(7/11) ~珍獣「創業オーナー」~ [哲学]

 前回言い忘れたので付け加えておきたい話がある。実は、オーナーにも2種類存在する。創業オーナーと2代目以降の引き継ぎオーナーだ。第1話で話したお坊ちゃんオーナーは、2代目以降引き継ぎオーナーに分類される。引き継ぎオーナーは、父親社長が健在でその下で修行をするから、甘やかされる環境でなければそんなに変な生き物としての性質は出てこない。変な生き物の性質が出てくるとすると、そのお坊ちゃんがオーナーを引き継いだときだろう。自分が実権を握ると、突然オーナー風を吹かすため、それについて行けなくなった先代の側近が次ぎ次ぎに辞めてゆくという事態となるから、何が起こったのかわかりやすいものだ。
 それよりも問題なのは、創業オーナーだ。創業オーナーこそが生き物として特殊な性質を持つ。わがままの極地を行くオーナーとは、まさにこの創業者だ。企業は、必ず創業者オーナーからスタートする。サラリーマンが性に合わないために、会社を飛び出した人間が会社を興すバイタリティは評価できるが、自分に意見する人間が嫌いなその性格は、いろいろと弊害を生む。まさに、オーナー社長の中の「珍獣」といえる。
 創業オーナーは親分肌で、番頭なんかに任せずに自分で会社を引っ張っていきたいはずだが、問題も多い。なんかの本で読んだのだろうが、時代の流れに敏感に反応しなければならないというポリシーを持っている人が多く、朝令暮改を正当化している。柔軟な対応が必要であることと、朝令暮改は意味が違う。方法論での朝令暮改はいいのだが、信念すらも変えてしまうから、従業員がついてこない。信念がブレることも朝令暮改と思っている。そのことを指摘する番頭クラスの意見は、「口答え」とか「評論」だと言って耳を貸そうとしない。
 例えば、高尾山を登山すると決めたのに、突然富士山へ変更するようなものだ。朝令暮改により、高尾山の登山ルートを変更するのはありだ。しかし、山を変えるのは朝令暮改では済まされない。なぜなら、富士山の標高と高尾山の標高では、その装備や準備が全く違うからだ。富士山なら登山する季節も選ばなくてはならないし、それなりに訓練も要る。簡単に変えていいものではない。これが、にわか経営者であるオーナーが陥るミスである。山を変えるのは、理念や信念を変えることに等しい。
理念や信念は、会社で言えば判断基準だ。絶対変えてはいけないし、ブレてもいけない。企業や社長の理念・信念により、従業員はそこで働いているわけで、それが変われば成り立たない。朝令暮改によるルート変更ですら、信念や理念に照らし合わせて問題ないかどうか見極めた上で決定するのが当たり前である。
 こんなことを平気でやるオーナー社長は、別の生き物であるだけでなく、まさに「珍獣」なのだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(6/11) ~小心な王様~ [哲学]

 オーナー社長とは、相当厄介な生き物だということがわかっただろう。人間の姿をしているが、中身は人間ではない。というと語弊があるかもしれないから言い換えると、サラリーマンを普通の人とするならば、オーナーは相当変人であるということだ。
 だから、オーナー企業での正しい対応は、従業員は給料をいただいて感謝しているという素振りを見せなければならない。会社の備品についても同じだ。使わせていただいているというぐらいの気持ちを見せないと、オーナーは納得しない。悔しいかもしれないが、オーナー企業に勤めてしまったものの定めである。そして、給料の話題は一切御法度である。じゃないと、オーナーに嫌われて終わりだ。
 オーナー企業では、オーナーに嫌われたら未来はない。給料の話なんか出したら、オーナー社長はそれをずっと根に持つっている。だから、将来減らされたりして、大変な思いをする。では、給料の話をして嫌われてしまったらどうするか?冷たいことを言うようだが、そうなったら、会社を辞めるというのが、賢い対処方法だ。オーナーに嫌われたら辞めるというのが、オーナー企業での鉄則である。一旦嫌われたなら、それを挽回するのは並大抵の努力じゃ足りない。アニキはそんな人を何人も見てきたが、ほとんどが挽回できずに会社を去っていった。その時間が無駄である。ただのくたびれ損なのだ。挽回しようとうエネルギーがあるなら、新天地でがんばれと言いたい。
 じゃあ、どうすればいいのか?簡単だ、オーナーを国王だと思って接すればいい。そう、オーナーとは王様だ。リスペクトしなければならない。尊敬できないオーナーも数多く存在するが、嫌われたら終わりだ。尊敬の念を抱いてオーナーに接するのだ。過去ブログ「サラリーマンの謎『評価』」のところでも話したが、評価は好き嫌いだ。で、オーナー企業での評価は、オーナーが決めるから、嫌われたらいいことなしだ。気をつけなければならないのは、表面的には決して出さないが、本心はオーナーが嫌いだという人だ。自分が嫌っていれば、それは必ず見透かされてると言っておこう。オーナーは自分のことがどう思われているのか、ものすごく気になる小心な生き物だ。普通の人よりも、行動や言葉尻などから敏感に反応する。オーナーは自分が周りからどう思われているか、とても気になる。だから、オーナーが嫌いであるなら、それを隠すのではなく、好きになる努力をしなければならない。それができないなら、評価は下がるし、給料は永遠に上げてくれないから、つまらない人生となってしまうぞ。
 大企業と大きく違うのがこの部分だ。大企業では、3年ぐらい我慢すれば、合わない上司はいなくなるが、オーナー企業ではそうはいかない。自分がいなくなるしかないということだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(5/11) ~オーナーの財布~ [哲学]

