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人生テクニック「上位概念」(7/8) ~悪魔のささやき~ [哲学]

 物事の判断を上位概念に当てはめて判断する。これが芯のある男の頭の中身だ。これで決断力が磨かれる。しかもすばやい判断ができるようになる。それよりもすごいのは、すばやい判断の理由がきちんと理論立てて説明できる点にある。行き当たりばったりのその場しのぎの判断ではないのだ。上っ面だけの薄っぺらい男とは、ここが違う。まさに、芯のある決断ができる男なのだ。ここに女が惚れる男のかっこよさひとつがある。
 上位概念とは、究極の選択をするときの判断基準だが、いろんな使い方がある。会社の社長が使う使い方の例を一つあげよう。サラリーマンの謎「給料」でも話した通り、社長にとって、商品と従業員のどっちが大事かとなると、その会社の商品に魅力があるかどうかで決まる。商品に魅力があれば商品が大事、商品に魅力がなければ売り子が大事だ。どういうことかというと、黙って商品を置いておけば売れるような商品は魅力があり、だまっていても売れるから、売り子なんかどうでもよい。だから、商品の値段を上げて売り子の給料を下げる。一方、魅力のないダメ商品だと全く売れないから、有能な売り子を雇いダメ商品を売らせることになる。それを見事に売る人の給料は高くしなければならず、人が大事となる。概念に置き換えれば、商品がよければ商品が上位、商品がダメなら人が上位だ。給料の高低のしくみも、経営者の上位概念でできている。こんな使い方は今回のテーマから少しずれてしまうが、判断という行動の上には常に上位概念が必要となってくることを理解してもらいたいだけだ。ここでテーマに挙げたい上位概念は、自分の信念を哲学にして物事を判断してもらいたいということなので、1例にとどめておこう。
 ということで、哲学からの上位概念の話をしよう。一般的なサラリーマン生活の中では、よく二者択一という状況が生まれる。どちらを選択しても重い2つの選択肢の中から、どちらか一方だけを選ばなければならないというシチュエーションだ。実は、上に立つに従って、こういう状況が圧倒的に多く出てくる。自分の選択により未来が変わるという状況の場合、ストレスでへこたれそうになるものだ。そこに有効な決断を下さねばならない上司は、最良の決断としてどちらかを選ばなくてはならない。その場合、後々起こるであろう問題とその影響を、すべて計算して慎重に決断するはずなのだが、そう簡単にはいかない。損得という悪魔のささやきが、選択の影に常に見え隠れしているからだ。自分の保身や家族の安泰、さらには社会的地位をも担保にする覚悟が要るからだ。悪魔は常にそのことを耳元でささやく。それを吹っ切って最良の決断ができるかどうかが人生で試されるわけだ。

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人生テクニック「上位概念」(6/8) ~上位概念の使い方~ [哲学]

  「信念⇒軸⇒哲学」なんて流程図を見ると、なんだ?ほとんど違いはないんじゃないかと思うかもしれないが、これらは明らかに違うものだ。ここを少し説明しておこう。
 何度も言うが、まず信念ありきだ。自分の信念を作り、それを持って生きるのだが、信念は抽象的だから、具体的に日々の行動に落とし込むためには、簡単にする必要がある。それが軸である。軸を持って行動し、その軸がブレないように生きる。それを習慣づけて試行錯誤しながら人生を生きるようにすると、いろんな結果が出てくる。その結果は納得がいく時とそうでない時がある。これが経験だ。この過去の経験を自分なりに分析すると、一つの法則ができあがる。それが哲学だ。アニキはいつもうるさいくらいに言ってる「哲学とは人生の判断基準」だと。つまりは自分の中の法律だな。言わば心の裁判所のような存在だ。
 裁判所は法律という判定基準を使って判断するのだが、法律は完璧じゃない。社会が複雑になり、科学も進歩すると、今まで使っていた法律だけでは判断できないことが出てくる。法律に隙間があったり、人によって解釈が違ったりする。それを社会の道徳やなんやかんやで揉んでリーズナブルな答えを見つけて裁判所は判定する。それが判例となり、法律に準ずる規範となる。自分の哲学とはつまりは裁判所の判例のようなものだ。
 話を元に戻そう。なんで裁判所の話や哲学の話をしたかと言えば、物事の判断規準が自分の中にないと、上位概念を使うことができないからだ。概念が二つあり、それが見方によって変わる。二つの概念について、それぞれ自分の哲学がないと比較ができないのだ。上位概念で優先順位を決めたり、正しい選択したりする。そこに自分の哲学がないと、選択する度に迷うことになる。そうなると、毎回選択がブレたりするから、他人から見れば、一貫性がないとか、ポリシーがないとか陰口を叩かれることになる。逆に、哲学があれば、何事が起ころうが、自分の哲学に照らし合わせて、すばやい判断ができる。切れ者と言われる人達は皆、自分の哲学にて物事を判断してきた。しかも判断がすばやい。一般人には難しい判断でも、簡単にすばやく判断してしまうから、切れ者と言われるのだ。が、べつに切れ者が特別すごいわけではない。我々も切れ者になりうるのだ。そのためには、生活や仕事で起こるいろんな事象に対して、哲学を持つように努めなければならない。切れ者は目指してなるものではない。物事に対して常に上位概念ですばやく判断するという癖をつければよいのだ。
 では、上位概念はどう使うべきなのか?例えば「失敗」という概念がある。失敗は事実ではない。アニキ哲学では、失敗も概念だ。それは、見方により変わるからだ。アニキ哲学においては、「見方によって変わる性質の物事」を概念と呼ぶ。国語辞典に載っている概念の定義とは少し違う。なんだかわかりにくいかもしれないが、話が長くなるから、また別の機会に詳しく話そう。まあここではそんなにきにしなくてもいい。ここで言いたいことは、「失敗」も人によって解釈が異なるということだ。つまり、失敗も成功であると捉える人もいるということだ。仕事上ではたとえ失敗であったとしても、人生においては「『うまくいかなかった』という学びの機会を得た」という成功だ。人間における上位概念は、人生が上位で仕事は下位だ。仕事では失敗かもしれないが、人生においては学びを得られたわけだから、成功であると考える。
 上位概念とはこう使うのだ。

