SSブログ

女は武装する(4/14) ~男の存在意義~  [哲学]

 男がやみくもにスイッチが入らないようになっているわけ、それは平常時に暴れられたら困るからだ。頑丈な体と攻撃的性格で暴れられると、周りもただでは済まない。だから、平時はのび太のようにぐうたらでもよい。女の派生種としてこの世に誕生した男は、生活のすべてにおいて必要な存在として作られたわけではないからだ。どうしても必要な時、そのときのためにいる。その「どうしても必要な時」とは、女や家族の危機だ。そもそも家族のボディーガートがその存在意義である男には、平時は休むようにできている。そこで力を温存する。頑丈な肉体と攻撃性の高いその性格を、平時に使われたんじゃ、ケンカばっかりで争いが絶えないからだ。ぐうたらな性質は必然であるわけだ。しかも、危機が及んだ時、高い瞬発力を発揮させるため、カラダと脳を休ませておくことが必要になっている。普段休ませておくことにより、危機が起こったときには高い能力を発揮するようになる。カラダだけではない、脳もだ。脳も休ませておかなければ、機転の利いた行動を取ることができない。男の力のひとつは、とっさの時の機転であり、脳の瞬発力だ。脳を休ませておかないと、いざというときに瞬発力が発揮できない。だから、普段はお笑い番組などを見て楽しそうにしている。脳を休ませることは寝ることではない。「機嫌がよい」という心の状態こそが、脳を休ませることなのだ。男のぐうたらを正当化する気はないが、平時に男が怠惰であることはその存在意義から考えると必然なのである。女はここを心底理解していない。なぜなら、現在の日本では、男が力を発揮する危機などほとんど起こらないからだ。これからも起こらないだろう。人間の創造主が人類を見限って天敵を送り込まない限り、又は天変地異を起こさない限りは。
 平和な世の中が続いているがゆえに、男の存在意義が希薄になっている。また、食料確保するために戦わなくてもいい時代が何千年と続いている。そのため、男の筋力は衰え、女性となんら変わりない外観を伴う者まで現れている。脳にしたってそうだ。家族を襲ってくる敵は今の時代はほとんどいない。通り魔や強盗の類いは別として、この日本では、平穏無事に夜の道を歩くことができる。すると、お笑い番組見て脳を休ませることだけしっかり実行しているが、肝心の緊急事態がないものだから、男の脳はふやけきっている。休みが長すぎるとだらけきってしまうのと同じで、脳の活動も思うようにいかなくなる。その結果、本業の仕事にも身が入らないという事態になる。とりあえずは会社には向かうものの、やる気が出ないのだ。今のサラリーマン男性の目が曇っているのは、男という生き物の本来の性質からも説明できるのだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

女は武装する(3/14) ~アザラシのスイッチ~ [哲学]

 女性がコツコツと仕事をこなす従順な姿勢は、自分の母親の姿を小さい頃から見てきたが故の賜物だ。一連の家事を毎日すべて一人でこなし、子どもの弁当を作って送り出す。共稼ぎならさらに大変だ。自分の身支度をしてから仕事に向かう。仕事から帰ってきてからは夕食の準備、そして片付けだ。それを365日黙々とこなす母親を見てきている。毎日やっていることを並べ立てるだけで、「すげーよな、女って」って思うだろ。そう、すごいんだよ、君らの母親や奥さんは。君たちは自分ひとりで大きくなったんじゃないってことを忘れたらいかん。だから、「ガキみたいにいつまでも母親に楯突いてんじゃねー」と言いたい。年甲斐もなく熱くなってしまった、許してくれ。
 話は逸れるが、アニキ哲学のガキへの教えの一つに、「足りないことに文句を言うな、やってもらったことを数えて、満足しろ!」というのがある。世の中、欲しいものだらけだ。その欲しいものを全部挙げたら切りがない。そのひとつを「叶えてもらえなかった」と言って、文句を言うのは筋違いだろ。今まで他にいっぱいしてもらったことがあるんじゃないのか?「そいつを思い出して数えてみろ」と言うことだ。ひとつもないなんてことはない。そうだ、親に頼んで断られたら、「やってもらったことに感謝して乗り切れよ」ってことだ。感謝が足りないと、これからの運勢がだんだんと悪くなる。これは覚えておいた方がいい人生テクニックである。
 おっと、話を戻そう。文句一つ言わないで家事をこなす母親の姿は、娘にとっては同じ女性としての自分の中に着実に重ねられていく。その反面、親父は家でだらだらし、威張っている。親父は帰宅するなり、「風呂」と言えば風呂が沸いている。「メシ」と言って食卓に着けば、自動的に食べ物が出てくる。食べ終われば、テレビを見たり新聞読んだりと、好きなことをして、眠くなったら「寝る」と言って床につく。その間、母親は落ち着いて座るヒマもなく家事に追われるが、文句一つ言わずにくるくると動き回っている。そんな理不尽な家庭環境を娘は常に見ているわけだ。自分も将来は同じになるのかと考えるとやっていられないのかもしれない。茶の間にアザラシのごとくデンと横たわり、尻をかきながらお笑い番組を見て大笑いしている親父の姿が恨めしい。そんな現状に反発する気持ちがもち上がり、そんな家庭で育った娘はいつの間にか男を凌駕してやろうと考えることになる。アザラシを飼っている母親のような人生ではなく、社会で評価される道を目指すという動機づけにもなっている。
 アザラシの如く基本的に怠惰な生き物である「男」は、スイッチが入らないと動かない。スイッチなんか、生まれた瞬間に入ったままで、入れっぱなしで人生を過ごす「女」という生き物には理解できない。女は男に対し、「常にスイッチ入れとけよ」と思うのだが、それを聞いてわかったという男はこの世に存在しない。
 男は仕事や趣味意外ではスイッチが入らないようにできているからだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

女は武装する(2/14) ~女性のすごさ~ [哲学]

