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アニキの「信者論」(1/12) ~母という信者~ [哲学]

 物事をうまく進めようと思ったら、そこには必ず自分の信者がいる。この世に、ひとりでできることなどひとつもない。人は、生まれた瞬間から、だれかに頼らないと生きてゆけない生き物である。創造主はそういう風に人間を作った。信者を多く作ることが人生のカギを握ることになる。生き物は出生の瞬間から信者と関わることになる。いちいち説明は要らないと思うが、人間にとっての最初の信者は母親である。
 母親は、一回につき1体の子どもしか産まない。元々人間が、生まれた瞬間から誰の助けも必要ないのであれば、母親は1回で大量の子どもを産むことができるはずだ。しかも、生まれた瞬間から体温が奪われないように、体毛も最初から生えておいて毛むくじゃらだ。大量の子どもを産むということを想像しただけでも気持ち悪いのだが、それは魚などをイメージしてもらえばよいだろう。産み落とされた子どもは、一斉にどこかへ向かって動きはじめる。それはまるで、亀の子どもが海を目指して一目散に進むようなイメージだ。そして、動き出した子ども達は、車にひかれたり、川に落ちたりしてその数が徐々に減ってゆく。最終的に誰かに拾ってもらえる数は少数だ。
 産み落とされる数量とは、その生き物での最終の生存率を表している。産み落とされる数が多い生き物では、それだけ最終的に生きのこる可能性は低いということなのだ。だから人間は1回で一人しか生まれない。それは、生存率というより、母親という産み落とした存在がすぐそばにいて、生んだ子どもをすぐに援助できるという体制が整っているのだ。そこには、信頼できる存在が最初からボディーガートとして存在している。このシステムが最初からあるのが人間だ。まあ、大概のほ乳類には存在しているシステムだが、すぐ近くに天敵がいるほ乳類は、やはり数匹の個体を産む。
 人間だけが1個体だけで産み落とされるのは、目に見える「絶対天敵」がいないからだ。絶対天敵とは、過去ブログ「アニキの進化論」でも話したが、カエルにとってのヘビのように明かな敵対関係だ。人間にはそんな具体的な天敵は存在しない。だから、1個体で生まれてくる。母親という子どもにとって最も信頼できる人がそこにいるわけだから、安心して生まれてくることができる。母親は子どもにとっての信者なのである。
 人間は生まれながらにして信者を持っているのだ。どんなに仲間外れにされても、友達が一人もいなくても、ひとり必ず信者を持っている。母という信者がいるのだ。母親とは、無償の愛の代名詞だ。子どもが感謝の気持ちを表さなくても、全く意に介さない。見返りなどはどうでもよく、ただひたすら子どものために尽くす生き物だ。母親は子どもを信頼してはいないが、子どもは母親に対しては多大な信頼を置く。口では決して出さないが、行動ではすべて母親信頼の上に成り立っている。子どもは、母親を自分の信者だということを決して疑わないのだ。

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夫婦の謎(12/12) ~第三の性~ [哲学]

 エラそうなことを言っているが、実はアニキもできてない。そういうもんだということはわかっていても、この修行はかなり手厳しい。なんとなく簡単そうに見えるのだが、なかなか手強いのだ。本当は、「こうやれば簡単だ」みたいなノウハウを披露できればいいのだが、そうはいかずに四苦八苦だ。奥さんの機嫌は刻一刻と変化し、まさに百面相だ。そして、こちらから話を聴くという作業をコツコツとやっていると、その矛先が段々と自分に向いてくる。その後、家事を手伝おうとすると、それを当たり前だと思い、当てにするようになる。「なんだ、この生き物は!」と吠えたくなる衝動に駆られる。なかなか厄介なのだ。でも、関係は以前よりはよくなっているという認識はあるものの、休みの日は疲労困憊だ。趣味人間であるアニキは、休みには全く自分の趣味に費やす時間がなくなってしまった。これではいけないと思いつつも、抜け出せずにもがいている。その姿はまさに行者だ。奥さんという名の魔物を封じ込める修行なのだ。
創造主はなぜか結婚というしくみを作った。結婚は人間が便宜上作ったものにすぎないかもしれないがな。創造主は結婚ということじゃなく、子孫繁栄には男と女が関係を結ぶというしくみを作った。この意味をもっと真剣に考えるべきではないのか。生物のほとんどは、雄と雌で子孫を繁栄させるしくみになっている。人間以外の他の生き物は、古来よりずっとオスとメスとでよろしくやっているのに、人間だけがこじれている。
そんなんじゃ、創造主は新たな第三の性をこの世に誕生させるかもしれない。そしてその第三の性は、女と結婚して子孫を残すようになると、男は自然と絶滅してしまうというストーリになる。そうならないために、まだ男と女という二種類の性しか存在しないうちに、克服しておかねばならないのだ。だから、よく考えろ!というのだ。第三の性が出てきたら、創造主はすでに男を絶滅させるという目的で動きはじめたということだから、その時にはもう遅いのだ。男達はバカだから、戦争や迫害などという手段を執って、「異端な者」として第三の性を葬ろうとするかもしれない。第三の性は突然変異的にこの世に現れる。しかし、それは突然変異ではなく、必然だ。創造主が送り込むものはすべて必然だ。世に中に偶然などない。すべては必然と考えるべきで、偶然と考えること自体、考えることをあきらめたということを意味するのだ。
だからなぜ、人間は夫婦という核を最小単位としているのかも考えるべき問題だ。人間社会において、最低限の組合わせが夫婦だ。「それをうまく生かして人生を組み立てろ」ということなのだろう。そう考えると、人生の修行とは夫婦関係なのかもしれない。そうは言ったものの、アニキの家にも乗り越えねばならない強大な修行対象が存在する。コイツを修行で乗り越えろとを考えると、ツバも乾くぜ。何の準備もしていない状態でいきなり、「エベレストを登頂しろ!」言われているに等しい。それほどの修行なのだ。
 ソクラテスも偉大な哲学者になったのは、奥さんが悪妻だったからだという。じゃあ、もしかするとアニキも、偉大なサラリーマン哲学者になれるかもしれない。