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人生テクニック「上位概念」(5/8) ~組織という名の船~ [哲学]

 アニキの言う軸とは、自然にできた軸ではない。自然にできた軸では何の武器にもならないからだ。逆に自分の身を滅ぼす。こんなものはない方がよいが、粘土のように時間と共に自然と固まってゆく。固まったら、それを壊すのは至難の業だ。この固まってしまった軸を固定観念と呼ぶのだが、それを壊すのは並大抵の努力では不可能だ。昔はやった自己啓発セミナーなんかは、この固定観念を壊すことを最初の試練としているのだ。何十万円もかけて固定観念を壊すことになる。要は、自然にできた軸なんかは百害あって一利なしだ。
 サラリーマンとして必要な軸は、プレッシャーの中で作られるもの。若い時から、プレッシャーの中に身を置き、目の前の事についてその都度真剣に決断してゆく。たとえ間違った決断をしても、失敗という貴重な経験ができる。それを反省し分析し、次の決断で誤らないようにする。この繰り返しにより、自分の軸ができてくる。正しい決断とは何かが、だんだん見えてるのだ。それは、昼間だけの話ではない。夜の飲み会でも経験に磨きがかかる。先輩や上司の経験談や生き様などに触れて、物事の判断とはそれが正しいかどうかではなく、考え方も重要なのだということがわかる。そのことが自分の軸の栄養となり、軸を太くする。会社から与えられた仕事はモノを売ることだが、実はそうじゃないんだと気づいたりする。買うのは人の判断だから、上位概念はモノではなく人だということに気づくのだ。するとどうしたらよいかが見えてくる。営業とはモノを売ることではなく、ヒトのつながりを作ることだと。コンサルタントの小宮一義も言ってるよな。これがサラリーマン解脱の境地となるのだ。いかに経験が侮れないかということだ。
 経験が多いと、物事の先がある程度読めてしまう。年配者の意見が通りやすいのもそこだ。発言の中心に信念がある考えはとてつもなく重く、説得力がある。経験に裏打ちされないうわべだけの軽い意見と異なり、それはまるで鋭い槍の如しだ。課長より部長、部長より役員と、役職とは経験値による決断力の違いである。それがわかってないなら、簡単に役職を引き受けてはいけない。ただ偉くなって給料が上がっただけではない。自分の決断により戦況が左右されるという大きなリスクを抱えることを理解しなければならない。そのために、役職が上がれば上がるほど精進し、己の信念を磨き上げる必要がある。じゃないと、決断時にプレッシャーに押しつぶされる。押しつぶされるのが自分ひとりならいいが、役職が上のひとの判断ミスは楽観できない。判断ミスにより自分の部下の運命も一蓮托生ということだ。
 つまり、組織とは船である。部長丸という船で、当然その部署の船長は部長だ。嵐の海で自然と闘い、敵船や海賊と戦い命令をクリアしなければならない。部下は船長と運命を共にする。経験を生かしてない船長には、いざと言うときの判断力はない。そんなくだらない船長(上司)について、沈んだ船は数え切れない。そんな人をアニキは何人も見てきた。船のクルーも、船長が利口かバカかは見てればわかる。上司がバカ殿だとわかった時のショックも大きいだろう。バカ船長の船に乗っていたくないはずだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、船長は哲学を持てということだ。それは、ただ本で読んだり、人から聞いたりしたものでなく、自分の経験を通して身につけた哲学である。「信念⇒軸⇒哲学」という流れを自分で作れということになる。船長を社長に置き換えても同じである。

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人生テクニック「上位概念」(4/8) ~軸とぼくちん~ [哲学]

 会社は1個の生き物だ。これはアニキ哲学のベースのひとつだが、会社は集団であっても個なのである。脳が社長でカラダが従業員、企業理念が魂だ。その構成要素は人間と同じである。人はその魂に従って動く。会社も同じで、会社は理念で動く。アニキは過去何度も言ってるが、人間は脳が主体ではない。魂が主体だ。脳は魂の従者で、創造主から遣わされた監視役でもある。この話は過去ブログ「脳の謎」に詳しく書いてあるから、読んでみてくれ。ここでは、会社の魂とは企業理念だということが重要で、それが会社の最上位概念になる。
 大概の上位概念は一般的な考え方として存在している。会社員である前に人間であるとか、儲けより信頼だとか、挙げればきりがない。常識ではかれる比較概念もあるが、サラリーマン社会での懸案事項はそうではないものが多い。常識だけでは全く手に負えないのだ。自分の信念から生み出された軸がないと、対処できない問題が多い。相手側の利益と自分達の利益の均衡の調整や損して得を取るなど、極めて実践的な判断だ。サービスはどこまでやればいいのかなどの判断も、常に自分の軸が決める。
 軸はまず、経験を通してできあがる信念から、抽出された芯である。物事は信念のままだと仰々しくて使えない。もっと簡単に普段使いの形にしなければならない。要するに、信念の根底となる部分のみを抽出して、自分の行動軸とするのだ。軸とはつまり、自分の経験を通して自己哲学にまで高められた信念の基盤だ。例えば、「弱きを助け強きを挫く」という信念があったとしよう。しかし、サラリーマン社会ではこのままこの信念を使うには仰々しいのだ。それを使い易くするために、信念の根底を見ると、「困ってる人を見捨てない」という軸が見えてくる。ここを使ってゆけばよい。軸はおいそれとはできない。経験に裏打ちされた自信が必要となるからだ。どんなに優秀な若手でも、老練の先輩に太刀打ちできないのもそこにある。年数だけの差ではない。先輩にはしっかりとした行動軸があり、若手はまだ経験値が少ないから、軸ができていないからなのだ。
 といいつつも、軸は自然にできてしまものだ。これも軸の性質のひとつだが、焼き物の粘土のようなものだ。粘土も最初は柔らかいが、時間が経つと固まってしまう。それと同じで、若い頃にきちんと形を作っておかないと、変な形で固まってしまう。それが軸である。しかし、自然にできたそんな軸など、サラリーマン社会では何の役にも立たない。それは言わないでもわかるだろう。そんな軸しか持たない奴のことを、アニキは「ぼくちん」と呼ぶ。年齢ではない、仕事が半人前だということでもない。いい年齢で仕事がそこそこできたとしても、生き様がぼくちんなのだ。要は、軸がない奴ことだ。

