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サラリーマンの武器「指導される能力」(2/5) ~職人の世界~ [哲学]

  現代の義務教育の一つの弊害が、教わる能力の欠如であるが、社会人になってから身につければよいという考えが日本にはあるのだろう。ある程度のプレッシャーにも耐えられるほどに心身ともに強くなった頃でよいということなのだろう。それはそれでよいのだが、社会という「嵐の海」に武器も与えずに「会社という小舟」に乗せられるものだから、最低限のことしかできない。教えられる事のみを武器として闘う。強敵には立ち向かえない。それでもなんとか堪え忍んで、自ら教わる能力を身につけてプロと肩を並べる人もいる。短期間で駆け上がるには、やはり教わる能力、すなわち指導される能力は要る。
 日本の社会において、教わる能力を無理矢理引き出させようとする世界がある。それは、「職人の世界」だ。ここでは、だれも教えてくれない。技術を盗むのだ。この盗むという習慣を身につけるかどうかが上達のカギだ。大工さんや板前さんが現代でもその気質だ。だから、その世界に飛び込んでも、厳しすぎてついて行けない若者が多い。外側から見れば、とにかく理不尽なのだが、内側では当たり前ということだ。ある日突然親方から「これ、やってみろ」と言われる。そこでできないと、「お前、何やってんだ」と叱られる。「教わってません」とは言えないのだ。大工さんなら、家を建てた時に余った端材で研究する。板前さんだったら、客の残り物を食べて味付けを覚える。しかもすべて時間外だ。営業時間終了後、そうじや後片付けしたあとに残って研究するのだ。残業代なんか出ない。一切見返りなし、そう、陰の努力だ。定時で帰る奴にその先はない。そんな場面はドラマでもよくやってるよな。皆、見て知ってるよな、それは現実の世界だ。実は、親方からの「これ、やってみろ」とは、まさにチャンスを与えられているのであり、影の努力の度合いを測ろうという試験だ。ここで、親方の及第点をクリアすると、一段上に上がれる。これは何かというと、「教えてやるに価する」と評価されたわけだ。親方はまず、指導するに価する人間かどうかを計るのだ。昔の日本には義務教育なんてないから、仕事はすべてこんな様子だ。丁稚奉公なんていうのは、すべてこれだ。住み込みでこれをやられるから、根性なしはすぐに辞める。残った人間だけが仕事の技術を身につけてゆく。
 これは職人の世界だが、サラリーマンも同じだ。ここまであからさまに厳しくはないが、厳しくない反面、冷たい。教えるに価しない人間であれば、最後までだれも教えない。最低限のことは教えてはもらえるが、それだけでは仕事はできないし出世なんてしない。「俺は毎日夜遅くまで残業して頑張ってるのに、なんで評価されないんだ」と愚痴こぼす奴は、この「指導される能力」が欠如したまま毎日を過ごしているのだ。
 だからこれは、「教わる技能」ではなく、「教わる能力」なのである。

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