 給料の真実を話そう。給料をもらえて当然だと思っているのは、大企業で働くサラリーマンの感覚だ。労働の対価として当然の権利だと主張できると思っているのは、大企業サラリーマン、若しくは大企業から別大手企業に転職したサラリーマンだ。大企業勤めのサラリーマンや転職先が大手企業のサラリーマンはそれだけでラッキーだ。その感覚で、そのままゆけばよい。だが、大企業からオーナー企業の転職したサラリーマンは、そうはいかない。給料や待遇について一切文句は言えない境遇となる。なぜ言えないのか?って、それは「オーナーが給料の話題が嫌い」だからだ。給料については、過去ブログ「サラリーマンの謎『給料』」で詳しく話しているから、ぜひ読んでみてくれ。
 だから、元々最初から中小のオーナー企業で働いている従業員は、給料について文句は言わない。というよりは、言えない。ここにオーナー企業の謎がある。一般的な正論は、アメリカの影響を受けた日本は労働法も欧米型だから、労働者の権利として給料は当然だと教育を受けている。しかし、前述の通りオーナー企業での現実は違う。給料のことでオーナーに意見するだけで嫌われてしまう。それは根が深い。
 大企業では、社長以下全員がサラリーマンだから、給料の話題はまかり通るのだが、オーナー企業では、サラリーマンがサラリーマン社長に意見するのとは訳が違う。サラリーマン社長は所詮雇われだ。従業員の気持ちが多少理解できるから、受け止めてはくれる。話を聞いてくれる土俵はあるということだ。しかし、オーナー社長はそんな土俵は持ち合わせていない。オーナーはサラリーマンじゃないから、全く話にならない。
 前回の内容の通り、給料とはオーナーのポケットの金、若しくはオーナーの財布の金だ。それに手を伸ばして「俺にもっとよこせ」と言っているのと同じだ。オーナーから見たら、「人の金をよこせとは何という奴だ!」と、盗人か恐喝にしか聞こえないのだ。そこには、完全に遺恨が残る。従業員はただ、「オーナーばかり贅沢しているなら、俺たちにも少し分けてくれてもいいじゃないか」というだけの事だが、このことでオーナーの心を逆撫でしてしまう。そしてオーナーは、「俺の財布の金なんだから、俺が自由に使って何が悪い」と、こう来る。全くもって話が噛み合わない。
 世の中見渡せばわかるだろ、社会保険未加入会社の多いことや、退職金を減らすために基本給を低くして職能給を上げたり、定期健康診断は一番安いプランしか受けさせなかったりということが起きる原因のすべては、「会社のあらゆるお金は自分の財布の金」という根底があるからだ。極力、従業員のために遣われたくない。これが本音だ。
 だから給料も、「オーナーの財布の金の一部である」という認識がどうしても必要となる。

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「オーナー社長」という生き物の生態(4/11) ~オーナーの本音~ [哲学]

 そして最後のタイプは、突然オーナーになってしまったという人だ。事情はいろいろある。跡継ぎがいない先代オーナーが引退して、番頭さんの自分が会社を買い取ったとか、あるいは出向先の会社の社長から出資を頼まれたとかだ。事情付きオーナーとか、棚ぼたオーナーなどと呼ばれる。このタイプのオーナーはとても堅実だ。元は筋金入りのサラリーマンだ。わがままオーナーの下で、長くナンバー2をやってきた苦労人が多い。この人のやる事には必ず、「誰かに頼まれて」という枕詞が付く。それくらい人間的に信頼されているから、信念や理念にブレはない。部下も、「この人には心底ついてゆく」という心意気を持つ。とにかく任された会社を存続させることに注力するから、浮ついたことは一切しない。ケチでしぶちんだが、自分にも厳しいから、誰も文句は言えない。実直な会社運営を心がけ、信者も多いから、この人がいる限り問題は起こらない。どんな不況が来ようが、じり貧でも何とか会社を残す。それぐらい手堅い。手堅すぎてチャンスがあってもそれに食いつかない。そんな危険な賭をするより足下が大切なのだ。頼まれたなら嫌とは言えない義理人情で、地味なオーナーを演じることになる。このタイプの問題は、自分の次の代だ。足下ばかり見ているために、先が見えなくなっている。もし、自分の息子にでも継がせようものなら、上記の二代目お坊ちゃんの例のようになる。しかも、そんな坊ちゃんを飼っておける余裕もないから、即刻会社は泥船化して、沈んでいくことになる。
 オーナーの成り立ちから大別すると大体前述の3タイプになるのだが、その人間性も様々だ。大金を持つという悪魔のささやきにより、「人間の本性」が出る。さて、オーナーという変な生き物はこのようにして生まれるのだが、この生き物に共通する性質がある。その共通する醜い性質を見てみよう。
 まず、この生き物を特徴づける最大性質がある。それは、会社のお金は自分のもの、会社の備品も全て自分のものだという概念だ。元が貧乏であったなら、なおさらその性質は顕著に表れる。売り物である商品だけでなく、事務所の土地・建物から会社の備品や光熱費まで、あらゆるものが自分のポケットの金だ。ましてや、接待費や交通費などの経費なんかは、自分の財布から抜き取られているような感覚すら持っている。当然、従業員の給料も同じだ。自分の財布から出て行く金だから、できるだけ少ない方がよい。
 会社でかかる金をできるだけ減らしたいとオーナーはいつも思っている。だから、それをムダに使う奴と給料や待遇に文句を言う奴を許せないのだ。
 もっと言うと、オーナーである自分以外が使う金は極力認めたくない。これがオーナーの本音だ。

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