SSブログ

自分の土俵で闘え!(3/5) ~ゆとり教育~ [哲学]

 話をもとに戻そう。競争は、「それは実は意味のないことである」と理解することのために与えられている人間の原始機能なのだ。しかし、人間はこの競争という原始機能をコントロールできない。欲望と並んでそれだけ難しい原始機能であり、坊さんのような修行を積んだ人間でもコントロールできないかもしれない。それほどコントロールが難しい競争という原始機能だが、逆にそれを利用するのも人間の機能である。
 どういうことかと言うと、競争の最大点の問題点は「負ける」という結果があることだ。競争して常に勝つのであれば、だれもがハッピーであり、問題視することではない。しかし、この競争の問題点は勝者がいて敗者がいることだ。勝ったらうれしいが負けると悔しくなり嫌な気持ちになるように人間は作られている。そう、競争というシチュエーションでは、常に人間のいろんな原始機能にスイッチが入るしくみになっている。だから、競争が好きな奴と嫌いな奴がでてくる。
 じゃあどうするか。人間社会において競争は避けられない。どこもかしこも競争だ。自分は競争を避けて生きているのだろうが、いつのまにか競争の中に巻き込まれている。競争は自分がいくら逃げて、向こうからやってくる嫌な自然現象だ。雨雲のように自分の上に雨を降らす。これは大人の社会だけの現象ではなく、子ども社会にも蔓延する。負けた子どもが鬱になったり思い込んだりする。それを見ていた大人達が作ったのが「ゆとり教育」だ。
 ゆとり教育で競争がなくなった。学校の中のことまでは知らないが、運動会とかは楽しめなくなった。運動会では徒競走で順位なし。リレーは選抜ではなく全員で走る。見ている親は楽しくない。徒競走は1位になる奴とビリになる奴がいるから見る価値がある。リレーはクラスでトップの奴が走るから盛り上がる。1位になりたいとか、リレーの選手に選ばれたいとか言う気持ちが努力を生むのに、それすらしなくなる。焦点を負け側に合わせて基準を作ろうとするから変になる。
 結局、子ども時代に競争を取りあげても、大人になれば競争にどっぷり浸かるのだから、免疫ができずにそれこそヤバイだろ。社会人になったら、いきなり競争の世界に放り込まれるんだから、それこそ精神的なダメージはひどいんじゃないか。結果、ゆとり教育はなくなったよな。みんな気づいたんだよ、これ、アメリカの罠だって。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

自分の土俵で闘え!(2/5) ~帰ってこいよ~ [哲学]

 話は逸れるが、人間の最大の競争である戦争について触れておこう。戦争では多くの人が死ぬ。人間の創造主や神様がその事実を見てどう思うのであろうか?映画などで戦地へ赴いた兵士が、窮地に貧したら神を拝む光景はよくあるだろ。なんか解せないよな。自分が生きのこるためには相手を殺さなければならない。その生きのこるために神に祈る光景は、アニキとしては「ん?」である。自分が生きのこるために相手は死んでもいいのか?それを神に頼んでもよいのか?不思議だらけである。しかし、アニキはこの理屈はなんとなくわかる。神、アニキは創造主と呼ぶが、創造主は人間同士の争いには無関心だと考えている。だから、助けもしなければ殺しもしない。勝手にさせているだけである。
 実は人間の創造主は、人間がいくら死んでもかまわないのだ。なぜなら、人間の死はただの肉体の死であって、魂の死ではないからだ。肉体が死んでも魂は死なずに創造主の元に戻るだけだからだ。創造主や神様にとっては、魂こそが人の本体であり、肉体はただの魂の入れ物、言わば乗り物だ。だから、たまに創造主は天変地異を引き起こして大量の人名を奪うが、そのことも説明できる。ノアの箱船は神の所業として人類をほぼ全滅に追い込んだが、その理由は簡単に説明できる。創造主にとって、自分の思惑と違った方に進んだので、ただのやり直しである。欲と競争で行き過ぎた大量の人間に、「ま、一辺、帰ってこいや」というのだ。これでが地震などの天災の理由だ。
 創造主は何者かはわからないが、アニキは高貴な芸術家の一種とみている。芸術家って自分の作品に不満があると、作品をたたき割ったりするだろ。それと同じ行為が天災だよ。自分の作品の作り直しのために、魂を戻す行為だよ。それが天災だ。迷惑な話だが、創造主は人間を作った芸術家なんだから。創造主が芸術家というわけなら理解しやすいだろ。
 作品をぶん投げて、「みんな、一度、帰ってこいよ!」だ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

自分の土俵で闘え!(1/5) ~競争という劇薬~ [哲学]

 この世は競争だ。特に人間社会は競争で成り立っている。すべての物事において、常に誰かと競争している。誰かと競争しなくては気が済まない。人間は地球上の動物の中で唯一、競争しなければ生きてゆけない生き物なのだ。人間にだけ備わる性質である以上、本能とは呼ばない。これは人間の原始機能である。アニキ哲学において、本能と原始機能は区別しなければならない。その詳しい話は、アニキ過去ブログ「人間の原始機能『総論』」を読んでくれ。

 競争が原始機能であるならば、人間の創造主は何の目的でこの機能を人間に備えたのであろうか。当然、人類の成長促進の目的であることはわかるのだが、闇雲にそれを与えていないはずだ。どう考えても、競争は人間にとって劇薬だ。人類が誕生してからどのくらい経つ?700万年前のホモサピエンスの時代は別にして、少なくとも数千年は経ている。その間、この競争という劇薬は人類に大きな文明の発展という産物をもたらしたが、その反面代償も大きい。差し引きどうだろうか?プラスか、マイナスか?便利な世の中になったからプラスだと考えている人が大半だろう。しかし、本当はマイナスの要素の方が大きい。競争という劇薬の意味するところは人間には未だにそれがわかっていない。人間の文明は競争することで発達してきたため、競争しなければ磨かれないという負の連鎖に心を囚われている。競争という機能を全く使いこなしていないのだ。