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夫婦の謎(11/12) ~人間性を磨け!~ [哲学]

 そして、奥さんの話を聴くことができて、少しは奥さんも心を自分に開いてきたことが肌で感じられたなら、次は、家事の手伝いをプラスする。休みの日、一食ぐらいはオヤジがメシ作れよと言いたい。男の料理だ。そう堅く考えるな、男の料理は遊びだ。アニキの尊敬する木村東吉さん(POPEYEの元モデル)もそう言い切ってる。地味な料理より、イベント料理が男にはふさわしい。フライパンを振れたほうがかっこいいよな。魚をさばけたほうがかっこいいよな。鍋ものなんかは、それこそ男の料理にふさわしい。それを休みの日に買ってでる。買い物からすべて自分でやってこそ、男の遊びだ。それを習慣化する。で、たまには土曜の夜に奥さんと二人で食事に出掛ける。子どもにはカレーでも作っておけばいいだろう。食事だけじゃなく、トイレそうじなんかもいい。一家の主がトイレそうじをすると、お金が貯まるというだろ。その真意はアニキも調査中だが、なんとなくそうじゃないかと思ったりもする。社長が自らトイレそうじをする企業も多い。要するに、家事でできるところはいくらでもあるということだ。常に奥さんの動きを見ていて、気を回せということだ。気配りは、仕事だけでやるものではない。人生の全方向に向かってするものだ。奥さんにだけ気配りしないという輩が、日本にはやたらと多い。地道に奥さんに気を配れ!と言いたい。
 それをしないで、定年後に壮大なプランを計画したところで、「笛吹けど踊らず」だ。いい歳の熟年サラリーマンなら、「やるなら今でしょ」ということだ。そして、「そのくらい気づけよな」と言いたい。恥ずかしがってる場合じゃないだろう。一家の幸せの構築というノルマをこなせないで、仕事ができる男と言えるか?奥さんの親に挨拶に行った時のことを思い出せ!「〇〇さんを絶対に幸せにします」って誓ったんじゃないのか。今の状態で奥さんは幸せか?男に二言はないだろう。だから、会社でいくら仕事ができても、女房とは別れましたという男を、アニキは本当の意味で尊敬はしない。いろいろ理由があるだろうが、一時が万事だ。そうなる前に打てた手はあるはずだ。仕事と同じだろう。できる男なら何でも先回りで動くだろう。そして、できる男なら失敗してもリカバリーも早いもんだろう。できる男が、「家じゃできてねぇ」なんてのは、かっこ悪いよな。若い時の離婚はまあ、未熟者同士ということで大目に見てあげてもいいが、熟年離婚はアニキ哲学においては許されん。熟年での離婚は、仕事ができない男と見て差し支えがない。周りにそんな男がいたら、大いに軽蔑してやってくれ。
 奥さんひとり何とかできないで、他人を何とかしようなんて、できるわけがない。「できるよ」という奴がいたら、それは大概「できているように見えてるだけ」だ。会社という利害が絡まった世界での話であって、人間性だけが勝負の世界では全くできちゃいないということだ。それが証明されるのは、定年後だよ。定年後に寂しい思いをすることになるのは、「俺は今、人間関係はできてる」とか、「人間関係には自信がある」と、はき違えてる奴なのだ。そうならないために、人間性で勝負する世界において、自分を試しておく必要がある。
 その最も適した場が「家庭」であり、その核である「夫婦」なのだ。

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夫婦の謎(10/12) ~釣った魚に餌をやれ!~  [哲学]

 おっと、また話が逸れてしまったな。まあいい、大事なところだからな。
 アニキは何が言いたいのかと言うと、奥さんの苦労がわかっているなら、定年後に慰労を計画するのではなく、「今やれよ」と言いたいのだ。林先生じゃないが、「今でしょ」だ。そんな大層なことなんてしないでいい。地味なことからはじめればいい。ただ、間違ってはいけないのは、「奥さんの誕生日に花を買ってくる」なんてことはやっちゃダメだ。いきなり、モノでごまかそうとするのは逆効果だ。モノをあげるのは最終段階だ。手を抜いていると思われるのがおちで、印象は悪くなるから、最初の段階では絶対にモノをあげてはいけない。
まずは、奥さんの話を聞いてやることからはじめる。その際、反論したり意見を言ってはいけない。ひたすら話を聴く。そして、相づちを打ち少しほめる。最後に「お前が正しい」と太鼓判を押す。
 まずは、もう一度奥さんを口説くというスタンスで臨む。今更嫌だろうけど、口説くと決めたら、それは仕事だと思ってやれ。口説きの手法については、熟年世代なら「釈迦に説法」だろう。まずは、お友達からスタートする。何を今更!と思うかもしれないが、言っちゃわるいが、現在の状況はお友達以下だ。夫婦は友達のなれの果てと思っている輩には理解しづらいだろうが、夫婦生活も10年以上過ぎると、お友達以下に成り下がるのだ。日常をよく思い出してほしい。夫婦それぞれの役割がなんとなく決まってしまい、日々淡々とそれをこなす生活。そこには余分な会話もほとんどないはずだ。こんな状態なら、まさに夫婦は友達以下の関係になっていると言えよう。法律上の問題と心の問題は違うという話だ。友達以下の関係でプレゼントもないだろう。
 だからまずは、お友達になることからスタートだ。お友達になって口説くことが目的なんだから、はしょることは許されないのだ。手を抜いていることを見抜かれると振り出しだ。この「友達になる」ということが、実は難しい。なぜなら、はじめて出会った間柄なら、お互いの性格もわからないのだが、すでに夫婦という関係である以上、相手の性格をかなり把握しているから騙せない。だから、手を抜くことは一切禁止だ。下手な行動は命取りだ。少なくとも最初の時点では、奥さんは「何か魂胆があるな」と疑念の固まりだからだ。だから、地味な行動を繰り返すことにより、奥さんの心の壁を取り払うしかない。
 奥さんの話を聴く。又は、二人で会話する時間を増やす。その程度のことを毎日とは言わないが、頻繁にやるのだ。これで疑念を打ち払うしかない。悪いことは言わない、近道を探すことだけはやめろ。うまくいかなければ振り出しか、マイナスから再スタートとなり、さらにハードルは高くなる。日頃の仕事が忙しい身には耐えがたい重労働となると、さじを投げてしまいかねない。これほどの荒行はないといえる。自分で自分の首を絞めないように、手を抜かずに地道にやってゆくしかない。
 人生の修行を成就しようと思ったら、このように釣った魚に餌をやるしかないのだ。

