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人生の準備期間「学校」(17/17) ~海を渡れ!~ [哲学]

 そこで登場するのが「運」だ。幼稚園から高校まで心を伸ばせと言い続けてきたのは、心を伸ばすことにより懐が深くなるからだ。器がでかくなるともいうが、人によって呼び方はいろいろある。そして、懐が深くなると自分の我(が)が少なくなり、人に優しくなれる。そこに「運」が生まれる。そう、だから小さい頃から、「運」という武器を少しずつ育ててきたその成果が、ここで生きてくる。自分の行動軸がうまくいくかどうかは、「運」が決める。

 人生すべて二者択一だ。常に道が枝分かれしている。どっちに進もうか迷っても、結局はどちらかを選ぶことになる。その判断が正しいのかどうかは「運」のみぞ知るだ。アニキ哲学的に言えば、どっちを選ぶのも人生だ。でも、できれば自分の望んだ結果になる道を選びたいよな。で、「運」という武器があれば、選んだ方選んだ方に自分の望んだ結果がある。これが「運」を味方にできたということだ。そうなると自信がつく。自分の判断に自信がついてくる。自分の行動軸は正しいとの解釈となり、今後もその流れで行けるという確信に繋がる。それを不動のものにするために、今度は社会で試して経験値を積んでゆくことになる。そこまでいけば、小舟で大海にこぎ出しても簡単にはやられない。

 中学卒や高校卒で社会という大海にこぎ出すことは自殺行為であるからと、親は大学まで出そうとする。それは、勉強した専門科目を磨いてほしいからではない。大学卒業までの間に、人生の行動軸を手に入れてほしいからだ。だから、大学では良い成績を取らなくても、別に親は文句を言わないだろ。規定年数で卒業さえしてくれればいいと思っている。大概に親は、子どもに自分の行動軸を身につけて社会に出てほしいと思っているのだ。

 しかし、それがわかってない親も多いのも事実。小舟じゃ心細いだろうからと、バカ息子を鉄の大船に乗せたところで、座礁してしまえば終わりである。それは、船の大きささえあれば、大海を渡れるという短絡思考である。その船に航海術が備わっていなければ、船が大きくても沈む。そんなこともわからないようじゃ、親も幼稚園からやり直せと言いたい。

 もう一度言うぞ。「運」を手に入れようと思うなら、幼稚園で心を学び、小中学校でそれに柔軟性を与えてさらに伸ばし、高校でプレッシャーをかけて丈夫に鍛える。すると、懐の深さが手に入り、我(が)が消えて人に優しくなれる。そして大学で、実社会に端っこで鍛えた心を試し、己の心のあり方という行動軸を手に入れる。すると、自分の選んだ選択肢が望んだ結果となるようにできている。

 だからアニキは、「学校」は「運」という武器を育て上げる人生の準備期間であると、しつこいくらいに言うのだ。そこで育てあげた「運を纏った行動軸」を使って初めて、人生が始まる。そして、一番大切なことは、将来、「何になりたいかではなく、どういう人間になりたいか」である。だから、仕事なんかは何でもいいのだ。目の前に現れた仕事に就けばいいだけだ。これを、「わらしべ長者論」という。この話は別途後日ブログで話そう。

 だから、社会人となるということは、どんな船でもよい、大海へ繰り出すことが重要なのであり、どんな船に乗るのかは全く重要ではない。「乗る船の自慢をする人間は小者だ」ということを覚えておけ。

 「運を纏った行動軸」があれば怖いものなしだ。若者よ、自信を持って「海を渡れ!」

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人生の準備期間「学校」(16/17) ~行動軸を作れ!~ [哲学]

 大学時代に熱中する物事を続ければ続けるほど、面白いことになってくる。面白いというのは、楽しくなるとか、より興味がわくという話ではない。試練が待ち構えているという話だ。

 それは何かと言うと、途中でなかなか思い通りならない壁にぶつかる。必ず、頭を打たれる。それ以上進まないという境地に行き着く。で、壁の前で悩み抜くことになる。最初はやる気満々だから、いろいろ試行錯誤して突破しようと努力するのだが、なかなか進めずズルズルと引きずる。全然うまくいかないことに悩むことになる。気持ちがめげるレベルまで悩み、心が徐々に折れ曲がってゆく。そしてあきらめかけた時、突破するヒントに気づかせる出来事に遭遇することになる。腐らずに考え抜く時、必ず気づきが起こる。そういうしくみになっている。ポイントは「腐らずに」だ。どん底突破についての詳しい話は、また後日ブログで話そう。今は、必ず気づきは起こるということだけ覚えておいてくれ。

 実は切羽詰まった時に、自分が突破したい壁に対し、直接ガンガン叩いてもダメだということだ。そのことに気づかされる。頑張り方が間違っていることにハッと気づくことになる。これが人生最大の助っ人「気づき」だ。そこでは、心のあり方や考え方が必要だということに気づかされることになる。世の中の真理はすべて、「心が伴ってないとうまくいかない」のだが、こんな話を人から聞いてもダメだ。その境地は自分で経験しなければ手に入らないしくみになっている。アニキからこのことを聞いて、「もっともだ」と思っても、いざ壁にぶち当たると人間は本性が出てしまう。以前に聞いたアニキの話なんか頭の片隅にもなく、ひとりで悩むことになる。それは、成長の基本だ。成長には順番があるのだ。大きくジャンプするにはしゃがみ込む必要がある。それと同じだ。悩み苦悩する時間とは、ジャンプ前のしゃがみ込みだ。すると、気づきを得た時に大きく飛び上がれる。じゃあ、その気づきとは何なのか?気づきとは、ほとんどは「心が重要だ」という意識を得ることにある。それを物事に当てはめると、「すべては考え方で決まる」という結論に達するのだ。

 稲盛さんも言ってるだろ、「人生は、能力×熱意×考え方である」と。全ての物事には、そこに考え方がないとうまくいかないのだ。いくら能力があっても情熱があっても、そこに心のあり方がないとうまくいかない。経験と技能に考え方が加わり、うまくいく方法が完成する。このうまく行く自分なりの方法、それが「自分の行動軸」であり、「行動哲学」である。そしてこれが、社会へ出て行くために必要なベースとなる。

 どんな経験でもよい、大学4年間で行動軸を手に入れることが、大学の意味である。しかし、行動軸を手に入れても、それが有効かどうかはまた別問題だ。せっかくアルバイトなどの社会勉強で自分の行動軸を手に入れても、それが確信できる軸かどうか、それはまだわからない。大学生は社会を少し垣間見ただけにすぎない。自分の行動軸を試して確信を得るなんてことはできない。自分の前に壁ができ、それを乗り越えようとするとき、行動軸が判断規準となる。行動軸とはつまり、自分の哲学なのだが、それが本当に正しいのかどうか、それを自分の人生の軸としてよいのかどうか、そこに迷う。この時点ではまだ、自分の行動軸に自信はないからだ。

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人生の準備期間「学校」(15/17) ~道(どう)の精神を学べ~ [哲学]

 アニキも大学へ行ったが、大学ではアルバイトに没頭して、ほとんど勉強はしなかった。大学では何を学ぶのか?それは、一夜漬けで何とか定期試験で点数を取るための要領の良さと、勉強はやっぱり向いてないないというダメだしだ。16年も勉強してきて、自分に勉強が向いてないことがやっとわかるのだ。大学生活には有り余る時間がある。その時間を何に使うのか?大学というところは、有り余る時間を好きなことに使う場所なのだ。

 大学は勉強するところだと本気で思っている輩に、「大学で勉強したことの内、数十年後、何か恩恵を受けていることはあるのか?」と質問してみたい。大学での恩恵とは、愚痴を聞いてくれるありがたい友と、単位を取れる要領の良さ、それと膨大な暇な時間、それだけ。で、一番重要なのは、膨大な有り余る時間だ。膨大な時間は、それを使ってアルバイトや海外放浪などの好きなことをする。これが大学へ行く意義だ。そういう意味では、世界の大学とは意味は異なるが、日本の事情はそういうことなのだから、そこに議論の価値はない。

 はっきり言おう。これはアニキの偏見だけど、大学時代にアルバイトしない奴はダメだ。ここで、社会という大海の一端を肌で感じ、お金を稼ぐ楽しさと厳しさを体験すべきだ。アルバイトにはまると、学校の授業よりも面白いから、どんどん仕事にのめり込む。真剣に働く奴は、アルバイトの長になんかなったりして、ますますやる気を出し、人の使い方なんかも覚える。「アルバイトは責任がないから」なんて言う奴もいるが、アルバイトも熟達してくると当てにされるものだ。頼りにされると、何とか解決しようと、自分にプレッシャーをかけて頑張るんだよね。これは本当にすばらしい経験だ。日本人は、アルバイトでも仕事に対して決して手を抜かない。この話は、アニキ過去ブログ「日本人の偉大さ」を読んでくれ。そこに詳しく書いてある。

 別に、バイトだけが社会じゃないから、バックパッカーでもスポーツでも何でもいい。アニキはバイトしかしてなかったから、他の世界がわからないだけだ。とにかく、好きなことに没頭する中で、人は成長してゆけるはず。人は何かに没頭してゆくと、それが「道(どう)」となるからだ。アニキがいつも言っている日本人特有の技能、道(どう)だ。自分のやっていることが道(どう)となると、いろんな障害が増える。障害といっても、心の持ち方ひとつなのだが、細部において気になることが増えてくるのだ。

 最初は興味本位から始めた物事なのだが、それが上達してくると、教える立場になったり頼られたりしてくる。そうなると、自分が中途半端だと納得しなくなってくる。その道を知らず知らずに極めてゆこうとする自分がそこにいるからだ。気がつけば、けっこう上の方にいたりして、さらに上を目指そうとしている自分がいる。自分が上に行きたいと思っていなくても、周りからも期待されるから、自分では気がつかないが、自然と上を目指している。人生の準備期間の卒業は近い。

