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「優しさ」と「甘さ」(8/9) ~男女間、親子間~ [哲学]

 前回までは会社内での優しさを説明した。優しさを武器にできるのは、仕事だけではない。人生における優しさが武器となる場面は、特に男女間だ。では、男女間の優しさとはいかなるものか。
 女性は、優しい男が好きだという。いつの時代もその言葉を聞く。それは古より同じ価値観であり続けているのだ。でもそれは、アニキ哲学おける「優しさ」はなく、「甘い」男のことを指しているのではないだろうか。自分に甘くしてくれる男、特に「自分だけに」だ。本当の優しさではなく、自分に都合の良い甘さが女性は好きなのだ。女性はそれがうれしかったりするものだ。そして女性とは、特別扱いが好きな生き物だ。だから、女性が好むのは優しさではなく、甘さだということになる。女性自身が、優しさの本当の意味がわかってない。本当の優しさとは厳しさだからだ。そこに甘さなど入る余地は全くない。自分に厳しいことを言ってくれる存在こそが優しい男となるのだが、「お前は化粧が下手だ」とか、「もっと若々しい服を着た方がいいぞ」とか、厳しいことを言う男なんか、女性は大嫌いなのだ。
 だから、男も惚れる親分肌の男がモテない。男が毛嫌いするようなズルい男がなぜかモテる。プレイボーイは、女性が好む優しさとは、「本当の優しさ」ではなく、それが「甘さ」であることがわかってる。女性にとっては、哲学だとか、行動軸だとかはどうでもよいのだ。
 女性が求める点は2つしかない。一つはビジュアルだ。ビジュアルは男も女もひじょうに大事だ。美男美女を求める生き物は地球上に人間だけだ。だからこれは、人間の原始機能になるわけだが、まあ、話がまた逸れるから、ここでは触れない。二つめは、自分を特別扱いしてくれる甘さだ。甘さがある男はうれしいのだが、誰にでも甘い男は好きじゃない。自分だけに甘い男がよいのだ。モテるという男は、ここにつけ込むのだ。
 しかしながら、すべての女性がそうだとは言わない。ある意味女性もズルい。甘さを求めるのは、あくまでも「恋愛対象」というカテゴリーの男だ。賢い女性は、結婚相手を選ぶ時には「甘さ」の優先順位はかなり下がる。真の優しさがあるかどうかを必ずチェックしているのだ。そこを見ていない女性は、結婚してから後悔することを賢い女性は皆知っている。まあ、女性は自分の彼氏を一度点検してみるとよい。
 もう一つ、本当の優しさが日常的に見ることができるシチュエーションがある。それは、子どもの対する優しさだ。親の優しさとは、一般的には「親の愛」と呼ばれるやつだ。「親の愛」は決して甘くない。どの国の親も子どもには厳しい。特に母親はうるさい。うるさくて厳しい。でも、母親が嫌いな人はこの世にいない。それは、母親の行動のすべてが、優しさの上に成り立っているからで、そのことは子どもも理解している。うるさい母親に育てられた子供は、自分が世の中に出たとき感謝する。だらしなく育たなくてよかったと思う。それは、自分が子供を持った時にはっきりと理解する。しっかり厳しく育ててもらったことに感謝するのだ。だから、母親が年老えた時、息子や娘は恩返しをしようとする。
 かわいいかわいいで育てたら、将来どんな人間になるかわかっているから、親は徹底的に社会のルールや道徳観念を教える。時には、親が持っている信念や理念なども教え込む。そうしないと、大人になって苦労するのがわかっているからだ。あえて厳しくする。ライオンが千尋の谷に子どもを突き落とすという。これが親の優しさであり愛と表現することもある。

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「優しさ」と「甘さ」(7/9) ~上司の本当の仕事~ [哲学]

 エセ親分の見分け方について、もう一つだけ付け加えておこう。エセ親分かどうかは、周りには心底ついて行こうという人間がいるかどうかを見ればいい。それは、ざっくばらんに話してみればいい。アニキ哲学の読者なら判別は簡単だろう。人生をどう考えているか、自分の行動軸があるか、それに基づいて行動しているか。これだけ見ればいい。エセ子分は、エセ親分ほどその演技が堂に入ってないから、すぐにボロが出る。要は、同じような上っ面だけの輩の中に身を置いているにすぎないから、エセ親分を利用できる間のみそこに居るだけだ。親分が苦境に立って将来が危ぶまれた瞬間に、他の親分のところへ鞍替えだ。子分がそんな調子だから、エセ親分の全盛期は長くは続かない。仕事ができるという評判も、数十年が経過するにつれて、だんだんとメッキがはがれてくる。エセ親分は賞味期限付きと言えよう。
 だいぶ話が逸れてしまったので、元に戻そう。アニキも若い頃、くだらんエセ親分に着いていってしまい、かなり時間を浪費してしまったので、後進に対して気を揉むのだ。若い時、特に社会人の成りはじめや、転勤などで右も左もわからない孤独な状態では、エセ親分のその優しさに引っかかりやすいからだ。
 では、親分とまではいかないが、普通の上司や先輩サラリーマンの優しさについて触れてゆこう。例えば自分が、仕事上において厳しいことを部下や後輩に言うと、「優しくないな、厳しいな」みたいなことを上司や同僚から言われることがよくある。「それは言い方の問題なのか、内容の問題なのか、どっちだ?」と尋ねると、「両方だ」みたいな答えが返ってくる。指摘した本人達も、よく分かってないのだろう。アニキから厳しく言われた相手は、ポーズでも、うなだれて落ち込んだ様子するのが普通だろう。その落ち込んだ姿を見て、同情してそう言っているにすぎない。これはただの外野発言だ。
アニキは、「言い方」も「内容」も熟考した結果として相手にぶつけているつもりだ。ポイントは、相手を本当に思いやる内容だろうか、相手が受け取れるギリギリの内容だろうか、このタイミングでよいだろうか、などだ。言い方に関しても、諭す方がよいか、激怒したパフォーマンスを見せた方がよいか、だ。そこには、相手の性格とこちらの怒りのレベルを同時に伝えたいという想いがあり、考えての言い方なのだ。それは、厳しいことを言う時には、その効果を最大限に引き出さなければならないからだ。
 さらに、厳しいことを言う時に考えねばならないのは、言った相手が受け止めるだけの器があるかどうかだ。相手の心を折ってしまっては元も子もない。折れるところのギリギリを狙うのだ。過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したと思うが、上司の仕事は、「部下が耐えられるプレッシャーの大きさを見ること」だ。部下がどれだけのプレッシャーに耐えられるかを上司は熟知していなければならない。上司の一番大事な仕事とは、「部下のプレッシャー許容量を把握すること」だ。まず、これが部下教育だ。これを置いて、教育や指導は始まらない。
 アニキは何が言いたいのか。「耐えられるギリギリのプレッシャーを与えることが、優しさだ」ということだ。そして、外野発言する奴らも優しさの本質を理解していない。つまり、甘さと優しさがわかってないのだ。わかっていれば、上司に罵倒された部下をこっそりと捕まえて、罵倒の意味や上司の信念などをアドバイスしてあげればいい。これが、先輩や同僚の優しさだ。同情することではない。

