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「LUCYルーシー」という映画をどう見るか?(前編) [映画・ドラマ]

 先週、ルーシーという映画を見に行った。この映画、SFアクション映画かと思いきや、まったくの別物。人間の脳の謎に迫った映画だ。脳の謎を解明しようとしているアニキには、とても興味深いテーマだ。アニキ哲学は、「スピリチュアルと哲学の融合」だ。証明されていない現象を、人間の考え方の歴史である哲学を使って解釈する。わからないことは、過去を使って仮説を立てるわけだ。で、仮説に矛盾がなく、自分の腑に落ちれば、それは信じることにする。あまりにも哲学的なテーマを扱っているために、気楽に楽しもうと考えていたのだが、気楽には楽しめず、いちいち考えを巡らしながら、難しい視点で見てしまった。おかげで、美人のヒロインを楽しむことができなかった。
 通常、人間の脳は10%しか使ってないという。アニキもここに興味があり、自分なりの仮説を立てている。過去ブログ「脳の謎」でも話している。アニキは、10%の現実を受け入れて、なぜそうなっているのか?にスポットを当てているが、この映画は100%になった場合の仮説を題材としている点が興味深い。人間が脳を100%使った場合にどうなるか?という仮説を立てている。万能人間になるというのが結論で、しかも自分も破壊されてなくなるという哲学的な仮説を残している。この仮説を理解するのには、何度も見る必要がある。まだ、1回しか見てないので何とも言えないが、スピードを上げてゆくと、物は見えなくなるという概念。そこで、物を定義付けるのは「時」という。一瞬の時間の断片が、そこに物があるという裏付けになるということだ。とても哲学的で、引き込まれるテーマを残している映画だ。
 こんな哲学的なテーマを残したSFアクション映画といえば、「マトリックス」を思い出す。よく似ているのだ。マトリックスは現実と夢との定義付けだ。どっちが現実で、どっちが夢だかわからなくなる。ルーシーとマトリックスの哲学の中で、共通点はコンピュータだ。最終的に、いつもコンピュータがそのカギを握っている。科学の象徴でもあるようなコンピュータだが、どうもアニキは嫌いだ。アナログ人間ってものあるんだろうが、脳の謎や現実の謎の行き着くところはコンピュータであってはならないと思ってる。確かに、コンピュータでほとんどのことを計算で導き出せる世の中ではあるが、未だに生き物一つ作り出せない現実から考えると、どうもそうではないような気がする。
 外国映画でSF哲学にぶつかると、必ず登場するのがコンピュータである。そこで行き詰まった結論のお茶を濁す感は否めない。過去の映画でも、哲学的な壁に当たった映画は多い。古くは2001年宇宙の旅から始まり、ターミネーターもそうだ。物語の行く着くところはすべてコンピュータである。映画自体がコンピュータの賜物であるから、コンピュータ崇拝観念があるのかもしれないが、コンピュータに行き着かない仮説をアニキは期待したい。

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