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人生の準備期間「学校」(14/17) ~「大学」というパラダイス~ [哲学]

 そんな高校での専門的な授業は、将来の人生においてはほとんど役に立たない。役に立つのは、難しい難題をどうクリアしていったかということだ。カンニングでもいい、一夜漬けでもいい。要は、どうやって乗り切ったかが重要なのだ。正攻法で乗り切れない奴は、他の手段で乗り切ればいい。それを考えて実行する。これは、勉強でもスポーツでも恋愛でも同じである。困難をクリアした時の成功体験や、クリアできなかった時の挫折感をしっかり学ぶことに意味がある。「成功と挫折」、これをキッチリ学ぶことが、心に磨きをかけることになる。これで、幼稚園からの柔軟な心に、さらにストレッチをかけることができる。

 心が固いままのヒヨッコじゃ、社会に出たら簡単にひねり潰されるだけだからな。そして、自分の思い通りにならないからといって、自暴自棄になるようでは、まだまだ心が固いガキだ。思い通りにならないのが人生であって、目の前の思い通りにならない課題をやっつけてゆくことが人生の意味である。だから、結果がうまくいってもいかなくても、それは大した問題ではない。どちらの結果からも学びがあり、出た結果が自分に必要な学びのチャンスだからだ。自分に足りないものが、結果として目の前に表れることになっている。

 もうひとつ言うと、結果は生まれる前から自分で決めてきており、そこから自分に必要なことを学ぶことになっているのだ。小中学校でできあがった心の柔軟性をさらに広げる。高校では、その広がった心にプレッシャーという刺激を与えて、心にテンションをかけて、その伸び縮みを実際に試しておかないと、いざという時に使えない。それができていないのならば、まだ社会に出て行くレベルではない。

 そうなると、高校でもまだ心の柔軟性がなく固い奴は大学へ行く。大学とは、高校まででまだ心の固い奴が柔らかくしに行く場所だ。大学という4年間の有り余る時間をかけて、ゆっくりと心を広げて、自分の軸を確保する場所である。今まで詰め込み式の窮屈な高校という環境では心が伸びなかったわけだから、逆に4年間かけてゆっくりと自分の好きなように伸ばしてやるという意味がある。大学はそういう場所で、勉強するところではない。

 大学の授業をまともに受けている学生には気の毒だが、勉強などそこそこでいいのだ。落第しない程度でかまわない。大学の授業で学ぶことは、定期テストで単位を取る要領の良さと、やっぱり自分には勉強は向いてないとうことを知ることに意味がある。「学問にしがみつくな」というダメ出しだ。大学に入学して早い段階でまずこれを理解して、別なことを見つける。4年間の自由なパラダイスを頂いたわけだから、この期間を自分の好きなように使わなければならない。

 遊びほうけてもよい。但し、卒業時までにはしっかりとした心の柔軟性と軸を見つけていなければ意味がない。大学で一生懸命に勉強して大物になったって話を、アニキは聞いたことがない。

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人生の準備期間「学校」(13/17) ~「高校」で人生のコツを学べ~  [哲学]

 だから、本当は高校でしっかりと心に磨きをかけねばならないのだが、日本の教育はそうではない。高校ではものすごく高度で専門的な課目を教わる。入学してまもなくは簡単だが、すぐに難しくなる。適当にやっていると授業について行けない。授業が二次曲線的に難しくなるからだ。挫折する奴が続出だ。「みんなが行くから俺も」的に高校へ行くのが普通だが、高校での履修内容がとてつもなく難しいために、授業は全然面白くない。授業について行けなくなるから、勉強を半分捨てた状態になる。楽しいことにしか興味が湧かない年齢だから、勉強がつまらなくなるとやらなくなる。ここにも負のスパイラルがある。先生は、履修カリキュラムにのっとって授業を進めてゆかねばならないから、落馬した奴は置いてゆく。教職者の魂はどこへやら、淡々と授業を進めてゆく。高校教師は学科の専門家で教職者ではない。だから、向学心のない学生は相手にしないのだ。

 そんな状況じゃ、学生も心に磨きをかけているヒマはない。学校側も、「そんなことは自分で学んで成長しろ」という感じだ。けれども、自分で磨けるほど心は簡単なもんじゃない。高校生という年代は多感期だ。気分の上下も激しい。考え方もころころ変わる。本来は、この時期にしっかりと心を鍛えて、自分の軸を持たねばならないのだが、なかなか自分をコントロールするのは難しい。それは、人には脳という厄介な代物が付いているからだ。「脳は別人だ」とアニキ過去ブログ「脳の謎」で話したよな。しかも、カラダと共に脳も勝手に成長している。心の言うことを聞かないじゃじゃ馬に成長しているのだ。脳は怠け者だ。心が成長すると脳の仕事が増えるから、怠けることができなくなる。だから、脳が心の成長を止めてしまうのだ。

 そうなるとどうなるのか?結局、心が育ってないと、プレッシャーに押しつぶされそうになり、楽ちんなおもちゃへと逃げる。脳は、心がおもちゃに逃げてもらった方が都合がいい。脳はその方が楽だからだ。それでまた、人生回り道となる。

 そんな高校の実態だが、社会で役に立つかどうかわからない難しい課目を学ぶ意味はあるのか?クイズ王にでもなるのなら話はわかるのだが。その意味は自分で考えなければならない。学ぶ学科そのものが役に立つわけはなく、その難しい学科をいかにクリアしてゆくのかが大事と考えるのだ。それで心が成長する。当たり前といえば当たり前なのだが、そう考えるのと考えないのとではストレスが違う。要するに、高校での勉強はプレッシャーであり、二次曲線的に内容が難しくなる教科によりプレッシャーも大きくなる。それをいかにクリアしてゆくかが高校の意味である。アニキの過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したよな。嫌なことは自分への試練だと思って、「おっ、また来たな」と歓迎するべきだ。そして、「今度はどうやってやっつけてやろうか」と考えるのだ。これが、前向きに考えるということだ。本当のことを言うと、自分に必要なことが起こっているだけだ。未熟者だから、後ろ向きに考える思考態度だから、何度でも試練がやってくる。前向きに捉えた瞬間に、次からの試練は易しくなるようになってるのが人生だ。

 人生のコツとは、たったそれだけだ。

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人生の準備期間「学校」(12/17) ~おもちゃ好き~ [哲学]

 「これからの社会」という大海は大荒れだ。穏やかな日はほとんどない。そんな状況になるだろうことを、大人はみんな知っている。今まではよかった。穏やかな海があり、多少の高波は来るだろうが、小舟で釣りでもしながら航海できた。そして、嵐の海でも、優秀な日本企業の船に乗っていれば、嵐のことなんか考えないでもよかった。船があまりにも大きく安定していたため、船の中に居たのなら外で嵐が起こっていることすらわからなかった。しかし、これからは違う。海は大荒れ、日本企業の船も老朽化している。エンジンも大きくて古いし、燃料も食う。図体ばっかりデカイから、方向転換すらなかなかできない。そんな状況で旅立つことになるから、前途ある若者は次々と海の藻屑となる。そうならないためには、義務教育の間に武器を手に入れないとダメなのだ。
 それがまず、「運」という武器だ。ロールプレイングゲームなんかだと、「運」なんて武器はぜひほしいよな。その「運」という武器を手に入れる為には、「心」が必要となる。世の中はそういうしくみになっている。だから、心を手に入れてそれを行動で示さねば、日本人の子どもは酷い目に遭うことになる。「心が運を手に入れる」ということがわかれば、みんな自然とそれに向かっていくはずだ。そして、義務教育で「運」のベースを学んでおけば、高校でさらにそれに磨きをかける。そうなると、その先ですごいことが起こってくる。
 高校生ともなれば、カラダはほぼ大人だ。でも、心は子どものままという輩が多い。中身が空っぽな奴も実に多い。まだまだ心が磨かれていないからだ。心が子どもままだと、人はおもちゃに逃げる。子どもはおもちゃが好きだ。おもちゃを「好きなこと」と言い換えてもいい。
 例えば、心が未熟な高校生は繁華街というおもちゃに興味を示す。べつに、繁華街だけがおもちゃじゃない。バイクでも何でもいいが、あくまで一例として挙げる。要するに、おもちゃのレベルが変わっただけで、思考は幼児と同じである。アニキは、繁華街に群れる高校生を見て、まだまだ幼いなと感じる。繁華街が好きだという心理はおもちゃが好きだというのとかわらない。おもちゃ好きは決して悪いことではない。アニキも趣味人間だから、高額なおもちゃに囲まれて生活している。かみさんからよく嫌みを言われるが、人は元来おもちゃ好きという原始機能があるから、それはそれでよい。
 ただ、繁華街の高校生の群れは、おもちゃに逃げているだけだ。自分の信念があってそうしているわけではない。「逃げているだけ」ここが重要なポイントだ。そこが大人と違うところだ。大人は信念という軸があるから、おもちゃに溺れない。信念がないと心がおもちゃに負けて、おもちゃに溺れてしまう。そこから、人生の道が曲がってゆく。アニキは、「それが残念だ」と言うのだ。「道が曲がること」それも人生だから、それはそれでよいかもしれない。だが、道が曲がってしまった分、どこかでその修正が必ず入るのが人生だ。わかりやすく言えば、心があってもそれを成長させないでおもちゃに振り回されていると、創造主がそのおもちゃを取りあげて無理矢理方向修正させられる。病気や事故などの手段を使ってな。
 それは、かなり回り道することになり、人生の大半が過ぎてしまうから、実にもったいないのだ。


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人生の準備期間「学校」(11/17) ~「金持ち」と「長者」~ [哲学]