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「優しさ」と「甘さ」(6/9) ~エビス顔に注意しろ!~ [哲学]

 前回の続きになるが、人生がムダになるから、エセ親分には絶対にはまるな!と言いたい。だから、カスの集まりに連れて行かれる前に、エセ親分を見抜くことが重要だ。しかし、夜、徒党を組んで祭り上げられているエセ親分より、社内にいる昼間のエセ親分を見抜くのはもっと難しいのだが、ここでも見抜くポイントをいくつか紹介したい。
 エセ親分は、社内では意外と仕事ができると評判の奴が多い。まあ、仕事ができない奴がいくら奢ってくれても、だれもついて行かないからな。常識と言えば常識だ。「仕事ができる」などと噂されてる奴が周りに居たら、まずはそいつをよく見てみることだ。うわべだけの優しさをまき散らして、えびす顔で穏やかな性格を演技しているのではないだろうか。これがまず、エセ親分の一つのしるしだ。これは、エビス顔という優しさの仮面で、仲間を集める。いろいろ親しみやすく話すその姿に、「ああ、いい人だなあ」と幻覚を見せる罠である。この罠を仕掛けられると、半端な輩はふらふら着いていってしまう。いつもニコニコして腰の低い輩には要注意だ。このエビス顔、アンコウのちょうちんのようなものだ。深海の闇の中の1点の光は、寂しい心をいやしてくれる。ちょうど、エビス顔と穏やかな言葉は、会社という殺伐とした深海に照らし出された1点の光だ。だが、これはアンコウと同じで罠なのだ。
 エセ親分のエビス顔について説明しよう。このエビス顔、とにかく、度が過ぎていることが多いのだ。長年のエビス顔は、堂に入った完成されたものなのだが、それゆえにおかしいのだ。普通のサラリーマンが年取った住職のような完成型のエビス顔のはずがない。家に帰れば、奥さんのいやみを浴びせられ、いうことを聞かない子ども達に辟易とする生活を持つ人間が、完成型のエビス顔のはずがない。だから、エセのそれは演技だ。だから、演技かどうかを見抜くことに集中することだ。人を見るのもサラリーマンの大事な仕事だ。できるだけ早いうちから、人を見抜けた方がいい。これは後日ブログ「サラリーマンの武器『人を見抜く』」で話そう。ここで重要なことは、演技であるエビス顔を見抜くことだ。
 演技であるエビス顔をじっと観察していると、ところどころでエビスが消えることがある。実はこのエビス顔は心からにじみ出たものではないから、時々消える。その消えた瞬間の顔をじっと観察すると、意地の悪い顔が浮かび上がる。このポイントを逃してはいけない。これが本性だからだ。エビスの仮面がはがれ落ちた瞬間だ。例えば、電話なんかで、電話の相手からムカッとすることを言われた時などに現れる。つまり、想定外の状況が突然訪れた時、エセ親分のエビス顔が消えるのだ。でも、さすがはエセ親分だ。すぐにエビス顔に顔を戻し、落ち着き払った態度で仕事を続ける。ここがポイントだ。しかし、中にはホンモノの親分もいるから、エビス顔だけではなかなか判別は困難だ。
 もう一度言うが、「完成されたエビス顔」であることと、突発に現れる「エビス顔が消える瞬間」を捉えることだ。

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「優しさ」と「甘さ」(5/9) ~カス集団を見抜け!~ [哲学]

 一方、ホンモノの親分肌は違う。本人は、周りに人が集まるのは邪魔くさくて嫌なのに、周りから寄ってきてしまう。言葉もぶっきらぼうだし、本音をズケズケと言うものだから、周りから見るとがさつな不作法者に映る。厳しいことを言ってるにもかかわらず、なぜか人が寄ってゆく。よく観察すればわかるのだが、厳しいことを言うだけでなく、面倒見がいいのだ。優しさの押し売りなんかしない。エセ親分と違って、周りの評判なんかはどうでもよい。本当に気になるから、何とか助けてやりたくなる、ただそれだけだ。困ってる人を見捨てられない性格だから、あれこれとお節介だ。それも筋金入りのお節介の軸があり、その信念に基づいて行動するから、人は惚れてついてくるのだ。そんな人は絶滅危機に瀕しているが、サラリーマンやってたら、たまに見かけるに違いない。
 エセ親分肌とホンモノの親分肌の一番大きな違いは、魂胆があるかないかだ。エセ親分は、本当はホンモノの親分肌にあこがれている。周りに自然と人が集まってくればいいなと思ってる。しかし、現実はだれも周りに来ないから、自分からエサを撒いて人を集める。結果的に、人が周りに集まってる状態であれば、ホンモノの親分に見える。だが、皆はホンモノかエセかをきちんと見極める必要がある。エセ親分にくっついていっても、良いことなんか一つもない。エセ親分を取り囲んでいる奴らをよく見てみろ。くだらん連中が多いことに気づくはずだ。エセ親分を利用してなにかを企んでいる奴だとか、エセ親分の財布に寄っていく奴だとか、エセ親分のおこぼれに頂戴しようと考えてる奴だ。ろくなもんじゃない。特にダメヤローは、エセ親分のカクさんスケさんだ。要は、そのグループでのナンバー2を気取ってる奴だ。本当にどうしようもないぞ。エセ親分に最も取り入っているから、エセ親分には一番気に入られているはずだ。それをいいことに、その威光を借りて、あたかも自分が親分のように振る舞う。アニキは、そういう奴を「ねずみ男」と呼ぶのだが、一番たちが悪い。
 もし、君が新人で、年の近い先輩に誘われて、親分と呼ばれるような人の集まりに参加したとしよう。そこで君臨している親分がエセかどうかを見抜くポイントがある。まず、確認することは、親分のそばに「ねずみ男」がいるかどうかだ。ねずみ男を発見したなら、すぐ帰るべきだ。が、社会人経験の少ない新人には、なかなかわからないかもしれないから、次のポイントを教えよう。それは、前述のごとく、親分の周りを囲んでいる輩のレベルだ。他意のない心がきれいな人が多いかどうかだ。やたら命令口調で、下の人間を威圧するものの言い方をするような気配を感じたら、ほぼ間違いなくエセ親分の集合体だ。ホンモノの親分を囲っている集まりなら、親分やその側近はみんながハッピーかどうかに気を配るもの。楽しさを基調としていない、殺伐とした空気を少しでも感じて、そこには威張ってる奴がいて、それをそのさらに上の人間が制止できないとするなら、残念だがそこはカスの集まりだ。エセ親分を頂点とした烏合の衆の集団である。さっさとおさらばするに限るのだ。そこの親分が、いくら昼間は仕事ができると評判の高い人でも、その集団は自分で集めたカスの集まりである。
 カスの集まりに捕まると、次第に運が悪くなり、人生が負の局面に入るから、人生の成功からかなり遠回りになる。優しさをはき違えると、落とし穴に落ちるのだ。


