SSブログ

お金の真理に迫ろう(4/8) ~お金には念が宿る~ [哲学]

 お金には念が宿る。信じる信じないは別だが、世の中のほとんどのモノには、念が付いている。人形や宝石などはもとより、人が特別に思い入れのあるモノには念が付きやすい。特に小銭にはすごく念が宿る。紙幣より小銭の方が念が溜まりやすい。なぜなら、それは金属だからだ。金属は石と同じで、いろんな念や霊がつきやすいのだ。お金は人から人へと渡る。どんな人がどんな思いでそのお金を掴んだのか、又、どんな思いで手放したのか、全くわからない。そう、お金には人の念が思いっきり溜まっている。そして、ほとんどのお金には、「良い念」ではなく、「悪い念」が溜まる。それはなんでもそうだろう。人の怨念やマイナスの念の方が、プラスのエネルギーよりパワーが圧倒的に強いからだ。
 ここを少し説明しておこう。マイナスエネルギーの方が、なぜプラスエネルギーよりも高いのか?人の思いは、楽しいことを考えていても、悪いことが起こると瞬時にマイナスになる性質がある。一旦マイナスになると、そのマイナスを引き起こしている問題が解決しない限り、プラスには戻らない。実は、考えていても何も解決しないので、考えるだけムダだとわかっているのだが、人間はなかなかプラスには向かない生き物だ。だから、プラス思考という考えが提唱されるのであるが、これは訓練しないとできない。日頃からプラスの考えで、楽しそうにしていることがとても需要だから、そういう訓練を積極的に取り入れていく必要がある。そうしないと、人生は上向かない。自分ではなかなかできないという人は、人と会うことを薦める。人間は一人になるとマイナスなことを考える。で、どんどん深い方へ行ってしまう。友達や親兄弟などと過ごし、なるべく一人にならないようにすることだ。ほとんど犯罪者は友達がいない。一人で過ごしている奴が多いことからもわかる。余談ではあるが、とても大事な訓練だ。
 話を戻そう。お金には念が宿る。それも、悪い念が多く溜まる。そして、その念が溜まったお金を置いておく場所は、それ以上に悪い念が溜まるのだ。それはどこか?お金の置き場所と言えば財布だよな。財布とは言わば、念を封じ込める入れ物だ。いろんな想いが溜まった念が財布に溜まってゆく。だから、財布はなるべく短期間に取り替える方がいいとされる。財布には、お金から抜けでた念が溜まる。よく本に書いてあるが、1年毎に変えるのがよいのだ。気に入った財布だからといって、何年も財布を大事にしているのは、財布に操られている可能性も高い。念が強すぎる財布になると、財布がその主体である人間の心をも操ってしまうのだ。愛着がある財布とは言わば、財布があなたの側にいることを好んでいるという状況で、いい事では決してない。いろんな想いを経験してきたお札や小銭が、あなたの財布を居心地よく感じているという状況なのだ。
 また、家に金庫があるという人も要注意だ。金庫こそ、念のたまり場であり、人の運気も変えてしまう。お金はさっさと銀行に預けておけばよい。金利の問題より、自分の運気を下げることを防ぐ方が大事だ。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

お金の真理に迫ろう(3/8) ~相続イベント~ [哲学]

 

 一方、血を分けた兄弟でもお金に関して大きな問題が起こる。相続というイベントが訪れると、それまで仲の良かった兄弟ですら、忌み嫌うようになる。実の親兄弟の関係なら、お金のことでもめたくないのだが、そこには家庭を持ったそれぞれの立場がある。兄弟それぞれの家庭ではいろんな問題を抱えており、どちらかの家庭にお金に直面した問題があると、相続というタナボタを機に人間が豹変する。なぜそうなってしまうのか?実はその裏で糸を引く他人がそうさせてしまう。その他人とは、「奥さん」だ。家庭の家計を仕切る奥さんは、ダンナの稼ぎに満足していないから、常にお金の悩みを抱えている。特に子どもにお金がかかる時期には、大きなストレスを奥さんは抱え込む。そこに、相続というタナボタが来ると、ダンナの人の良さを押しのけて、自分の思いが前に出てしまう。目の前のぼた餅をみすみす逃すわけがない。ダンナを盾に権利を主張する。特に、ダンナの実家には自分は関係が希薄だから、言いたい放題だ。別にこじれてもいいという切り札もある。こじれた方がいいと思っている人も多いと聞く。他人が入ると問題はこじれるという典型だ。その結果、昔仲良かった兄弟は仲が悪くなり、疎遠になってしまう。兄弟が仲悪いの為に、いとこ同士も行き来がなくなる。そうして、親戚とは冠婚葬祭のみの付き合いとなるという流れだ。