 かなり主題から離れてしまったが、ついでだからあと少し言わせてくれ。

 さらにアメリカは、家庭に「ファミリー主義」を吹き込んだ。元々アメリカは家族を大事にする。アメリカ人の人生における時間配分は、家族が1/3で、遊びが1/3で、仕事が1/3だ。優先順位もこの順番だ。日本だって家族は大事だ。日本人にとっての家族を大事にすることとは、生活の安定だ。そこでのダンナの役目は、まず金を稼ぐことだ。ということは、家族を大事にしていることを間接的にやっているだけの話である。だから、接待やサービス残業など無償の努力も、最大の家族サービスという認識なのだ。それをアメリカは、「仕事は早く切り上げて家族と過ごした方が楽しいよね」とか、「休みには子どもを連れて、家族で過ごした方が楽しいよね」といって、日本人の奥さん達を洗脳してきた。当然、奥さんはそっちがいいに決まっている。さらにアメリカは、ダンナ達に「一回切りの人生なら、楽しくやろうよ」と持ちかけた。その結果、休日にはビデオを持ったお父さん達がそこら中に溢れた。アメリカは、しめしめと思っただろう。

 日本を陥れた罠はまだまだたくさんあるが、そのうち代表的な罠のいくつかを紹介した。な、日本が弱くなるわけだよな。今から巻き返しを図ろうと企業は頑張っているが、巻き返すにはかなり時間がかかる。元に戻れるのはまだまだ先の話だ。そしてまた日本が巻き替えしてきたら、アメリカはまた何か新たな罠を仕掛けてくるだろう。

 さあ、学校の話に戻ろう。昔の日本はお寺で心を教えてもらえたから、他人を思いやる優しさや素直さ、すべてに感謝という観念を学んだ。それを普段の暮らしに生かすものだから、人間関係がよくなった。金のある人なんかは、貧乏な人によく恵んでやったり、公共事業にも金を出したりしたもんだから、「長者」と呼ばれた。ここ、間違えるなよ、「お金持ち」じゃなくて「長者」だ。

 実は「金持ち」という言葉は、けなし言葉だ。誉め言葉じゃない。本当は馬鹿にする言葉だぞ。だから、「金持ち」って言われて喜んでいる奴はバカだ。要するに「金持ち」って、「金を持っているだけ」という意味だ。お金を有効に使えないバカ者という意味だ。だから、お金を有効に使える立派な人を「長者」と呼んで区別した。長者は、村の人や困っている人をよく助けていたから、精神的にも優れていた。

 よく聞けよ、「金持ちになりたい」なんて言っているから、「お金を持てない」んだぞ。有り余るお金がほしければ、「長者になりたい」って思わないといけない。言葉は言霊だから、言った通りになる。「お金を持っているだけ」って意味の「金持ち」に、神様がその望みを叶えてくれると思うか?神様には、「バカ者になりたい」って聞こえているようなもんだから、現実はその通りになっているよな。

 目指すのなら、「金持ち」じゃなく、絶対「長者」だぞ。そこんとこ、間違えんなよ。

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人生の準備期間「学校」(10/17) ~アメリカの罠(3)~ [哲学]

「ゆとり教育」とは、社会人になった時にプレッシャーでつぶれやすくする罠だ。あたかも、「競争は悪」だということを表に掲げ、比べない順位を付けないことが良いことのように謳っている。競争せずにみんな仲良くという雰囲気を作り出し、穏やかな心を成長させようという主旨だ。心を持ち出されると日本人は弱い。まんまと文部科学省は、その罠にはまってしまったわけだ。それが良くないことだというのは、ゆとり教育世代が社会人になって初めてわかった。だって、社会は競争だらけだ。一般社会は、「生き馬の目を抜く」とまで言われているのに、競争の免疫のないフレッシュマンが登場するわけだから、イチコロだ。大海へ船出した瞬間に、海の藻屑である。まさに瞬殺だ。競争があって日本は世界に通用する国になったのに、それをやめるというのは愚策でしかない。アニキは言う、「ゆとり教育」は、稀代の愚策であると。まあ、これで次世代のホープ達は使い物にならなくなったわけだ。アメリカはほくそ笑んでいる。
 で、現役世代も邪魔だから潰しておこうという罠が、「成果主義」と「残業は悪」という観念だ。「成果主義」は、昔からアメリカなんかが推し進めてきた評価法だ。でもこれは、アメリカだからこれでいいわけで、日本人には毒である。元々アメリカ人は個人主義だ。個人の能力で成果を出す。一方、日本人はチームで成果を上げる。アメリカは「個人で個」だが、日本は「チームで個」だ。チームの団結が強固であり、それがあたかも個に見える。それで日本は成長してきた。個人とチームじゃ、どっちが力があるかって、言わずもがなだよな。こいつが、アメリカにとっては邪魔だったから、やめさせたかったのだ。なのに、日本の企業はどんどん成果主議を導入した。ちょうどリストラが流行っていたから、渡りに船だった。成果重視のため、日本お得意のチームワークが乱れて、個人がバラバラになった。そのため、チームでの成果が残せなくなり、企業のパワーが格段に落ちた。アメリカの思うツボである。そのことに気づいた日本企業は今、成果主義が緩くなっているよな。

 「残業は悪」も同じだ。日本人はサービス残業がお家芸だ。それは、仕事は日本人にとって「道(どう)」だからだ。道(どう)の話は、過去ブログ「日本人の偉大さ」に詳しく書いてあるから、時間があれば読んでくれ。で、これがアメリカ人には煙たくてしょうがない。お金をもらわずに働く人種とは、脅威なのだ。そうなると、企業のパワーはとどまるところを知らない。日本を世界のトップに押し上げたのは、サービス残業だ。こいつはやめてもらわないといけないと、アメリカは考えたわけだ。「残業代不払い問題」や「ブラック企業」というかけ声で、マスコミを動かした。それで、火が付いてしまった。「正当な残業代は請求してもいいんだ」という事に気づかせたのだ。そして経営者には、「部下が残業しなければならないのは、管理職の仕事の配分が悪いからだ」と、いうことをそそのかした。

 そうして日本企業はサービス残業ができなくなり、企業のパワーは次第になくなっていった。

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人生の準備期間「学校」(9/17) ~アメリカの罠(2)~ [哲学]

 日本をバカの巣窟にするために、アメリカは罠を仕掛けた。再びアメリカの手足となって服従するようにするためだ。時間はかかるが、日本人が気づくとまずいから、ゆっくりと進めた。ゆでガエル作戦とで言っておこうか。気づいた時には、もうすでに遅いって話だ。今がまさにそうだよな。アメリカが思っている通りの結果であり、骨抜きにされた日本はそこでもがき苦しんでいる。
 では、前回の続きだ。日本にはそれほど宗教的な観念がなかったから、アメリカは日本人をなめていたのだが、とんでもなかったわけだ。「宗教的観念がなければ、人間の心はお粗末なままだ」とアメリカ人は考えていたからだ。アメリカ人は日本人のことを、宗教がなくても心ができあがっている人種だと気がつかなかった。そんな人種は世界に存在していないからだ。さらに、アメリカが日本人を無能な国民だと思っていたのは、戦争に負けたアメリカにいつまでも楯突かず、素直に服従していたからだ。進駐軍が復興にやってきた時、日本人は大人しかった。それをアメリカは、ただの羊の群れだと勘違いしてしまった。実は日本人は心ができていたから、すぐに自分達の立場を理解し、アメリカを恨むよりどうやってこれから復興してゆこうかを真剣に考えていた。恨みのパワーを自動的に復興に向けることができた。こんな人種は世界には存在しない。ほとんどの人種は思いっきり恨むのが普通だからだ。日本人は、初めから恨むのはエネルギーのムダだと考えていたから、羊の群れに化けていただけだった。そして、日本人を見下してしたアメリカ人から、最先端の技術をどんどん教えてもらうことになり、かわいがられるようになる。犬に芸を教えるようなものだ。芸の呑み込みのよい犬ほどかわいいもんだ。そして、どんなに高度なことを教えても、犬は人間を超えることがない。しかし、日本人は違った。残念ながら日本人は犬ではなかったのだ。
 教えたことをどんどん吸収して、それを改良してアメリカよりも良い物を作ってしまう。いい例が、戦闘機だ。自衛隊の戦闘機はアメリカから買わなければならないのだが、アメリカはだんだん売ってくれなくなった。なぜなら、アメリカの戦闘機を改良して性能を良くしてしまうからだ。同じF-15戦闘機でも、アメリカ製には変わりがないが、アメリカ軍が使うものより自衛隊が使うものの方が圧倒的に性能がよいという事実がある。
 このままでは日本にすべて抜かれてしまうと思ったアメリカは、日本人の能力を下げるためには罠を仕掛けて、日本人が気づかないよう進める作戦をとった。そういうのは、アメリカはお手のものである。日本人の心に仕掛けてゆく罠である。
 それが、次世代を担う子どもを潰す「ゆとり教育」であり、現役世代には「成果主義」や「残業は悪」という観念の植え付けだ。さらに、家庭においては「ファミリー主義」なども持ち込み、奥さんを洗脳した。未だに気づいてない人も多いと思うが、これらはすべてアメリカが日本をダメにしようとした巧みな罠である。

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人生の準備期間「学校」(8/17) ~アメリカの罠(1)~ [哲学]

 当時の坊さんは知っていた。運がよくなるには心が重要だということを。だから、心を鍛えることを教えた。そういう意味では、坊さんが先生として適任だった。坊さんは算数や理科なんかはわからない。そんなものはただの特殊技術にすぎないから、自分でやればいいというぐらいの扱いだ。人として重要なことは、何より「心」だ。学校の始まりはお寺で、先生の始まりは坊さんだ。それが日本の学校のルーツである。