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「優しさ」と「甘さ」(4/9) ~エセ親分~ [哲学]

 友人や親子などの間において、飾らない真の優しさのやり取りが行われるのが一般的だろう。だが、それだけではもったいない。人生の内、睡眠の次に多くの時間を占める仕事において、こいつを使わなきゃダメだ。優しさを仕事に応用してこそ、人生が生きてくる。友達や家族と過ごす時間なんぞ、人生の中の時間にすれば微々たるものだ。それなのに、なかなか仕事に応用できる人はいない。実は、「親兄弟や友達には厳しいことを言えるが、会社ではちょっとねぇ…」という人は、「実は私は仕事に真剣に取り組んでない」と暴露しているようなものだ。仕事に対する心構えが足りないという問題だ。親友の身には真剣になれるくせに、仕事には真剣になれない。そういう人に訊いて見たいことは、「親友には真剣になれるのに、なぜ仕事仲間には真剣になれないのか?」と。このことは何を意味するのか?
 話は逸れるが、親分肌って言葉を聞いたことがあるだろう。親分肌と言えば、優しさの代名詞だ。男気があって義理人情に厚い。そんなイメージだな。で、誰でも知っている通り、親分肌の奴の周りには、多くの人が集まってくる。親分の人間性に惹かれているからなのだが、なぜ集まるのか?それは、親分の厳しい優しさに惚れるからだ。でも、ここでもそれが本当の優しさか甘さかに分かれる。そう、親分には2種類のタイプがいる。
 1つは、甘さという優しさで周りの人気を稼ぐエセ親分だ。エセ親分は、根っからの親分肌ではない。本当の親分肌というのは、自分から周りに仕掛けていかないものだが、エセ親分は違う。優しさというエサ撒く。見てればすぐわかる。特にわかりやすいのは、「おごり」だ。メシなどを奢ってやることが日常化している。無理矢理周りの人間を飲みやメシに連れて行く。奢ってくれることがわかっているから、金のない若い奴らはホイホイついて行く。知らない人間からすれば、若い奴に人気のある親分だと見えてしまう。飲みに行っても、作られた優しさを振りまき、八方にいい顔する姿はまるで営業そのものだ。最初は優しくていい人だと思ってついてゆくが、何度か集まりに参加していると、信念の矛盾や哲学の浅さなどが露呈してくる。親分肌というメッキがはがれてくるのだ。「なんだ、少しおかしいぞ」と思ったら、メッキのはがれ方は著しい。とはいいながら、「まあ、害もないし、奢ってくれるなら、いいか」ぐらいの感覚だ。しかし、お金で釣った魚は長続きしない。金の効果がなくなるとついて行かなくなる。財力が尽きた瞬間から、人気がなくなる。肩書きを振りかざしてくる親分も同じだ。肩書き親分は見てればわかるが、周りから集まった訳ではなく、本人自らが集めている。だから、肩書きに効力がなくなると、やはり見捨てられる。人柄に集まっているわけじゃない。
 巧言令色少なし仁だな。これがエセ親分の特徴だ。

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「優しさ」と「甘さ」(3/9) ~耳が痛い~  [哲学]

 それはなぜか?今の薄っぺらな人間づきあいに原因がある。昔は、友達や親しい間柄であれば、遠慮なく他人の心の中にズケズケと入り込んで、その根元をいじり倒した。無関心ではいられなかったのだ。本人のためのアドバイスが正しいかどうかは問題じゃない。どうせ大した知識も持ち合わせてないから、立派なことも言えなければ、データに裏付けされた知識もない。説得するのは不可能に近いのだが、それが間違っていると思ったら、居ても立ってもいられない。とにかく相手に対して無関心ではいられないのだ。言われる側としては、自分の心の中まで土足で入り込んでくる連中は邪魔でしょうがないのだが、むげにできない何かがあるのだ。自分を攻撃してくる言葉や態度は非常にむかつくのだが、相手のために真剣にとりつくその姿に、とりあえず話を聞かざるを得ない。それは、相手のことを真剣に思うその心が、優しさから出ていることが痛いほどわかってしまうからだ。その気持ちが熱すぎて振り払えないのだ。
 一方、甘さが優しさだと勘違いしている連中は、相手を立ててしまう。例えば、仲良しに自分の選択肢などを相談された場合、「自分の道は自分で決めるもの」「君が決めた道を俺は応援するよ」とかいいながら、本人の主体性を尊重したりしている。一見、優しそうに見えるのだが、全然優しくない。本当にそう思ってる人間ならそんな態度は取らない。これは、「俺は厄介ごとはゴメンだよ、自分で決めて」という無関心な姿勢だ。相手を尊重することが親切だと勘違いしているいい例だ。これは甘さであり、全然優しくないのだ。
 優しさと甘さは本当に紙一重だ。相手のことを思っているのかもしれないが、どこまで思っているのかという問題だ。うわべだけ、その場しのぎの優しさは甘さであり、そのことで本人の未来に悪影響を及ぼすことにもなりかねない。本当の優しさならば、自分の直感で「それがよくない」と思えば、とことん厳しく相手を追求するものだ。説得する必要なんかはない。すべては自分の考えを柱として、厳しいことをバンバン言ってやればいいのだ。で、言われる側はそれを受け止めなければダメだ。厳しさはその人の優しさや思いやりから出ていると理解して、受け止める心が重要だ。受け止める心なくしては、厳しい言葉はただの攻撃にすぎず痛いだけだ。
 だから、優しさとは双方に努力が要る。日頃から、「俺の悪いところを何でも言ってくれ」と言いながら、反対に「おまえの悪いところも遠慮なく言うぞ」という関係を築く。理想と言ってしまえばそれまでだが、まあ近づける努力は要るだろう。アニキが言いたいことは、こんなにきれいな関係はなかなか築けないだろうが、常日頃から耳の痛い言葉を受け入れる度量を持っておけということだ。耳の痛い言葉こそが、飾らない真の優しさの言葉だからだ。
 耳の痛いことを言う人を遠ざけてはいないか!おまえを批判しているのか、優しさからの言葉かは、おまえ自身が判断すればいい。そんなのは、そいつとの今までの付き合いを考えればわかるだろう。批判する奴は遠ざけろ。百害あって一利もない。耳の痛いことを言う奴を、天ノ言葉だと思って大事にすべきだ。