 また、以下のケースも少なくないだろう。さらに奥さんは、相続においての立場を強めるために、相続が予想される5~10年ぐらい前から網を張る。ダンナの実家に急に近づくようになり、ダンナの両親を気遣うようになるという兆候も見られる。ダンナの家に行く楽しみは、遺産の皮算用だ。不動産は別にして、生命保険内容や証券類や資産価値のある物品を探すようになる。奥さんが、実家を掃除したいとか言い出したら、目的は大抵それである。そのときにはすでに自分の実家は掃除を開始しているはずであり、古いモノを処分するとか言って、普段開けないような押し入れの奥なども物色することになる。この動きが始まると、兄弟の奥さんはこぞって実家参りが始まる。みんな、何かピーンとくるのだろう。これは一般的な日本の風景であり、身に覚えのあるダンナ連中も多いのではないだろうか。なんだか、お金がらみの人間関係はどろどろしていて目を背けたくなるのだが、お金から目をそらすとお金に見放されるから要注意だ。
 今のところお金は、人間の最大の発明だ。お金が要らないという人間はいない。たまに、お金なんか要らないなんて言う変な奴はいるが、そんな少数派はこのブログを読まないだろうから、アニキは無視する。どこにでも例外はいるからだ。
では、明日はとても重要な話をしよう。お金のスピリチュアルな話だ。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

お金の真理に迫ろう(2/8) ~金持ちは空気を読めず~ [哲学]

 なぜなぜの深掘りをしてゆこう。じゃ、なぜ人間関係がもつれるのか?その原因は様々だが、当事者お互いの性格が合わなかったり、性格が不一致だったりするからだ。じゃあ、なぜ性格が合わないことがわかるのか?それにはお互いの社会生活の中で、共感できない問題が起こるからだ。じゃあ、その共感できない問題とは何か?多くの原因にはお金が絡む。それまで、仲良しだった友人や兄弟も、お金が絡むと人間が変わる。お金の貸し借りやあげたお金の金額の大小により、お互いの感情にずれが生じる。友人なら当たり前だ。生まれてからの環境が違えば、お金に対する考え方も違う。例えば、割り勘ひとつとっても、決して口には出さないが、想いはそれぞれだ。1000円が高いと思う人と、安いと思う人がいるということだ。端数までキッチリと割り勘する人と、おおざっぱに割って、相手には少なめを払わせる人など、みんなもいろいろ経験しただろう。部長がキッチリわったらケチだと思うだろう。割り勘に対する哲学にも様々あり、それは人によって異なる。そんなもんだ。
 だから、サラリーマンは会社の人間とつるむのだ。人は、経済力異なる人とあまり一緒に行動したくないものだ。なぜなら、お金に対する価値観が全く異なるからで、お金がかかる場面において、常にストレスが溜まるからである。みんなも経験があるだろう、お金持ちのボンボンの友人と喫茶店に行こうとしたら、自分はドトールでよかったのに、ホテルの喫茶店じゃないと落ち着かないからと、そこへ向かってしまうような感じだ。こういう日常茶飯事でいちいちストレスを感じることになるから、一緒に行動したくないのだ。同じ会社なら、お金の価値観も近いものがある。だから、同じ社内の人間同士ならお金であまりもめることはない。なぜなら、同じ会社で勤めるということは、相手の給料が大体わかるということであり、そこから予想する全財産が予想でき、まあ自分と同等と考えるからであり、コーヒーが飲みたいと言ったら、ドトールへ向かうことが解ってる者同士だからだ。せいぜい、貸した金を返さないという程度のことだろう。
 ここに一つのお金の真理がある。その人がケチかどうかの判断基準は、その場でのお金の出し方で判断するのではなく、背後にある予想できる財力も含めて総合的に判断するのだ。人は、知らず知らずのうちに相手の財力を計ってしまうくせがある。お金持ちと一緒に行動する時には特に、その計算が働き、ケチかどうかを判断する。ところが、もし相手が気前良く、よくおごってくれる人であれば話は別だ。いい人ということになる。見返りを期待せずにおごってくれる人はいい人なのだが、実はこのおごってくれる人というのは、大した金持ちではない。自分の財力が、相手の財力より勝っていることがわかったしまう空気が読めてしまう人だ。空気が読めるから、相手の心も読めてしまう。金の出し方が悪いとそこに罪悪感を感じてしまう、それだけだ。本当の金持ちはケチであり、空気が読めないから、キッチリ割り勘でも罪悪感がない。本当の金持ちとは、空気を読まないから金持ちでいられるのだ。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