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夫婦の謎(9/12) ~「いい人」という副産物~ [哲学]

 心が物事の判断基準であり、そんな大事なものを会社に置いてくるような生き物が男だ。
 話を元に戻そう。まあ、そんな勝手な生き物なのだが、フッとしたことから家庭の現実を見てしまうことがある。雑誌やテレビなんかで、家庭の問題なんかが特集されていたり、ドラマなんかで家庭のシーンなんかあったりすると、自分の家庭と照らし合わせたりすることがある。すると、奥さんが一人で四苦八苦している現状が見えてしまう。そこを後ろめたいと思っているところもあり、その労をねぎらおうという気持ちはけっこうあったりする。が、男は不器用だ。その気持ちをその場で表現できないものだから、それで、定年後に奥さんと旅行に行ったり、同じ趣味を持って楽しく過ごそうなどと考える。それで罪滅ぼしができると思っている。しかし、これはあくまでも男の論理だ。奥さんから見えれば、一番大変な時期に見向きもしてくれなかったダンナと、定年後に楽しく過ごそうなどとは考えていない。生活のためと思い、これが自分の役割だと割り切って、家事をこなしダンナ面倒も看る。定年後、これ以上ダンナの面倒を看るのはウンザリだ。働かなくなったダンナなど、駄馬にも劣る。定年後離婚なんてそんな心境だろう。奥さんはすでに自分のコミュニティを持っている。男には存在しない生涯の友達をたくさんもっている。その友達と仲良くして日々ストレスを発散しているから、ダンナの存在などは不要なのである。奥さん達は、ダンナの悪口が共通の話題で、皆、同じ苦労をしてきた間柄だから、絆も強い。ダンナが仕事で見向きもしない時に、子どもを預かってくれたり、ご飯は作って持ってきてくれたりという「手間返し」という貸し借りで友となり、数十年の付き合いだ。それはまさに、戦友だ。
 反対に男は、定年後生涯の友達もいない。友達作りからスタートしなければならない。友達作りという営業がそこから始まる。そこでは、仕事時代のような利害は存在しないから、人間性だけで勝負だ。定年間際まで効いたワガママなんか出せば、総スカンだ。仕事時代の肩書きなんて、名札にもならん。いい人かどうかだけだ。いい人になるために磨きをかけて仕事をしてきたかどうかだ。しかし、いい人になることが目的であってはならない。いい人とは、副産物である。厳しい仕事をこなす中で培ってきた気配りだとか、人間関係作りだとかの副産物でいい人ができあがる。いい人を目指すなど言語道断だ。「いい人になること」を目標において、具体的に何をするって言うんだ?周りを見てみればいい、「いい人」と言われる人は皆、副産物としてそう言われているだけで、目指してなったような人はいないはずだ。ひとつ補足しておくが、ここでの「いい人」とは、可もなく不可もなく的な嫌みの「いい人」とは異なるから、混同しないでくれ。

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夫婦の謎(8/12) ~心だよ、全員集合~ [哲学]

 そんな体たらくなダンナ達の言い分はたくさんある。男が普段外で飲むときは、会社の愚痴かカミさんの愚痴だ。アニキはよく、そういう話をたくさん聞いてきたから、男の言い分は大体わかっている。自分を正当化したその言い分は、男尊女卑の日本の歴史の上に成り立っている。その論拠は、ダンナが給料を稼ぎ家計を支え、奥さんが家庭を守るという固定観念から発している。子どもは親の背を見て育つ。男も女も自分の生まれた環境は似たような境遇だった。親がやってきたことをじっと見てきたから、それが当たり前のように洗脳されてしまっている。だから、家のことは奥さんがやって当たり前という前提が常にあり、そこを見直そうなどとは誰も思わない。最近になって、ダンナが一家の家計を背負うだけの給料を稼げなくなってきたから、この前提がおかしいんじゃないかという風潮が出てきたのだ。前提に目を向けると、おかしいことだらけだ。そこで、目が覚める。まるで魔法が解けたように、今まで何だったんだ?と。
 そこに気づいた奥さんは、世の中のしくみの一部がわかったといってもいい。今まで謎のベールに包まれたダンナの行動が、霧が晴れるがごとくわかってくる。そう、全く家庭の問題から目を背けているその姿があらわになるのだ。「心ここにあらず」の生き物が、毎日家に帰ってくるという事実を知ることになる。心のない、魂に心が入ってない男が家にいるという事実だ。
 ちょっと話は逸れるが、アニキ哲学における心の概念について触れておきたい。アニキ過去ブログ「脳の謎「魂の謎」「今世の乗り物を乗りこなせ」などでも話しているが、人間の構成要素は「魂・脳・カラダ」の3つだ。自分とは魂であり、魂がカラダの中になければ生きていない。魂がその生き物を生かしている。脳は魂の命令で動く臓器のひとつだが、別の意思(例えば創造主の意思)でも動くあまのじゃくな臓器だ。カラダはただの魂の入れ物である。その魂を動かす判断基準が心である。心の決定が魂の方向性を決め、それを脳に指令を出してカラダを動かす。そういうメカニズムだ。心がすべてをジャッジする。心が何を考えるかによって魂の性格が決まり、それをカラダが言動や行動などで表現して、その人の人格が決まるのだ。「心」とは、想念であり、形はない。形があるのは魂であり、カラダとともにあるのは魂だ。想念である心は、魂の中に常にあるとは限らない。時には脳の中に、時には別の場所にある。それがアニキ哲学の考え方である。では、話を戻そう。
 ならば、一家の主である男の心はどこにあるのか?日本人の男の場合、その心は常に家庭の外にある。男は心を会社に置いてから家に帰ってくるのだ。家に帰ってくるのは抜け殻だ。心の抜けたカラダだけが家に帰る。心が抜けた状態だから、家では深いことは考えたくないのだ。心がないのだから、目や耳から入った情報は直接脳に届いてしまう。心というフィルターを通さないから、脳での処理に困る。脳はあくまでも、事実の把握と過去データとの照合だけで、判断はできないからだ。心がそこになければ判断できないのだ。だから、ややこしい話は嫌いで、当たり障りのないくだらない話しか受け付けない。男が家に帰った時に家庭が平穏でないと、自分でジャッジしなければならないから困る。心は家に持って帰りたくないのだ。ほとんど男は金曜日にも持って帰らない。金曜に持って帰るとしても、それは土曜日のゴルフに持って行くためだけだ。
 なぜか男は、心を家に置いておきたくないのだ。そのために、家の中で起っていることがほとんど見えていない。アニキがいつも言う「物事は目で見るな、人の話は耳で聞くな」とは、「物事は心で見ろ、人の話は心で聞け」と言うことなのだ。