競争の源は欲望だ。欲望もまた人間の原始機能である。その欲望が行動に移った時、それを競争という。競争は欲の具体的行動なのだ。欲は「コントロールしろ」という目的で、人間に備わっている。そうしなければ、欲は暴走するからだ。暴走した欲の具体的行動である競争がどのようなものかは想像がつくだろう。

 そうなると、競争はとどまることを知らない。人類の歴史を見れば明らかだ。競争とは争いだ。人類の歴史は争いの歴史であるところから学ばなければならない。なぜなら、人類が過去の栄光とする古代文明があった場所は、人の血が多く流れた場所であり、栄華を極めた後にすべて滅びている。世界4大文明の発祥地が現在世界一になっていないという事実が、人間の愚かさを物語る。遺跡をチマチマ発掘している場合じゃない。当時の経済や政治などを分析するのもいいが、滅びたという事実から何を学ぶのかを全然見ようとしない。だから、21世紀に入っても同じことを繰り返している。数千年経っても、人間は競争を続けている。そのお陰で快適な生活ができているかもしれないが、そもそも競争しなければ大量の人間は死なないで済んだはずだ。

 競争がいかに人間にとって劇薬であるか。精神的レベルが高い現代人がもう一度競争の可否を研究する必要がある。人間の原始機能は伊達ではない。必ず深い意味があって備わっている。毒も薬であり、物事はすべて相反する二面性を持つ。ということでは、「競争という原始機能は何のクスリであるのか」を今一度考える時期である。それを怠って反対方向へ向かおうとすると、また創造主による天災が降りかかることになる。

 最近の日本の火山はちょっとおかしいよな。実はこれ、何かの警告なんだよ。今、それをアニキは調べてる。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「モー娘。」は2008年物に限る! [音楽・歌手]

 アニキは以前、かなりモーニング娘が好きだった。いまや過去形だ。残念ながら今のモーニング娘はアニキのストライクゾーンから外れてきたのである。アニキの好きな「田中れいな」ももういない。今は今で悪くないのだが、アニキの魂は響かなくなってしまった。まあ、アニキのような年齢のファンは対象外であろうから、運営には影響がない。
 モーニング娘が最も人気があったのは、創業当時であろう、LOVEマシーンの頃だ。でもアニキは気にとめなかった。メンバーにアニキ好みの美人がいなかったからである。また、踊りの好みからもイマイチ。アニキはコミカルな踊りがどうも好きになれなかった。あれがよいという人も多いが、好みは人それぞれだろう。アニキは真面目な踊りが好きなのだ。
 そんな状況で「モー娘。」はそれまで大して気していなかったのだが、ある日飲み屋のTVで、2008年ハロプロコンサートを流していた。何気なく見ていたら、なんと美人だらけではないか!びっくりした。2008年の「モー娘。」ってこれなのかと。早速、DVDを購入し研究した。全員がすごい美人だったことを再度確認。踊りも真剣な踊りに変わっており、アニキのど真ん中となった。当時のメンバーは9人。中国からの留学生2人を含んで、全員が美人。世間では「モー娘。」不遇の時代と言われていた頃だが、アニキにとってはこれほどのグループがかってあったであろうかと、小躍りして喜んだ。そして、目を細めこの時代に感謝し、遠く天を仰いだものだ。
 アニキにとって2008年時の「モー娘。」最高のグループであった。2008年~2011年までは「モー娘。」マイブームであった。楽しみの一つとして、時々メンバー内のお気に入り順位を見直すのだが、その都度順位が変わるのが悩ましかった。特に、「久住小春」「亀井絵里」「新垣里沙」は常に順位が入れ替わる。アニキは小動物系美人がど真ん中で、たぬき・りす・ビーバー系の顔が好みだ。だからその頃のど本命は「ほしのあき」なのだが、ここでは関係ないので話題としない。「モー娘。」での小動物系顔と言えば、「田中れいな」だ。よって、常に1位をキープだ。そして、久住小春と新垣里沙の美しさは、PVの「愛しき悪友へ」を見てみるといい。久住はかまぼこ型のおめめの形がきれいだ。目じゃない、おめめだ。目とおめめでは定義が異なる。いいか、生き物に単に付属しているのが目だ。その目は物を見るという機能のみのパーツを差す。そして、美人に装着しているのがおめめだ。おめめは見るという機能だけではない、そこに美しさが伴うものを言う、わかったか。
 そして新垣は、頬から首のラインが完璧な造形美を作っている。その造形は決して人工物ではない、神の領域である。親から生まれてきたかもしれないが、そこには確かに神の意志が存在しているとしか考えられない。人工的には作り得ない造形美。肌も修正してるのかもしれないが、きめ細かく美しい。とにかく、お顔がすばらしいのだ。そして亀井絵里には、その笑顔には癒やされる。
 アニキは何が言いたいのか。ただ、メンバーの美人評定をしているのではない。ワインは年代物が評価の基準だ。毎年同じ地域で作られるワインは、年代が評価だ。ならば、「モー娘。」も年代が大事だ。「モー娘。」は2008年物がグランヴァンだ。大いなる年である!