お金の真理に迫ろう(1/8) ~お金なぜなぜ~ [哲学]

  アニキのブログネタにはお金の話が多いという声をよく聞く。アニキはお金に恨みでもあるのではないか?という質問もある。確かにアニキはお金で苦労しているが、まあ普通に暮らしているから別に良しとしている。では、なぜアニキ哲学ではお金の話が多いのか?この質問から答えよう。
 哲学とは、人生の生き方だ。その中で、お金は重要な位置を占める。ある程度お金がないと暮らしてゆけないのが世の中だ。だから、お金と人生は切っても切れない関係だ。お金がすべてではないが、お金がないと人間らしい生活はおくれない。さらに、お金には人間の性格までも変えてしまう魔力がある。お金が絡むと本性が出る。性格の裏側が見えてしまったりすると、百年の恋も一瞬に覚める。人間関係も一瞬に破壊するだけの力を持つ。こんなすごい力を持つお金とは、一体何か?なぜお金が人生をも左右してしまうのだろうか?それだけの力を持つお金という物質に、アニキは興味を持たないはずがない。アニキは思う、常に人間の考えの裏側には、お金が存在する。だれもがお金持ちになりたいという夢を子どもの頃から抱く。お金持ちとは大げさかもしれないが、将来お金苦労したいとは誰も思わないはずだ。「お金なんかには興味ないよ」という人間は、今、食べられるからそんな発言ができるのだ。たとえ自分が今、働いてなくて食えているなら、自分の代わりに誰かが働いているっていうことだ。もし明日も食えないような人間が、「お金に興味がない」なんて絶対に言わない。「お金なんかに興味がない」と言えるのは、裕福な証拠であり、何よりも世の中がわかっていないボクチンだ。いい大人は決してこんなことを口にしない。大人は何とかお金を稼ぎ、貯めたいのだ。しかし現実は、貯めたくても貯まらない。特に贅沢もしてないのに不思議だと皆言う。ここからが今回のブログの本題だ。お金の真理を解き明かしてゆこう。
 ではなぜ、みんなお金が貯まらないと思う?お金の管理ができないからか?違う。では、もう一つ質問だ。なぜ、運が良くならないのか?そういう星の下に生まれたからか?違う。実はこの二つには密接に関係がある。
 世の中で恨みの原因となるものは何か考えたことがあるか?人間関係のもつれが原因だと言うだろう。その通りだ。しかし、その答えではまだ、なぜなぜ分析は足りない。ここからさらになぜなぜ分析を行う。人間関係のもつれが真の原因ではない。これで納得してはいけない。表面的な原因なら人間関係のもつれで終了するが、これじゃ、真の原因までさかのぼってないのだ。だから、真の原因を追及するために、さらに深掘りする必要がある。なぜなぜ分析とは、行き詰まってかからがスタートなのだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「LUCYルーシー」という映画をどう見るか?(後編) [映画・ドラマ]