 男と女の能力差についての本を探してみたが、腑に落ちるものはない。常に肝心なところをぼやかしているものがほとんどだ。的確に指摘すると、社会問題になるからかもしれない。だからアニキは推論でゆく。男が優れている能力もあるし、女が優れている能力もある。さらに、それぞれの個体差もあるから、言い切れないのが本音だろう。
 アニキは女の創造力が男よりも低いとは思っていなない。新規開拓などの仕事は男の方が向いているというが、それも本当にそうであろうか?ヤクルトおばさんや保険のおばさんの新規受注率は男をはるかに上回るということからも、一概に言えないのではないかと思うのだ。
 アニキは思う、男が持っている身体的能力以外は女の方が上であると。実は、男が優秀だとされる創造性や新規開拓などの能力は、人類の歴史の中で、そうなっていったにすぎないと考える。そう見えていただけであると考えるべきだ。この根拠は女の劣等感の歴史がそのように仕向けたえと考えるのがリーズナブルなのだ。あくまで日本を舞台として検証してみたい。
 女性は生まれた時から、男性に対して劣等感を感じている。自分の母親の状態を見たり、学校での男の扱いを見たりして育つからだ。特に幼少の頃の教育や環境から劣等感を潜在的に持ってしまうのが原因だ。昔の親の世代は、一家の主である親父が家の中で威張っていた時代だ。家長がすべてという時代では、親父にすべての優先権があった。風呂も一番、食事も親父が食卓に着いてから開始される。家庭のすべての行動は、「お父さんが…」という枕詞がつくぐらい親父の権限が重視された。そんな環境で育った女子は、すでに親父の絶対権力の元で、そこはおかしいとは思いながらも、「男が優先で絶対」という観念が潜在意識にすり込まれてしまう。現在でも日本の田舎の方では、長男重視の姿勢を崩さない家も多い。そこが改善されないから女性は能力に蓋をされた状態で大きくなる。
 そう、女性はいくら優秀でも、心の底には「男の方が上だ」という潜在意識を持っている。それに抗うために、努力して男よりもいろんな面で優れていたとしても、この日本では最終的には男よりも評価されない。頭のいい女性は、「この国ではいくらがんばってもダメだ」と決心して海外へ出て行く。アニキは、海外で仕事をしていた時期もあり、アジアや中南米で働く多くの若い日本人女性と出会った。若い未婚の日本人女性が、単身でアジアや中南米へ乗り込んで働いている現実がある。「なんでこんな若い娘が、なんでこんな辺境の地にいるのだ?」と。企業から派遣されてきたわけじゃない。現地の言葉を流ちょうにしゃべり、現地採用で働いているのだ。話を聞くと、皆同じことを言う。「日本は男社会だから、いくらがんばってもダメだ」と。「男よりも評価されない」という。そして海外へ出て現地企業で働くと、たちまちに評価され、あっという間にマネージャーレベルになる。
 女性は日本でも給料ベースが低いから、海外での給料にも不満は少ない。男と違って入り口のハードルが低いのだ。現地のローカル女性とそこでしのぎを削るわけだが、海外に出て行く気丈な女性は皆、大学卒である。学歴も意識も高いレベルにあるから、ごぼう抜き出世ができる。やったらやっただけの評価が得られ、しかも海外には男女差別はほとんどない。女性マネージャーの下にたくさんの男共の部下がいて、その指示の元に仕事をしている。日本にはない充実感がそこには存在しているのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

女は武装する(1/14) ~男と女の能力差~ [哲学]

 以前のブログ「男は絶滅する」について、反響が大きかった。以前のブログでは、女は男より優秀な種であると話した。その部分において、反発が大きかった。反発するのはおとこばかりであったが。だが、どんなに反発しようが、これは事実である。
 何をそんなに反発するのだろうかと、その反発内容をよく聞いてみると、実に拙い。内容を少し紹介しよう。まず、「女は男よりも弱い」というものがほとんどだ。肉体的な差のイメージが大ききのだろう。格闘技で男と女が闘えば、男の方が勝つ。これは当然の話である。男は女からの派生種であり、女を外敵から守るために意図的に作られた生き物だ。女や家族を外敵から守ることと、猛獣と戦い食べ物を確保することがその役割である。そのために、強靱な肉体と攻撃的な性格が与えられている。だから、女に勝つのが当たり前であり、そこを自慢しても意味がない。
 そもそも、肉体的な強弱が人間の優秀さを決めるのかと言えば、そんなことは全くない。そんなことは子どもでもわかる。アニキ哲学において、カラダはただの魂の入れ物にすぎない。今世の乗り物であり、ただのモビルスーツだ。そこに反発してみても意味はない。肉体の強さの違いを盾に取るのはレベルが低すぎる。
 次に多い反発として、創造的な能力は男が上だとか、物事のコーディネート能力も男が上だとかという意見だ。数学は男の方ができるというような意見もここに含めてもいいだろう。この手の反発も前述の通り、男と女の役割による差と考えるべきで、創造力が高いから上だとか、コーディネート能力が高いからエラいだとか、そんな基準を誰も決めてない。それは、創造力が高い方が人間として上だと思っている人の勝手な解釈だ。数学ができる人の方が果たして頭がいいのだろうか?人によっては、国語ができる人の方が頭がいいと思うかもしれない。逆に女性は、きれいなものを愛でる心があったり、コツコツと地味な作業を長時間続けることができるという能力が上回る。記憶力がよかったりするのだ。それを、どっちの能力が上だとか下だとかは優劣つけられない。女性の数学者もいるし、女性のコーディネート能力の達人もいる。よって、そもそもこれらはどれも個体差の類いだろう。
要するに、物事それ自体はすべてフラットであり、それを見る人の心によって優劣が決まってしまうわけだ。絵が上手くて足が速くてハキハキと元気のよい子が優秀に見えるだけで、それも自分が子どもの頃にそういう子どもに憧れがあったから、優秀に見えてしまうという偏見だ。だから、この能力的な優劣についても反発する話ではない。
 ただ、ここで注目しておかねばならないのは、なぜ男には単発的な創造的な力が上回り、女には細かい単調な作業を長時間できるのかということだ。男は単調な作業にすぐ飽きてしまう。それを無理して長時間続けようとすると、ミスが増える。そこに、楽しさがないと続けることができない生き物だ。しかし女はそれを淡々とこなす。世界の工場の検査員がほとんど女性であることを鑑みれば、その能力の差が本当であることがわかるだろう。では、この違いは一体どこから生まれてくるのだろうか?