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:芸能

人生の準備期間「学校」(番外編)下 ~日本人の武器「運」~ [哲学]

 もうこれでわかったであろう。与えられる学校で過ごす子どもと、自ら貪欲に盗んでゆこうとする子どもが、将来グローバルで戦ったらどうなるか、答えは出ている。日本人にはまず勝ち目がないだろう。勉強する覚悟が違うんだよな。

 自分から勉強を求めてゆく子どもがいる国、これが将来伸びる国だ。国自身は将来も貧しいかもしれないが、個人は違う。国の貧しさに左右されない状態に自分を置くことができる。アグレッシブで優秀な海外の子どもは、貧しい自国ではなく、就職先を海外に求めてゆけるからだ。これからの日本人の子どもはそんな人材と争うことになる。今はまだいい。ギリギリ日本国内を舞台にして仕事ができるからだ。しかし、どう考えても、これからは海外が舞台だろう。そうなると、今の日本人の体質では簡単にやっつけられてしまうのが目に見えている。背負っているものが違いすぎるのだ。他国の子どもは常に危機感を覚えているので、子ども時代から将来の武器となる技能を磨いている。

 だからアニキは、いつも武器を磨け鍛えろというのだが、サラリーマンになってから武器を磨いても、本当は遅いのだ。日本人はサラリーマンになって初めて、自分の武器を磨き始める。気づきが遅すぎるのだ。今はまだいい、日本人には戦後の高度成長を支えた貯金がある。しかし、それももう役に立たなくなっていることに気がついている人も多いだろう。それに、アニキ達の年代はうまく行けば逃げ切れるだろう。野球で言えば、今、三塁にいるようなものだ。あとはバックホームすればいいだけだ。ところが、これから打席に入る連中はそうはいかない。強力な魔球を持つ投手が相手チームに交代で入ってきたからだ。それがグローバルライバル達だ。将来のグローバルなライバル達は、すでに必要な能力を子どもの頃から着々と身につけている。数カ国の言葉を操るが、語学なんか自転車に乗るぐらいの技術であり、武器だとは全然思ってない連中だ。英語を身につけるだけでヒイヒイ言っている日本人とはレベルが違う。

 本当のグローバル社会になった時、ほとんどの大卒者が日本の外で就職活動する時代が来る。そこでは、世界中の優秀な人材と採用試験で戦うことになる。そのときには、前述の発展途上国の学生とも競争することになるのだ。そんな奴らに勝てる気がするか?

 人生は大海へこぎ出すことだと、アニキは言った。これからの海は最初から荒れている。漁師でも出て行かないような荒れた海に、いきなり出て行かねばならない。穏やかな海はほとんどない時代がやってくる。そのために、学生時代から武器を磨かねばならない時代になる。そうなると、海に出てから悠長に武器を磨き始めても遅いのだ。

 じゃあまず、子ども時代に磨かなければならない武器とは何か?「感謝する力」だ。これをおいて他にはない。なぜ感謝する力を磨かなければならないのか?本編でも何度も話したが、「運」を味方につけるためだ。だから、武器として一番ほしいのは、「運」の力なのだ。それには、感謝する力を磨くしかない。運が味方につけば、何をやってもうまくいく。ミスしても、万事塞翁が馬だ。他の技能はその後でもよい。日本って国は、太古の昔からそのことを知っている国のはずだ。外国の罠にはまって、運を磨くことを忘れてしまっただけだ。もう一度、昔の日本に戻り、やり直せばよい。

 じゃあ、どうやって「感謝する力」を磨けばいいのか?って。それは簡単だ、今の自分の状況すべてに感謝すればいいだけだ。そうすりゃ、運が向いてくる。そしてアニキは言う、そんな運を味方につける基本の力「感謝する力」は小学校から身につけることができると。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(番外編)上 ~足りないものを数えるな!~ [哲学]

 チョット付け加えたい話があるので聞いてほしい。アニキ達日本人は、当然のごとく学校へ行くが、海外へ目を向けるとその常識は通用しない。先進国じゃなく、発展途上国の話だ。そこでは、ほとんどの子どもは学校へ行けていない。学校に行くのではなく、家で仕事をさせられる。明日食べるために、今日働かなければならないからだ。だが、そんな彼らでも、その親は何とか学校行かせたいと思っている。できるなら、学校で勉強してもらい、家の手伝いで小銭を稼ぐのではなく、もっと稼いでほしいと思っている。自分達のような貧素な暮らしをできればさせたくないからだ。親のその希望は別にしても、子どもも当然に学校へ行きたいのだが、日本のようにタダじゃない。タダじゃなく金がかかるから、学校へ行くか行かないかはそれぞれの家庭の事情による。

 少し前まで一緒に遊んでいた隣に住んでいる友達は、学校へ通うことができるのに、自分できない。お隣さんと自分の家では、経済状態が違うからだ。だから、隣は学校へ行けるが、自分は行けないという不平等が普通に起こる。学校に行けない子どもは、学校に通う隣のお友達から、学校生活の話を聞いて羨ましく思う。この現在の地球においても、そんな現実はそこら中にあるのだ。日本人は知らないだけだ。日本人であるなら100%学校に行ける。行けることが基準だから、勉強が嫌いだとかの愚痴が出る。嫌々学ぶことになるから、吸収がメチャクチャ悪い。

 学校へ行くことが当たり前じゃない国の子どもが学校へ行けたなら、どんなに勉強するだろうか?宿題なんて絶対に忘れないよな。先生の話す言葉の一言も聞き漏らさないようにするよな。勉強だけじゃない、学校で過ごすすべての時間を無駄にはしない。さらに、学校で使う備品であるノートや鉛筆もムダにしない。石に字を書いているぐらいだから、ノートなんかもらったりしたら感謝しまくるだろう。学校に行けるだけで幸せだと思っているはずだ。

 な、そう考えると日本はおかしいんだよな。学校へ行くのが当たり前だと思っているから、日常感謝することなんかないだろう。感謝するどころか、手に入らないことに対して不満を抱く。「友達が持っているから自分も買ってほしい」という類いのないものねだりだ。それで、足りないものばかりを数える性格が子どもの頃から構築されてゆく。それが現代の日本の子どもの姿だ。

 足りないものを数えるんじゃない。あるものを数えろ!やってもらったことを数えろ!欲しいものを数えても切りがないぞ。感謝が足りないと運が悪くなることもわかってない。本当はこんなことは学校で教わることじゃないんだよな。