 このルーシーという映画、何を伝えたかったのだろうか?脳を100%活用できたらどうなるのか?ということか。その疑問は、子どもの頃からアニキにもあった。15%も使えると超能力が使えるようになるという話も、いろんな本にも書かれていた。それが本当ならすごいなと思っていたから、子ども頃に超能力開発の本を買ってきて、よく練習してみたものだ。同じように、脳の機能に憧れた人が映画化したのだと思うが、もしかしたら、どこかの国で、もう脳を2~30%ぐらい使える人間を人工的に作り出してしまったのかもしれない。それは、人道的に良しとされない方法で作り出されたために、おおっぴらにはできないのかもしれない。それが本当だとしたら、この映画は真実を伝えている可能性もある。
 人間の壁を越えた人間だ。人工的にそれが可能であるなら、アニキ哲学の修正が必要となってくる。アニキ哲学の観点から考えると、人間の創造主は「人間の脳は10%で良し」としてこの世に誕生させた。これが、人間の進化により手を加えることができるなら、人間の脳を10%で作った意図がまたわからなくなってくるからだ。創造主は最初から、「脳の残り90%は人間が自分達で開発しろ」という含みを残していることになるからだ。
 映画は真実の予言である。サプライズ的なことを世の中に出そうとする場合、いきなりだとパニックになるから、映画という手段を使って評判を見る。この考えからすると、しばらくすると、「脳の15%使える人間が出現」という、そんなニュースが流れてくるかもしれない。で、それが創造主の望んでいたことかどうかがわかるのは、その後の人間の使い方次第であろう。神の導きか悪魔の罠かは、おのずとわかる。戦争や営利目的で使われてしまい、世の中が乱れるとするなら、それは悪魔の罠ということである。創造主は、天災を引き起こして、人類の歴史が幕引きとなる。人類を滅ぼして、最初からやり直しだ。つまり、脳を10%以上使うということに対して、人間の創造主は賛成ではなかったということになる。但し、もし人間の心がもっと成長していて、みんなハッピーになる使い方をしていたのなら、それは創造主が望むところかもしれない。
 結局は、物質の進化だけなく、人間の心も一緒に進化していたかどうかということだ。現在の人間の進化は物質的な進化だけであり、心はまだまだ進化していない。ならば、脳を10%以上に進化させることは、悪魔の所業と言わざるを得ない。裏社会での利用が手に取るように予想できてしまうからだ。いくら物質的に進化しても、それを使う側の心が未熟であったなら、使いこなすことはできない。幼児に拳銃を与えるようなものだろう。進化とは心のあり方だ。心がすべてにおいて重要なのだ。原発にしても何にしても、ここがわかってないから、人間は愚かな歴史を繰り返すのだ。
 そんなことを考えてしまった「LUCYルーシー」という映画であった。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「LUCYルーシー」という映画をどう見るか?(前編) [映画・ドラマ]

 先週、ルーシーという映画を見に行った。この映画、SFアクション映画かと思いきや、まったくの別物。人間の脳の謎に迫った映画だ。脳の謎を解明しようとしているアニキには、とても興味深いテーマだ。アニキ哲学は、「スピリチュアルと哲学の融合」だ。証明されていない現象を、人間の考え方の歴史である哲学を使って解釈する。わからないことは、過去を使って仮説を立てるわけだ。で、仮説に矛盾がなく、自分の腑に落ちれば、それは信じることにする。あまりにも哲学的なテーマを扱っているために、気楽に楽しもうと考えていたのだが、気楽には楽しめず、いちいち考えを巡らしながら、難しい視点で見てしまった。おかげで、美人のヒロインを楽しむことができなかった。
 通常、人間の脳は10%しか使ってないという。アニキもここに興味があり、自分なりの仮説を立てている。過去ブログ「脳の謎」でも話している。アニキは、10%の現実を受け入れて、なぜそうなっているのか?にスポットを当てているが、この映画は100%になった場合の仮説を題材としている点が興味深い。人間が脳を100%使った場合にどうなるか?という仮説を立てている。万能人間になるというのが結論で、しかも自分も破壊されてなくなるという哲学的な仮説を残している。この仮説を理解するのには、何度も見る必要がある。まだ、1回しか見てないので何とも言えないが、スピードを上げてゆくと、物は見えなくなるという概念。そこで、物を定義付けるのは「時」という。一瞬の時間の断片が、そこに物があるという裏付けになるということだ。とても哲学的で、引き込まれるテーマを残している映画だ。
 こんな哲学的なテーマを残したSFアクション映画といえば、「マトリックス」を思い出す。よく似ているのだ。マトリックスは現実と夢との定義付けだ。どっちが現実で、どっちが夢だかわからなくなる。ルーシーとマトリックスの哲学の中で、共通点はコンピュータだ。最終的に、いつもコンピュータがそのカギを握っている。科学の象徴でもあるようなコンピュータだが、どうもアニキは嫌いだ。アナログ人間ってものあるんだろうが、脳の謎や現実の謎の行き着くところはコンピュータであってはならないと思ってる。確かに、コンピュータでほとんどのことを計算で導き出せる世の中ではあるが、未だに生き物一つ作り出せない現実から考えると、どうもそうではないような気がする。
 外国映画でSF哲学にぶつかると、必ず登場するのがコンピュータである。そこで行き詰まった結論のお茶を濁す感は否めない。過去の映画でも、哲学的な壁に当たった映画は多い。古くは2001年宇宙の旅から始まり、ターミネーターもそうだ。物語の行く着くところはすべてコンピュータである。映画自体がコンピュータの賜物であるから、コンピュータ崇拝観念があるのかもしれないが、コンピュータに行き着かない仮説をアニキは期待したい。

nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

サラリーマン輪廻(9/9) ~人生は5速マニュアル~ [哲学]

