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お金の真理に迫ろう(6/8) ~厄落としの謎~ [哲学]

 太古の昔から人間は風呂に入った。古代文明の遺跡からもその証拠は発見されている。昔の人は果たしてそんなにきれい好きだったのだろうか?単にカラダをきれいにするだけなら、こんな昔から風呂は存在していない。それは、人がどうしても風呂に入ることが必要だったからであり、必要不可欠な理由が存在していたからだ。それが、念や霊の排除であり、聖水やお清めの水だけがその役目ではない。日常では風呂で充分なのだ。 だから、風呂好きな日本人は、昔から霊にとりつかれて変な行動を起こす人が少なかったのだ。
 ところで、厄落としって話を聞いたことがあるだろう。人間は厄年ってものがある。これが意味するものは何なのかまだよくわかっていない。アニキは今、この厄年の謎についても研究中だ。厄年とは統計学的裏付けで存在すると見ているのだが、とりあえずその存在だけは肯定しておこう。結論が出たならまた発表するとして、今日は、この厄年ってものを肯定した場合の厄落としについてだ。まあ、ひとつ言えるのは、いろんな厄だとか憑き物だとかで一杯になったカラダの状態であることは間違いないのだ。
 厄年になると、厄落としをすることが日本の風習だ。厄払いのために神社に行くのだが、前厄と本厄とお礼参りの3回も行くことになる。3回も神社はもうかるのだ。アニキの哲学でいえば、お礼参りだけでいいということになるのだが、一般人は逆に、前厄と本厄にしか行かない。お礼を忘れてしまうのが日本人だ。のど元過ぎればとか、釣った魚にえさをやらないとか、今の日本人は典型的に感謝を忘れてしまっている。
 おっと、今日はそんな話ではない。アニキは何が言いたいのかというと、実は、厄落としは神社に行くことではない。それはただに気休めだと言っておこう。アニキも42歳の厄年には、人並みに神社でお祓いをしてしまったが、それは周りの人達を安心させるためのご愛嬌だ。そんなことを言うとバチが当たりそうだが、そもそも神社とはお願いに行くところではなく、お礼を言いに行く場所だからだ。だから、厄落としをお願いに行くのではなく、厄もなく生きてこれたということに対してお礼を言うのが大事なのだ。その観点から考えると、神社で厄落としはできないということだ。神様が居る場所だから、願いを叶えてもらえそうだという見込みだけである。じゃあ、どうすれば厄落としができるのであろうか。
 一番効果がある厄落としとは、散財だ。お金を使うことだ。それも、大きな金額を使うことや、大きな買い物だ。この年に家を買ったり、車を買ったり、又は海外旅行へ行ったりするのだ。お金を使えば、お金とともに溜まった厄がいなくなる。実は、厄年というのは、自分の財産に厄が溜まった状態だ。お金に厄がつくと言う話しをした。そうなのだ、厄というのは自分の持っているお金に厄が着くのであり、人間個人ではない。お金が貯まるということは、厄も一緒に溜まっていると解釈するのが正しい。溜まったお金の厄に自分が飲み込まれる形が厄年だ。そう考えると、厄落としとは散財であることがわかると思う。神社への玉串料を思いっきり奮発するのもよい。それならば、神社へ行く価値もあるのだが、みんな一番安い金額しか出さないから、目的を逸する。でも、神社でお金包むより、家族のために大きな買い物した方がよっぽどいい。家族が喜ぶからな。

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