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「優しさ」と「甘さ」(2/9) ~本当の優しさ~ [哲学]

 能書きをこいてしまった、話を戻そう。優しさと甘さの定義だったな。
 人に対して何かすることにより、その結果、物事がよい方向に進めば、それは「優しさ」だ。一方、それで物事が悪い方向へ進む場合、「甘さ」となる。甘さは物事が悪い方向へ進むだけではなく、弊害を生んでしまう場合も含む。これがアニキ哲学おける定義だ。あまりにも抽象的すぎてわかりづらいな。それをこれから説明してゆこう。
 日本語には、「甘やかす」という言葉がある。例えば、爺さんが孫にお金品をプレゼントした場合を想像してもらいたい。これは、行為をする爺さん側から見れば、甘やかしているつもりは毛頭ない。孫に喜んでもらいたい、孫を喜ばしたいという優しさから出た行為のはずだ。しかし、その行為は、子どもの親から見た場合、甘やかしていると見えてしまう。親の気持ちとしては、子どもに何の理由もなしにお金をあげるのは良くないと考える。ここに優しさと甘さの落とし穴がある。
 行為をしてあげた相手が喜ぶことは「甘さ」だ。行為をしてあげた相手が逆に喜ばないことが「優しさ」である。自分のやろうとしたことが、優しさなのか甘さなのか迷ったら、相手が喜ぶか嫌がるかで判断するのもひとつだ。わかってるとは思うが、ここで注意しておかねばならないのは、「そこに相手を思いやる優しい気持ちがあるか」ということが重要だ。嫌がる行為が優しさだと捉えて、本当にいやがることをするのはお門違いだ。そんなことで反論するガキはアニキブログ読者の中にはいないと思うが、とりあえず一言付け加えておきたい。
 相手が嫌がることをすると、そこには「嫌われてしまう」というリスクが伴う。だが、そんなリスクより、相手の今後を案じてしまうから、あえて厳しいことを言う。今、相手に嫌われるより、今後が心配なのだ。だから、この場合上位概念は「嫌なことを言う」が上なのだ。これが優しさの原点だ。だから、本当に優しさとはこの場合、「じいちゃん、お金がほしい」と孫が言ってきたのなら、「ダメだ」とむげに突っぱねるのが正解だ。ジジイは孫の将来を考えれば、おいそれとはお金なんか与えない。自分がそう育ってきたはずなのに、立場が変わると対応も変わるのか、人生の終盤にさしかかるその年齢になっても、優しさと甘さの違いがわかってないのはどうかとも思う。又は、わかっていても「まあいいか」で片付けているのかもしれない。その場合はもっと悪い。無関心という大罪を犯しているからだ。「今後はどうなろうと、あとは親に任せてしまえ」という無関心さだ。
 この「無関心という大罪」については非常に重要なテーマであり、長くなってしまうので、後日ブログで話そう。要は、この例だとよくわかると思うのだが、自分自身が当事者となる事例では、優しさというものはなかなか実践できてないのが実情だ。
 今の時代、なかなか本当の優しさ実践することができない。相手に嫌われてしまうというリスクを冒すことが怖いのだ。だから、友達が間違った方向へ向かっていても注意すらできない。本当に友達のことを考えるなら、間違った方向へ向かっているのであれば、引きずってでも阻止するはずなのだが、それをするのはなかなか現代人にはハードルが高い。

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「優しさ」と「甘さ」(1/9) ~言葉は己で定義付けろ!~ [哲学]

 どうも最近、「優しさ」の意味をはき違えている若い人が多い。アニキから見ると、それは優しさではなく、甘さだろうと思うのだが、優しさだと誤認している。優しさの本質がわかってないんじゃないかと感じる。優しさも甘さもともに、相手を気遣う気持ちから発している。そして、ともに相手に何かをしてあげる行為には変わりがないが、それぞれの意味がわかってないと、効果は全く違った意味を持つ。意味がわかっていないと、期待していた結果と180度違った結果になることもあるのだ。
 じゃあ、優しさと甘さの違いとは何か?まずはそのことをきちんと認識しておく必要がある。アニキの言葉の定義は一般的な定義とは異なる。ちょっと話は逸れるが、アニキ哲学の一つのポイントだから説明しておこう。アニキ哲学における言葉の定義は、辞書なんかで調べても出ていない。何でもそうだが、言葉は生かして使う必要がある。アニキは、辞書でしらべた言葉の定義など、死んだ言葉だとよく言っている。死んだ言葉とは、辞書を作った人には失礼な話かもしれないが、要するに、そのままでは人生に活用できないってことだ。言葉とは、魂を吹き込んでこそ生かすことができる。辞書の言葉には魂が入ってないから、アニキは死んだ言葉と呼ぶのだ。
 では、言葉を生かすにはどうすべきか?言葉を生かすには、そこに自分の哲学がなければ生きた言葉とはならない。己の哲学により、言葉に魂を吹き込むのだ。魂が入ると、自分なりの解釈にてその言葉を使うことができる。これこそが言葉の生きた使い方で、他人がなんと言おうが、己の信念を纏ったその言葉の定義を誰も否定することはできない。なぜなら、それはその人の哲学までも否定することになるからだ。他人の哲学を否定するなら否定してもよいが、そのためには、その否定者の哲学は、さらに上回った哲学でなければ否定することはできない。つまり、確固たる信念の軸を持って人生に臨んでいる人を否定するには、それなりの信念の柱で対抗しなければならないということだ。それができるほどの信念と覚悟があるかどうかだ。信念を持った人間には、生半可なノンポリ人間では熱くて近寄れない。ましてや、口先だけのにわか哲学評論家なんかが近寄れる隙はない。簡単に蹴散らされるのがオチだ。しかも、アニキ哲学が認める哲学とは、行動で示しているかどうかが重要だ。行動で示せない口先だけのにわか哲学では、すぐにメッキがはがれてしまう。要するに、行動で示していない哲学では、矛盾だらけで一貫性がないから、言葉に全然説得力がない。論客にすらならない。全く議論の相手にならないのだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、「言葉は自分で定義付けろ」と言うことだ。他人が使う使い方がたとえよいとしてもだ、他人が魂を入れた言葉は、その人にとっては生きた言葉だ。しかし、自分が魂を吹き込んだものではないから、それは死んだ言葉と同じだ。他人の言葉の定義が腑に落ちたとしても、そのまま使うのではなく、自分でしっかりと言葉の定義を咀嚼し、自分の行動において使ってみて、納得してはじめて自分の魂を吹き込んだことになる。
 繰り返すが、「言葉は己で定義付けろ!」だ、いいな。自分で言葉に魂を吹き込んでみろよ。女にもてるぞ。