 ひとつ良い事を教えよう。”人生はないものを数えた奴が負けだ。”

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(17/17) ~海を渡れ!~ [哲学]

 そこで登場するのが「運」だ。幼稚園から高校まで心を伸ばせと言い続けてきたのは、心を伸ばすことにより懐が深くなるからだ。器がでかくなるともいうが、人によって呼び方はいろいろある。そして、懐が深くなると自分の我(が)が少なくなり、人に優しくなれる。そこに「運」が生まれる。そう、だから小さい頃から、「運」という武器を少しずつ育ててきたその成果が、ここで生きてくる。自分の行動軸がうまくいくかどうかは、「運」が決める。

 人生すべて二者択一だ。常に道が枝分かれしている。どっちに進もうか迷っても、結局はどちらかを選ぶことになる。その判断が正しいのかどうかは「運」のみぞ知るだ。アニキ哲学的に言えば、どっちを選ぶのも人生だ。でも、できれば自分の望んだ結果になる道を選びたいよな。で、「運」という武器があれば、選んだ方選んだ方に自分の望んだ結果がある。これが「運」を味方にできたということだ。そうなると自信がつく。自分の判断に自信がついてくる。自分の行動軸は正しいとの解釈となり、今後もその流れで行けるという確信に繋がる。それを不動のものにするために、今度は社会で試して経験値を積んでゆくことになる。そこまでいけば、小舟で大海にこぎ出しても簡単にはやられない。

 中学卒や高校卒で社会という大海にこぎ出すことは自殺行為であるからと、親は大学まで出そうとする。それは、勉強した専門科目を磨いてほしいからではない。大学卒業までの間に、人生の行動軸を手に入れてほしいからだ。だから、大学では良い成績を取らなくても、別に親は文句を言わないだろ。規定年数で卒業さえしてくれればいいと思っている。大概に親は、子どもに自分の行動軸を身につけて社会に出てほしいと思っているのだ。

 しかし、それがわかってない親も多いのも事実。小舟じゃ心細いだろうからと、バカ息子を鉄の大船に乗せたところで、座礁してしまえば終わりである。それは、船の大きささえあれば、大海を渡れるという短絡思考である。その船に航海術が備わっていなければ、船が大きくても沈む。そんなこともわからないようじゃ、親も幼稚園からやり直せと言いたい。

 もう一度言うぞ。「運」を手に入れようと思うなら、幼稚園で心を学び、小中学校でそれに柔軟性を与えてさらに伸ばし、高校でプレッシャーをかけて丈夫に鍛える。すると、懐の深さが手に入り、我(が)が消えて人に優しくなれる。そして大学で、実社会に端っこで鍛えた心を試し、己の心のあり方という行動軸を手に入れる。すると、自分の選んだ選択肢が望んだ結果となるようにできている。

 だからアニキは、「学校」は「運」という武器を育て上げる人生の準備期間であると、しつこいくらいに言うのだ。そこで育てあげた「運を纏った行動軸」を使って初めて、人生が始まる。そして、一番大切なことは、将来、「何になりたいかではなく、どういう人間になりたいか」である。だから、仕事なんかは何でもいいのだ。目の前に現れた仕事に就けばいいだけだ。これを、「わらしべ長者論」という。この話は別途後日ブログで話そう。

 だから、社会人となるということは、どんな船でもよい、大海へ繰り出すことが重要なのであり、どんな船に乗るのかは全く重要ではない。「乗る船の自慢をする人間は小者だ」ということを覚えておけ。

 「運を纏った行動軸」があれば怖いものなしだ。若者よ、自信を持って「海を渡れ!」

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(16/17) ~行動軸を作れ!~ [哲学]

 大学時代に熱中する物事を続ければ続けるほど、面白いことになってくる。面白いというのは、楽しくなるとか、より興味がわくという話ではない。試練が待ち構えているという話だ。

 それは何かと言うと、途中でなかなか思い通りならない壁にぶつかる。必ず、頭を打たれる。それ以上進まないという境地に行き着く。で、壁の前で悩み抜くことになる。最初はやる気満々だから、いろいろ試行錯誤して突破しようと努力するのだが、なかなか進めずズルズルと引きずる。全然うまくいかないことに悩むことになる。気持ちがめげるレベルまで悩み、心が徐々に折れ曲がってゆく。そしてあきらめかけた時、突破するヒントに気づかせる出来事に遭遇することになる。腐らずに考え抜く時、必ず気づきが起こる。そういうしくみになっている。ポイントは「腐らずに」だ。どん底突破についての詳しい話は、また後日ブログで話そう。今は、必ず気づきは起こるということだけ覚えておいてくれ。

 実は切羽詰まった時に、自分が突破したい壁に対し、直接ガンガン叩いてもダメだということだ。そのことに気づかされる。頑張り方が間違っていることにハッと気づくことになる。これが人生最大の助っ人「気づき」だ。そこでは、心のあり方や考え方が必要だということに気づかされることになる。世の中の真理はすべて、「心が伴ってないとうまくいかない」のだが、こんな話を人から聞いてもダメだ。その境地は自分で経験しなければ手に入らないしくみになっている。アニキからこのことを聞いて、「もっともだ」と思っても、いざ壁にぶち当たると人間は本性が出てしまう。以前に聞いたアニキの話なんか頭の片隅にもなく、ひとりで悩むことになる。それは、成長の基本だ。成長には順番があるのだ。大きくジャンプするにはしゃがみ込む必要がある。それと同じだ。悩み苦悩する時間とは、ジャンプ前のしゃがみ込みだ。すると、気づきを得た時に大きく飛び上がれる。じゃあ、その気づきとは何なのか?気づきとは、ほとんどは「心が重要だ」という意識を得ることにある。それを物事に当てはめると、「すべては考え方で決まる」という結論に達するのだ。