 人類の歴史の中で、サラリーマンは常に活躍してきた。今とは仕事の内容は違うだろうが、給料もらって仕事してきたことには変わりはない。給料をもらって働くのなら、それはサラリーマンで、当時そういう言葉がなかっただけのことだ。そのことに誰も気付かず、サラリーマン輪廻もわからないままでいるから、また何回も生まれ変わる度にサラリーマンをやらなくてはならないということになる。特に「今の仕事がつまらない」とかぼやいている奴は、過去世通算何千年もサラリーマンとして、そのつまらない仕事をやってきているのだ。このサラリーマン輪廻がわからないと、さらにこの先の来世でも再来世でもサラリーマンだ。もしかしたら、数百万年前の同僚は、このサラリーマン輪廻に気づき、とっくにサラリーマンを卒業しているかもしれないのだぞ。 
 サラリーマン輪廻は昨日も話したが、その六道に気づかないと次に生まれ変わってくるときもまたサラリーマンになるという本来の輪廻を繰り返す。本来の輪廻では、死んだ後、ホンモノの六道が待っているから、あの世でしっかりと反省してくることになる。ホンモノの六道は、サラリーマン輪廻の六道の比ではない。気付かないでもいいというものとは違うらしい。どんな六道かはアニキもよくわからないが、これはまあ、死んでからのお楽しみってことだな。
 とにかく、俺たちがやんなきゃならないことは、サラリーマン輪廻を断ち切ることだ。それが、サラリーマンを選んで生まれてきた者のこの世での修行だ。だから何度も言うが、輪廻の本質をじっくりと見極めながら、自分も磨く。やけになってはならない。サラリーマンは修行であるから困難はつきもので、何が起ころうが想定内だと思うことだ。。困難は最初から仕掛けられていると思えば、心に余裕ができる。船を降りるのはいつでもできるのだから、焦る必要はない。それに、自分から無理に降りなくたって、別の船が近づいてくる。自分に磨きをかけてると、不思議と新しい小舟が近づいてくる。それをただ待てばよい。この考えがアニキ哲学「引き寄せ」だ。輪廻の本質がわかり、断ち切る行動に出ようとすると、ギヤが入れ替わり引き寄せの法則が働き始めることになっている。ここに人生は不思議がある。
 抽象的でわかりにくいか?それは仕方ない。具体的に自分に起こることは、人それぞれだから、起こる事柄は千差万別なのだ。しかし、一つだけ共通点がある。それは、誰でもマニュアルギア5速の車であるということだ。ギヤ比や歯車の大きさや歯車の材質などは人により異なる。そのギアは、いろんな気づきによりシフトアップする。詳しくは、後日ブログ「人生のスイッチを見つけろ」で話すが、人生はシフトアップさせながら進むものだ。
 サラリーマン人生は、マニュアル5速だ。まずは全員がローギアでスタートするが、トップ5速に入りスピードに乗れる人は希である。大概の人は2~3速までで、あとは失速して、またローギアに戻ってしまう。だから、ローからセカンドに入ることができれば、そのままスピードを上げてサード、4速まで一気に上げたいものだ。この流れが引き寄せである。つまり、このサラリーマン輪廻を理解するとは、ギヤをシフトアップすることを指す。「引き寄せ」とは、人生のギヤが上がると起こる現象だ。引き寄せとは、自分が引き寄せているように感じるが、実際は勝手に自分に近づいてくる現象だ。目の前にチャンスが現れるということだ。
 ぜひ、サラリーマン輪廻を断ち切って、己のギヤをシフトアップさせ、押し寄せてくる引き寄せに乗ってみてくれ。しかしまあ、この分じゃアニキは来世もサラリーマンだな。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

サラリーマン輪廻(8/9) ~輪廻の六道(りくどう)~ [哲学]