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(12/12) ~「信者」とは自動化~ [哲学]

 ジジイの何がすごいかって、それは心が読めるってことだ。本当に読めるかどうかはわからない。アニキが思うに、それは人の行動心理を経験から理解しているからだと思う。長年の営業活動を通して、しぐさとか目線だとか、行動パターンだとかを分析して心を読む技術だ。ただそれは、経験からつかみ取った技ゆえに、体系的に説明はできない。ジジイの感性の問題だからだ。多くのパターンが経験という統計からできあがっている。自分だけの統計であり、ジジイの頭の中にあるのだ。これを教えてくれようって言ってんだ。頭下げても聞きに行くだけの価値はある。ノウハウを出し惜しみするようなタヌキジジイは別だが、ジジイのノウハウを吸収したいのならば、ジジイを一瞬崇めてみてもいいだろう。そこでノウハウを吸収できたならば、ジジイと同等の技能を持ったことになる。それをうまく使いこなせば、それが能力にまで高まる。そこにプラスで、若者ゆえの感性で捕らえた経験がある。ということは、若者の感性をプラスして初めてジジイを上回ることになる。ジジイという生き物は、教えたくてしょうがないのだ。
 で、ジジイがやってきたこと、それは、信者作りという作業だ。これは、職人の域にあるといえる仕事だ。まさに営業職人だ。実は営業マンも突き詰めると、大工や料理人と同じ境地を目指すことが本質といえるのだ。営業マンの技能は、大工や料理人と違って目に見えるものではないだけに、誤解されやすい。一見、何の技能もないように見えるからである。そう、営業マンの能力とは、注文を取る能力、契約を取る能力だ。そこにはいろんな技能が必要となる。数えれば切りがない。専門知識・話術・説得力などの交渉術や、演技力も不可欠だ。人間的な魅力も欠かせない。他の職人にはあまり重要視されないような技能も、営業マンには不可欠だ。いわば、営業マンことが真の技術職と言えるのだ。そして目指す目的は信者の獲得だ。何度も言うが、信者からしか本当の注文や契約は出てこない。信者からしか儲けさせてもらえないからだ。
 では、信者のどこがすごいのか?それは「自動化」だ。注文の自動化、契約の自動化など、信者を作ることにより、自動的に結果が出るしくみを作るということだ。これが信者を作る真の目的なのだ。毎回、見積もりで競合して安値で受注することに忙しくしている日常で、それを仕事だと思っているとしたら大間違いだ。それは、仕事ではなく作業である。そんなことをして疲弊した日常を過ごすより、信者に電話一本かけて、「どうしたら注文くれる?」と訊くだけでいい。信者なら、ポイントを教えてくれる。競合先の価格などの有益な情報や、受注するためにどう動いたらよいかのポイントだ。自分はただそれをクリアすればよいだけだ。ハードルが高くてクリアできなくても、落とし所を教えてくれる。逆に信者からは、勝手に特命で注文くれたりする。そんな自動化システムを構築することが営業の仕事だ。「信者を作れ!」という意味がここにあるのだ。
 信者はメリットづくしなのだが、デメリットもある。信者ができると、夜や休日が忙しいのだ。信者は子どもと同じだ。その遊び相手になってやらねばならない。でないと、信者は離れていってしまう。自分は利用されただけだと思ってしまい、離れていくだけでは終わらない。恋人と同じで、近しい関係だった者同士がこじれると、遺恨が残る。今までよかっただけに、マイナスな関係に振れる。関係は悪化してゆく方向に向かうから要注意だ。信者に成り立ての場合は特に注意が必要だ。赤子のごとく、かなりかまってやらないといけない。信者獲得を目標としたならば、人間関係での怠け癖だけは直さないといけない。
 人生において、釣った魚に餌をやらないという対象は、奥さんだけで充分なのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(11/12) ~ジジイに学べ~ [哲学]

 そんな老練営業マンの特徴は、余裕だ。余裕があるというよりは、余裕を見せびらかしていると言った方がいいだろう。昼間は「仕事なんかしてないよ」というような雰囲気をわざと作っている。あくせく働く若造共よ、「俺みたいに余裕かましなよ」「俺の実績を超えてみな」とでも言いたげなその小憎らしい態度は、鼻につく。まあ、そう言うなって、ジジイは若者と張り合いたいんっだって。カワイイじゃないか、そんな態度は。そう思えば、腹も立たない。そんなジジイを毛嫌いするのではなく、せっかくだから、エッセンスを盗めばいい。ジジイも本音はそれを望んでいる。
 要は、ジジイの本音は自分を慕ってほしいってことだ。若い連中と飲みに生きたいんだよ。ウンチクたれたいんだよ。ならば、あえて乗ってやってもいいんじゃないか。自分から乗ってやるということは、ジジイの余裕を上回っていることを意味するからだ。そこで、「俺の方がジジイより一回り大きい」とニンマリしていれば済むことだ。ジジイにわざと取り込まれてやればいいのさ。あとは棺桶しか待っていないジジイを慕ってゆけばノウハウを伝授してくれる。ただ、大げさに話すジジイが多いから、話を半分くらいに聞いておく術はマスターしておいた方がいいだろう。ただ、ジジイに対しては大げさに驚けよ。そこは演技しろ。ジジイをその気にさせれば、いろんなノウハウが出てくる。自慢話を聞く方が、説教を聞くよりよっぽどいい。ジジイを乗せれば自慢話、ジジイを乗せなければ説教だ。覚えておけよ。じゃあ、ジジイは何を教えてくれるというのか?果たして過去の遺産に学ぶべきものはあるのか?ここに若者の疑問がある。アニキは言う、「確かにある」と。
 いいか、年寄りの話は過去のものと片付けてしまっては未来がない。人類は、過去の歴史を踏み台にして発展・進化してきた。過去をうまく使ってきたのだ。それは何を意味するのか。時間を買うということだ。M&Aと同じだ。M&Aって知ってるよな。企業の買収だよな、これの本質は何か知ってるか?企業を買収しているんだよな。その真意は買収した企業の価値を買ってるんじゃない、時間を買ってるんだぞ。わかるか?企業を買えば、イチからやらなくも済むからだ。先生などの専門家に学ぶことと同じだ。独学でやったってできるんだけど、時間がかかるよな。今世では足りないかもしれないよな、だから先生に教えてもらう。先生に払うお金は時間を買っているということだ。だから、M&Aも同じで、買収は時間を買うという意味だ。
 話を戻そう。ジジイに教えを請うということは、無駄な時間を使わないで済むということだ。ジジイが過去に失敗した事例や成功例を教えてくれる。また、ジジイの哲学からも学べる。ノウハウを盗むよりよっぽどいい。自分でイチからやってもいい。それは可能だ。だが、失敗もある。先人がやらかした失敗事例は学んでおけば、それは対処できるではないか。それじゃ、経験不足になるってか。そんな、失敗なんか星の数ほどある。先人の失敗例を学んでおけば100%OKということには絶対ならない。必ず、経験したことのない敗にぶち当たるから、安心してくれ。それなら、少しでも先人の知恵を吸収しておいた方がいい。
 ジジイだけじゃない、先輩同僚みんなに言えることだ。つまりだ、「我以外皆、我が師」ということにならないか。乞食からでも学べる。中国では、乞食は仙人が化けているというが、まあ、これは関係ない話だな。要は、何でも一日の長はあるもんだよ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(10/12) ~ジジイの遊び~ [哲学]