 稲盛さんも言ってるだろ、「人生は、能力×熱意×考え方である」と。全ての物事には、そこに考え方がないとうまくいかないのだ。いくら能力があっても情熱があっても、そこに心のあり方がないとうまくいかない。経験と技能に考え方が加わり、うまくいく方法が完成する。このうまく行く自分なりの方法、それが「自分の行動軸」であり、「行動哲学」である。そしてこれが、社会へ出て行くために必要なベースとなる。

 どんな経験でもよい、大学4年間で行動軸を手に入れることが、大学の意味である。しかし、行動軸を手に入れても、それが有効かどうかはまた別問題だ。せっかくアルバイトなどの社会勉強で自分の行動軸を手に入れても、それが確信できる軸かどうか、それはまだわからない。大学生は社会を少し垣間見ただけにすぎない。自分の行動軸を試して確信を得るなんてことはできない。自分の前に壁ができ、それを乗り越えようとするとき、行動軸が判断規準となる。行動軸とはつまり、自分の哲学なのだが、それが本当に正しいのかどうか、それを自分の人生の軸としてよいのかどうか、そこに迷う。この時点ではまだ、自分の行動軸に自信はないからだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(15/17) ~道(どう)の精神を学べ~ [哲学]

 アニキも大学へ行ったが、大学ではアルバイトに没頭して、ほとんど勉強はしなかった。大学では何を学ぶのか?それは、一夜漬けで何とか定期試験で点数を取るための要領の良さと、勉強はやっぱり向いてないないというダメだしだ。16年も勉強してきて、自分に勉強が向いてないことがやっとわかるのだ。大学生活には有り余る時間がある。その時間を何に使うのか?大学というところは、有り余る時間を好きなことに使う場所なのだ。

 大学は勉強するところだと本気で思っている輩に、「大学で勉強したことの内、数十年後、何か恩恵を受けていることはあるのか?」と質問してみたい。大学での恩恵とは、愚痴を聞いてくれるありがたい友と、単位を取れる要領の良さ、それと膨大な暇な時間、それだけ。で、一番重要なのは、膨大な有り余る時間だ。膨大な時間は、それを使ってアルバイトや海外放浪などの好きなことをする。これが大学へ行く意義だ。そういう意味では、世界の大学とは意味は異なるが、日本の事情はそういうことなのだから、そこに議論の価値はない。

 はっきり言おう。これはアニキの偏見だけど、大学時代にアルバイトしない奴はダメだ。ここで、社会という大海の一端を肌で感じ、お金を稼ぐ楽しさと厳しさを体験すべきだ。アルバイトにはまると、学校の授業よりも面白いから、どんどん仕事にのめり込む。真剣に働く奴は、アルバイトの長になんかなったりして、ますますやる気を出し、人の使い方なんかも覚える。「アルバイトは責任がないから」なんて言う奴もいるが、アルバイトも熟達してくると当てにされるものだ。頼りにされると、何とか解決しようと、自分にプレッシャーをかけて頑張るんだよね。これは本当にすばらしい経験だ。日本人は、アルバイトでも仕事に対して決して手を抜かない。この話は、アニキ過去ブログ「日本人の偉大さ」を読んでくれ。そこに詳しく書いてある。

 別に、バイトだけが社会じゃないから、バックパッカーでもスポーツでも何でもいい。アニキはバイトしかしてなかったから、他の世界がわからないだけだ。とにかく、好きなことに没頭する中で、人は成長してゆけるはず。人は何かに没頭してゆくと、それが「道(どう)」となるからだ。アニキがいつも言っている日本人特有の技能、道(どう)だ。自分のやっていることが道(どう)となると、いろんな障害が増える。障害といっても、心の持ち方ひとつなのだが、細部において気になることが増えてくるのだ。

 最初は興味本位から始めた物事なのだが、それが上達してくると、教える立場になったり頼られたりしてくる。そうなると、自分が中途半端だと納得しなくなってくる。その道を知らず知らずに極めてゆこうとする自分がそこにいるからだ。気がつけば、けっこう上の方にいたりして、さらに上を目指そうとしている自分がいる。自分が上に行きたいと思っていなくても、周りからも期待されるから、自分では気がつかないが、自然と上を目指している。人生の準備期間の卒業は近い。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(14/17) ~「大学」というパラダイス~ [哲学]

 そんな高校での専門的な授業は、将来の人生においてはほとんど役に立たない。役に立つのは、難しい難題をどうクリアしていったかということだ。カンニングでもいい、一夜漬けでもいい。要は、どうやって乗り切ったかが重要なのだ。正攻法で乗り切れない奴は、他の手段で乗り切ればいい。それを考えて実行する。これは、勉強でもスポーツでも恋愛でも同じである。困難をクリアした時の成功体験や、クリアできなかった時の挫折感をしっかり学ぶことに意味がある。「成功と挫折」、これをキッチリ学ぶことが、心に磨きをかけることになる。これで、幼稚園からの柔軟な心に、さらにストレッチをかけることができる。

 心が固いままのヒヨッコじゃ、社会に出たら簡単にひねり潰されるだけだからな。そして、自分の思い通りにならないからといって、自暴自棄になるようでは、まだまだ心が固いガキだ。思い通りにならないのが人生であって、目の前の思い通りにならない課題をやっつけてゆくことが人生の意味である。だから、結果がうまくいってもいかなくても、それは大した問題ではない。どちらの結果からも学びがあり、出た結果が自分に必要な学びのチャンスだからだ。自分に足りないものが、結果として目の前に表れることになっている。