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親の謎「親の心、子知らず」(9/9) ~かっこいい親~ [哲学]

 アニキは何が言いたいのかというと、親は子供がかわいいからこそ、中学卒というヨチヨチ歩きの時期に、プロがひしめく社会に入れたくはない。それが親心だ。「勉強が嫌いだから就職する」だとか、「やりたいことがあるのになんでダメだと言うのか」とか、子供は親に楯突くが、親が子供の意見を否定する理由はちゃんとあるのだ。中学卒業してすぐに、何の武器も持たずにプロがしのぎを削る世界に入ったところで、あっさりやられてしまうのがわかってるからだ。それに親は、「仮に、俺でもだめだったろう」との思いもあるからだ。
 でも、想いが高まった子どもは、親の言うことなんかはきかない。「なんでやる前から失敗することを言うのだ」と、子どもは憤慨するのだろうが、自分ができる人間だと思っている若者よ、ここでちょっと耳を傾けてもらいたい。自分ができる人間かどうかは、親を見ればわかるということを。自分の親をよく観察してほしい。親は自分の将来の鏡である。すべてそうだとは言わないが、ほとんど当たる。親をよく見た暁に、「全然ダメじゃん、大したことないな」と思ったら、その子どもも大したことないのだ。親がオリンピック選手や総理大臣だったら、子どもは自分もすごいのだと勘違いしてもかまわない。が、現実はそうじゃない。「俺は親父みたいには絶対ならない」なんて吹聴する奴ほど、「おまえは間違いなく、親父みたいになる」と。そう思う性格も親譲りなわけだ。
 理由はこうだ。子どもは生まれる前に、自分で親を選んで生まれてくる。親が子どもを選ぶんじゃない。子どもが親を選ぶんだ。自分の魂が親を選んで、生まれてくるその胎児の肉体に入り込む。親は肉体の親であり、魂の親ではない。で、魂の目的は何だ?そうだよな、修行だよな。この世で修行するんだよな。ということは、親を選ぶ時、修行に適した親を自分で選ぶということになる。例えば、「社会的に地位があっても威張らない」という修行が今世の目的だったとしたら、やはり社長かまたは相応の地位者である親を選んで生まれてくるものだ。そうではなく、自分の親が一般的なサラリーマンであるなら、自分の修行も親と似たような経験をすることになる。で、肉体は親に育ててもらうことになるが、魂は自分で磨くのだ。子供の魂も親の魂も、魂レベルではフィフティフィフティだ。上も下もない。親が偉そうに言う言葉には、知識と経験とそこから導かれる哲学が組み込まれて、子供にアドバイスしているにすぎない。魂のレベルに親子はない、親子という役割を演じながら修行することを決めてきただけである。親も、親として自分の魂を磨く。子供も、子供として魂を磨く。そういう意味においては、親子は修行者としての同僚であると言えるのだ。
 だから、最初から立派な親などどこにもいない。立派な親とは、自分が未熟な親であることを最初から認め、子供と共に成長することを受け入れて、日々の一生懸命な姿を子供に見せる親だ。やっていることがいいか悪いかではない、一生懸命かどうかだ。それが立派な親の基準であり、その一生懸命な姿を子供が見たとき、その姿を「かっこ悪い」と思うかもしれない。しかし、自分が大人になり、子供を持った時、あの時の親の一生懸命な姿を思い出し、「あれは実は立派だったのだ」と感じればいいのだ。
 つまり、立派な親とは後々の評価であり、子育てに直面している時はかっこ悪くていいのだ。かっこよく子育てしている親など、実は子供にはなにも伝わっていない「かっこ悪い親」なのだ。アニキ哲学は言う、「人は言葉で判断するな、行動で判断しろ」と。
 人は、「親の一生懸命でかっこ悪い姿こそが、実はかっこいい姿だったのだ」とわかる時、初めて一人前になったといえるのではないだろうか。

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親の謎「親の心、子知らず」(8/9) ~お子様よ、最後まで立て!~ [哲学]

 だから、「若い時の苦労は買ってでもしろ」なんて昔の人は言うが、これは程度の問題で、心が折れる程の苦労は経験しない方がよい。苦労した後に、「あのとき苦労したから今の自分がある」と思うのがよい。「なんで俺だけがあんな苦労しなくちゃいけないんだ」なんて思うような苦労は身を滅ぼす。軸を太くするような考え方ができる苦労がちょうどよい。考え方次第なのだが、大学生なんてまだガキだから、「人生は考え方次第でプラスにもマイナスにもなる」という稲盛さんの教えを理解できるわけがない。この考えがわかるようになるまで結構年齢を重ねてしまうものだ。
 だから親が、子どもにあまり苦労はさせないようにするのはこのためなのだ。子供は経験がないから、社会がどれほどの「嵐の海」なのか、その意味がよくわからない。中学卒業で社会に出るということは、職人の道しかない。職人を目指すという子供の夢に反対する親の気持ちは、前述のように子供の根性を侮っているのだが、ただそれだけではない。大志を持って職人の道へ進んだとしても、そこでの修行は一般のサラリーマンに比べてはるかに厳しい。一挙手一投足において厳しくやられる。それは、甘い環境の家庭で育ってきた子供にとっては相当の苦難だ。業務環境も相当ブラックであり、パワハラの毎日だ。昔の丁稚奉公のようなものだから、当然給料も安い。そんな過酷な環境で堪え忍び、生き残ればバラ色の人生も見えてくるだろうが、そこで生き残るのは至難の業だ。精神的におかしくなる者も多い。
 人生とは、最後まで立ってられた者が勝者だ。倒れたら終わりだから、倒れないようにすればよいのだが、サラリーマン社会とは違って、職人の道では遠慮なくパンチが飛んでくる。それもきついやつが急所を攻めてくる。で、膝をついたら負けで、悲惨な結末を歩むことになる。大卒のサラリーマンならそんな厳しいパンチは飛んでこない。たまに厳しいパンチも飛んでくるが、避けやすいヒョロヒョロなパンチやガードできるパンチも多い。それと、高校・大学まで進んでいくうちに、パンチのガードの仕方や避け方も学ぶ時間と機会が充分にある。しかし、中学卒には機会も時間もない。常にパンチを浴びながら学ばなければならないから、自分の根気と体力勝負だ。ギブアップする確立は非常に高いのだ。鼻血を出しながら冷静に考えるだけの頭の良さも要るのだ。
 そして、膝が地に着きギブアップした時、学歴がなければその後がないことに初めて気づく。他の選択肢という「つぶし」が効かない。ここに、職人の道の厳しさがあるのだ。寿司屋にしろ、大工にしろ、芸能界もそうだ、すべてが職人の世界である。サラリーマンなんて甘っちょろい世界じゃない。サラリーマン社会であれば、多少厳しさはあるものの、先輩や上司が手取り足取り教えてくれる。新人を潰してしまうと「部下指導の能力がゼロ!」というレッテルが貼られる。将来、管理職として通用しないということが汚点となるばかりでなく、その上の上司からもバツ評価を与えられてしまう。がしかし、職人の世界は違う。できない奴は潰してもかまわないから、着いてこられる奴だけ残せばいい。いきなり、処世術と根性を試される世界だ。
 以前のブログでも紹介したが、「サラリーマンの武器」の数々を、いきなり使わなくてはならなくなる。大卒サラリーマンのように、ちんたらと武器を磨いている時間はないのだ。