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人生テクニック「上位概念」(3/8) ~上位概念と優先順位~ [哲学]

 上位概念とは、日頃だれでも頭の中で無意識にやってることなのだが、そう簡単に片付けてしまわずに、細かく分析することでよく見なければならない。サラリーマンとしての上位概念は、仕事や立場によりその概念は異なるし、その上位と下位はすぐに入れ替わる。その日の気分で上位概念はコロコロ変わるのが普通だ。だが、そんなことではダメ人間のままだ。アニキは言う、上位概念がコロコロ変わる奴なんか、ただの小者だ。アニキ哲学から見ると、ダメ人間というカテゴリーに入ってしまう。
 なぜ、小者なのか?なぜダメ人間なのか?本人達は気づいてないのかもしれないが、上位概念がコロコロ変わるということは、ポリシーがぶれてる証拠で、信念という軸がビシッと通ってないから、優先順位が変わる。一本筋が通ってない人間なのだ。毎日起こる出来事はすべて、この自分の哲学である信念と照らし合わせて優先順位を決めなくてはならない。筋が通ってる人間は、答えは常に同じだからわかりやすい。あの人に質問したら、たぶん答えはこうだろうと、予想できてしまう。想定されてしまうというのは、なんとなく心が読まれているようで嫌な感じはするが、上位概念とは読まれていいのだ。なぜなら、上司やお客の上位概念がわかるというのはサラリーマンとして大切な技能だ。読めれば先手を打てる。仕事とは先手の取り合いだ。目の前の業務の先を読む。そんなこともわかってないから、一人前とは言われないのだ。今起きてることは、過去における先読みの結果だ。それが想定通りなら安心で、想定外であれば、再度先読みを繰り返すだけである。文章にすれば仰々しいが、なに、だれでも毎日頭の中でやってることだ。そう、上位概念は常にその人の哲学・信念の上に成り立つもの。
 上位概念の話をすると、優先順位とどう違うのか?という質問をされる。どちらも選ぶ決断をするという意味においては同じである。しかし、優先順位と上位概念とは似ているが全く別物だ。上位概念は優先順位よりも高尚な概念なのだ。優先順位とは、たくさんある物事の中において、どれが重要かという判断の下に、優先すべきことを決める。その判断基準は、自分がそのとき、どれが重要なのかという基準である。優先順位という概念も実は人間の原始機能である。他の生き物にはない。あるもかもしれないが、原始的欲求の範疇の話であろう。優先順位については、またの機会にブログで紹介しよう。今回は上位概念に的を絞る。
 で、上位概念だが、例えば究極の選択の場合などが当てはまる。「一方を立てれば、もう一方が立たない」というような選択だ。社長が会社の進退を決める重要な決断を行う場合などがそうだ。この場合、社長の哲学も必要なのだが、会社の創業時の理念なんかに照らし合わせて決めたりするものだ。この理念が、企業にとっての上位概念で、社長個人の哲学はその下の順位となる。



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人生テクニック「上位概念」(2/8) ~物事の本質を見抜く~ [哲学]

 判断基準というテーマが出たついでに、もう一つ例を挙げよう。彼女とファミレスに昼食を食べに行ったとしよう。席に着くやいなや、自分はいつも食べている日替わりランチを素早く頼んだ。彼女はというと、メニューを見ながら、何にしようかなとあれこれ悩んでいる。男は彼女のことを、「なんて、優柔不断なのだ」と思いがちで、反対に自分は、「なんて決断の早い人間なのだ」と勘違いする。しかしもっと深く見ろと言いたい。自分は素早くオーダーしたから「決断力の早い人間」で、彼女はオーダーで悩むから「優柔不断な人間」だと、簡単に考えてはならない。それじゃ、子供と同じだ。大人なら、本質を見抜く眼を持てと言いたい。物事を深く見ればわかるのだが、判断基準はそこではない。それは判断基準のとらえ方が間違っている。
 アニキはいつも口癖のように、「物事は目で見るな、人の話は耳で聞くな」と。そこを深く読むならば、自分の判断基準は、「『ファミレスではすばやく注文を決める』のがかっこいいと思うこと」であり、彼女の判断基準は「『メニューを見ながら、あれこれ悩んで楽しむこと』がよいと思うこと」だ。ここでの問題は、それぞれの哲学の読み違えと、自分の信念を相手にも押しつけているという点だ。人間はそれぞれ生きる哲学が異なる。それを生き様というのだが、生き様は皆違う。かっこいいと思う基準も当然自分と同じと考えてしまいがちなのだが、そこは全く違うのだ。嗜好が同じだからといっても、すべてが同じではない。物事の本質を見抜くことについては、普段から物事についてよく考える癖をつけて、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということを熟考する習慣がほしい。
 話を元に戻そう。どんな人にも必ず自分なりの判断基準はある。ただそれが浅はかな基準なのか、緻密な基準なのか、というだけの話だ。判断基準が甘いかどうかはこの際問題ではない。その自分なりの判断基準を使って、日常の物事を判断してゆくのだが、それだけでは解決できない問題も起こる。それは、どちらも重要だという判定基準だ。自分にとって似通った価値感の物事が目の前に現れた場合、どっちかを選ばなければならないシチュエーションに出くわす。どっちも重要だ、どっちも捨てがたいという甲乙付けがたい場面である。その物事に優先順位を付けなければならない。その場合の判定基準だ。
 アニキ哲学では、二つの重要ポイントがあって、両方が重要だという場合、またはどちらもおろそかにできない場合に、アニキは「上位概念」という基準を使う。上位概念こそ選択決断の時の判定基準であり、この概念を理解していないと人生における重要な選択時に、誤ってしまうことになる。言葉にすれば大げさだが、そんなことは皆、普段からやっている。特に、経験と勘がものを言う成熟したサラリーマンはこの概念が洗練されていて、実は無意識のうちに使っているのだ。