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夫婦の謎(7/12) ~道楽おやじ~ [哲学]

 最近は、男だって女性の潜在能力の高さにうすうす気づきはじめている。男は外で仕事さえしていればいいと思っていた時代もあった。が、やはり、家庭の問題に目をやると、いかに奥さんがしっかりと家をお守りしているかがわかる。家庭に目を向けると、いかに自分が家庭生活に協力していないかがわかってしまい、心苦しいのだ。だから、男はわざと家庭を見ないで、仕事に一生懸命というポーズを取る。心の中では奥さんに、「苦労をかけているな」ということも肌で感じているのだが、ここでそれを理解してしまうと、子どもへの協力だとか、家庭の雑務への協力だとかが自分に振りかかってくるのが予想できる。だから、見て見ぬ振りをして、普段から仕事で忙しいという態度をわざと見せる。残業だとか、飲み会だとか言いながら、実はそのほとんどは仲間うちの飲みだ。接待だとか言いながら、ほとんどは同僚などのお友達の飲み会なのだ。接待は週に2回もあったらカラダが保たない。神経を遣うからだ。接待のあとにも飲み直しという仲間内だけの飲み会で、接待の垢を落とす。普段から家に早く帰らない訳がここにある。
 さらにだ、休みの日も家に協力したくないものだから、唯一サラリーマンに許された公式な遊びである「ゴルフ」にうつつを抜かすのだ。ゴルフといえば、大概の家ではそれが免罪符となる。「ゴルフ=仕事」という方程式で洗脳している。よって、ゴルフに係わるすべてが仕事として通用することになる。ゴルフ道具という高級玩具も、ゴルフ練習という時間の浪費も、すべては仕事であるとの免罪符を受けているから、奥さんにとってはそこは治外法権なのだ。以前はアニキも少しゴルフをしたことがあるが、今では全くやらない。アニキ哲学に照らし合わせて分析していくうちに、ゴルフが好きではなくなった。この趣味ほど家庭をダメにするものはないと断言できたからだ。家庭の財力を疲弊させ、家族の関係も疎遠にさせる強大な負のパワーを持つ。まさに負の遊びと言えよう。ハッピーなのはオヤジだけで、家族は全員アンハッピーという、アニキ哲学を根底から覆す娯楽であり、この世の元凶である。本当にできた男は、こんなくだらない娯楽はしないものだ。ゴルフ場を全部潰して、そこにゴルフ会員が無農薬野菜でも作ればいいのだ。まあ、ゴルフ場の土壌は農薬で汚れているから、しばらくは無理かもしれないけどな。
 日本の多くのダンナは「金さえ稼げばいいんだ」みたいな考え方だが、「じゃあ、あんたは、家族が笑顔になるくらいの金を家に入れているのか?」とアニキは問いたくなる。それを実行している男はほとんどいないはずだ。一般の安月給のサラリーマンは、子どものミルク代を取りあげて、その金で飲みに行ったり、ゴルフ行ったりする。奥さんはそれが仕事の肥やしだと思っているから、家計が厳しくてもダンナの道楽の費用を優先して捻出する。そのためにやりくりが大変で、パートや仕事を持たなくてはならない。奥さんの涙ぐましい努力の賜物だ。この現実をちっとも気にせず、年貢のごとく家計から道楽銭をせびり取る。たとえ穏やかな顔をしていても、やっていることはまさに暴君。
 それゆえに、男は絶滅するとアニキは主張する。

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夫婦の謎(6/12) ~夫婦をはき違えるな!~ [哲学]