 そう、学校とは元々、勉強を教えるところではない。心を教えるところだったのだ。だから、昔の日本人は心が豊かだった。アニキ過去ブログでも日本人のすごさを話してきたよな。「日本人の偉大さ」「仕事と作業」で紹介したはずだ。日本人の「道(どう)の精神」や戦後の急速な復興、さらには根に持たないサッパリした性格などで現在の地位の日本の地位ができあがっている。
 話は逸れるが、なぜ日本が今低迷しているのか知っているか?なぜ日本は、戦後の復興の勢いのまま突っ走ることができず、失速してしまったのか?これはすべてアメリカの罠にはまったためだ。そこはさすがアメリカだと言っておこう。
 実は、太平洋戦争で負けた日本という国をアメリカはなめきっていた。白人はアジア人なんか屁とも思っていない。白人は、世界で一番優秀な人種は白人だと思っている。今でも心の中の本音はそうだ。有色人種を心の中ではバカにしている。それを表に出すと、人種差別だとかなんだかんだでうるさいから、言わないだけだ。というわけで、日本人をなめていたものだから、戦後復興においてもそんなに締め付けずに、心は自由にさせていた。個人個人を見たら、アメリカ人よりも小柄だし、性格も温厚で飛び抜けた人物もいない。東洋人は欧米人に比べると脳が小さいと馬鹿にした。大したことないなと、高をくくっていたわけだ。そうしたらどうだ。みるみるうちにアメリカに近づくまでになった。アメリカは焦ったよな。大したことがないと思っていた日本人が、ヨーロッパの先進国も抜いてきたからだ。同胞である白人を抜いてアメリカに迫るその勢いは、チョット生意気だなと感じたわけだ。
 ところがアメリカはプライドが高い。直接的に手を下せば、世界から弱い者いじめとか、英雄の国がかっこ悪いとかの評価を受けてしまう。アメリカは世界が憧れる国でなくてはならないから、表だって手を下せない。そこで、罠を仕掛けて長期的に日本を堕落させようという作戦に切り替えた。貿易関税だとか法律だとかの直接的な制裁ではない。日本人の心を揺さぶる作戦を開始したのだ。アメリカは日本人というものを研究した。そこで出た結論が「心」だ。日本人は心がすごいということがわかった。心のすごさは脅威であることを、アメリカは知っていた。だから、アメリカは心を鍛えるために、キリスト教を奨励している。銃を持ってもいいような自由の国に心がなければ、それこそ無法地帯だ。北斗の拳の世界がリアルに存在することになる。
 だから、日本以外の諸外国は、宗教がなければ無法地帯となる可能性が高いのだ。

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人生の準備期間「学校」(7/17) ~昔の日本の「運」教育~ [哲学]

 中学校を卒業したら、大海へこぎ出す奴がいるというのに、何の武器も持たせないで行かせることは、見殺しにするのと同じだ。前途を期した旅立ちではなく、やっていることはまるで流刑だ。武器も持たずにリアル人生ゲームで勝てるわけがない。だから、武器を持たせて旅立たせるのが学校の役目なのだが、小手先の技能ばかりに注目するものだから、肝心の心が疎かになる。心の成長に教育の焦点を当てないでどうするのだ。親は、自分の子どもの心が全く成長していないことがわかるから、進学しろというのだ。親は、もう一つ上の高校へ行かせて、心の成長を願う。創造主もまた魂がカワイイから、心が育ってないなら、自然と進学の道を選ばせることになる。
 そう、だから人生最大の武器である運を手に入れて社会へ出ることが理想だ。だが、運とはアウトプットだ。直接鍛えることはできない。運というアウトプットを出すためには、インプットである心を鍛える必要があるのだ。これができてないまま社会に出て行くものだから、大人になっても運のない奴がどれほど多いことか。それで、世の中が荒むことになる。
 結局、小中学校では競争ばかりに目がゆく。この教育を変えるためにまず必要なことは、先生の質だろう。子どもに心を教える先生の心がどうなのか?という問題だ。教える人間がわかってなければ、それを教えることはできない。今の先生は、社会で最も大事な技能は「運」で、それは「心」を育てなければ手に入らないということを知らない。それは、本人もそういう教育を受けてきていないからだ。だから、別に先生に責任はない。今、エラい誰かがこの教育の流れの過ちに気づき、これからどうするかということが重要だ。日本を運の悪い奴らの巣窟にする前に、気づかなきゃダメだ。正直、これは陰謀かもしれないとも感じる。
 その答えは日本の過去を見ればよい。まだ日本が西洋の影響を受けていない頃だ。その当時は日本独自の文化で教育を行ってきた。その元は仏教だ。そう、仏教こそが日本の教育の源泉だ。アニキは特に仏教を奨励しているわけではないが、仏教など宗教がベースにあると、必ず心の教えから始まる。宗教の教育は、それを受け取る人間の器を整えるところから始まるからだ。仏教がベースにあるなら、そこには、科学的に証明されている事実を踏まえる必要性はなかった。なぜなら、仏教はお釈迦様の教えであり、それが科学的に証明されているかどうかなどは愚問だ。「そういうものだ」ということで、疑問を持つなど誰も考えなかった。仏教の教えが胡散臭いと思う人は、野良仕事に精を出し、勉強などしなくても生活できたから、近づかなければよかった。そして庶民は学校で物事を学んでいった。学校って昔からあったの?と思うかもしれないが、学校は昔からあった。
 昔は寺で勉強を教えていたのだ。奈良時代から面々と作られてきたお寺の目的、それは学校だ。寺とは元々学校だ。寺は死んだ人にお経をあげてもらうだけの場所ではない。庶民やその子どもに勉強を教える場所だ。当然、先生は坊さんだ。坊さんは、仏教やお経を勉強してきているが、そのことを教えるわけじゃない。お釈迦様からの教えを、世の中でどういう風に使うのかということを教える。そして、それをすることにより「運がよくなる」ということを教えていたのだ。

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人生の準備期間「学校」(6/17) ~リアル人生ゲーム~ [哲学]

 「運が良くなる」ことが人生で一番大事なことだろ。それなら、学校でそれを教えてゆくことが最も優先順位の高いことだ。そのために、「素直さ」「感謝」「優しさ」を教えてゆくことが絶対だ。それなのに、「そういうものは自分で学べ」「家庭で教えろ」というような世の中のスタンスだ。

 幼稚園では、先生から挨拶などを教わる。先生の言うことをきくという「素直な心」を学。そして、友達に対して注意したり、いたわったりという「優しい心」、ありがとうという「感謝の心」を学ぶ。そこで、心に広がりができる。なのに、小学校ではその心の広がりをさらに大きくしようとせず、そのまま固まらせてしまう。つまり、せっかく幼稚園で心のストレッチを終えたのに、そこで心を鍛えないものだから、また心が固くなってしまったり、縮んでしまう子どもも多いのだ。心も筋肉も伸び縮みさせなければすぐに固まる。世の中の柔らかい物はすべて、動かさないと固まるという性質を持つのだ。心は手で触って伸び縮みさせることは不可能だ。だから、外側から力を加えてやるのだ。それがプレッシャーだ。プレッシャーで心を鷲掴みにして、揉んでやるのだ。で、固い物をいきなり揉んだらどうなるかわかるよな。そう、ひびが入って壊れてしまう。だから、柔らかいうちにもみほぐし、さらに柔らかく大きく広げてやる。こうすることで、より大きなプレッシャーにも耐えられる。心の病はすべて、大きなプレッシャーでガチガチの固い心を揉んでしまうことで起こるのだ。

 社会に出たら、見たこともないような大きなプレッシャーの連続だ。それに対する耐性がないと、簡単にひねり潰されてしまう。大海にこぎ出した瞬間から、「リアル人生ゲーム」が待っているからだ。卓上での人生ゲームとはわけが違う。おもちゃのお金や債券が飛び交うのではなく、現ナマが飛び交い、そこに人間関係からむ。うまさにリアル。このリアル人生ゲーム上をサラリと進んでゆかねばならない。そのためには、ルーレットの目の出し方が最も大事なことだと、子どもの頃「人生ゲーム」で学んだはずではないのか!貧乏農場行きは、すべてはサイコロの目が決めた。人生ゲームでは進むスピードも重要だったよな。そう、スピードもサイコロの目だ。だからアニキは過去ブログ「サラリーマンの武器シリーズ」でも、その第二番目に「サラリーマンの武器スピード」を紹介した。

 卓上人生ゲームでは、ゲームにおける技能などなにもいらない。すべてサイコロの目だ。良い目を出せや奴が勝った。つまり、運のいい奴だ。リアル人生ゲームには努力は必要だが、最小限の努力にしたいはず。ならば、まずは好きな目を出すことができる技能である「運」だろう。欲しいサイコロの目を出せなければ、人生回り道もしくは貧乏農場だ。そんな簡単なことに文部科学省は気づいていない。

 アニキは言う、すべては「運」だ。だから、小中学校で心を育てなければならない理由はここにあると。

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人生の準備期間「学校」(5/17) ~人生で最も大事なもの~ [哲学]

 人間の創造主が一番嫌うことは、「心をいじめる奴」だ。いつもアニキは言うが、アニキ哲学の重要な部分だから、よく理解してくれ。自分とは、肉体ではなく魂だ。で、心とは魂の意識だから、心とは魂だ。魂は創造主が作るから、魂は創造主の子どもだ。つまり、魂の親は創造主だ。

 前回も話したが、今一緒住んでいる親はカラダの親で、子どもの本当の親は創造主なのだ。いじめられると親は怒るだろ。それと同じで、創造主にとっては、心をいじめる奴は、自分の子どもがいじめられていることになるから、それを平気でする奴とそれを見過ごす奴は許せないのだ。創造主ができることは二つ。ひとつは運を悪くすること。そして、もうひとつは呼び戻しだ。運の話は、また後日ブログ「運」のところで詳しく話すが、「呼び戻し」はもうわかるな。魂が魂の故郷へ呼び戻されるわけだ。