 喜ばれるはずだと勝手に決めて、本人の意思は考慮しない行為が「お節介」だ。さらに、「喜ばれるはず」という意図も持たず、己の意志のみで「そうしなければならない」という使命感が前に出すぎてしまう。これも、「お節介」だ。結果的に喜ばれているとは限らないのだが、親切心の元に行われる行為ゆえに、憎めないというのがお節介だ。
 「お節介はやめて!」という批判に対しての大義は、「それならもっとちゃんとしろ!」という論理なのだ。「傍から見ていてなっちゃいない」からお節介を焼くのだという、一方的な論法には敵はいない。「結果的には、あんたの為だ」が殺し文句となる。お節介を否定する言葉は常に跳ね返される。「お節介=プラス」「お節介否定=マイナス」という公式が、自然と成り立ってしまうからだ。そこにお節介の恐ろしさがあるのだ。じゃあ、お節介に対抗するにはどうしたらいいのか?アニキは言う、対抗するなと。別に対抗する必要はない。「お節介には乗れ!」が基本スタンスだ。人の親切をムダにしてはいけないというのが、アニキ哲学だからだ。だから、「十分にいじられろ!」ということで丸く収まる。お節介焼きにいじられることは光栄だと思えばよい。それでよし。
 話をサラリーマンに戻そう。「信者からしか儲けさせてもらえない」というのが、関西商人の生き方だ。アニキは商社マン時代、関西を拠点として働いていたから、関西人の商売をよく見ていた。別に営業マンだけに必要なわけではない。すべての仕事に信者が必要だ。ただ営業マンを例に取っているだけで、他の部門には自分で応用してくれ。
 そう、信者を作ることが営業の基本だと言った。じゃあ、信者がどういう成果をもたらすかということ話そう。年配のあまりパッとしない営業マンを例にする。年配の営業マンは実務はやらないが、なぜか注文をとってくるという光景を見たことがないか?それは、長年の営業経験のなかで信者を増やしてきた結果なのだ。若い連中は、老練の営業マンを指さして、「昼間なんにもしていない」「パソコンもできない」と揶揄するが、老練の営業マンは「営業マンとは、すべて結果であろう」と割り切っているから、気にも留めない。老練の営業マンの営業活動は「遊びに行く」が基本だ。昼間はお客の事務所に遊びに行き、夜はお客と飲みに行く。まるで仕事の雰囲気はゼロだ。
 がしかし、なかなか侮れないのだ。老練の営業マンのアポイントの取り方をよく見ろ!「今から遊びに行ってもいい?」って訊いている。忙しいお客を訪問するのに、「遊びに行っていいか?」なんて、考えられないだろ。これは究極のアポイントだ。真似しようにも、若い連中じゃ真似できないだろう。このアポイントの取り方がどれくらいすごいことなのかをわかる営業マンは、なかなか見どころがあると言える。アポイント一つ取るのに結構苦労するのが営業マンだ。それなのに、「遊びに行ってもいい?」と訊けるか!これは、取引先相手を信者にまで高めないとできない芸当だ。それをさらりとやってのける老練の営業マンは、やはり信者の重要性をよく理解してやってきた結果だ。
 とりあえず、「やるな、ジジイ」とでも言っておけ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(9/12) ~無理矢理な信者「お節介」~ [哲学]