 もうひとつ言うと、結果は生まれる前から自分で決めてきており、そこから自分に必要なことを学ぶことになっているのだ。小中学校でできあがった心の柔軟性をさらに広げる。高校では、その広がった心にプレッシャーという刺激を与えて、心にテンションをかけて、その伸び縮みを実際に試しておかないと、いざという時に使えない。それができていないのならば、まだ社会に出て行くレベルではない。

 そうなると、高校でもまだ心の柔軟性がなく固い奴は大学へ行く。大学とは、高校まででまだ心の固い奴が柔らかくしに行く場所だ。大学という4年間の有り余る時間をかけて、ゆっくりと心を広げて、自分の軸を確保する場所である。今まで詰め込み式の窮屈な高校という環境では心が伸びなかったわけだから、逆に4年間かけてゆっくりと自分の好きなように伸ばしてやるという意味がある。大学はそういう場所で、勉強するところではない。

 大学の授業をまともに受けている学生には気の毒だが、勉強などそこそこでいいのだ。落第しない程度でかまわない。大学の授業で学ぶことは、定期テストで単位を取る要領の良さと、やっぱり自分には勉強は向いてないとうことを知ることに意味がある。「学問にしがみつくな」というダメ出しだ。大学に入学して早い段階でまずこれを理解して、別なことを見つける。4年間の自由なパラダイスを頂いたわけだから、この期間を自分の好きなように使わなければならない。

 遊びほうけてもよい。但し、卒業時までにはしっかりとした心の柔軟性と軸を見つけていなければ意味がない。大学で一生懸命に勉強して大物になったって話を、アニキは聞いたことがない。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(13/17) ~「高校」で人生のコツを学べ~  [哲学]

 だから、本当は高校でしっかりと心に磨きをかけねばならないのだが、日本の教育はそうではない。高校ではものすごく高度で専門的な課目を教わる。入学してまもなくは簡単だが、すぐに難しくなる。適当にやっていると授業について行けない。授業が二次曲線的に難しくなるからだ。挫折する奴が続出だ。「みんなが行くから俺も」的に高校へ行くのが普通だが、高校での履修内容がとてつもなく難しいために、授業は全然面白くない。授業について行けなくなるから、勉強を半分捨てた状態になる。楽しいことにしか興味が湧かない年齢だから、勉強がつまらなくなるとやらなくなる。ここにも負のスパイラルがある。先生は、履修カリキュラムにのっとって授業を進めてゆかねばならないから、落馬した奴は置いてゆく。教職者の魂はどこへやら、淡々と授業を進めてゆく。高校教師は学科の専門家で教職者ではない。だから、向学心のない学生は相手にしないのだ。

 そんな状況じゃ、学生も心に磨きをかけているヒマはない。学校側も、「そんなことは自分で学んで成長しろ」という感じだ。けれども、自分で磨けるほど心は簡単なもんじゃない。高校生という年代は多感期だ。気分の上下も激しい。考え方もころころ変わる。本来は、この時期にしっかりと心を鍛えて、自分の軸を持たねばならないのだが、なかなか自分をコントロールするのは難しい。それは、人には脳という厄介な代物が付いているからだ。「脳は別人だ」とアニキ過去ブログ「脳の謎」で話したよな。しかも、カラダと共に脳も勝手に成長している。心の言うことを聞かないじゃじゃ馬に成長しているのだ。脳は怠け者だ。心が成長すると脳の仕事が増えるから、怠けることができなくなる。だから、脳が心の成長を止めてしまうのだ。

 そうなるとどうなるのか?結局、心が育ってないと、プレッシャーに押しつぶされそうになり、楽ちんなおもちゃへと逃げる。脳は、心がおもちゃに逃げてもらった方が都合がいい。脳はその方が楽だからだ。それでまた、人生回り道となる。

 そんな高校の実態だが、社会で役に立つかどうかわからない難しい課目を学ぶ意味はあるのか?クイズ王にでもなるのなら話はわかるのだが。その意味は自分で考えなければならない。学ぶ学科そのものが役に立つわけはなく、その難しい学科をいかにクリアしてゆくのかが大事と考えるのだ。それで心が成長する。当たり前といえば当たり前なのだが、そう考えるのと考えないのとではストレスが違う。要するに、高校での勉強はプレッシャーであり、二次曲線的に内容が難しくなる教科によりプレッシャーも大きくなる。それをいかにクリアしてゆくかが高校の意味である。アニキの過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したよな。嫌なことは自分への試練だと思って、「おっ、また来たな」と歓迎するべきだ。そして、「今度はどうやってやっつけてやろうか」と考えるのだ。これが、前向きに考えるということだ。本当のことを言うと、自分に必要なことが起こっているだけだ。未熟者だから、後ろ向きに考える思考態度だから、何度でも試練がやってくる。前向きに捉えた瞬間に、次からの試練は易しくなるようになってるのが人生だ。

 人生のコツとは、たったそれだけだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(12/17) ~おもちゃ好き~ [哲学]