 では話を戻そう。前回の終わりに話した「自分の心だけじゃない、他人の心を伸ばしてやる」ということの意味はわかるか?誤解しないでほしいのは、やみくもプレッシャーを与えることではない。自分の心はプレッシャーで育てる。プレッシャーの克服が成長だ。他人の心を伸ばすというのは「優しさ」だ。プレッシャーから救い出すことではない。せっかく成長のチャンスを掴んだのに、そのプレッシャーを他人が取り除いてはダメだ。プレッシャーを和らげてやるのが優しさだ。ここではき違えてはならないのは、甘さは優しさじゃないということだ。この概念の違いは、アニキ過去ブログ「『優しさ』と『甘さ』」を読んで、本当の優しさを与えてやってくれ。

 な、小学校から中学校という場所は心を磨くところだ。心が凝り固まった状態で社会に出て行くとどうなるか分かるか?ゆがんだ狭い心のまま大人になる。カラダという入れ物だけが大人になっても、肝心の中身がガキのままだ。大人になってからの方が気づきが多くなるが、それはいろんな壁にぶつかるからだ。狭い心のままじゃ、何事もうまくいかないから、「おかしいな?」と気づく。「なぜ、自分だけうまくいかないのか?」とか、「なぜ自分だけ運が悪いのか?」そこで立ち止まり苦労することになる。それはすべて、学校でもっと心についての勉強をしておけばよかったのだ。むかしの日本では、周りの人達が育ててくれた。悪いことは注意してくれた。注意された人も素直にそれを聞いた。昔の日本人には素直さがあった。この素直さも、心の大きな機能のひとつだ。これがなくなると、心に受け入れの準備が全くできない状態だ。自分の固定観念の殻で覆ってしまい、自分が悪いのに注意した人に対して逆恨みするようになる。これをやるから、創造主は益々運を悪くするのだ。でもうひとつ運を悪くする心の機能に、「感謝」がある。そして前述の「優しさ」だ。「素直さ」と「感謝」と「優しさ」が運をよくするのだ。何もしなくても、淡々と人生は過ぎてゆく。だが運があれば、人生を上向かせることができるのに。

 このしくみをなぜ学校で教えないのだろうか。一番人生で最も大事なのは、どう考えても「運」だろう。それ以外にはないはずだ。

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人生の準備期間「学校」(4/17) ~小学校は「心の教育の場」~ [哲学]

 魂を鍛える前に、脳を鍛え上げなければならないが、脳はストレスで鍛えられる。アニキはストレスを「心のストレッチ」と呼んでいるが、まずは幼稚園で軽いストレッチから経験してゆくのがとてもよい。カラダのストレッチと同じで、心地よいストレッチが大事だ。いきなり相撲の股割りなんかさせても無理だろう。それと同じだ。カラダが壊れてしまう。魂だって同じだ。魂を育てるためには、その防御役である脳を育てなければならない。脳はストレスというストレッチによって成長する生き物だ。いきなり過度のストレスを浴びると、防御できずに壊れてしまい、精神に異常をきたしてしまう。だから、適度なストレスから人生もスタートすべきであり、幼稚園で軽いストレスを経験して、次の小学校という重めのストレス社会に耐えられる基盤を作ることになる。

 小中学校は日本人なら大体だれでも行く。義務教育だからあたり前だな。現代は高校・大学まで行く人も多い。通算16年は勉強だ。ここから本当の人生の準備期間が始まる。ある程度、幼稚園で最初の心のストレッチを終えた子ども達は、ほとんど小学校に入学する。ここで勉強を教わったり社会を経験するわけだが、一番大事な心の教育が疎かにされている。小学生から中学生にかけての時期に、最も心が成長する。その時期に、カラダと脳ばかかりを成長させてしまう。算数や理科などの技術は脳を機能的に作り上げるためにはいい。それは誰でもわかっている。体育やスポーツでカラダが作り上げられるのもよいこと。それも常識だ。しかい、その影で疎かなにされているもの、それが心だ。心の教育と言えば、学校では道徳しかないのだが、その道徳についても、「道徳的教育はすべての授業の中でおしえられねばならない」という精神論だけ旗揚げされたような、曖昧な状態だ。今年から見直されるらしいが、受験科目にでもしないかぎり、学校教育の柱とはならないだろう。それに、「道徳の授業だけで心の教育はOKだ」みたいな感覚じゃ、子どもの犯罪は減らないだろう。スマホやネットが広がり、昔では考えられないような心をいじめる犯罪が増えている。特に、心が未熟な子どもにはたまったもんじゃない。子どもは大人のようにある程度社会で鍛えられていない。親が、「我慢しろ、無視しろ」とか、「やられたらやり返せ」的なアドバイスは大人を基準として考えている。柔軟な心がないと、心がちぎれてしまう。

 だから、幼稚園で少し伸び始めた心に、もっと柔軟性を持たせないといけない。それが小学校の役目であり、そこでやらなければならないのは、自分の心だけではなく、他人の心も同時に伸ばしてやらなければならないのだ。そのためには教師のレベルも上げなければならない。そういう意味では、坊さんは心の授業が本業だから、歴史上の日本ではお寺で勉強を教わっていたというのは理にかなっていたのだ。

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人生の準備期間「学校」(3/17) ~初めての社会「幼稚園」~ [哲学]

 前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入ろう。要するに、学生時代までは人生ではない。人生の準備期間だ。ではそのことは、人生においてどんな意味をもたらすのだろうか。順番に見てゆこう。

 学校生活となると、日本では小学校からが義務教育となるわけだが、大概の日本人の子どもは幼稚園や保育園に行く。幼稚園はさらに小学校への準備期間となる。だから、アニキ哲学では学校の一部、すなわち人生の準備期間の一部に組み入れている。生まれて幼稚園に行くまでの間は、家庭中心の生活だから、親の管理の元いろいろ学ぶことになるのだが、親のレベルによってその教えはまちまちだ。過去ブログ「親の謎『親の心子知らず』」「『優しさ』と『甘さ』」でも話したが、親も「親(おや)初心者」だから、子育てに関してはいろいろ迷う。間違っていることも多い。家庭内においては、他人が誰も見ていないから、間違っていてもそれがいいのか悪いのかわからない。だから、子どもが苦労するわけで、早く幼稚園などの社会で磨かれた方がいいわけだ。

 何度も繰り返すが、親とはカラダの親であって魂の親ではない。魂には親はいないのだ。人間は魂が主体であって、カラダはその乗り物だから、親はその乗り物を作ってくれた人にすぎない。自分の乗り物を作ってくれて、それを大きく育ててくれたのだから、そこには恩義は感じないといけない。詳しい話は、過去ブログ「『今世の乗り物』を乗りこなせ」を読んでくれ。とするならば、親も子どもも魂においての上下はない。同格なはずだ。親は子どもよりも少し早く生まれただけで、この世での魂の先輩という位置づけだ。

 だから、先輩であるカラダの親が、人生のしつけをいつまでもやろうとするからおかしくなるのである。先輩は自分のこの世での経験を踏まえてアドバイスしているつもりだろうが、子どもにとってそれが本当に正しいかどうかはわからない。小さな子どもは脳が発達していないから、魂で物事を見るわけだ。親のしつけも魂で見ているから、親の言うことがなかなか理解できない。それは、親が自分の都合で物を言うからだ。だから、子どもには理解ができない。親の言うことが難しいからではない。子どもはその魂で見ると、親の言うことが矛盾だらけだからだ。物心が着く前の子どもが親の言うことを聞かない本当の理由はここにある。

 世間でよく言われる、「子どもは親の言う通りには育たない、親のように育つ」と。だから、早く「人間のしがらみの世界」へ放り出すのが正しい対処方法だ。人生は人間関係を学ぶ修行だと言われている。それなら、「人は人の中で磨かれる」これが真理だろう。幼稚園に行かせる本当の意味はここになる。

 で、日本人の場合、小学校に上がる前の2,3年を幼稚園や保育園で過ごす。子どもにとっては初めての社会である。それまで家で親と遊んでいた世界とは全く異なる。まるで異次元だ。家では王様気取りだったワガママな子どもも、幼稚園ではその自由さを奪われる。内向的な子どもは、いきなりたくさんの子どもの中に放り込まれ、どう対処したらいいのか不安だらけだ。嫌でもストレスが溜まるのだが、それでいいのだ。

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人生の準備期間「学校」(2/17) ~技能がないことが技能~ [哲学]

 「技能がないことが技能」について補足しよう。
 野球やサッカーだけが技能ではない。例えば、代々続く老舗の企業やお店の跡取りとして生まれること、これも技能だ。跡取りとして生まれたなら、それだけで人生の選択肢はない。職業選択の自由はない。生まれた時すでに、将来のレールが敷かれている。跡取りという技能を、生まれた時すでに持っているからだ。だから、アニキ哲学においては、技能がある人は残念だと言う。それが目の前に立ちはだかり、それ以外の可能性をなくしているからだ。まあ言ってしまえば、跡取りはそういう星の下に生まれたことがデメリットであるけれど、それを決めて生まれてきたのは自分自身なのだから、哀れむ必要はない。アニキ哲学では、「自分の人生は自分で決めて生まれてきた」というのがある。生前に親を選んで生まれてくるという説が今は主流だ。アニキもこの立場を取るから、老舗企業の跡取りという不自由な状況も、自分で選んだのならしかたない。それでプラスマイナスちゃらである。何のことはない、世の中は平等にできているのだ。

 じゃあ、技能があることは本当にデメリットなのか?ということだが、確かにデメリットでしかない。いまを時めくサッカーを例にとってみよう。子どもの頃からサッカーが上手だからと、プロを目指してしまい、運悪くプロになれてしまったら、それは悲劇なのだ。ワールドカップに手が届くレベルの技能がある選手はよいが、プロの世界では日の目を見る人はごく一握りだ。大概は、スピンアウトする。しかし、ずっとサッカーしかやってきてないものだから、他へのつぶしが利かない。サッカー関連の仕事にしがみつくしかない。だから現在問題となっているのが、Jリーグで芽が出なかった選手の再就職先がないことだ。プロを辞めても、サッカー関連の仕事に就くことすらできない。少年サッカーチームのコーチぐらいしかない。そこは、給料もメチャクチャ安い。でも、仕方ない。さらにだ、今のご時世は少年サッカークラブが乱立して、子どもの取り合いだ。サッカーコーチも、子どもを勧誘してインセンティブをもらうことで稼いでいる。サッカーしかしてこなかった人達が、営業をやらされているわけだ。だから、Jリーグの各チームでは、資格取得の斡旋や一般サラリーマンへの転職斡旋がさかんに行われている。芽の出ない選手達には早いうちから転職を薦めているのが実態だ。この状況は、サッカーに限った話ではない。プロスポーツ界はどこでも似たような状況だ。ただ、選手人口が多いサッカーにおいて、社会問題が顕著化しているだけだ。

 な、中途半端な技能があるより、何の取り柄もない人の方が幸せだろ。だから、自分にはなんの取り柄もなければ、そのことにガッツポーズすべきなのだ。「俺には、何の取り柄もなくてラッキー」だと。「何の技能もないこと」がどれだけ有利な技能なのかということだ。友達の中で、スポーツができるだとか、勉強ができるだとか、そんなくだらない技能をひけらかす奴がいたなら、「かわいそうに」と言って同情してやればいい。

 そして、貧乏な家に生まれたら、いろんな可能性にチャレンジできることに感謝して、それを喜べ!