 夫婦とは、決して空気のような関係ではない。そんなきれい事を言っているから、別れることになるのだ。「お互い言いたいことが言える関係になろうね」などと、どこかで聞いたことのあるこのフレーズも、試練なくしてこの境地にはたどり着かない。だから、「夫婦という親しい割にはそうでもないという関係」を長続きさせるためには、努力が必要なのだ。ほとんどの日本人は、夫婦関係をはき違えているから、うまくいかないのだ。仮面夫婦かマスク夫婦かは知らんが、表面だけの夫婦づらで終わらずに、外国の夫婦のように、少し努力して距離を縮めなくてはならない。
 そのために、知っておかなければならない最大の秘密がある。結婚生活で一番大事なことだ。それを教えよう。過去ブログ「サラリーマンの武器『営業力』」でも触れたが、「夫婦は他人」だということだ。そして、夫婦は友人の延長線上にあり、友人の発展系であるということを肝に銘じておかなければならない。なのに、そのことは結婚したらなぜか消えてしまう。この大事な前提が消えてしまうから、うまくいかないのだ。で、最もはき違えたらいけないことは、結婚したら身内となり、親兄弟と同じ扱いとなると思ってしまうことだ。ここが大きな間違いだ。法的な概念と気持ちの概念を同じにしてしまっている。だからうまくいかない。配偶者はあくまでも他人だ。そうだろう、配偶者との出会いはお友達からスタートしたんじゃないのか?自分の親から生まれたわけではなく、知らない他人の親から生まれてきたよな。ここがわかってないから、関係がおかしくなるのだ。そしてさらに、別々の育ち方で大人になってきている。いろんな家庭環境や経験を通して、それが習慣となって身についてしまっている。普通に考えたって合うわけがない。結婚前の時期は、お互いが気を遣っているから、合うように見えただけだ。よくないところも目をつぶれたわけだ。が、結婚したらそんな些細なことも気になってくる。そして、気を抜いた瞬間に、お互いの嫌な部分、すなわち自分と合わない部分が、居ても立っても居られなくなるくらい嫌になる。こんなメカニズムだ。
 昔々は合ったって?バカなことを言うんじゃない。明治大正時代は、女性がひたすら我慢しているだけで、べつに自然体でうまくいってるわけじゃない。女性側の努力のたまものであるだけだ。特に、この日本という国は、太古の昔より男尊女卑がひどすぎる。世界を見ても、ここまでひどい国はない。疑問があるなら、アニキ過去ブログ「男は絶滅する」をしっかりと読め!真剣に比べたら、人間としての能力はたぶん女性の方が能力は上だ。
 よかったなおまえら、日本人の男に生まれて。まあ、その地位も今世限りだから、充分に男であることを惜しめよ。それを噛みしめて立ちションしろよ。


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夫婦の謎(5/12) ~大人の対処法~ [哲学]

 心の柔軟性を得ることがいかに大事かわかってくれたと思う。ただ、今の現実問題は、心が固くなってしまった大人達が、柔軟さを手に入れるにはどうしたらいいのかということだ。残念ながら、それは今更無理だと言うのが、アニキの結論だ。じゃあ、心が固いまま人生を送れというのか?と、反論が来そうだな。まあまあそう怒んなや。
 大人の場合、可動域を広げることを主眼に置くのではなく、心が伸びきっても切れないようにすることで対処する。ビンビンに張っても切れないような工夫をすることだ。何だって、いつも油を塗って手入れしておけば、切れないで長持ちするだろう。そうだ、油を塗って耐久性を上げる。つまり、「心に油を差す!」だ。そこに焦点を当てるのが大人の対処法だ。じゃあ、具体的にどうすればいいのか?それは、「考え方」という油を差す。アニキはいつも言うだろう、物事は考え方で決まるということを。100円が高いと思うか、安いと思うか、それは人の考え方が決める。心が決めるといってもいいだろう。だが、ただ心というだけじゃ物足りない。何でも行き当たりばったりではなく、「待つ」という姿勢を作る。では、「待つ」とは何か?すべてを想定内の考えにすることが、待つということだ。この想定内という意識は人生において非常に重要である。「想定内」については後日ブログで詳しく説明するが、ここで簡単に説明しておこう。ビックリするという意識は想定外の意識から起こる。動揺やあせりなどもそうだ。想定内意識とは驚かない動揺しない心の状態を作ることだ。すべてを想定内として、「心で用意周到に待て」ということだ。じゃあ、想定内の心とはどうすればいいのか?
 想定内をここで応用するなら、それは、要するに心構えである。その心構えとは、簡単だ。「俺は今、試されている」という観念を持てばいいということだ。先にも話したが、「人生は修行で、俺は今試されているのだ」と考えることで、かなり許容範囲が広がる。ダメおやじだって、オニババにいじめられることを、「これは俺の試練で、生まれる前に自分で決めてきたことだ」と考えて、「今、自分は試されているのだ」と思うことで、少しは楽になるだろう。まあ、ダメおやじの境遇ではかなりの根性者じゃないと無理だろうな。アニキのような未熟者じゃ無理だ、ダメおやじの境遇には耐えられん。それはまあいいとして、「自分は試されてる」と考えることで、ビンビンに伸ばされた心でも、切れなくなる。これは、考え方という油を心に差したためだ。この考え方の油はいろいろ応用が効く。例えば、「すべては修行だ、試練だ」との考え方もある。そして、「そうはさせないぞ」とつぶやくのだ。心が折れそうになるような時、こう考えることで伸びきって切れそうな心に、しっかりと油を差すことができ、心に力が入る。心が折れそうになった時の、これが大人の対処法だ。
 さて、かなり話題が逸れてしまったので、話を戻すぞ。なぜアニキは、くだらないことをぐだぐだ言ってきたのかというと、心が折れそうになる一番の原因は夫婦関係においてだ。一番親しい間柄なのに、一番気を遣わなくてはならない関係だから、心が折れそうになることが多い。心が折れる前に、別れてしまう夫婦が多すぎるから、アニキはまず、対象法からの話をしたのだ。今まで述べたことは、友人関係で使うこともよいのだが、実は夫婦間においてやってほしいことなのだ。

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夫婦の謎(4/12) ~ストレッチ方法~ [哲学]