 「これからの社会」という大海は大荒れだ。穏やかな日はほとんどない。そんな状況になるだろうことを、大人はみんな知っている。今まではよかった。穏やかな海があり、多少の高波は来るだろうが、小舟で釣りでもしながら航海できた。そして、嵐の海でも、優秀な日本企業の船に乗っていれば、嵐のことなんか考えないでもよかった。船があまりにも大きく安定していたため、船の中に居たのなら外で嵐が起こっていることすらわからなかった。しかし、これからは違う。海は大荒れ、日本企業の船も老朽化している。エンジンも大きくて古いし、燃料も食う。図体ばっかりデカイから、方向転換すらなかなかできない。そんな状況で旅立つことになるから、前途ある若者は次々と海の藻屑となる。そうならないためには、義務教育の間に武器を手に入れないとダメなのだ。
 それがまず、「運」という武器だ。ロールプレイングゲームなんかだと、「運」なんて武器はぜひほしいよな。その「運」という武器を手に入れる為には、「心」が必要となる。世の中はそういうしくみになっている。だから、心を手に入れてそれを行動で示さねば、日本人の子どもは酷い目に遭うことになる。「心が運を手に入れる」ということがわかれば、みんな自然とそれに向かっていくはずだ。そして、義務教育で「運」のベースを学んでおけば、高校でさらにそれに磨きをかける。そうなると、その先ですごいことが起こってくる。
 高校生ともなれば、カラダはほぼ大人だ。でも、心は子どものままという輩が多い。中身が空っぽな奴も実に多い。まだまだ心が磨かれていないからだ。心が子どもままだと、人はおもちゃに逃げる。子どもはおもちゃが好きだ。おもちゃを「好きなこと」と言い換えてもいい。
 例えば、心が未熟な高校生は繁華街というおもちゃに興味を示す。べつに、繁華街だけがおもちゃじゃない。バイクでも何でもいいが、あくまで一例として挙げる。要するに、おもちゃのレベルが変わっただけで、思考は幼児と同じである。アニキは、繁華街に群れる高校生を見て、まだまだ幼いなと感じる。繁華街が好きだという心理はおもちゃが好きだというのとかわらない。おもちゃ好きは決して悪いことではない。アニキも趣味人間だから、高額なおもちゃに囲まれて生活している。かみさんからよく嫌みを言われるが、人は元来おもちゃ好きという原始機能があるから、それはそれでよい。
 ただ、繁華街の高校生の群れは、おもちゃに逃げているだけだ。自分の信念があってそうしているわけではない。「逃げているだけ」ここが重要なポイントだ。そこが大人と違うところだ。大人は信念という軸があるから、おもちゃに溺れない。信念がないと心がおもちゃに負けて、おもちゃに溺れてしまう。そこから、人生の道が曲がってゆく。アニキは、「それが残念だ」と言うのだ。「道が曲がること」それも人生だから、それはそれでよいかもしれない。だが、道が曲がってしまった分、どこかでその修正が必ず入るのが人生だ。わかりやすく言えば、心があってもそれを成長させないでおもちゃに振り回されていると、創造主がそのおもちゃを取りあげて無理矢理方向修正させられる。病気や事故などの手段を使ってな。
 それは、かなり回り道することになり、人生の大半が過ぎてしまうから、実にもったいないのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(11/17) ~「金持ち」と「長者」~ [哲学]

 かなり主題から離れてしまったが、ついでだからあと少し言わせてくれ。

 さらにアメリカは、家庭に「ファミリー主義」を吹き込んだ。元々アメリカは家族を大事にする。アメリカ人の人生における時間配分は、家族が1/3で、遊びが1/3で、仕事が1/3だ。優先順位もこの順番だ。日本だって家族は大事だ。日本人にとっての家族を大事にすることとは、生活の安定だ。そこでのダンナの役目は、まず金を稼ぐことだ。ということは、家族を大事にしていることを間接的にやっているだけの話である。だから、接待やサービス残業など無償の努力も、最大の家族サービスという認識なのだ。それをアメリカは、「仕事は早く切り上げて家族と過ごした方が楽しいよね」とか、「休みには子どもを連れて、家族で過ごした方が楽しいよね」といって、日本人の奥さん達を洗脳してきた。当然、奥さんはそっちがいいに決まっている。さらにアメリカは、ダンナ達に「一回切りの人生なら、楽しくやろうよ」と持ちかけた。その結果、休日にはビデオを持ったお父さん達がそこら中に溢れた。アメリカは、しめしめと思っただろう。

 日本を陥れた罠はまだまだたくさんあるが、そのうち代表的な罠のいくつかを紹介した。な、日本が弱くなるわけだよな。今から巻き返しを図ろうと企業は頑張っているが、巻き返すにはかなり時間がかかる。元に戻れるのはまだまだ先の話だ。そしてまた日本が巻き替えしてきたら、アメリカはまた何か新たな罠を仕掛けてくるだろう。

 さあ、学校の話に戻ろう。昔の日本はお寺で心を教えてもらえたから、他人を思いやる優しさや素直さ、すべてに感謝という観念を学んだ。それを普段の暮らしに生かすものだから、人間関係がよくなった。金のある人なんかは、貧乏な人によく恵んでやったり、公共事業にも金を出したりしたもんだから、「長者」と呼ばれた。ここ、間違えるなよ、「お金持ち」じゃなくて「長者」だ。

 実は「金持ち」という言葉は、けなし言葉だ。誉め言葉じゃない。本当は馬鹿にする言葉だぞ。だから、「金持ち」って言われて喜んでいる奴はバカだ。要するに「金持ち」って、「金を持っているだけ」という意味だ。お金を有効に使えないバカ者という意味だ。だから、お金を有効に使える立派な人を「長者」と呼んで区別した。長者は、村の人や困っている人をよく助けていたから、精神的にも優れていた。

 よく聞けよ、「金持ちになりたい」なんて言っているから、「お金を持てない」んだぞ。有り余るお金がほしければ、「長者になりたい」って思わないといけない。言葉は言霊だから、言った通りになる。「お金を持っているだけ」って意味の「金持ち」に、神様がその望みを叶えてくれると思うか?神様には、「バカ者になりたい」って聞こえているようなもんだから、現実はその通りになっているよな。

 目指すのなら、「金持ち」じゃなく、絶対「長者」だぞ。そこんとこ、間違えんなよ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(10/17) ~アメリカの罠(3)~ [哲学]