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人生の準備期間「学校」(1/17) ~人生は大海~ [哲学]

 人は生まれて学校へ行って勉強し、社会人となる。大概の日本人はそのルートを辿る。アニキ哲学では、人生は社会人から始まる。人生は海である。そこはまさに大海だ。その大海へ船で単身こぎ出すことが人生だ。だから、学校は人生とは言わない。学校は人生という海を渡るだけの準備をする期間である。ここをはき違えたらいけない。学校も一つの社会だから、人生は学校も含まれるんじゃないかと思うかもしれないが、そこは混同してはいけないのだ。基本的には同じでもかまわないのだが、人生から学校を分離することの方が理にかなっている。だからアニキは分離する。

 例えば、学生時代にスポーツや勉強でかなりの技能を発揮した学生がいたとしよう。学校からが人生であれば、自分の得意な技能をそのまま社会人に生かすことが得策じゃないかと考える。しかし、学生が人生ではなく、ただの準備期間だと考えるのであれば、社会人になるときに、その得意な技能は社会に出るのに必要なのかどうかを冷静に判断できる。社会という大海への船出の時、必要な装備をリストアップして積み込むわけだが、そこで要るのかいらないのかを立ち止まって考えることができる。学校は人生の準備期間であると考えるなら、学生時代の技能に縛られることなく、社会に出ることができる。

 大概の学生は、何の技能もなく大海へ出て行く。技能が何もないから、いきなり大企業という大船に乗り込み、そこで下働きしながら航海することを選ぶ。自分の仕立てた小舟では、嵐になった時にはひっくり返ってしまうからだ。大船には何百人何千人という人が乗っているために、なかなか出世も難しいのだが、嵐にはめっぽう強い。船が大きければ大きいほど、外が嵐だということさえもわからない。大きな船での下積みをすることにより、自分の適性や能力を発揮できる場所をじっくりと探ることができる。これが、大船に乗るメリットだ。意外に居心地がよくて、ずっと最初の船に乗っている人もいる。しかし、大船が楽だからと手を抜いていると、大船から小舟に乗り移らせられてしまうかもしれないから、そこは気をつけなければならない。

 つまり、アニキは何が言いたいのかというと、実は、人生という海に出ていくのに、特別な技能は要らないということだ。人生は社会人からがスタートであり、学生時代は準備期間であると意識して、日々を過ごす。そうすると、無理に自分の適性を探す必要はないし、嫌いな技能を無理に磨くとこもない。「幼稚園⇒小学校⇒中学校⇒高校⇒大学」と、目の前の課題に集中して行動すればいいのだ。勉強が嫌いだから、大学行くのが嫌だなと思っても、大海へ飛び出す準備が出来ていないと思うなら、あえて高校や大学まで進んで時間を稼げと、いうことだ。大学行くのは親の為じゃない、自分の為なのだ。大学で充分な時間と余裕を確保する。それを使って、自分の人生をどうスタートさせるかを考える期間である。社会人になってから技能を磨いても遅くはない。

 実は、「技能がないことが技能」であり、そのメリットはとてつもなく大きい。それは、学生時代の技能に縛られることがないために、どんなことにもチャレンジできるからだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(11/11) ~会社は誰の物?~ [哲学]

 クリスマスキャロルという話をご存知だろうか。中学か高校の英語の教科書に出てきたよな。この話は強制的に完全変態させる話だが、こんなことは現実には起こらない。特に、右上がりで伸びている会社のオーナー社長は、己の力に慢心しており、だれの意見も聞かなくなる。自分がすべて正しいと思い込んでおり、それに意見する者は悪であり遠ざける。だから、人の意見を聞かないオーナー社長は、自分で気づくしか道はないのだ。急成長した会社のオーナー社長はさらにその傾向が強い。氷山に向かって突き進む船の船長に御注進したところで、「うるさい、俺の進路に間違いはがない!」と一蹴されてしまうのがオチだ。そして、氷山に突っ込むのだ。だから、それがわかっている従業員は早々に船を下りるだけの話だ。大体、10~15年ぐらいで終わる会社は、理念や行動哲学がなく、そこで働く従業員の「立場の心」もわかってないバカ殿が指揮する会社だ。

 人数が増えると、会社は別の生き物になる。10人の会社と100人の会社は全くの別物だ。そして、100人の会社と200人の会社でも全く違う。要するに、人数が異なると会社はその様相が変わるため、それに見合ったような組織作りが必要になる。組織だけではない。社長と末端の従業員との思いがひとつでなければ、会社ではない。それは、ただの群れである。だから、そこに魂を吹き込む作業が一番重要な仕事となる。

 繰り返すが、そのためには従業員による「会社の心」と、社長による従業員の「立場の心」という相互理解が不可欠なのだ。そのベースがあって初めて、魂を吹き込むことが可能となる。そして盤石な組織となる。100年も続くオーナー企業はこれがきっちりできているはずだ。

 会社はオーナーである社長ものではない。社長のものであるとしたならば、それは起業した直後の状態までの話だ。そのあとの会社とは、社長とその従業員とで作り上げて発展したものだ。だから、会社が機能しているのであれば、それはもう社長のものではない。確かに法律上は社長のものかもしれないが、そんな意識では従業員はついて行かないだろう。アニキに言わせれば、社長はただの出資者にすぎないのだ。会社とは、「そこで働く人達と、彼らが作り上げた機能」だ。社長一人で会社を大きくしたわけじゃない。従業員がいなければ、会社は大きくなっていなかったはずだ。ならば、「それを作り上げた従業員そのもの」と、その彼らが作り上げた結果、すなわち「今存在する会社の機能そのもの」が会社であろう。俺がオーナーだと気取っているような社長がいる会社じゃ、「立場の心」がわかってない無能社長だ。「絶対に将来破綻する!」と、アニキは太鼓判を押す。だからそうなる前に、オーナー社長は「完全変態」を遂げなければならないのだ。

 何度も言うが、オーナー社長という生き物は、「会社は自分のものである」というゆがんだ心を持ったがゆえに、人と区別されてしまうのだ。さらに、企業理念を疎かにし、本人の行動哲学もないような状態だから、「珍獣」と言われてバカにされるのだ。

 アニキは別にオーナー社長をこき下ろす事が目的ではない。アニキは何が言いたいのかというと、オーナー社長が未熟な考えでふらふらしていちゃ困るということだ。社長は、従業員とその家族の人生をも背負っているはずだ。行動哲学もない、企業理念もないなんていうお粗末さで、従業員の人生を背負っていると胸張って言えるか?と問いたい。もっとよく考えてほしいということだ。そうなると、理念・信念を疎かにできないということが見えてくるはずだからだ。

 それは違うという社長がいたら、アニキの前に連れて来い。思いっきり説教してやるから。
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「オーナー社長」という生き物の生態(10/11) ~立場の心~ [哲学]

 見よう見まねで組織をきちんと整備して、階層的な組織を作り、中間の管理者を置くのはいいことだ。しかし、10人の規模の時のように、社長自らが現場の不満や愚痴を聞いてしまうのはよくない。そうなると、中間管理者の立場がなくなるからだ。すべて自分で把握しなければ気が済まないのはわかるのだが、段階組織においては社長が直接口を出してはいけない。末端の従業員は自分の上司である管理者の指示より、当然社長の指示を優先するからだ。中間管理者と社長の意見がぴったり合えばいいのだが、お互い人間だからそんなことはまずありえない。細かい部分では意見が食い違う。すると、中間管理者の意見はないがしろにされるから、当人のモチベーションは極端に下がる。また管理者は、自分がやろうとしていることを強引に推し進めることができなくなる。末端の従業員がそれに反対すれば、社長に直接文句を言うからだ。そうなると管理者は、いちいち社長にお伺いを立てなければならなくなる。
 だから、会社が大きくなり組織ができたのなら、それぞれ管理者にすべて任せなければならない。社長は、末端従業員からの愚痴を聞くのはいいが、聞くだけにすべきで、直接答えを出してはいけない。すべて管理者と相談し、管理者より答えや指示を出すことをルール化すべきなのだ。なぜなら、社長は自分が任命した管理者を信頼してないということになるからだ。そんな簡単なことにも気づかないなら、その社長は真のバカ殿である。
 上記はほんの一例であるが、行動哲学が欠如したオーナー社長はそういう中途半端なことをよくやってしまい、組織が機能しなくなる。行動哲学や理念がないと、「すべては人の心が決める」ということの意味がわからない。人の心とはどういうものなのかがわからないのだ。自分が任命した管理者の心だけではない。従業員それぞれの「立場の心」を理解する必要があるのに、それが何だかわからないのだ。オーナー企業に限らず、組織のトップの重要な業務は、この「立場の心」の理解である。これができないのであれば、実は社長失格なのである。
 だから、有能な社長であるかどうかは、どれだけ早く「立場の心」に気づけたかだ。会社の信念・理念がないと、「会社の心」が末端まで伝わらないし、社長が行動哲学を持って日頃行動してないと、「立場の心」に気がつかない。だから、目に見えない理念や行動哲学がいかに需要であるかということだ。理念や哲学という軸の上を歩いていないと、「立場の心」を見落としてしまう。立場の心に気づけば、従業員の幸せが最も大事であるということや、組織のあるべき姿とは何かということに気づく。そうなった時、社長はアオムシから蝶への「完全変態」を遂げ、名経営者への道が開けることになる。
 これが、社長業の悟りである。