 まあ、愚痴っても仕方ない。それより、狭い心じゃ、人生の落伍者も同然だ。そうならないためにも、強制的に心をストレッチさせてゆく必要がある。本題からかなり逸れているが、心のストレッチについてもう少し言わせてほしい。
 では、強制的心のストレッチとはどんなものなのか?だ。今からでも遅くない、少しずつでもいい、心は鍛えれば広がるものなのだ。まず、心のストレッチとはどういうことをすればいいのかを、検討のつかない人のためにひとつ例を挙げよう。例えば、仲の良い友達同士で、お互いに相手のダメ部分を伝えることをする。相手の悪いところを正直に指摘してやるのだ。ウソついちゃ意味がない。真実を伝える。誰にだって、言い面と悪い面があり、悪い面は目をつぶってしまう習慣があるが、それを思い切って相手に伝えてしまおうってことだ。その時に注意しなければならないポイントが2つある。これが抜けると、あとあと面倒なことになるから、注意してくれ。まずひとつは、「相手のためを思って言う」ということをきちんと伝えて、相手の了解を事前に取ることだ。「おまえによくなってもらいたいから、よく聞け」ということを最初に伝え、相手が「嫌だ」と言えばやめたらいい。受け入れる姿勢が相手にないと、言われた相手はただの悪口にしか聞こえないからだ。言う方は、相手のことを思って真剣に伝える。言われる方は、自分のために正直に言ってくれているから「ありがたい」と受け止める。この状態を作り上げた上で開始しなければならない。関係がギスギスしては元も子もないからな。これが1点目だ。そしてふたつめは、「少なくとも俺にはそう見える」と言うことを最後に付け加える。嫌なことをはっきり言われた相手が、「そんなことはないだろう」と反発する時に、「他の人がどう思うかは知らんが、俺にはそう見えるんだ」と伝える。そうだ、そいつにはそう見えている事実があるわけだから、「ごちゃごちゃ言う筋合いの問題ではない」ということを認識させる必要があるのだ。この2点に気をつけて、ストレッチ開始だ。遠慮なんかするなよ。それは相手に失礼だ。ストレッチの意味がなくなる。限界まで伸ばすことにストレッチに意味があるからだ。思いっきり言ってやれ!
 そうして、心をまずどん底につき落とす。で、どん底に突き落とされた心は、思いっきり張り裂けそうになる。今まで親しいと思っていた人間から、非情なまでの厳しい言葉を受けるわけだからだ。立ち直れなくなるくらいだ。これが心を思いっきり伸ばした状態だ。思いっきり伸びたその心は、切れる寸前までいくだろう。そこで、今度は縮めてやらなくてはならない。ストレッチは伸ばして縮めてが基本だ。縮めるには次のことをやる。お互いの良いところを誉め合うのだ。親しく付き合ってる友人なら、悪いところより良いところの方が多いから親しいのであって、考えなくても次から次へと出てくるだろう。それが心の縮めだ。まあ、そんな感じだな。
 要するに、プラスとマイナスのサプライズを出すことにより、心の可動域を広げる。これらは一例にすぎないが、こんな調子の訓練を子どもの頃からやるべきではないか、というのがアニキの意見である。学校の教育にこんなものも取り入れるべきで、それは頭のいい人達に考えてもらえばいいのだが、いつの時代になることやら。
 こんな訓練を受けた子どもが大人になったら、坊さんだらけの社会になるかもしれんな。


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夫婦の謎(3/12) ~「狭い心」と「広い心」~ [哲学]

 アニキはいつも疑問に思うのだが、子どもの頃になんでもっと心の柔軟性を鍛えておかなかったのか。しかし、どこを探しても、子ども時代に心を広くするカリキュラムなんか存在しなかった。大人になってもなかなかない。大金出して、自己啓発セミナーかなんかを受ける以外に、アニキは知らない。カラダを柔らかくするのは、大人になってからでは難しいのと同じで、心だって大人になってから柔軟にしようと思っても、心も固くなってるから難しい。偏見や固定観念などでカチカチだから、伸び縮みさせようと思っても容易ではない。無理に柔らかくしようと引っ張ったり押しつぶしたりしようものなら、ひびが入って取り返しがつかないことになる。やっぱり、若い時にやっておかなきゃなんないよな。
 「心が狭い」って言葉が日本語にはあるだろう。皆、よく使うよな。これは、心の大きさを差しているのではなく、伸び縮みする心の幅を差している。大人は充分わかってんだよ、心が狭いことの弊害と広いことの大切さを。なのに、なぜかずぅっと野放しだ。日本には頭のいい奴が山ほどいるのに、気がついてないわけがない。心の柔軟性こそが、社会を良くすることに気づいているはずだ。どう考えても、学校は勉強を教えるよりも、絶対こっちが大事だろう。なのに、勉強やスポーツばかりに目が向いている。学校だけじゃない、社会だってそうだ。心が広いとか、心が優しいとかって、全く評価されない世の中んだよな。本当はこれができれば、間違いなく世界一よい国になるのに。
 そんな狭い心を持ったまま大人になって、じゃあ死ぬまで狭いままなのか?というと、そうでもない。そんな奴も中にはいるだろうが、大概は自分の人生経験を通して、広くしている。知らず知らずの内に、ストレッチをしているのだ。それは失恋や身近な人の死、はたまた大きな失敗などだ。天狗になった鼻を思いっきりへし折られるような状況だ。そこで人は立ち止まり考え、再び社会へのやる気を起こすことになる。要するに、世間一般に言われる「逆境」だ。ところが最近は、そんな逆境に立ち向かうことをよしとしない風潮がある。失敗を恐れてチェレンジしなかったり、裏切られるのが嫌だからと、人との付き合いをわざと浅く保つなどだ。逆境はつらいもの。それを極力避けて、事なかれ主義を貫く。まあ、運動嫌いの心版だな。カラダのストレッチなら、人生そのものには影響ないだろう。だが、心は別だ。人生、何をするにも心が要る。狭い心じゃ、何ひとつうまくいかない。表面的にはうまくいったとしても、それは狭い心から見た場合であって、広い心で見た場合、全然なっちゃいない。細部が全く行き届いておらず、そこに気づくことすらないのである。
 狭い心の視野と広い心の視野では全然違う。どこが違うのかと粋がったところで、狭い心の持ち主は、広い心の持ち主の考えを理解することは到底不可能なのだ。
 高尾山しか登った事のない人に対して、いくら「富士山からの景色はすばらしい」と言ったところで、それは全く理解できないのと同じなのだ。