「ゆとり教育」とは、社会人になった時にプレッシャーでつぶれやすくする罠だ。あたかも、「競争は悪」だということを表に掲げ、比べない順位を付けないことが良いことのように謳っている。競争せずにみんな仲良くという雰囲気を作り出し、穏やかな心を成長させようという主旨だ。心を持ち出されると日本人は弱い。まんまと文部科学省は、その罠にはまってしまったわけだ。それが良くないことだというのは、ゆとり教育世代が社会人になって初めてわかった。だって、社会は競争だらけだ。一般社会は、「生き馬の目を抜く」とまで言われているのに、競争の免疫のないフレッシュマンが登場するわけだから、イチコロだ。大海へ船出した瞬間に、海の藻屑である。まさに瞬殺だ。競争があって日本は世界に通用する国になったのに、それをやめるというのは愚策でしかない。アニキは言う、「ゆとり教育」は、稀代の愚策であると。まあ、これで次世代のホープ達は使い物にならなくなったわけだ。アメリカはほくそ笑んでいる。
 で、現役世代も邪魔だから潰しておこうという罠が、「成果主義」と「残業は悪」という観念だ。「成果主義」は、昔からアメリカなんかが推し進めてきた評価法だ。でもこれは、アメリカだからこれでいいわけで、日本人には毒である。元々アメリカ人は個人主義だ。個人の能力で成果を出す。一方、日本人はチームで成果を上げる。アメリカは「個人で個」だが、日本は「チームで個」だ。チームの団結が強固であり、それがあたかも個に見える。それで日本は成長してきた。個人とチームじゃ、どっちが力があるかって、言わずもがなだよな。こいつが、アメリカにとっては邪魔だったから、やめさせたかったのだ。なのに、日本の企業はどんどん成果主議を導入した。ちょうどリストラが流行っていたから、渡りに船だった。成果重視のため、日本お得意のチームワークが乱れて、個人がバラバラになった。そのため、チームでの成果が残せなくなり、企業のパワーが格段に落ちた。アメリカの思うツボである。そのことに気づいた日本企業は今、成果主義が緩くなっているよな。

 「残業は悪」も同じだ。日本人はサービス残業がお家芸だ。それは、仕事は日本人にとって「道(どう)」だからだ。道(どう)の話は、過去ブログ「日本人の偉大さ」に詳しく書いてあるから、時間があれば読んでくれ。で、これがアメリカ人には煙たくてしょうがない。お金をもらわずに働く人種とは、脅威なのだ。そうなると、企業のパワーはとどまるところを知らない。日本を世界のトップに押し上げたのは、サービス残業だ。こいつはやめてもらわないといけないと、アメリカは考えたわけだ。「残業代不払い問題」や「ブラック企業」というかけ声で、マスコミを動かした。それで、火が付いてしまった。「正当な残業代は請求してもいいんだ」という事に気づかせたのだ。そして経営者には、「部下が残業しなければならないのは、管理職の仕事の配分が悪いからだ」と、いうことをそそのかした。

 そうして日本企業はサービス残業ができなくなり、企業のパワーは次第になくなっていった。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人生の準備期間「学校」(9/17) ~アメリカの罠(2)~ [哲学]

 日本をバカの巣窟にするために、アメリカは罠を仕掛けた。再びアメリカの手足となって服従するようにするためだ。時間はかかるが、日本人が気づくとまずいから、ゆっくりと進めた。ゆでガエル作戦とで言っておこうか。気づいた時には、もうすでに遅いって話だ。今がまさにそうだよな。アメリカが思っている通りの結果であり、骨抜きにされた日本はそこでもがき苦しんでいる。
 では、前回の続きだ。日本にはそれほど宗教的な観念がなかったから、アメリカは日本人をなめていたのだが、とんでもなかったわけだ。「宗教的観念がなければ、人間の心はお粗末なままだ」とアメリカ人は考えていたからだ。アメリカ人は日本人のことを、宗教がなくても心ができあがっている人種だと気がつかなかった。そんな人種は世界に存在していないからだ。さらに、アメリカが日本人を無能な国民だと思っていたのは、戦争に負けたアメリカにいつまでも楯突かず、素直に服従していたからだ。進駐軍が復興にやってきた時、日本人は大人しかった。それをアメリカは、ただの羊の群れだと勘違いしてしまった。実は日本人は心ができていたから、すぐに自分達の立場を理解し、アメリカを恨むよりどうやってこれから復興してゆこうかを真剣に考えていた。恨みのパワーを自動的に復興に向けることができた。こんな人種は世界には存在しない。ほとんどの人種は思いっきり恨むのが普通だからだ。日本人は、初めから恨むのはエネルギーのムダだと考えていたから、羊の群れに化けていただけだった。そして、日本人を見下してしたアメリカ人から、最先端の技術をどんどん教えてもらうことになり、かわいがられるようになる。犬に芸を教えるようなものだ。芸の呑み込みのよい犬ほどかわいいもんだ。そして、どんなに高度なことを教えても、犬は人間を超えることがない。しかし、日本人は違った。残念ながら日本人は犬ではなかったのだ。
 教えたことをどんどん吸収して、それを改良してアメリカよりも良い物を作ってしまう。いい例が、戦闘機だ。自衛隊の戦闘機はアメリカから買わなければならないのだが、アメリカはだんだん売ってくれなくなった。なぜなら、アメリカの戦闘機を改良して性能を良くしてしまうからだ。同じF-15戦闘機でも、アメリカ製には変わりがないが、アメリカ軍が使うものより自衛隊が使うものの方が圧倒的に性能がよいという事実がある。
 このままでは日本にすべて抜かれてしまうと思ったアメリカは、日本人の能力を下げるためには罠を仕掛けて、日本人が気づかないよう進める作戦をとった。そういうのは、アメリカはお手のものである。日本人の心に仕掛けてゆく罠である。
 それが、次世代を担う子どもを潰す「ゆとり教育」であり、現役世代には「成果主義」や「残業は悪」という観念の植え付けだ。さらに、家庭においては「ファミリー主義」なども持ち込み、奥さんを洗脳した。未だに気づいてない人も多いと思うが、これらはすべてアメリカが日本をダメにしようとした巧みな罠である。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。