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親の謎「親の心、子知らず」(7/9) ~若いうちの苦労~ [哲学]

 ところで、要領の良さは社会に出てからしか学べないのかとおもいきや、学校でも学べる場面もある。それはテストの「一夜漬け」だ。一夜漬けは、要領の良さの訓練にもってこいであり、高校や大学の定期考査はまさに一夜漬けを学ぶためにあるといってもよい。大学へ行く価値のひとつはこの一夜漬けによる要領の良さを訓練できることだ。一夜漬けで単位を取ってこそ、着々と要領の良さが身についていることになる。親は、せっかく大学に行かせているのに、日頃から遊び惚けて全く勉強しない我が子を見て、ため息がつく。試験前だけ勉強している姿しかなく、要領の良さを身につけさせるために大学へ行かせているようなものだが、落胆することはない。高い授業料を払って、社会で一番役に立つ要領の良さを身につけているからだ。
 しかし、悲しいかな、この要領の良さは苦学生ではなかなか身につかない。自分で学費を稼ぐ学生は、真面目にコツコツ勉強してしまうためだ。コツコツと真面目に勉強してしまうと、焦らないから要領の良さは身につかないのだ。親に授業料を出してもらってるお気楽大学生が、それを身につけてしまう。実はコツコツ型ではダメなのだ。怠け者こそが要領の良さを身につけるに適した性格だ。新聞奨学生が悪いと言ってるのではない。それはそれで立派だ。要領の良さは身につかないかもしれないが、人間の軸というものは太くなる。これも人生においては大事だ。人間、苦労は決してムダではない。結果は出ないかもしれないが、苦労から学ぶことは本当に多い。「苦労しても結果が出なかった」という経験からも何かが学べる。それが人の軸というものを太くするのだ。そういう意味では、苦労とは人間の基礎を作るためには欠かせない経験なのだ。まあ、相撲の稽古の四股のようなものだ。地道な四股が横綱を生むということだ。
 世の中理不尽なのだが、アニキ哲学の根幹にも触れる現象がここにもあるから、少し話しておこう。苦労している奴より、お気楽な奴の方が人生は思うように進むという事実がある。これが世の中のしくみだ。この話も長くなるから別途させてもらうが、ここでは何が言いたいのかというと、お気楽な学生の方が要領の良さという社会に出て役に立つ力を身につけてしまうということだ。そして、苦学生が身につけるものは苦労からの学びなのだが、ここで注意しなければならないことがある。実は、ここでも若すぎるうちの苦労による弊害がある。中学卒業でいきなり社会に出る若者の苦労とはまた別物だが、大学生で苦労のしすぎも問題だ。苦労に心が押しつぶされないようにしないといけないということだ。
 心が折れる程の苦労を若い時に味わうと、それが被虐的に自分を捉えてしまい、世の中をすねたり周りをやっかむマイナスの心が生まれる。そうなると大変だ。アニキが過去何度も話している通り、マイナス思考が生む「不幸のスパイラル」だ。マイナスの心をもっていると、思いっきり不幸になる。苦労が人生を上向きにさせる人と、不幸を招く人の差はここにある。同じ苦労をしても、とらえ方や考え方で結果はすべて正反対になるから不思議だ。引き寄せの法則や願望実現の本なんかにも書いてあるだろう。プラス思考でいかないと、とんでもないことになるのだ。

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親の謎「親の心、子知らず」(6/9) ~壁とプレッシャー~ [哲学]

 過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したが、プレッシャーが人の何を育てるのかと言えば、そのひとつに「要領の良さ」がある。要領の良さは本来、プレッシャーの中で磨かれるもだから、精神的にも未熟な中学卒業レベルでは要領の良さなど全く訓練できてない。暴走族グループなどの強烈な上下関係組織などに所属していたのなら話は別だが、そんな例外はここでは話題にはしない。一般的な話でいえば、学校のような「与えられる場所」においては、要領の良さなど磨けない。日本の学校は海外の学校と違って与えられる場所だと、過去ブログでも書いたことがある。そんな場所ではプレッシャーなどほとんど存在しない。
 学生がプレッシャーと呼んでいるような状況は、ほとんどプレッシャーではない。ただの山である。まあ、壁と言ってもよいだろう。目の前の壁だ。壁とプレッシャーとは全く別物だ。壁もプレッシャーも自分の目の前立ちはだかる大きな困難で、ここは同じだ。その乗り越え方が最初からわかっていて、それをがんばれば乗り越えられるものが「壁」だ。そして、困難にぶち当たったときに乗り越え方がわからないのが、プレッシャーだ。プレッシャーに直面した時は、解決方法が見つからず八方ふさがりで、自分が押しつぶされそうになる状態だ。プレッシャーに直面したときには、なんとか脱出するために何とか知恵を絞ったり、行動したりして、解決策を見いだす必要がある。壁のように解決策がわかっていて、それをがんばれば乗り越えられる状態とは全く違う。壁は出口があるのだから八方ふさがり状態ではない。この話も長くなるから、別の機会に話すが、ここで言いたいことは、中学生までの間にはプレッシャーなどは存在しないということだ。それは、先生という導く存在がいるのが大きい。家庭の問題とか個人的にはいろいろあるだろうが、多くの一般ピープルはそんな感じであろう。
 それだけじゃない、要領の良さを身につけるには、ある程度の成熟した年齢ということも重要なファクターだ。要領の良さを身につけるために必要な二つ目の力は「ずるさ」だ。若すぎる年齢では「ずるさ」が不足しているのだ。人間は元々怠ける生き物だ。人間の原始機能は「怠けること」であり、「勤勉さ」ではない。人間はちょっと油断すると怠けるようにできている。人は成長するに従い、ずるくなる。知恵がつくに従いちょっとしたことで、怠けることを意識する。日本語には「面倒くさい」という言葉がある。子供の頃は、怠けることを意識しない。学校の先生の言うことは聞かなければならないと教え込まれるから、最初はそれを疑わない。しかし、年齢が上がると次第にずるくなるのと同時に、面倒くさがりにもなる。これは、精神的に成長していることを意味する。人間は元々は怠け者だから、楽するために「要領の良さ」を身につけてゆく。社会に出れば、否応なしにずるさや要領の良さを学ばなければならない。
 サラリーマン社会は、バカ正直では決して生き残れないからだ。