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人生テクニック「上位概念」(1/8) ~判断基準とは哲学~ [哲学]

 人生にはいろんなことが起こる。くだらないことから重要なことまで、その幅は広い。それらのひとつひとつについて、人はいちいち決定を下している。どんなめんどくさがりの人間でも、その都度まめに決定を下しているのだ。大概の人はそのときの都合や気分で、物事を判断し決定を下している。それで何とかなっているからそうしているのだろうが、実は、どんなにぐうたらな人間でも判断基準は持っている。そう、のび太だって持っている。それは常に自分の中で基準を決めていて、その基準で判断して決めていることに気づいていないだけのことだ。生きる上で、判断基準というものは不可欠なのである。
 判断の基準は人それぞれ違う。気まぐれで決めているという場合でも、「好き嫌い」という判断基準を使っていたり、「楽な方」という判断基準を使ったりしている。まあ、普通の人の判断基準とはその程度のものだが、基準がないわけではない。ちゃんととある。その場当たり的な判断や決定も、その人の中には判断基準は備わっている。ただ、その基準が弱いだけで、その人自身が自分をよく分析してないからはっきりしないだけの話である。だから、他人にはそれがただの気まぐれに見えるだけなのだ。それで他人から、「なぜその決定をしたのか?」と問われても、決定を下した本人は深い考えがあってやってないものだから、答えられない。しかし、よく掘り下げてゆけば、自分の決定には常に法則性があることに気がつく。
物事を好き嫌いで判断する人や楽な方を選ぶ人、さらには面白そうな方を選ぶ人、常に周りの評価を重視した多数派を選ぶ人など様々存在するのだが、それは自分では意識していないのだ。無意識のうちに判断してしまうのだが、その選択根拠は常に一貫性がある。楽したい人はいつも楽な方を無意識に選ぶ。何かに啓発されて、無理に反対の選択をしたとしても、それはものすごいストレスとなり、やっぱり次からは元の判断基準に戻ってしまうのだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、人には必ず判断基準が備わっていて、それで物事をジャッジしているのだ。つまり、その都度いちいち判断しているわけではなく、その基準を使う。実は、この基準こそが哲学である。哲学とは物事の判断基準だと、何度も話していると思う。皆、自分の哲学を持って生きているのだが、その哲学がどうも甘いから、くだらない人間に映ってしまう。せっかく哲学を持っているのに、もったいない限りである。
 「楽な方を選ぶ」という判断基準があるとしよう。意識していなくても、それが哲学ということになり、それが自分の信念に進化する。「楽な方を選ぶ」というのが信念の人とは、果たしてかっこいいだろうか?ということだ。
 どんな人にも判断基準は必ずある。子供でも赤ちゃんでもだ。その前提で相手をじっと観察すると、見えてくるものがある。それは相手のこだわりだ。相手がどこにこだわっているのかが見えてくる。相手のこだわりを知ることは、人間関係を自由に操る上で、大きなアドバンテージなのだ。

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「折れる」と「妥協」(4/4) ~人生のヒミツ~ [哲学]

 そう、「自分から折れる」ことにより、「相手からの歩み寄り」という見返りを期待した場合、それがなかったら大きなガッカリ感を味わう。「見返りがなかった」というガッカリした気持ちは憤りに変わり、ストレスとして自分に跳ね返ってくる。それはストレスという見返りと言ってもいい。自分から歩み寄ったにもかかわらず、相手側からは何の歩み寄りもない、ましては何の反応もないとくると、人間は腹が立つのだ。
 相手からの歩み寄りだけではない、それがお礼の場合もある。細い路地で正面から来る人に道を譲ったが、お礼の言葉がなかったというような場合だ。軽い会釈だけでもと期待しているところに、何のリアクションもないのだから、「なんだ、この野郎!」というマイナス感情を抱いてしまう。マイナス感情は大きなストレスであり、カラダを蝕む元となる。だから、このストレスという見返りだけは絶対に避けなければならない。ただでさえ日常の膨大なストレスを抱えているのに、さらにダメだしする必要はない。すべての運を左右するのはストレスだ。ストレスの蓄積で人間は病気になり、それで感情がマイナスになり、運が悪くなるというメカニズムだ。そんなくだらない見返りをもらうくらいなら、最初から何も期待しないことだ。「俺が好きで勝手にやったことだ」ですべてを済ます。「なんでも人に譲るのが俺の趣味なんだよ」と、日頃から決めていればよいのだ。前々回の高速道路の話もそんなことだ。
 話は逸れてしまったが、アニキが言いたいことは、人生は「自分から折れる」のが正解だってことだ。それを心に決めて人生を生きる。それが人間関係の修行である。一見、容易に見えることなのだが、継続して実行するのはかなりしんどい。偉そうなことを言ってるが、アニキだって全然できてない。自分から折れるというのはなかなか厳しい荒行なのだ。
 がしかし、若いうちから折れるっていうのも、おかしい気もする。折れるというのは、若い時からいろんな経験を積んで達する境地であり、人に教えられるものではないからだ。「自分から折れる」のが正しいというのは当たり前なのだが、その学び方には考え方がいくつかあるようだ。若い時は丸い人間っていうのもちょっとつまらない。若い時は多少のカドがあった方が味があるってもんだという見方もできるからだ。
 過去から挫折を繰り返し、いろんな経験を通して、真理を学ぶというのが人間の姿だが、アニキは人生80年と考えるなら、早めに気がついて修正する方がよいという立場を取る。寿命が200年もあるならば、それでもいいだろう。しかし現実は80年ほどで、それは人間に仕掛けられたしくみである。これに従うことを正とするならば、しくみに気がつくのは早い方がよい。若いうちに気がつけば、それだけ有意義に人生を過ごせると思うからだ。正しい方向じゃない場合、病気や怪我、運の悪さなので、その方向が間違いだと教えてくれる。人生のヒミツのひとつがここにある。
 そして繰り返しになるが、結果は同じであっても、「妥協」では意味がない。妥協ではストレスを生むことになるから、カラダは悪くなる。もし、「自分は折れている」という信念の元に人生を過ごしているにもかかわらず、うまくいってないのなら、他の要因も考えられるのだが、自分がやってることは「妥協」ではないかと疑ってみる必要がある。必要なのは「妥協」ではなく、「折れる」だ。ここを自分に問いただしてみれば、うまくいかない理由が見つかるかもしれない。
 「自分から折れる」という行動は、あくまで能動的でありプラスでなければならない。そして、このことに早く気づくかどうかが人生で試されている。気づかないまま妥協を続け、人生の大半を病気に追われて過ごすことだけは避けた方がよい。ここに、他の生物にはない人間のしくみのおもしろさがあるのだ。