 相手が仕事上で困っているなら、全身全霊で助けてあげればいい。それは大きなチャンスだ。そうじゃなくても、手助けの材料など身近にゴロゴロころがっている。例えばスマホの設定でも何でもいい、それに困っているなら手助けしてあげるだけでいい。自分がそのことに詳しくなくても、調べてあげればいいのだ。それが相手に取っては大変喜ばれることなのだ。お節介を焼くぐらいでちょうどいい。だから、雑談する機会を増やして、相手の困り事を聞くという機会を作るとこから、信者作りはスタートするのだ。
 怠け者であっても、ここだけは怠けてはいけない。「相手の困り事に力を貸す」、ここを怠けなければ、人生はうまくいく。がしかし、1回助けたから信者となるかと思ったら大間違いだ。それは、相手によっても異なるが、何度もやることになるだろう。それを地道に続けていくうちに、「この人に助けられてばかりはいられない」と、相手は大きな気づきを得ることになる。その瞬間から信者への道が開ける。
 タナボタでもいいから、ひとりでいい、まずはそこからだ。自分の信者がひとりできると、それが癖になる。人間の原紙機能のひとつ「喜ばれるとうれしい」のスイッチが入るからだ。伸びる営業マンも実は根っからの怠け者だ。しかし、信者の大切さはわかっているから、それを得ることのみを追求してゆく。困った時に助けてくれる関係を作るために、自分からまずは助けること心がける。心はいつも「いざ鎌倉」だ。喜ばれるとうれしいという麻薬を体験すると、自然と怠け者でも信者獲得へのスイッチが入ってしまうのだ。
 一方、「喜ばれるとうれしい」という人間の原始機能を生きがいにしている人種がいる。この人種は世界中にいる。日本でも近所にたくさん生息している人種だ。それはどんな人種かわかるか?そこには共通するキーワードがある。前回も少し触れたが、「お節介」だ。そこいらの近所にいるお節介なおばさんだ。お節介おばさんはなぜか人気がある。街の商店の店先で店番をしているおばさんがお節介焼きであれば、結構、商売繁盛しているのだ。また、繁盛している居酒屋は、必ずといっていいほどお節介焼きの女将がいるもんだ。お節介を地で行くおばさん達には敵がいない。相手のことを考えすぎるという問題はあるが、悪気はない。親切心の固まりにはだれも逆らえない。無敵の強さを誇るのだ。お節介おばさんの中には、すべての状況に対してあるべき姿がある。年頃の男女は結婚しなければならないと、無理矢理縁談の話を持ってくる。痩せている人には何が何でも食わせようとする。悪い言葉で言えば、親切の押し売りなのだが、そんなことはお構いなしだ。
 お節介とは、無理矢理な信者であり、臆病者や怠け者にはうってつけの信者だ。しかも、いじり倒されるのだが、親切心という土台の上に成り立っているために、憎めない行為だからだ。しかもお節介焼きのその性質は、一方的な信者であり、そのカテゴリーは母親と同じである。本人に喜ばれるという見返りはどうでもよく、常に己の都合で行動を取るところは、非情に母親に似ているのだ。
 古き良き時代の日本には、「お節介」という無敵の信者がいたのだ。世界に誇る日本のおもてなしの精神のひとつを作り上げているもの、それがお節介だ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(8/12) ~心の膝を曲げろ!~ [哲学]

 第三のタイプは、信者を見つけることを理解できても、それを追求することができない営業マンだ。このタイプは、物事の本質を見抜く目を持つが、それを実践で生かせない。頭では理解できても、体が動かない。いいことを言っても、行動を見れば明らかで、「信者からしかもうけさせてもらえない」といくらほざいたところで、「あんたはやってないじゃないか」と見抜かれてしまう。まさに評論家だ。説得力のかけらもない。実践しないのだからうまくいかないのは当たり前だ。なのに、それを自分の知識のなさや、この状況では通用しないと自分を正当化する。セミナーオタクや講演会オタクに多いタイプだ。同じようなセミナーに何回も顔を出し、「そうだ、そうだ」と講師の言うことに納得して帰る。これを繰り返しているだけだから、結果は出ないのだ。「物事の神髄を見抜ける」といういいものを持っているのに、もったいないタイプだ。「幸せとは、今幸せだと思うこと」と自分で語っているくせに、実生活では愚痴をこぼしている奴なんかは間違いなく、このタイプといえる。納得しても動かないのだから、真に怠け者だといえる。
 じゃあ、伸びる営業マンとはどういうタイプか。結局は、失速する営業マンの逆の行動を取ればいいだけだ。「信者獲得が営業の神髄である」「営業とはモノを売ることではない、人間関係の構築だ」とわかったら、さっさとそれをやり続ければいい。何をすればいいのかわからないというのは、お子ちゃまだろ。ここは人に教えてもらうところではない。人によってやり方が違うし、相手によってもやり方が違う。人間はモノじゃない。自分と相手とをじっくりと研究して、方法を見つける。まあ、ヒントを言えば、相手の困り事の解決に力を貸すことだ。具体的に何をすればいいのかは自分で考えてくれ。
 自分が困った時に助けてもらえるようになるには、まず自分から相手が困った時に助ける必要がある。だから、いつも助ける準備をしておかねばならない。映画のように、大参事が起こりビルの下敷きになった時に、さっそうと現れて救い出す場面なんか、想像してはいけない。そんなことは日常では決してありえない。また、安易にお金をあげることでもない。そんなことじゃなく、「手間で助ける」ことが重要だ。
 だから、助ける準備とは大げさに考える必要はない。頭の中でいつも、「困っている人がいたら、力を貸すのだ」と唱えていればいい。ただそれだけで、すぐに動くここができる。アニキはこの状態を「心のひざを曲げる」という。歩き出すとき人は一瞬、膝を曲げる。一歩前に足を出す時は、必ず膝を少し曲げる。棒立ちの状態でいきなり歩き出すわけじゃない。膝を曲げた状態から、足を伸ばして後ろを蹴り出すから、人は前に歩く。膝を少し曲げるということは、すべての次の動作への準備であり、機敏に反応することができる。棒立ち状態では反応が遅れてしまうからだ。これをアニキは心に応用する。何かに対して対応する心構えを持つこと、これが「心の膝を曲げる状態で、困り事が起こった時に機敏に対応することが出来る。そんな心構えで人と接しろということだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(7/12) ~失速するタイプ~ [哲学]