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親の謎「親の心、子知らず」(5/9) ~親の苦労とそのレベル~ [哲学]

 ほとんどの親は未熟だから、子育てには苦労して苦労して、失敗しては修正しての繰り返しだ。そんな苦労話は、廻りにいくらでも転がってるから、ネタには困らない。が、あくまでも他人事で聞きたい話だ。子供が怪我したとか、病気で大変だったなどという普通の苦労ならまだ微笑ましいが、犯罪手前まで行ったとか、鬱になったとかという厳しい苦労話となると、あまり聞きたくもないし、自分が当事者になることも極力避けたいはずだ。話を聞いたからといって、その苦労話はあくまで他人のケースであり、その通りに真似てやってもうまくいくことは少ない。子供の性格も違えば、陥る状況も違う。対処法はあくまでも自分で練らないとダメだからだ。他人の苦労話は、多少のヒントにはなるだろうが、そこから応用を施し試行錯誤して苦労してゆくのは、それに直面した自分だけだ。
 それはしょうがないことで、今世では親の経験は初めてだから「未熟な親」でしかないからだ。本当は、前世までの間に、何十回何百回と親を経験してきたはずなのだが、その記憶は全く残ってない。生まれ変わる度に、親は素人のままだ。そろそろプロの親でもいいんじゃないかとアニキは思うのだが、なぜか人間の創造主は前世の記憶を一切残さないように人間を誕生させる。そこには創造主の何らかの意図が働いているのだろうが、記憶がないものだから、いつも子育ては綱渡りだ。子育てだけじゃない、すべての記憶がないものだから、生まれ変わる度に一からやり直すハメになる。まずは、自分の事から人生を組み立てていかなければならず、その途上に子育てが加わるように人生が進んで行く。
 だから、親も自分の仕事や生活のことで頭がいっぱいだ。そんな状況だから、できる限りいらない苦労は経験しない方がいい。子供が落ち込んで精神が病んだり、グレて自暴自棄になって犯罪を起こしたら、もっと大変だ。それこそ苦労話なんてレベルではない。社会に迷惑かけることになり、個人だけの問題では済まなくなるから、親も必死になる。結局、子供が人生の方向を誤ると、全身全霊でケツふきをしなくてはならなくなるから、親はひとごとではなくなる。だから、神経をつかうのだ。よって、むちゃな夢は最初の段階で却下する。そんなメカニズムだ。

華やかな夢には子供の想定をはるかに超える苦労が存在する。だから、親は賛成しないというよりは、できないのだ。生半可な根性だけじゃやっていけないことを親は知っているからなのだ。
それは、夢を実現するために必要な能力は根性だけじゃないからだ。「根性ならだれにも負けない」なんて吹聴する奴はいっぱいいるが、それにプラスして大事な能力が要る。その力を自分の子供が持っていないことを知ってる。それは何かといえば、「頭のよさ」だ。勉強の出来不出来じゃない。そんなものは頭の良さとは言わない。頭の良さにはいろんな定義はあるだろうが、ここで必要な頭の良さとは、まず「要領の良さ」だ。
中学卒業ぐらいの若すぎる年齢では、こいつが足りていないのだ。特に、ぬるま湯のこの国ではと、付け加えておこう。


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親の謎「親の心、子知らず」(4/9) ~親は未熟者~ [哲学]

 それと、親は自分の実力がよくわかっていて、自分の子供がどこまでできるかが何となくわかってしまう。親は、自分が今まで、「何一つ長続きしたものがない」ことがわかっており、「何一つ満足に達成したものがない」のだ。そのことを子供は知らない。さらに、自分が子供を叱るのと同じように、会社では上司に毎日罵倒されているのだ。子供が自分と似たもの同士であることに一種の悲壮感を覚えている。「なぜ、こんなくだらないところが自分と似てるのか?」と、憤りを感じている。だから、他愛もないことで急に怒ったりするのは、ある意味、その子供の行動や言動が、過去の自分のそれと似ていることに対する苛立ちなのだ。ここに、子供には隠している親のヒミツのひとつがある。
 親は、子供の頃、同じように夢を抱いて大きくなった。しかし、いつの日かその夢に挫折してしまった。夢を見るだけでほとんど努力をしなかったのかもしれない。努力はしたが、途中で挫折したのかもしれない。優柔不断で、夢もコロコロと変えて、そのまま大人になってしまったのかもしれない。親はそんな中途半端な人間なのだが、子供にはそれが見えない。夢を実現できなかった悔しさはいつでも心に中あり、消えない。だから、いつまでも現実性のない夢を見ている子供に対し、理由なく叱ってしまう。それは、自分に対する怒りでもあり、若かりし頃の自分の弱き心を叱っているのだから、子供には理不尽な態度にしか見えない。考えることもやることも似ているのだから、うんざりしている。親は普段から偉そうなのだが、子供と共に親として成長する段階であり、「親は未熟者」なのだ。
 本当は、我が子を信頼して「何でもやってみろ」と言いたいが、自分の子供である以上、無理だろうと考えてしまう。鳶が鷹を生むことはめったにないと考えるのが一般的だから、子供に「無理だからやめろ」といってしまう。親は自分が中途半端な性格であることにずっと悩み続けてきた。その子供である我が子もたぶん同じだろうと、憂いでしまう。自分が大したことないのに、子供に過度な期待はできない。必ず、自分と同じ場所で悩み、自分と同じところで躓くと考えてしまう。だから、我が子も当然親に似て大したことないはずだから、中学卒で職人の道に入ったとしても、根性の出来具合も推し量ってしまうことになる。寂しい限りである。
 「自分の人生は自分で決めればいい」とかっこよく言いたいのだが、夢に挫折した後、ケツを拭いてやることを考えると、どうしても賛同できない。「挫折してもケツを拭かなきゃいいじゃないか」と思うかもしれないが、それは子供もったことがない人のセリフだ。子供をもつ親なら、挫折した子供が辿る道のりが荒んだものなることを避けねばならないと考える。つまり、人生の旅路の修正だ。ほっといたら自暴自棄になったり、精神を病んだりする。当たり前だ、まだ子供だからな。簡単に心が折れてしまう。そこを救ってやるのが親の仕事なのだが、先にも話した通り「親も未熟者」だから、なかなかうまくいかないのだ。