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「折れる」と「妥協」(3/4) ~共通概念「許す」~ [哲学]

 日本には、ドンマイというすばらしい言葉がある。このドンマイというすばらしい言葉があれば、常に積極的に物事を進めることに及び腰にならずに済む。「折れる」の場合にも使える。ドンマイ精神があれば、自分から折れて歩み寄ることは苦ではない。物事の真の目的を考えれば、自分から步み寄るしか目的達成はできない。例えば、細い路地で正面から人が歩いてきた場合、自分からよけてあげればそれでよいではないか。たとえ相手が、「俺の勝ちだ」と思おうが、目的達成には関係ない。目的は、早く向こう側へ到着することで、対面してきた人は適当にやり過ごすべきだからだ。出会い頭の邪魔者とは、勝ち負けを争う相手ではない。それでも相手に勝ち誇られるのが気になるような「折れる初心者」ならば、こう考えてやり過ごすことを進める。
 自分は、「あいつに道を譲ってやった」心の広い人間なんだと考えればよい。譲ることができる分、心が広い「あなたの勝ち」である。勝ち負けが重要な初心者には、この考えではじめてみることを薦める。がしかし、そのうちそんなことはいらなくなってくる。折れることで、自分の周りがうまく回っていくようになり、そのことに気づくからである。人生がプラスに動いてゆく。人間の心は大船のようなもの。最初はなかなか動かないが、動き始めたら止まらない。プラスに動き始めたらなら、だれにも止めることはできないのだ。
 まさに折れるとは、妥協とは反対の思いっきりプラス概念なのだ。じゃあ、妥協は本当にマイナスの後ろ向きな概念でしかないのか?妥協は悪いだけなのか?いや、妥協にもよいところはある。アニキの二面性論では、ひとつの概念ですら二つの面を持つという。つまり、妥協のよい部分についてだ。それは、「折れる」にもある概念ある。
 「折れると妥協」には、共通の概念がある。それは、許すということだ。どちらにも共通する許す概念であり、相手の我を許してやるという意味においては同じだ。折れるという考えで積極的に步み寄ることと、妥協で相手に押し切られることの共通性。それは、共に「相手を許す」という意味が含まれている。許すとは、相手の我を通してやることだ。自分が步み寄る時、相手側からも步み寄ってくれれば大いに結構だ。が、大概の人はこちらから歩み寄ることにより、歩み寄ってくれるものだ。それが人間関係社会なのだが、どこにでも変人はいる。だから、ここで注意することは、相手からの歩み寄りを「期待してはいけない」ということだ。「見返りは期待するな!」もアニキ哲学の基本理念でもある。なぜなら、見返りを期待するとは、それが実現しなかった時、大きなストレスとして自分に跳ね返ってくるからだ。

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「折れる」と「妥協」(2/4) ~折れるとは~ [哲学]