 運の良さの話は置いておいて、失速する営業マンのタイプについて話をしよう。伸びる営業マンとは反対に、失速するタイプは3タイプいる。
 まず第一の失速する営業マンのタイプは、怠惰というぬるま湯が心地よく、抜け出せなくなった者だ。このタイプは、根っからの怠け者だ。仕事の面白さがわからないとやる気を出さない。信者を獲得するのが早いか、上司からバッテン評価を付けられるのが早いか、どちらかだ。信者を捕まえるのが早いと、怠惰な営業をしていても数字は上がり、自然と評価されてしまうから、そこに仕事の面白さを見いだす。そうなると、結構いい気になってそこそこやるようになる。で、このタイプが見つける信者とは、偶然にその相手とウマが合ってしまい、結果として信者を獲得してしまうということである。信者獲得が営業の神髄ということ理解しないまま、信者を持ってしまうことになる。タナボタ型の信者である。だから、そこには営業哲学などはない。運が良いということに尽きるのだが、まあそれも人生には大事な要素だから、悪いとはいわない。サボっている奴にも運があるのが人生の面白いところなのだから。
 ところが反対に運がない場合、信者なんかは出てこない。そんな状態がずっと続くわけだから、上司だって気が気じゃない。怠惰な営業マンは、常日頃から怠惰な雰囲気を醸し出しているため、上司から「やる気なし」と見なされてしまい、早々にバッテンを付けられてしまう可能性が大いにある。そうなると、完全にやる気を失ってしまい、会社のお荷物となる。そうなると会社もクビにできず、大いに困った状態となるのだ。本人の能力も見事に止まってしまい、みんながアンハッピーな状態だ。
 第二のタイプは、効率よくやることはわかっても、信者を見つけることが重要だと気がつかない営業マンだ。このタイプはやはり、ベースは怠け者だから効率を追求するわけだが、小手先の効率ばかりを追求し、考え方の底が浅い。物事の本質を見抜けないから、空回りが多い。「営業とはなんぞや」とわかった気でいるが、それが信者の獲得ではない。別のところに己の営業哲学があるわけだが、それを本人も信じ切ってない。なぜなら、本や先輩の受け売りであり、自分の血肉になっていない哲学だからだ。うまくいかないものだから、夜飲み歩いては愚痴ったり説教をたれる。怠け者の割にはがんばったりするタイプで、努力家なところに見所がある。しかし、思うような結果がなかなか出ないために、段々と息切れしてゆく。最後には、失速してしまうというパターンである。頑張り屋であるがその頑張り方に問題があるわけだが、「信者が大事だ」との本質を教えたところで、己の既存哲学が邪魔をして、頭に入っていかない。で、そうこうしているうちに、上司に評価されずに異動の憂き目をみることになる。そして、その仕事を引き継いだ者は、前任者が何も残していないことにびっくりするということになり、また一から関係作りをスタートしなければならない羽目になる。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(6/12) ~怠惰な営業マン~ [哲学]

 一方、自分のやっている努力がムダだと気づく営業マンがいる。すぐに効率を追求しようとする者達だ。ここのカテゴリーに属する奴らは、元から怠惰な奴が多い。だから、地道な努力もせずに、すぐに効率を求めようとする。営業に出ても、黙々と行動する地味なローラー作戦なんか絶対しない。そんなことはムダだとわかっているからだ。それより、とりあえず喫茶店にでも行って、一服しながらどうしたら効率よく成果をあげられるかを考えることをはじめる。傍から見ればサボっているわけだが、実はこのタイプ、短期的な実績は出せないが、長期で見た場合、じわじわと右肩上がりの実績を残す。長い目でみて、長期に及んでそいつの社内待遇を安定させてやれば、いずれは花が開く。だが、実績があがる前にダメ社員の烙印を押されるパターンも多い。長い目で見てやらないとダメなので、体育会系のモーレツ上司の部下には向かない。短期間でしか物事を評価できない上司では、結果を出すのが遅すぎると、評価されないからだ。
 でも、信者を作って末永く営業実績を残すのは、この効率追求型の怠惰な営業マンだ。このタイプのどこが評価できるのかというと、怠惰な性格のために手を抜くことを常に考えているからだ。要はサボりたいのだ。のんびり仕事をしたいから、どうしたら効率よく仕事ができるだろうかといつも真剣に考えている。サボることを真剣に考えているのだ。そうすると、いろいろ見えてくる。営業がモノを売っている状態では、毎回同じ努力が必要であることに気づく。なんとか、自動的に契約を取ることができないものだろうか?と常に考える。人間は考えれば考えるほど、いろんな知恵が出てくるものだ。考えることをあきらめた瞬間から知恵は出てこなくなる。そうこうしているうちに、ある日ハッと気づくのだ。商売は信者からしかもらえないということに。
 営業とはモノを売るんじゃなくて、「自分の信者を作ること」だと悟る。それをすれば、自動的に商売が持続することがわかるのだ。信者とはブログ冒頭でも説明したが、困った時に手を差し伸べてくれる相手だ。売り上げがなくて困った時に、頼みにいけばいい。そんな恒常的な人間関係を作ることが、最良の策であることに気づく。しかし、そのしくみをどうやって作っていけばいいのだろうか。
 同じ怠惰な営業マンであっても、実はまたここに二つに分かれる分岐点がある。失速する営業マンと伸びる営業マンだ。といっても、伸びるか失速するかは紙一重である。ほとんどは運が決めるといってもいいだろう。話は逸れるが、怠惰な営業マンの方が「運がいい」という事実がある。運の良さとは、努力の大小ではない。ここがわかってないと人生に失敗するぞ。詳しくは後日ブログ「運の良さ」で話そうと思うが、頑張ってる奴が運が良くて、頑張ってない奴は運が悪いのではない。頑張ってる奴の頭の中と怠惰な奴の頭の中を比べればいい。頑張ってる奴の頭の中には余裕がない。怠惰な奴の頭の中は余裕だらけである。この余裕こそが運の良さを決めることになる。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(5/12) ~二種類の営業マン~ [哲学]