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親の謎「親の心、子知らず」(3/9) ~社会からの退場~ [哲学]

 一方、子どもには伸び伸びと育ってもらいたいと、自由を宣言している親もいる。この考えはすばらしいのだが、その根底には自分が子どもの頃、親に勉強を強要され泣く泣く従ってきた経験がある。しかもそれは、自分が親になった今になっても決してよかったと思ってない。「強要される勉強は百害あって一利なし、トラウマとなって心の闇を作ってしまい、人を不幸にする」という観念だ。だから子供には自由にやらせたいと思っている。しかし、この考えを持った親で、本当に子供に自由にやらせている人をまだ見たことがない。実は、子供を自由に育てることをモットーとしている親でも、細かいところでは、全く子供を自由にさせてないのだ。なぜなら、「自由に」という概念には制約がある。要するに、「親が考えている自由度の範疇で」という話なのだ。限りなく自由ではない。ある程度の範囲を親が指定しているため、そこからはみ出ると、鳥を追うように範囲内に入れようとする。傍から見ていると、ここに矛盾が生じているわけだが、親本人達はそれを全くわかっていない。冒頭でも話した通り、親は「親初心者」だから余裕がないのだ。だから、自由にさせると言いながら、自分達の思いの範囲に入れたがる親の姿がここにある。基本的に初心者親は理解していない。子供は「親が思うようには育たない、親のように育つ」ということに。
 まあわからんでもないが、日本はくだらん学歴社会であり、先に書いたが、それは就職の際にのみ必ず必要なスペックであるといことは、誰でも知っている。入社したら全くいらないということもだ。しかも親たちは、ハイスペック学歴信仰の中で過ごしてきた。彼らは若い頃、それで苦労した経験もあるからよくわかる。低スペックがどれだけ苦労するかということもわかっている。本当は勉強が嫌いなら、中学卒業してさっさと就職してしまえばよいのだ。しかし、今の日本の学歴社会では惨め思いをするのがわかっている。そして、親にはそれが困難な人生を歩むことの予想がついてしまうから、子供に全く勧めないだけだ。
 アニキはいつも後輩に言うのだが、中学卒業で社会に出る人は、手こぎボートで嵐の海に出ていくようなものだと。だから当然親は止めるのであって、「とにかく高校や大学へ行け」というのだ。なぜなら、嵐で死ぬ確率が高いことがわかっているからだ。ここでの「死ぬ」は、挫折して社会からの退場することを意味する。親は人生の先輩だ。その荒波がいかに高いかがわかるから、子供をあえて危険な目に遭わせることをしたくない。中学卒業してミュージシャンになりたいとか、演劇やりたいとか言う子供に対し、徹底的に反対する。しかし、子供にはその意味がよくわからない。親が声を荒げて阻止しようとするその意味が全くわからないから、「親が自分の可能性を潰そうとしている」と被虐的になるのだ。別に親は、子供の可能性を潰しているわけではない。可能性を潰そうとしているのは社会だ。プロのひしめく社会という荒波に、純粋培養した自分の子供では全く刃が立たないだろうと考える。プロ社会における免疫もないから、ころっと簡単にやられてしまうのが見に見えるだけだ。社会という荒波に潰されて、退場させられることを憂いで、親はそう言うのだ。親の言う言葉の意味をよく考えろということだ。
 アニキ哲学は言う、「親の話を耳で聴くんじゃない。心で聴け!」だ。

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親の謎「親の心、子知らず」(2/9) ~子供のブランド化~ [哲学]

 子育ての出来不出来は子供の進学状況で決まる。それが世の中の現実なのだが、これは一体なにを意味するのか?子育て成功者になる目的とは一体なんなのか?端的に言えば、それは、「子どもは親の装飾品である」ということである。親本人達はそんなことはないと否定するだろうが、「人は言葉で判断するな、行動で判断しろ」というアニキ哲学で計れば答えは明かだ。子供とは親の装飾品であって、それに違いはない。
 まず、ブランド品が好きな親は、必ず子どももブランド化しなければ気が済まない。有名なブランド品が好きで見栄っ張りな親ならば、子どもには偏差値の高い学校へ行ってもらいたいと思っている。自分の親がそのタイプかどうかは、ブランド指向かどうかを一度見てみたらよい。家は小さなアパートでも、乗っている車は高価な外車だとかいう家は間違いなく、子供のブランド化に余念がない。そして、高学歴な親もまた、子供をブランド化したがる。学歴とは、以前のブログでも話したが、就職するためのただの値札だ。就職すればすぐにはずさなければならない。いつまでも値札が付いたままのスーツを着た人がいないのと同じだ。しかし、中には自分の学歴という値札を大事にしまって持っている人がいるのだ。この類いの人は、値札を人前でわざと落としてみせたり、自分から見せびらかすこともするタイプだ。そういう人にとっては、まさに子供も自分の価値を上げる値札になる。自分の子供はエルメスやロレックスと同じで、親自身を飾る自慢の一品だ。自慢の種として、親の価値を思いっきり高めるために、子供に高学歴を求めることになる。で、子供が偏差値の高い学校などに入ると、「親は何もしていない、子供が自主的に勉強した」などどのたまうことにより、自分の価値をさらに高めようとする。
 これが子供のブランド化現象だ。子供が苦労しないようにと、中学校から私立に入れるような親もそうだ。これは別に子供のためではない。親自身のためなのだ。便宜上、子供のためという大義名分を使うことができるから、それを使って子供を説得するにすぎない。確かに、高学歴があれば道を誤っても修正が効くというメリットがあるのも事実だ。このことについては後述するとして、大義名分を生かしてせっせと子供のブランド化に励む親がいる。
 アニキは思う。子供は好き好んで私立学校に行きたいとは思わない。子供が私立に行きたがるように、親がそう仕向けるだけなのだ。例えば、私立入学の目的を持つ塾に入れると、自然とそういう雰囲気になってしまうから、子供が自分から「私立に行きたい」と洗脳されてしまうだけだ。これも親の子供ブランド化作戦のひとつである。
 「洗脳はよくない」なんてテレビニュースを見て非難しているくせに、ちゃっかり自分の子供を洗脳しているのだ。学歴社会である現代においては、進学は親が騎馬となった騎馬戦である。上に乗った子供には、どこに行きたいかの自由はない。洗脳されて示されたゴールが遠くに見える。騎馬がそのゴールへと導く。子供はただ騎馬に乗って疑わず、親と一緒にひたすらゴールを目指す。子供のブランド化とは、洗脳までも施された戦術から成り立っていることに早く気づくべきなのだ。

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