 ここで話が少し逸れるが、我慢して訊いてくれ。「『チャンス』と『悪魔のささやき』の違い」について、話をしておこう。これはものすごく大事な基準だから、よく聞いてくれ。例えば、うまい話が来た時、よく「これはチャンスか、それとも危険な賭か?」と思った時の判別方法だ。まず、おいしい話が来た時、それがどういう状況の時に来たのか、ということを考える。自分がノリにノッてる時、又はツキにツキまくってる時に来た場合、それはチャンスだ。一方、物事がうまく行ってない時や、愚痴ってる毎日の時、その時やってくるものは「悪魔のささやき」であるから、やめた方がよい。うまい話というものは、乗るかそるかで迷うはず。その時の判断は、自分の状態を見てみるのだ。合わせて、心の状態を確認する。今、笑顔が出ているのか、それとも眉間に皺が寄ってたり、しかめっ面なのか。心もプラスか、マイナスか。すべては、ここでチャンスか悪魔のささやきかを決める。カラダと心の状態がプラス側になるなら、そのうまい話はチャンスである。しかし、失敗の連続で気持ちが落ち込んでいたり、ストレスが溜まってイライラしている時に来た話は、間違いなく悪魔のささやきだ。これに乗っかると、どん底まで落とされるから要注意だ。
 さて、話を戻そう。今まで紹介してきたサラリーマン輪廻には、アニキが作った「輪廻の六道(りくどう)」がある。「地獄道」「畜生道」「あめ玉餓鬼道」「骨抜き修羅道」「無知の人間道」「引き寄せ天道」だ。あくまで断っておくが、この六道はアニキが勝手に当てはめて命名したものだから、仏教の六道とは全く別物だ。知ったかぶりして使うと恥をかくぞ。ブログで特に説明しなかった「畜生道」と「地獄道」は、サラリーマン輪廻には存在しない。このレベルは犯罪者レベルの悪さだ。サラリーマンはあくまでもきちんと仕事をこなす忠実な僕(しもべ)だから、このレベルのマイナスな輩は相手にしない。機会があれば紹介してもいいが、あまり意味がないから説明も必要ないだろう。マイナスな話はあまり耳に入れない方がよいからな。それと、運を良くしたいなら、ニュースを見るなよ。暗いニュースは運を悪くするぞ。日本がなかなか良くならないのは、暗いニュースばかりを見てるからなのだ。まあ、この話はまた別にしよう。
 そういうことだ、この輪廻の六道は常に繰り返され、それが無意識のうちに自分を負のスパイラルに落とし込んでいく。気がついたときには、這い上がれない年齢になってしまっているから、そのまま余生へ突入となる。この輪廻の六道に気づくのがサラリーマン人生の修行だ。ここに気づかないで人生が終わってしまうと、また来世もサラリーマンだ。いつまで経ってもサラリーマンを繰り返す。これが本来の輪廻だ。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

サラリーマン輪廻(7/9) ~引き寄せ天道~ [哲学]

  熱くなって脱線しすぎてしまった。話を元に戻そう。まあ、サラリーマン輪廻にもいい部分はある。例えば相性が悪い上司部下の関係だ。過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」の中でも少し触れたが、上司と部下は引き寄せの力が働く。合わなければ反発するから、どちらかがどこかへ飛ばされる。相性の悪い者同士、長くて3年だろう。仲の悪い羊同士は、引き離さなくては羊飼いが大変だからだ。がしかし、メリットはこの程度の話だ。
 さて、サラリーマン輪廻を理解してもらえただろうか。前述の通りサラリーマン輪廻とは、決してポジティブな概念ではなく、ネガティブそのものだ。だから、輪廻を断ち切る努力をすることが必要だ。つまり、俺たちがやらなきゃならないことは、サラリーマン輪廻のカルマから逃れることだ。ただ、サラリーマン生活を送っていると、知らず知らずのうちに輪廻にどっぷりとはまる。これは仕方ないことだが、早く抜け出すことを考えねばならないのだ。
 では、このサラリーマン輪廻を知って、これからどうするのが賢い生き方なのであろうか。サラリーマンを辞めれば輪廻からも開放されるが、正直、今の厳しい時代は、簡単に会社という船を降りるべきではない。世の中という嵐の海は、益々ひどくなると予想される。大きいか小さいかは別にして、今、会社という船に乗っているのであれば、まずは落ち着いてサラリ-マン輪廻という概念を、深く理解することに務めるべきだ。今の船にそのまま乗っていたとしても、自分の待遇がよくなることはないことはわかるのだが、急ぐことはない。じっくりと観察することだ。先輩や上司の様子をよく見ることだ。先行きは不安ではあるが、けっこう割り切って楽しんでいる者も多いからだ。滑り込んでの退職を心待ちにしているかもしれない。だから、よく訊いてみるといい。
 サラリーマン輪廻を知っていれば、その中に込められた本質を見抜くことができる。日頃から常に、同じ道を歩まないようにするにはどうすればよいか?ということを、いちいち自問自答しながら生きる。そして、文章で書けるような能力を身に付けるのだ。この能力とは、現在の仕事からかけ離れた技能ではない。今の仕事の中で磨くことができる能力だ。過去ブログ「技能と能力」でも話したが、目に見えない力こそが能力だ。具体的には、サラリーマンの武器シリーズで出てきた能力を身につけて使いこなせばよい。結果がついてくるから、それが実績となり、自信に繋がる。そうやって自分を磨いて時を待つ。すると自然に、向こうからチャンスが歩いてくる。これが、サラリーマン輪廻「引き寄せ天道」だ。
 ほしいものは何でも引き寄せるのがアニキ流である。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