 このブログの冒頭でも話したが、人生とは自分の信者を作ることだ。サラリーマンなら、なおさらだ。サラリーマンでの成功者とは、信者をどれだけ作ってきたかということだ。信者が成功を導いてくれる。成功の中身などはどうでもよいのだ。要は、信者からしか成功は得られないということだ。この意味はわかるか?ここを少し説明しておこう。
 このブログはサラリーマンのための哲学だから、営業マンを例に取って説明しよう。というか、世の中誰もが何かを売っているから、仕事では全員営業マンなんだよな。まあ、その話は置いておいて。毎月売り上げを上げるために、がんばって営業するのが営業マンだ。お客に足繁く通い、商品を買ってもらう。そのために、充分な商品知識を勉強し、営業トークに磨きをかけるという健気な努力が物を言う。と思いきや、そうではない。そんな話なら、ちまたに出回っている営業ノウハウ本でも買って読めば良い。
 現状を分析しよう。毎日朝から努力しろと、上司から発破がかかる。周りは体育会系のイエスマンだらけだ。先輩や上司の言うことは、神のお告げと思っている連中に囲まれている。契約取れた営業マンだけが誉められ、取れない奴はカス呼ばわりだ。そんな状況下では、努力するしかない。ケツを叩かれて「営業行ってこい」「契約取れるまで帰ってくるな」という。
 しかし、責め立てられる努力だけでは、ある程度の実績は残せるだろうが、すぐに頭打ちだ。息切れするのだ。結果が出ようが出まいが、ある程度の期間をがんばってしまうと、限界があることに気づくのだ。この境地に立った時、道は二つだ。ひとつは、そのまま走り続ける奴。もうひとつは、効率を追求する奴。
 まず前者だが、体育会系出身の打たれ強い奴らだ。体育会出身といっても、スタープレーヤーじゃない奴な。天才肌のスタープレーヤーは打たれ弱い。文化系クラブ並みの弱さだから、ここでは排除する。一般の体育会系出身者だ。飲み会で、「脱げ!」言ったら、すかさず脱ぐ連中だ。そんな体育会系出身者は、肉体も精神も追い詰められてボロボロの状態になると、目の色が変わる。心のスイッチが勝手に入ってしまう。さっきも言った通り、上司の声は神のお告げだと思い、自分が壊れても突き進もうとする。がしかし、学生と違ってチームプレーじゃないから、隣の奴はライバルだ。仲間だと思って安心していると、そうじゃなかったりすることは多い。それがわかると、心が折れてしまい立ち直れなくなる。体育会系とは、共にがんばっていく仲間がいないとダメなのだ。同じ釜のメシを食ってきた連中に突き落とされたりすることは、完全に自分の辞書には書いてないことだから。ま、これが普通の社会なのだが、一本調子の猪突猛進型の体育会系は、心が折れて挫折した時に取り返しがつかない。「要領よく」なんて事は、はなっから考えない。一途に突き進むから、このタイプは心が折れるまでは、短期的な実績は出せる。しかし、鼓舞する仲間がいないので長続きはしないから、一気に課長にでもならなければ挫けてしまうのだ。体育会系だけではない、現役合格組の大学生も結構このタイプに当てはまる。コツコツ努力するからだ。
 誰が言い出したかは知らないが、社会においては、コツコツやってはダメなのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(4/12) ~一匹オオカミ~ [哲学]

 心が繋がった信頼関係は、一朝一夕では成り立つ関係ではないことがわかる。飲み屋で意気投合した相手ではないとすると、それは一体どんな関係なのだろうか。別にアニキが言わなくとも、なんとなくわかるだろう。一言で言えば、本当に困った時に手助けしてくれる関係だ。自分に余裕のあるときに周りに集まる連中ではない。自分がどん底にいるとき、手を伸ばしてくれる相手であり、真の友を見極める時と同じだ。
 やはり、長い年月苦楽を共にした相手は、困った時に手をさしのべてくれる。しかもそれは一方的なものではない。持ちつ持たれつというやつだ。人生はわざと浮き沈みが付けられている。人生はシーソーゲームだ。ミスチルの歌にもあるだろう。みんな、そんなことはわかっている。ただ、実生活において、なかなかできないだけだ。しかも、持ちつ持たれつという双方向の関係となるとさらに難しい。
 一方向ではダメなのか?とよく訊かれる。だって、「前述の母親の場合は一方的な関係じゃないか?」と思うかもしれないが、よく考えればそんなことはないことがわかる。母親と子どもの関係は一方向ではない。確かに生まれたての子どもはなにもできないから、全部を母親に委ねた状態だ。しかしその子どもが一人前になった時、反対に母親を気遣う。母親が元気なうちはあまり気にしないかもしれないが、段々衰えてくると、自然と今度は子どもが気遣う番だ。母親との信頼関係においては、タイムラグがあるだけで、お互いがそれを心でしっかり受け止めているといえる。父親も一緒だ。父親の場合は、長い年月自分のことを育ててくれたという想いが伝わると、そこに信頼関係が芽生える。子どもは、「自分ひとりで大きくなったんじゃない」と気づくことができた時、本当の意味での親子間の信頼関係のスクラムは完成するのだ。
 こんな話をすると、「俺はだれの世話にもならねえ」、「俺は一匹オオカミ」などと豪語する奴もよくいるのだが、鼻で笑いたくなる。確かにホンモノの一匹オオカミなら大したものだが、そんな奴はなかなかいない。というよりは、アニキはかってホンモノの一匹オオカミは見たことがない。大概、自分のことを一匹オオカミなどと宣う奴は、仲間とつるむのが嫌で、一人で行動している寂しい奴だ。要は、はずれ者だ。
 まず言っておくが、一匹オオカミとは、仲間はずれのオオカミのことではない。一匹で群れに対抗できる実力を持つオオカミのことだ。現代風に言えば、一人でも恐れられる存在だろう。仲間とつるむ必要がない人だ。軍団で行動しなくとも、一人ですべて成り立ってしまう人をいうのだ。しかし、本当はその人も寂しいのだが、それを言わずに頑張ってしまうところがある。だが、こういう人は病気になりやすいのだ。信者がいないと、ストレスが体内に溜まってしまい、それが毒となりカラダを蝕むのだ。一匹オオカミ的な生き方をしている奴を見かけたら、そいつが拒否しようがどうしようがおかまいなく、早く仲間になってやるのが人情というものだ。
 一匹オオカミ的な野郎は、しつこい奴が本当は好きなのだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(3/12) ~信者の定義~ [哲学]