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夫婦の謎(2/12) ~心のストレッチ~ [哲学]

 ちょっと話は逸れるが、大事なことなので言っておく。アニキ哲学の読者ならご存知だろうが、はじめての人に補足しておくことがある。アニキは輪廻転生という考え方を軸としている。だから、この世は修行だという考え方が腑に落ちる。何度でも修行するために生まれ変わるという考え方が一番スッキリする。修行であるから、生まれ変わる度に、当然違う相手と夫婦になる。たまには、一人で人生を過ごす転生の時もある。それも修行だということだ。この考えをベースにして、「夫婦は修行」と最初から考えておけば、結婚生活で起こるほとんどの現象は想定内ということにならないだろうか。
 そういえば昔、アニキが子どもの頃、「ダメおやじ」という漫画があった。題名が面白いから見てみたものの、ひどい漫画だった。ダメなおやじというキャラクターはギャグではなかった。奥さんがオニババという名前で、だんなをいじめるのだ。本当に虐待に近い奥さんからのいじめだ。バットで殴るのは日常で、逆さにつるされたりするのだ。子ども心に、「この漫画はひどいな」と思っていた。周りのだれも、この漫画をギャグ漫画だと思って見ていた奴はいないだろう。さらに、息子もいじめに加担するから始末が悪い。おやじが限りなく気の毒なのだ。何の効果を狙って作った漫画なのか?意味がよくわからない。漫画とは子どもに希望を与えるもののはず。なのに、この漫画は逆だ。嫌悪感しか残らない。教育にもよくないんじゃないかと思ってしまう。日本の文化として隠したい漫画だ。案の定、再放送されたという話をアニキは聞かない。ダメおやじの話はどうでもよい。要するにここで言いたいことは、夫婦は修行で、ダメおやじも自分でそれを決めて生まれてきたということだが、その修行はハンパじゃない。身も心もボロボロになるとてつもない荒行で、アニキのような未熟者では全うすることはできない試練だ。オニババじゃない普通の修行で充分だ。
 話を戻そう。で、修行であるなら試練がつきものだ。しかもそこに強弱がなくてはならない。ダメおやじの修行のように、絶え間なくいじめられている状態では修行には耐えられない。心は、試練の強弱により、伸びたり縮んだりを繰り返して成長する。カラダだけではない、心もそうやって成長してゆく。心の可動範囲を徐々に広げるのだ。突然心が伸ばされたり縮まされたりするから、逆キレや鬱などという心がキレた状態に陥る。当たり前だよな、心の可動範囲が狭く、柔軟性がないからキレるのだ。
アニキは何が言いたいのかというと、柔軟体操もせずに、試練に真っ向から立ち向かうなということだ。スポーツするときには、必ず柔軟運動するだろう。なのに、なぜ人は試練というスポーツをする時に、心の柔軟体操をしないのか。ここが肝心なのである。学校では、カラダのストレッチは教えるのに、なぜ心のストレッチは教えないのだろうか。アニキは思う、こいつを学校で教えるようにできれば、世の中の犯罪は減るはずだ。心の可動範囲が狭い奴が多すぎるから、変な奴がはびこるのだ。


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夫婦の謎(1/12) ~夫婦という課題~ [哲学]

 結婚とは何だろうか。誰がはじめた習慣なのだろうか。形は違うが、世界中にある習慣だ。その反面、離婚も多い。2分に1組離婚しているという。離婚するくらいなら、結婚するなよと言いたくなるが、何事も経験しないとわからないのが人間なんだよな。それが世の中のしくみだと言ってしまえばそれまでだが。しかし、人類は700万年前のホモサピエンスの時代から現在に至るまで、その歴史は続いている。結婚の歴史も似たような歳月を経ているはずだ。それなのに、2分に1組の離婚とは、700万年もの間、人間は一体何を学習してきたんだ?人間って生き物は、万物の霊長とか言っていい気になっているが、本当はバカじゃないのか?飛行機を発明したり、コンピュータを発明したりなんてやってるけど、一番肝心な生き物としてのことができてないじゃないか。「人としてどうあるべきか」なんて言うセリフをよく聞くが、そんなことより、「生き物としてどうなんだ?」とアニキは言いたい。人間以外の生き物の方が、この点においてはよっぽどしっかりしてるんじゃないのか。学べよ、そういうところを小動物なんかに。人間より脳の小さい生き物の方がはるかに誠実な生き方をしているんじゃないのか?まあ、このくらい言えばスッキリしたな。
 さて、結婚とは夫婦になることだ。本質的なところはどうでもいい。結婚を分析したところで、眠くなるだけだ。人間はまず、家族という単位で生きる習性がある生き物であることはわかる。その家族の核となるのが夫婦だ。人間だけじゃない。大概の地球上の生き物は夫婦が核になって生きている。だから、結婚することは人間の原始機能ではなく、生き物の本能だ。アニキが気になるのは、他の生き物も離婚なんてしょっちゅう起こるのか?ということだ。人間だけじゃないのかね。ということで、今回は夫婦の謎について話したい。
 けっこう周りには離婚した人や夫婦別居状態の人がいる。アニキの友人にもけっこういたりする。昔は仲良かったくせに、なぜかギクシャクしてお互いが合わなくなる。それが段々と反りが合わなくなり、エスカレートして憎悪に近い状態まで膨れ上がる。お互いに言い分があるだろうから、どっちが悪いとも言えない。ましてや、専門家でもない第3者が入り込む余地はない。それはそれで「仕方ないな」と他人事で済ましてしまう。そう、他人事でいい。で、アニキはよく思うのだが、肝心なことは忘れてないか?と言いたい。
 結婚する時は、「幸せな家庭を作ろう」とお互いが思っていたはずで、その目的は同じはずだ。目指す頂上は同じなのに、そこへなかなかたどり着かない。最初のスタートは肩を並べて歩くのに、そのうちバラバラで歩いてゆく。ルートいくつもあるはずなのに、自分の信じたルートだけが正しいと、それぞれが考えている。相手が主張するルートに耳を傾けようとしなくなる。だから、余計に頂上が遠のいてしまうことになる。途中で目指す頂上が見えなくなり、どこへ向かっていけばいいのかわからなくなる。そして、目的を見失った夫婦はそれぞれ別の道へと進んでしまう。これが離婚だ。夫婦という修行は失敗に終わる。だが、べつに人生の失敗ではないから、あまり深刻に考えることはないかもしれない。人生という大修行の中に、いくつかの課題がある。そのひとつが夫婦という課題だ。まあ、単位とでも言っておこうか。夫婦という単位を取らなければならないのだが、別に落としたってかまわない。他の単位を取ればよいのだから。だが、夫婦という課題の単位はかなりの重要課題だ。これを落とすと、人生の卒業単位に大きく影響するといえる。実はここに、夫婦のまず第1の秘密がある。要するに、夫婦とは今世での修行であり、その課題内容は道に迷うという修行だ。こいつを落とさないように努めなければ、あとが苦しいのだ。この話は、後日ブログ「人生の単位」で詳しく話すが、夫婦は落としてはいけない単位のひとつなのだ。