サラリーマン輪廻(6/9) ~「集団が個」とは何か?~ [哲学]

 無知の人間道に陥ると、なかなか脱出できない。仕事に力も入らないから、無気力でおざなりになってしまう。輪廻の最終段階である。ここから没落するのか、上を見て進むことができるのか、人間は試されることになる。会社に忠誠を尽くしてきた者ほどキズは大きい。治癒できぬほどの傷もあるのだが、ここで終わってしまうほどサラリーマンはヤワではない。サラリーマンとは、端で見るより心の芯が強い。アメーバのごとく自分の心の形を変える。会社に対して忠誠心がなくなっても、人と人との絆があれば立ち上がれる。そうだ、同じ釜のメシを食った先輩がいる。同僚がいる。サラリーマンは孤独ではない。
 つまり、自分が陥った「無知の人間道」には、すでに以前にはまった先輩達がいる。その人達の生き様や考え方を身につけて、乗り切ることができる。サラリーマンとは、個人を指す言葉ではない。サラリーマンは一人で「個」ではなく、集団となって「個」となる集団の総称だ。集団となってはじめてサラリーマンという「個」となる。つまり、サラリーマンとは、原子と同じである。いくつかの原子がくっついて分子となるのと同様に、個人が何人かまとまった状態がサラリーマンだ。サラリーマンとは個人を指す呼称であるが、その実態は集団の呼称だ。だから、本来なら「サラリーメン」と言わなければならないのだが、そうはなってないからわかりにくい。
 何度も言うが、サラリーマンとは個人でなく、集団の総称だ。個人で戦っているように見えるが、すべて組織で戦っている。営業は前線に送り込まれるが、後方での支援部隊はいつでも控えているじゃないか。補給部隊もいるじゃないか。司令塔だったあるだろう。そう、だから心が折れた状態の時には、遠慮なく後方支援や先輩社員を頼ればよいということだ。だれも「弱い奴」なんて思わない。個人では半人前というのが、元々サラリーマンの原則だ。窮地に陥った時だけ、個人のせいにするのはおかしいのだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、心が折れた人は皆で助けるのが当たり前で、体調が悪くなったのなら、皆で助け合うのが当たり前だ。そんな原則が今疎かになっているから、企業は弱くなっている。昔に比べて実に弱いのだ。こんな当たり前のことを忘れてしまっているから、日本企業のいいところが忘れられてしまっているから、海外にやられるのだ。外国は、日本企業及び日本人のこの「集団で個」という力が非常に怖い。海外は昔から個人主義だから、「個人が個」だ。日本のように、集団が個人であるかのごとく結束力を示す会社は脅威なのだ。合体ロボのようなものだから、個人と戦っても絶対に負けない。外国はこのことがわかっているから、能力主義を日本に持ち込み、集団の力の解体を謀ったのだ。これも外国の罠であり、過去のアニキブログ「サラリーマンの謎『残業』」でも話したが、「残業は悪」「ゆとり教育」と並び立つもうひとつの罠が、この「集団意識の解体」だ。合体ロボをバラバラにさせるこの罠で、個人主義が台頭し、見事に企業はバラバラになってしまった。結果どうだ?だからまた、成果主義も見直されてきているはずだ。
 ここで日本は「集団が個」戦法を採ることにより、世界に再度躍り出ることが可能なのだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。