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「オーナー社長」という生き物の生態(9/11) ~「完全変態」を目指せ~ [哲学]

 では、オーナー企業とはどうあるべきか。その正しいあり方をアニキ哲学の観点から見てみよう。企業は生き物だ。特にオーナー企業はオーナーが直接指揮を執れる状態である理想の形態だ。オーナーの意思がそのまま直接会社全体に行き渡るからだ。であるならば、オーナーはふんぞり返っている場合ではない。利己的な考えや慢心が少しでもあると、会社は動いてゆかない。会社の信念・理念を明確化して、社長自身も行動哲学をきちんと持ち、それを行動で周りに見せる。社長は人間的にも正直者であり、公明正大な心を持って、周りから尊敬されなければいけない。そこで初めて会社に魂が吹き込まれる。社長は私腹を肥やしてしいる場合じゃない。我が身より、従業員のことを第一に考えるスタンスを持つべきだ。もしそれが嫌だというのなら、自分は国王のように完全に会社運営から身を引いて、誰かを社長(首相)として立てなければならない。大概、番頭さんと呼ばれるサラリーマンの親玉が首相の役目を演じる。国王であるオーナーは最終実績の報告だけを聞き、その業績に対して番頭に意見する程度でいい。表にはしゃしゃり出てこないのが筋だ。上手く回っているオーナー企業はこれができている。オーナーは出社してこないから、これならどこで何やっていてもいい。平日ゴルフ行ってもいい、愛人宅に入り浸っても、従業員の眼に届かないから、会社はうまくいく。
 ここまで、創業オーナー社長をこき下ろしてきたが、アニキが言うような会社ばかりじゃない。うまくいっているオーナー企業も当然ある。それは、なぜか?それは、ある時期に、オーナーが「完全変態」を遂げたからだ。「完全変態」とは、露出魔とかの変態のことじゃない。虫なんかで、幼虫から成虫になることだ。例えばアオムシが蝶になることが、完全変態だ。学校で習ったよな。完全変態で蝶になった時、アオムシの記憶はないという。詳しいことはわからないが、昔、本で読んだ時には、さなぎの中で脳も一旦分解されて作り直されるから、アオムシの頃の記憶もなくなるのだと言う。要するに、オーナー社長も考え方を180度変えることが必要だと言うことだ。オーナーは生き物のなかで、むしろ虫に限りなく近いのだ。
 最初、どの会社も数人からの従業員でスタートしている。どんな会社も、起業した直後からしばらくは、会社の黎明期だ。そのときは、社長のかけ声ひとつで、社長の思い通りに会社の舵を取れる。そして、会社が軌道に乗り始め、規模は段々と大きくなる。従業員も増えてくる。100人を超える従業員を抱えるようになる。すると、段々と社長の言う通りには会社が動かなくなってくる。いくら社長が檄を飛ばしたところで、末端には社長の意志が伝わらない。そんな状態で、さらに従業員は200人、300人と増えてくる。益々従業員が思うように動かなくなり得、社内にも問題が噴出してくる。で、社長は多くの社内の問題に悩むことになり、社長室へとこもる。


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「オーナー社長」という生き物の生態(8/11) ~年上者を惹きつけろ~ [哲学]

 さらに創業オーナーという珍獣には、大きな問題がある。実は彼らは、自分より年上を使うことができない。大概のオーナー企業はベンチャーからの出発が多い。成熟しきった業界より、新規の将来が期待できる業界だ。そうなると、やはり若い社長がベンチャーとして起業するわけだが、彼らは自分より年下の人間しか使えないのだ。年上の人間をいかに使うかが、オーナーの器量の見せ所なのだが、年上はくだらない若造に簡単には従わない。相当高給待遇にでもしないかぎり若造の下で働く気はしないのだ。年上は、若造社長に対して、「こいつにはかなわない」と思った時初めて従うことになる。昔の武将が参謀を引っ張ってくる時の状況を作ればいいのだが、まあ、難しいだろう。ただの若造オーナーでは、ただのハナタレじじいならついていくかもしれないが、参謀クラスの能力者を惹きつけることはできない。
 じゃ、年上者を惹きつけるにはどうしたらよいのか?それは、「信念・理念」だ。信念のない若造になんか、年上は決してついて行かない。会社の信念・理念だけでなく、社長自身の信念や哲学も重要だ。たとえ信念や哲学があったとしても、それを口で語っただけじゃダメだ。それを行動で見せることができて初めて有能な年上者は仕える。もし、信念がない社長の下で年長者が働いたとしたら、常に社長はその年長者に信念のブレを指摘されることになる。そうなると、年下の若造社長は、小うるさい年上者が煙たくってしょうがない。なぜなら、そんな正論を振りかざされたところで、会社運営において、信念や哲学が何よりも重要だということが、珍獣には理解できてない。有能な年上者は、すべての物事は信念や行動哲学に照らし合わせて遂行されなければならないことがわかっているから、そんなこともわからないひよっこ社長に、物事の本質を教えたくなる。そんなことでは、若手社員に対してもメンツ丸つぶれだ。だから、プライドが高いオーナー社長としては、口うるさい年上者には居て欲しくない存在となる。
 だからアニキは言う、「年上者を使い切れないオーナー社長は、ダメ社長だ」と。ホンモノのオーナー社長であれば、年上者をねじ伏せるだけの力量を持ち、難なく年上者を使いこなす。だから、若造オーナー社長の下で働く社員はすべて年下という状況は、対外的には好ましくない。自分がダメ社長であるということを周りに知らしめているだけだ。会社の形を成してはいても、実態は会社ごっこだ。ベンチャー企業は往々にして平均年齢の低さをアピールして、若々しい会社だというイメージを出しているが、その裏を返せば、「年上は使えない」という小者社長の存在が隠されているのだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(7/11) ~珍獣「創業オーナー」~ [哲学]

 前回言い忘れたので付け加えておきたい話がある。実は、オーナーにも2種類存在する。創業オーナーと2代目以降の引き継ぎオーナーだ。第1話で話したお坊ちゃんオーナーは、2代目以降引き継ぎオーナーに分類される。引き継ぎオーナーは、父親社長が健在でその下で修行をするから、甘やかされる環境でなければそんなに変な生き物としての性質は出てこない。変な生き物の性質が出てくるとすると、そのお坊ちゃんがオーナーを引き継いだときだろう。自分が実権を握ると、突然オーナー風を吹かすため、それについて行けなくなった先代の側近が次ぎ次ぎに辞めてゆくという事態となるから、何が起こったのかわかりやすいものだ。
 それよりも問題なのは、創業オーナーだ。創業オーナーこそが生き物として特殊な性質を持つ。わがままの極地を行くオーナーとは、まさにこの創業者だ。企業は、必ず創業者オーナーからスタートする。サラリーマンが性に合わないために、会社を飛び出した人間が会社を興すバイタリティは評価できるが、自分に意見する人間が嫌いなその性格は、いろいろと弊害を生む。まさに、オーナー社長の中の「珍獣」といえる。
 創業オーナーは親分肌で、番頭なんかに任せずに自分で会社を引っ張っていきたいはずだが、問題も多い。なんかの本で読んだのだろうが、時代の流れに敏感に反応しなければならないというポリシーを持っている人が多く、朝令暮改を正当化している。柔軟な対応が必要であることと、朝令暮改は意味が違う。方法論での朝令暮改はいいのだが、信念すらも変えてしまうから、従業員がついてこない。信念がブレることも朝令暮改と思っている。そのことを指摘する番頭クラスの意見は、「口答え」とか「評論」だと言って耳を貸そうとしない。
 例えば、高尾山を登山すると決めたのに、突然富士山へ変更するようなものだ。朝令暮改により、高尾山の登山ルートを変更するのはありだ。しかし、山を変えるのは朝令暮改では済まされない。なぜなら、富士山の標高と高尾山の標高では、その装備や準備が全く違うからだ。富士山なら登山する季節も選ばなくてはならないし、それなりに訓練も要る。簡単に変えていいものではない。これが、にわか経営者であるオーナーが陥るミスである。山を変えるのは、理念や信念を変えることに等しい。
理念や信念は、会社で言えば判断基準だ。絶対変えてはいけないし、ブレてもいけない。企業や社長の理念・信念により、従業員はそこで働いているわけで、それが変われば成り立たない。朝令暮改によるルート変更ですら、信念や理念に照らし合わせて問題ないかどうか見極めた上で決定するのが当たり前である。
 こんなことを平気でやるオーナー社長は、別の生き物であるだけでなく、まさに「珍獣」なのだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(6/11) ~小心な王様~ [哲学]