 人は別に、好きで妥協しているわけではない。人生経験の中で、損得を計算して妥協しているのだ。この場合、目の前の直接的な損得だけでなく、長い目で見た時の損得を特に重要視する。当然、妥協してはいけない場面では、徹底的に戦う。ここで戦えない人は自分が嫌いになってくる。自分が嫌いになると、段々やる気がなくなる。やる気がなくなると、することなすことすべてが後手後手に回ってしまい、さらに自分が嫌になる。負の連鎖が始まるのだ。そう、妥協とはすべて後ろ向きの結果になる決定を下すことを意味する。
また妥協にも積極的な概念は多少ある。例えば、膠着した物事を進めてゆくために仕方なく選ぶという時もある。サラリーマンは時間との闘いだ。スピードが重視される現代において、膠着状態はなるべく避けて通らないといけない。この場合、多少の不満はあるものの、妥協という結論を選んでしまうこともある。結果が望んだ通りであればよしとするところであるが、相手が勝ち誇ったような態度を示すと、途端に後悔の念にかられてしまい、心にシコリが残ることになる。これでは、精神的にはマイナスであり、妥協を選んでしまった自分が情けなくなる。ここでも、やはり妥協は後ろ向き決断としての色が濃い。
では、その反対概念である「折れる」とはどういうことなのか。ここで言う「折れる」とは、「骨が折れる」とかの話ではない。「自分から折れる」という意味での折れるだ。他にぴったりくる言葉がないので、アニキはよくこの言葉を使うのだが、ここで言いたいのは、「自分から」という修飾語だ。つまり、積極的に働きかける行動だ。よく考えた末に、ここでは「自分から折れる」ことが重要だという決定を積極的に下すのだ。つまり、相手を思いやる心があってはじめて、「折れる」ことができる。妥協するわけではない。「妥協」は折り合いという渦の中心に飲み込まれてしまうような形だが、「折れる」というと自分から渦の中心へ向かっていくという感じだ。
 よく、「妥協と折れるは、何が違うというのだ?」という反論を受ける。どっちも結果としては、「同じところに行き着くことになるから同じではないか」、ということらしい。確かに結果は同じだ。しかし、世の中にはそんなことはいくらでもある。特に、アニキ哲学の読者はよくわかってるはずだ。結果とは、あくまで考え方で決まる。よい結果か悪い結果かは、すべて考え方で決まるのだ。見た目の結果は同じであっても、それは180°違う。
例えば、自動車を運転している時の高速道路での合流を考えてみればいい。予め「どうぞ」といわんばかりに隙間を空けて入れてあげるわけだが、入ってきた車がウインカーで合図しない場合、腹が立つのが「妥協」であり、腹が立たないのが「折れる」だ。「妥協」は、本当は入れてやりたくないが仕方ないから入れてやる。なのに、ウインカーでお礼を言わない態度に腹が立つ。しかし、「折れる」は、予め入れてやると決めているから、お礼を言おうが言うまいがそれは関係ない。俺が入れてやると決めたのだかから、別にお礼など気にしてない。だから腹も立たないのが「折れる」である。まあ、そんな感じだ。
 つまり、見た目の結果はたとえ同じでも、自分から「折れる」ことにより、自分の積極的な意思であり、それは自分の思い通りの結果だと考える。それが最終的に違った方向へ行ったとしても、自分が積極的に働きかけた結果であるから、ドンマイなのだ。積極的な行動が失敗しても、ドンマイと考えればよい。この世には、実にいい言葉がある。
人生は攻めないと意味がない。古の聖人はいいことを言っている。女は大地で男はカラスなのだと。そう、カラスは動かないでじっとしていても何も得られない。攻めて初めて人生といえるからだ。


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「折れる」と「妥協」(1/4) ~その違いと言葉の定義~ [哲学]

 世の中は住みづらい。我を通せば必ず誰かとぶつかる。これが人間の世界である。人間関係が修行だとアニキは言う。関わる相手をとうまく進んでゆくか、うまくかわすか、その都度その都度で結論を迫られる。相手が動物なら、頭ごなしに命令したり、言うことをきかせたりすればよい。ペットの大半は、人間の無理強いだ。人間はそうはいかない。必ず相手との間には調整が要る。お互いの着地点を見いだす。お互いが「折れる」ことが不可欠なのだ。
 しかし、これは妥協ではない。自分から折れることと、妥協するのとは意味が違う。妥協とは、圧力に屈すること。折れるとは、自分の考えで着地点を見つけること。着地点の模索という意味においては似ているが、本質は全く違う。その物事の解決において、「後ろ向き(妥協)」なのか「前向き(折れる)」なのかということだ。ここをはき違えて、すべてを妥協であるとかたづけてはいけない。「妥協点を見つける」という言葉は存在するが、これは「折れる」という意味で使っている「妥協」であり、混同しがちなのだが、自分の頭の中では、言葉はきっちりと定義づけする必要がある。
 では、なぜ言葉の定義づけが必要なのかというと、あいまいな使い方では誤解が生じるからである。詳しくは、後日ブログ「言葉は定義づけろ!」で話していこうと思う。簡単に言えば、日本語には類似語が非常に多い。そして、その中には似てて非なる言葉も多い。言葉の定義を取り違えると、自分の信念や軸がブレる原因ともなる。信念を胸に焼き付ける時、その行動や言動のひとつひとつが重要になってくる。自分の軸がブレてないかどうかは、その言葉の定義をきちっと確認できているのかということが大切なのだ。過去ブログ「仕事と作業」などでも話したが、こういった言葉の定義をいちいち考えることは、軸がブレない生き方には重要な要素であり、ぜひ、「言葉は常に定義づける」という考えを習慣付けてほしいのである。
 それと一言付け加えておくと、この言葉の定義づけは、アニキ哲学における定義であって、広義の定義ではない。広義における定義は辞書や用語辞典に載っている解釈だ。だが、これではあいまいすぎて、信念や軸としての行動レベルにおいては頼りない。一般的な意味としてはそれでもいい。というか、そうじゃないとダメだ。難しく解釈してしまうと、わけがわからなくならからだ。しかし、アニキ哲学においては、生き様としてその言葉を使う。そして、自分の信念を貫くためには、時には相手を説得することも必要だ。定義づけされた言葉は、そのままサラリーマンの武器として使えるのだ。定義付けされた言葉と、その信念に従って行動することにより、細かな考え方や心の動きなども言葉と共に蓄積されてゆく。その信念に基づく行動の歴史は言葉の重みを生む。
 そして、長い年月己の中で練られたその言葉には、多くの深い意味が練り込まれ、重厚感がにじみ出てくる。その言葉ひとつで、そこに含まれた深い意味ごと相手の魂に突き刺さり、言われたその人の魂を揺さぶる。まさに、魂の言葉だ。そこまで言うと大げさだが、言葉の重みとはそんな感じだ。
 言葉を定義づけて正しく使うことが、軸がブレない生き方において非常に重要な要素であるということをわかってほしい。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(12/12) ~気の合う相手とは何者?~ [哲学]