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「優しさ」と「甘さ」(9/9) ~甘やかされたら、怒れ!~ [哲学]

 甘やかすとどうなるかという愚問に対し、一番納得がいく答えは軍隊にある。軍隊は最初から厳しかったわけじゃない。初め数人の部隊であれば、リーダーが直接見ることができるから、そんなに厳しくはない。数人のチームなら命令も単純だ。しかし、所帯の人数が増えてくると、リーダーが直接見ることができなくなるから、だれかが中間でまとめる必要が出てくる。そうなってくると、厳しさがないと末端までトップの命令が伝わらない。だから、厳しさが必要になる。言葉はすべて定義づけ、ルールも複雑に決める必要性がでてくる。ここを甘くしておくと組織はバラバラとなり、戦いに負けてしまう。軍隊なんて組織はあまりにも厳しすぎる。「優しさのかけらもない」というかもしれないが、そりゃそうだ。勝つ目的のために組織された集団だ、そのためには手段は選ばぬ。なぜなら、負けてしまってはその後の生活は地獄だからだ。本人は捕虜となって拷問にかけられるか、運がよくて奴隷だ。家族は蹂躙され、悲惨なことになる。そんな歴史を人間は繰り返してきた。そうならないようにするために、軍隊での優しさとは、厳しくすることなのだ。それは大きな会社などの組織でも同じで、そこを疑うトップはいないはずだ。軍隊や大きな会社などの組織が、優しさと甘さを間違えるととんでもないことになるという話だ。厳しくすることが優しさであるということは、そのときは理解できないかもしれないが、後々にわかることになる。誰にでも、厳しくしてくれたことに感謝する時が必ず来る。
 例えば、会社の偉い人に訊いてみればよい。サラリーマン生活の中で、一番感謝している人は誰かと。かならず、厳しく仕事を教えてくれた人の名前が挙がるはずである。決して優しく接してくれた不抜けた上司や先輩ではないはずだ。自分の哲学を持った人に厳しく指導されたことに、後から「よかった」と感じるのだ。何度も言うが、ただ厳しい人はダメだ。そこに自分の哲学を持ち、常にその己の哲学に基づき行動している人だ。哲学が自分と合う合わないはあるかもしれないが、それは頂上へ登るためのルートの違いであり、そんなに大きな問題ではない。サラリーマンである以上、目指す到達点が同じであるなら、お互いを尊重できるはずだからだ。相手を尊重できないというのは、相手の哲学の元が「甘さ」から出ているものであるか、又は、立派な哲学を持っていたとしても、口先ばかりで行動に移してないかのどちらかだ。前者は怠け者で、後者はただの評論家だ。これは、人生において係わりたくない「2大ダメ人間」である。
 結局、法律だって別に好きこのんで複雑になったわけではない。複雑になる必要性があったから、複雑になっただけだ。数人しかいない世の中なら、「殺すな、盗むな」程度で十分だ。しかし、人間の数が増えると社会が大きくなり、いろいろと分化する。で、その社会がさらに大きくなり複雑になると、それに合わせてルールも多様化してゆく。ルールが増えると、細かい部分がわからなくなるから、それを解釈する専門家も必要になる。そして、それを守らせる警察組織や違反者を厳しく裁く組織も要る。変な意図があってルールを複雑化してきたわけじゃない。ルールを保とうとすると公平さが必要になるからだ。公平さを保つには、厳しさがどうしても必要となるわけだ。好き嫌いで逮捕されたら、誰でも嫌だろう。ただそれだけだ。甘くしていたらどうなるかは、いちいち言う必要はないな。
 甘さは優しさでもなんでもない。ただ、人をダメにする怠け者の甘言にすぎない。とするとだ、甘やかすということは、その相手に対し適当に対応しているということになり、実に失礼な話なのだ。その程度でしか相手を見ていないという軽視、又はどうなってもいいやという投げやりで無関心な対応だ。それをやられたら、憤慨するのが筋ってもんだろう。
 そうだ、だから、甘やかされたら喜ぶのではなく、怒るくらいでちょうどいい。「なんで、あなたは優しくないのだ?」と。

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