 まあ、大概の父親は次第に信者になっていくものだからあまりがっかりしないでくれ。父親のモビルスーツは、家族を守るという使命があるから、大きくて強い。そのモビルスーツを自由自在に使いこなす術を子どもに教えてやる役割がある。父親は母親を守るためだけのものではない。だてに攻撃な性格と頑丈なモビルスーツを与えられているわけじゃない。家族の信者となるべくして、父親のモビルスーツは存在する。がしかし、動かすのは操縦者である魂だ。いかに強大なモビルスーツでも、貧弱な魂では充分にその能力を発揮できない。だから、そのモビルスーツをどう動かせば充分な能力を発揮することができるのかを、子ども達に教えるという大事な役割がある。そのためには、子どもの信者とならなければその役割をこなすことはできないのだ。
 しかし、父親は母親と違ってなかかなか子ども信者とはなれない。なぜなら、父親はイマイチ子どもの心がわかっていないからだ。特に女の子の心は全くといっていいほど理解できない。男の子は、あくまで自分の経験からの類推にて把握することは可能なのだが、女の子は無理だ。全くわからないのだ。そんな状態では、子どもは自分の信者として父親をカウントできるはずがない。しかしながら子どもは、父親を信者とは見てはいないものの、自分の味方としては見ているのだ。その立ち位置は、兄弟も同じだ。味方であっても信者ではない。ここが微妙なのだが、信者になるには更なる一歩の踏み込みが要る。自分からの働きかけが要るのだ。その道は、子どもの性格にもよるから一概には言えないが、それを見いだすのも父親を選んで生まれてきた修業であると言える。信者を作る又は信者になるというのは、かように難しいものであり、それを学んでいくのも人生なのだ。
 じゃあ、このブログのタイトルでもある信者とは一体何なのか?ここを定義づける必要がある。両親が子どもにとっての信者であることはわかった。これは当たり前と言えば当たり前だ。子どもが成長する課程で作っていかねばならない信者はすべて他人だ。そんな他人を信者とするためには、まずは「信者とは何か」がわかっていなければ話にならない。
 アニキ哲学の信者とは、宗教的な意味合いの信者ではない。一般的にぴったりくる言葉がないから、一番近いニュアンスである「信者」という言葉を用いただけだ。宗教の信者とは、その教義や教祖に洗脳された一方的な関係だ。それとは違う。心の強固な関係という意味においては同じであるが、洗脳による一方的なものではない。アニキ哲学の信者とは、お互いの信頼関係で結ばれた「心が繋がった関係」である。がっちりと心がスクラムを組んだ状態で、安定度が抜群だ。ちょっとやそっとの問題が起こっても、崩れるものではない。宗教の信者同様に崩れにくい心の状態は似ているものの、アニキのそれは、信頼関係がベースとして成り立っている。
 しかし、心が繋がった関係とは言っても、飲み会などで隣の初対面の人と意気投合して、肩組んでカラオケを歌うというレベルの話ではない。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

アニキの「信者論」(2/12) ~モビルスーツ~ [哲学]

 ではなぜ、子どもは生まれてくる最初から、母親を信頼できるのだろうか。ここに人間出生の秘密がある。そう、アニキ哲学における概念のひとつは、子どもが親を選んで生まれてくるという考え方だ。この説はいろんな人が提唱しているが、アニキにとってもこの考えは充分に腑に落ちる。この概念に当てはめても、そこに矛盾はない。どういうことかと言うと、生まれてくる前に子どもは、自分の親となる人が信頼に足る人かどうかをすでに見極めている。「信頼に足る」と感じるから、その母親から生まれてこようと決める。だから、生まれた瞬間から、安心してすべてを母親に委ねることができるのだ。
 人間は、最初のひとり目の信者は生前に自分でしっかりと観察して決める。生まれる前はある意味万能だ。あの世にいるわけだから、修行中ではない。頭も心もしっかりしている。そこでじっくりと自分が信頼をおける母親をまず探すのだ。生まれた瞬間に痛めつけられるような母親なんか選ぶわけはない。修行の最初で退場となってしまうことは誰だって避けるだろう。そんな感じで信者の一人目を自分で選んでこの世に誕生するわけだ。しかし、生まれた後は話が違う。ただの赤ん坊となって修行を開始するわけだから、あの世での記憶も万能な心もない。オシッコひとつできないただの赤子である。そこからは、未熟な脳と心で自分の信者を自ら作っていかなければならない。母親という唯一の信者の元で、修行が開始するわけだ。
 ここで疑問があるはずだ。なぜ、父親が信者として登場しないのか?と。父親が当然二人目の信者ではないかと思うかもしれないが、父親は母親と違って最初から信者ではない。父親と母親では子どもが生まれたときの喜びに差がある。共にうれしいのはうれしい。だが、その喜びの大きさは断然母親が上である。そりゃ当然だろう、10ヶ月も自分のお腹に同居していた住人だ。一人の人間のカラダの中に、二つの魂が同居していたことになる。カラダとは今世の乗り物だと、過去ブログ「今世の乗り物を乗りこなせ」でも話した。まあ、わかりやすく乗り物というよりは、モビルスーツと言い換えてもよい。次の魂のために、一生懸命にモビルスーツを作っていたわけだ。まだ操縦者のいないモビルスーツを製造し、整備している。そこに、操縦者(魂)が乗っているのである。子どもの魂は、10ヶ月間母親がせっせとモビルスーツを作っている間に乗り込んでくる。いつの間にか乗り込んできて、操縦席に座って発進の指令を待つ。待機中のモビルスーツだ。母親は操縦者(魂)が乗り込んでくるとわかるという。乗り込んできた魂と母親の魂は会話し、コミュニケーションをはかるわけだ。そんな親密な関係が母親の中ですでにできあがっているものの、父親は何が起こっているのかさっぱりわからない。だから、出生段階において、父親は子どもにとってはまだ信者ではない。
 父親諸君よ、がっかりしないでくれ。諸君が生まれてくるとき、男を選らんだのは自分なんだからな。そう、性別だって自分で決めて生まれてくるのだが、まあこの話は別の機会にしよう。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。