 でもよく考えたら、人間関係って悪いだけじゃないよな。よい人間関係を築いている人もいて、人間関係にあまり苦労してない人だってけっこういるんだよ。その差はなんなんだ。そういう人は、たいてい今世で人間関係の修行に焦点を置いて生まれてきてない人だ。前世までの転生で、人間関係の修行はある程度終了したか、または今世は人間関係よりもっと大きな別の課題をクリアするために生まれてきたかのどちらかだろう。どちらにせよ、人間関係に苦労してない人は、間違いなく魂レベルが高い。まあしかし、口には出さないが、多少は人間関係で悩んでいることも事実であるが、どう対処したらよいかを意識しないでも勝手にできてる。なぜか、そんなに意識しないしないでもできてしまう。人間関係を修行しに生まれてきたのか、そうではないのかは、ここが大きな違いだ。
 そういう特別な人は置いておいて、大概の人は、人生が人間関係の修行であるのだから、自分の人生の行く手に立ちはだかる嫌な相手や気の合わない相手を早く見つけて、そいつをクリアすることに意識を集中させればよい。そして、自分はいままで修行ができていたのかどうかは、過去を振り返ってみればわかるだろう。人生の分岐点に必ず気の合わない相手がいたはずだ。もしそれを野放しにしてきたなら、その分ペナルティが科せられていて、カラダに悪いところがあることだろう。今、どこそこが痛いとか、どこそこ悪いとかの状態であれば、まずそういうことだ。これ以上ペナルティを科せられないように、今日からは逃げないことが重要だ。カラダの自由が利かなくなる前に、取り返しがつかなくなる前に、苦手な相手から逃げないことを誓うのだ。
 最後に少し説明したいことがある。もしかすると、この話の間中疑問を持っていたのではないかなと思う。それは、「気の合う相手とは何のために存在するのだろうか?」という話だ。気の合う相手は一緒にいて楽しいものだ。気持ちも楽だし、心もなごむ。そんな状態だと脳から出るホルモンもカラダにいいはずだ。でも、人間関係の改善が人生修行であるなら、気の合う彼らは意味のない存在となる。この世に極楽があってもしょうがないってことになる。学校でも社会でも、気の合ういい奴とは本当に意味のない存在なのであろうか?
 気の合う相手とは、心の休息だ。少し考えればわかることだが、世の中のすべてはジグザグに上昇する。相場も景気もすべては上下動の繰り返しで上がる。成績だって、好不調の繰り返しの中で上昇する。ゴムも張り詰めてばかりでは切れてしまう。伸び縮みさせてはじめてゴムの能力を発揮する。つまり、一瞬下に下がる時が必ずあり、そこで充電してまた再起することを繰り返す。この下がった時期は休息することが必要である。これも人間に仕掛けられた上昇のヒミツだ。仲の良い友達は休息のために存在することになる。
 実は気の合う人とは休息相手であり、創造主からみれば人生には必要はない存在だ。気が合うからといって、ソウルメイトではない。修行に関係ないわけだから、魂の世界ではただの他人なのだ。いい奴だから、また来世でも会いたいなと思ったところで、それは叶わない。来世で会えるのは、今世で気の合わない嫌な奴だ。人生を邪魔する奴、そいつがソウルメイトなのだ。ここに輪廻転生のおもしろさがある。
 ということだ。だから、気の合う奴とひとときの休息を過ごしたらまた、嫌な奴の元へ行って修行に励まなければならない。人間は全員そういう人生を仕掛けられているのだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(11/12) ~答えの時間を稼げ!~ [哲学]

 日本は高齢社会だ。死ぬまで先は長い。益々寿命も延びるだろう。医学も進歩しているから、生きよう思えば、どんな姿になろうと、とりあえず生きることは可能だという。がしかし、できれば好きなモノを食べて、好きなところへ行けて、好きなことをしたいよな。頭もクリアでいたい。だれも病院の世話にはなりたくないよな。若い時と同じように、階段を一段抜かしで駆け上がりたいはず、瓶ビールを一気のみしたいはず、若い彼女を連れてデートしたいはずだ。これらはすべて可能な話だ。
 が、今の現実から見れば夢かもしれない。現代人のカラダはかなり蝕まれているからだ。それは、若い頃から少しずつ悪いホルモンを脳から出してしまったことが原因だ。それはすべて創造主の仕組んだ自動ペナルティだ。ここで反省すべきことは、若い頃の生活習慣ではない。なぜ、悪いホルモンが出てしまったのかだ。それにはぜひ、「人生振り返りのなぜなぜ分析」をしてほしい。モンタージュ写真が完成するように、生活が荒んだ原因が浮かび上がる。しかしそこで出てきた原因は、まだ真の原因ではない。一見、これが原因だと確信したものは、真の原因ではない。こころかさらになぜなぜを繰り返す。絞りきった雑巾をさらに絞るような感じだ。すると、またなぜなぜ分析が進んでゆく。トヨタなんかがよくやる分析手法だ。不思議なのだが、そうしてゆくうちに大概は、人間関係の問題に行き着くということになっているのだ。
 人間関係の修行を行う前に、すでにカラダがボロボロになっている人がほとんどだ。これはすべて、ペナルティを科せられたために、長年悪いホルモンにカラダが犯された結果である。だからまずやるべきときは、ペナルティを科せられないようにカラダを守ることだ。これは言わば、「人間関係とは?」というクイズの答えを考える時間を稼ぐということで、とても重要な生き方だ。それには、相手にいちいち腹を立てないように心がけることだ。怒りという感情が湧くと、悪いホルモンにカラダが犯される。「怒り」についてはまた後日ブログ「人間の原始機能」で説明するが、ここで知っておいてほしいのは、怒ると悪いホルモンが脳から出るよということだ。カラダのとって怒りは百害あって一利なしだ。怒ってはいけないのだ。
 じゃあ、どう対処すればよいのか?腹が立つという感情は、相手を自分と同等と見るから起こる。相手を下に見れば腹も立たない。赤ちゃんや幼児に何をされてもあまり腹が立たないだろう、それと同じだ。なんか自分に突っかかってきても、「レベルが低いのね、かわいそうに」と思っていればいいのだ。それでだいぶ心は楽になる。それを続けていくうちに余裕が出てくる。相手を観察することができるから、何でそんなことをするのか?何でそんなことを言うのか?を冷静に分析してゆく。相手をかわいそうだと思うと、それだけで気持ちは優位に立てると同時に、人間関係修復の時間稼ぎができる。じっくりとこの難問クイズの答えを考えることができるというわけだ。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(10/12) ~人間関係も生活習慣病~ [哲学]

 アニキは何が言いたいのかというと、早く人間関係の意義に気づき、それをクリアしてゆく事に力を使えということだ。人生で何をすべきかを見つけることに人生のほとんどの時間を費やす人が大半だ。そして運良く人生の意義を見つければまだよい。だが、そんな人はごく少数に過ぎない。多くは、老年になって自分の生き様を振り返った時に初めて、何が人生だったのかがうっすらとわかる程度だという。
 だから人間関係の意義を早く理解したもの勝ちだ。そのために、3つの性質を知ることから始まるのだが、よく観察すればわかることだろう。まず、人間関係からは「逃げられない」のだから、あきらめて受け入れるしかない。誰もがここからスタートする。気の合う相手なんかは人生の息抜きだから、こんな相手に時間を潰してる時間がもったない。逃げることはやめて、早く立ち向かうべきだ。放っておくと、関係の悪さは「膨らむ」。そこで、関係修復を試みようとして相手を正そうとすると、かえって関係が悪化する。で、いろいろ悩んだあげく時間は過ぎてゆく。気がついたらジジイだ。そんなことが人生となってしまう。
 アニキは生活習慣病と同じだと言った。病気の意義とは何か?考えたことがあるか。健康のありがたみを教えるためだ。それと、どうして病気なったのかを考えろということがその目的だ。病気になるしくみを理解しろということだ。本来それは、医者が考えることではなく、個人個人が人生の中で考えるテーマなのだ。人間関係もそれと同じこと。自分で答えを出して進んでいくゲームだ。それを生前に自分で仕組んで生まれてきているのに関わらず、愚痴をこぼすなんてもってのほかだろう。
 重要なところだから何度でも言うが、相手を正面から受け止めて、戦えといっているわけじゃない。相手を変えようとしてもそれはムダだ。火に油を注ぐだけだ。嫌いな相手とは、以心伝心だから、間違いなく相手も嫌っているはずだ。あなたの一言一言が引っかかるのだから、何を言ってもダメだ。ありきたりだが、自分が変わるしかない。これが答えだ。自分が変わるというのは、難しいことではない。自分のことなのだからすぐにできる。人間関係が悪いことにより起こるペナルティをかわすにはこれしかない。ペナルティとしての悪いホルモンが出ないようにするにはどうしたらよいかを考えなければ、カラダはボロボロになってしまい、いろいろと不都合が出てくる。
 そんなことやってたら、この高齢化社会を楽しむことはできないぞとアニキは言いたい。

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人間の仕掛け各論「人間関係」(9/12) ~第3の性質「相手は変えられない」 [哲学]

 人間関係第3の性質として、「相手は変えられない」ということがある。多くの精神論者がこのことを提唱しているから、一度は耳にしたことはあるかもしれない。なぜ、こんな性質があるのだろうか。
 合わない相手を何とかしようと考える人も多い。ずっと関係が続くと予想される相手ならば、こんな冷えた関係を続けるのはストレスが溜まる。だから、何とかしようと思い、どこが悪いのか考える。どこが悪いかと考える時、必ず相手が悪いと考えてしまう。「自分はまともで、おかしいのは相手だ」と考える。すると、相手の悪い部分がどんどん出てくる。こんなに悪いところが多いのだから、相手が悪いのだということになる。すべては一方的な考えであることにも気づき、それではさすがに良くないという思いもあり、友人や親しい人に公平に判断してもらおうと、相談してみる。しかし、あなたからの一方的な偏見で相談相手に伝えるものだから、意見は同調してしまう。「そいつの方が悪い!」と、共に憤慨してしまったりする。本来なら、公平な評価をしようと思えば、相手側の意見も聞かなければならないのだが、そこまでの話にはならない。そう、だから相談相手も悪いのは友人の相手の方だと思ってしまい、一緒になってそのことの評論となっていく。相談者は相談相手にもお墨付きをもらったわけだから、「自分が正しい」という思い込みで、相手を正そうとしてしまう。
 元々、関係が悪い相手は、あなたのことを快く思ってないわけだから、あなたの意見など聞かない。自分を中傷しに来たかぐらいの印象だろう。「その部分を直しなさい」的な意見に対し、何勝手なこと言ってんだ?と思うのだ。とりあえず聞き終わった後に、それはあなたの側の意見であり、こっち側にも言い分があるという態度になる。そこから口論が始まる。もう収拾がつかない。こじれるだけこじれて終わる。結局は、人間関係がさらに悪くなって締めくくることになる。
 つまり、これらの一連の流れの根幹には、「相手を変えよう」という意図がある。元々、相手を変えようなんてのは無理だ。相手側から、「どこがおかしいのか言ってくれ」という態度で来るならまだ変わるのかもしれないが、人間関係の悪化する理由としては、お互いが「自分が正しい」と思っていることがある。だから、何の根回しもなしに、相手を変えようなんてことは無理なのだ。相手を無理に変えようとするから、ねじれが生じて戦いや争いになる。これが国家間となれば戦争だ。相手を無理に変えようとか、従わせようとしてきた結果が、人類の歴史である。結局、人間関係を修復しようと考えるなら、自分が変わらないとダメということになる。
 人間も、もうそろそろ気づくべきだろうな。創造主は、人間関係に3種類の性質を与え、対処法を間違えると状況が悪化するように作った。3つの性質を持たせているわけは、正しい方向をきちんと示しているということなのだが、人間はなかなかその方向へ進んでいかない。違う方向に進むとうまくいかないようになっているのに、そのことに気づかない。実は、予め正しい道ができているから、そこをひたすら進んでいけばよいのだ。
 この仕掛けに気づくことこそが、人間関係の意義である。

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