 オーナー社長とは、相当厄介な生き物だということがわかっただろう。人間の姿をしているが、中身は人間ではない。というと語弊があるかもしれないから言い換えると、サラリーマンを普通の人とするならば、オーナーは相当変人であるということだ。
 だから、オーナー企業での正しい対応は、従業員は給料をいただいて感謝しているという素振りを見せなければならない。会社の備品についても同じだ。使わせていただいているというぐらいの気持ちを見せないと、オーナーは納得しない。悔しいかもしれないが、オーナー企業に勤めてしまったものの定めである。そして、給料の話題は一切御法度である。じゃないと、オーナーに嫌われて終わりだ。
 オーナー企業では、オーナーに嫌われたら未来はない。給料の話なんか出したら、オーナー社長はそれをずっと根に持つっている。だから、将来減らされたりして、大変な思いをする。では、給料の話をして嫌われてしまったらどうするか?冷たいことを言うようだが、そうなったら、会社を辞めるというのが、賢い対処方法だ。オーナーに嫌われたら辞めるというのが、オーナー企業での鉄則である。一旦嫌われたなら、それを挽回するのは並大抵の努力じゃ足りない。アニキはそんな人を何人も見てきたが、ほとんどが挽回できずに会社を去っていった。その時間が無駄である。ただのくたびれ損なのだ。挽回しようとうエネルギーがあるなら、新天地でがんばれと言いたい。
 じゃあ、どうすればいいのか?簡単だ、オーナーを国王だと思って接すればいい。そう、オーナーとは王様だ。リスペクトしなければならない。尊敬できないオーナーも数多く存在するが、嫌われたら終わりだ。尊敬の念を抱いてオーナーに接するのだ。過去ブログ「サラリーマンの謎『評価』」のところでも話したが、評価は好き嫌いだ。で、オーナー企業での評価は、オーナーが決めるから、嫌われたらいいことなしだ。気をつけなければならないのは、表面的には決して出さないが、本心はオーナーが嫌いだという人だ。自分が嫌っていれば、それは必ず見透かされてると言っておこう。オーナーは自分のことがどう思われているのか、ものすごく気になる小心な生き物だ。普通の人よりも、行動や言葉尻などから敏感に反応する。オーナーは自分が周りからどう思われているか、とても気になる。だから、オーナーが嫌いであるなら、それを隠すのではなく、好きになる努力をしなければならない。それができないなら、評価は下がるし、給料は永遠に上げてくれないから、つまらない人生となってしまうぞ。
 大企業と大きく違うのがこの部分だ。大企業では、3年ぐらい我慢すれば、合わない上司はいなくなるが、オーナー企業ではそうはいかない。自分がいなくなるしかないということだ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(5/11) ~オーナーの財布~ [哲学]

 給料の真実を話そう。給料をもらえて当然だと思っているのは、大企業で働くサラリーマンの感覚だ。労働の対価として当然の権利だと主張できると思っているのは、大企業サラリーマン、若しくは大企業から別大手企業に転職したサラリーマンだ。大企業勤めのサラリーマンや転職先が大手企業のサラリーマンはそれだけでラッキーだ。その感覚で、そのままゆけばよい。だが、大企業からオーナー企業の転職したサラリーマンは、そうはいかない。給料や待遇について一切文句は言えない境遇となる。なぜ言えないのか?って、それは「オーナーが給料の話題が嫌い」だからだ。給料については、過去ブログ「サラリーマンの謎『給料』」で詳しく話しているから、ぜひ読んでみてくれ。
 だから、元々最初から中小のオーナー企業で働いている従業員は、給料について文句は言わない。というよりは、言えない。ここにオーナー企業の謎がある。一般的な正論は、アメリカの影響を受けた日本は労働法も欧米型だから、労働者の権利として給料は当然だと教育を受けている。しかし、前述の通りオーナー企業での現実は違う。給料のことでオーナーに意見するだけで嫌われてしまう。それは根が深い。
 大企業では、社長以下全員がサラリーマンだから、給料の話題はまかり通るのだが、オーナー企業では、サラリーマンがサラリーマン社長に意見するのとは訳が違う。サラリーマン社長は所詮雇われだ。従業員の気持ちが多少理解できるから、受け止めてはくれる。話を聞いてくれる土俵はあるということだ。しかし、オーナー社長はそんな土俵は持ち合わせていない。オーナーはサラリーマンじゃないから、全く話にならない。
 前回の内容の通り、給料とはオーナーのポケットの金、若しくはオーナーの財布の金だ。それに手を伸ばして「俺にもっとよこせ」と言っているのと同じだ。オーナーから見たら、「人の金をよこせとは何という奴だ!」と、盗人か恐喝にしか聞こえないのだ。そこには、完全に遺恨が残る。従業員はただ、「オーナーばかり贅沢しているなら、俺たちにも少し分けてくれてもいいじゃないか」というだけの事だが、このことでオーナーの心を逆撫でしてしまう。そしてオーナーは、「俺の財布の金なんだから、俺が自由に使って何が悪い」と、こう来る。全くもって話が噛み合わない。
 世の中見渡せばわかるだろ、社会保険未加入会社の多いことや、退職金を減らすために基本給を低くして職能給を上げたり、定期健康診断は一番安いプランしか受けさせなかったりということが起きる原因のすべては、「会社のあらゆるお金は自分の財布の金」という根底があるからだ。極力、従業員のために遣われたくない。これが本音だ。
 だから給料も、「オーナーの財布の金の一部である」という認識がどうしても必要となる。

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「オーナー社長」という生き物の生態(4/11) ~オーナーの本音~ [哲学]

 そして最後のタイプは、突然オーナーになってしまったという人だ。事情はいろいろある。跡継ぎがいない先代オーナーが引退して、番頭さんの自分が会社を買い取ったとか、あるいは出向先の会社の社長から出資を頼まれたとかだ。事情付きオーナーとか、棚ぼたオーナーなどと呼ばれる。このタイプのオーナーはとても堅実だ。元は筋金入りのサラリーマンだ。わがままオーナーの下で、長くナンバー2をやってきた苦労人が多い。この人のやる事には必ず、「誰かに頼まれて」という枕詞が付く。それくらい人間的に信頼されているから、信念や理念にブレはない。部下も、「この人には心底ついてゆく」という心意気を持つ。とにかく任された会社を存続させることに注力するから、浮ついたことは一切しない。ケチでしぶちんだが、自分にも厳しいから、誰も文句は言えない。実直な会社運営を心がけ、信者も多いから、この人がいる限り問題は起こらない。どんな不況が来ようが、じり貧でも何とか会社を残す。それぐらい手堅い。手堅すぎてチャンスがあってもそれに食いつかない。そんな危険な賭をするより足下が大切なのだ。頼まれたなら嫌とは言えない義理人情で、地味なオーナーを演じることになる。このタイプの問題は、自分の次の代だ。足下ばかり見ているために、先が見えなくなっている。もし、自分の息子にでも継がせようものなら、上記の二代目お坊ちゃんの例のようになる。しかも、そんな坊ちゃんを飼っておける余裕もないから、即刻会社は泥船化して、沈んでいくことになる。
 オーナーの成り立ちから大別すると大体前述の3タイプになるのだが、その人間性も様々だ。大金を持つという悪魔のささやきにより、「人間の本性」が出る。さて、オーナーという変な生き物はこのようにして生まれるのだが、この生き物に共通する性質がある。その共通する醜い性質を見てみよう。
 まず、この生き物を特徴づける最大性質がある。それは、会社のお金は自分のもの、会社の備品も全て自分のものだという概念だ。元が貧乏であったなら、なおさらその性質は顕著に表れる。売り物である商品だけでなく、事務所の土地・建物から会社の備品や光熱費まで、あらゆるものが自分のポケットの金だ。ましてや、接待費や交通費などの経費なんかは、自分の財布から抜き取られているような感覚すら持っている。当然、従業員の給料も同じだ。自分の財布から出て行く金だから、できるだけ少ない方がよい。
 会社でかかる金をできるだけ減らしたいとオーナーはいつも思っている。だから、それをムダに使う奴と給料や待遇に文句を言う奴を許せないのだ。
 もっと言うと、オーナーである自分以外が使う金は極力認めたくない。これがオーナーの本音だ。

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「オーナー社長」という生き物の生態(3/11) ~お坊ちゃん~  [哲学]

 次のタイプは二代目のお坊ちゃんだ。社会人になっていきなり親の会社に入る人はいない。大概、どこかの大企業で修行する。親の会社では「お坊ちゃん、お坊ちゃん」と周りが気を遣うから、本人が社長を引き継いだ時には、裸の王様やバカ殿になってしまう。そこで、初めは別社会で下積みを経験しに行くわけだ。社会人としてのイロハもそうだが、酒の席のマナーや礼儀なども勉強してこいということになる。しかし、お預かりの大企業としては、大事な取引先の御曹司だ。何かあったら大変だ。そして、5年ほどでお帰りになるということだから、大事に扱う。そうなると、大した仕事はさせないのが本音だろう。やっぱり周りも気を遣うしな、当たり前と言えば当たり前だ。配属先の上司も、お預かりのお坊ちゃんの教育係には気を配る。間違っても、体育会系の指導員は付けない。それに、厳しい教育を禁止させたり、怒っちゃいけないとか、とにかく小うるさいのだ。「先輩の酒が呑めないのか!」的なノリは特に御法度だ。お預かりの箱入りお坊ちゃまが社長の関係者だったりしたらもっと大変だ。へたなことをして、お預かり先の会社の耳に入りでもすれば、自分の人事考課にも響く。だから、通り一遍のことしかやらせない。上司はハラハラドキドキだ。
 特に、企業理念や会社文化たるものを骨身に染みつかせるという指導はしない。なぜなら、それはやってもムダだからだ。しばらくするといなくなる奴に、真剣にスパルタで教える上司や先輩はいない。徹底的に教えたり鍛えたりする仕事は、本当に骨が折れる作業なのだ。生半可な根性では教える方も学ぶ方も立ちゆかない。人一人を一人前に育て上げる難しさは並大抵のものではない。お預かりのハナタレ小僧はそのままお帰りいただくのが世の常だ。だから、本気で教えることはしない。結局のところ、本当の下積みを経験しないままお帰りいただくとなる。で、親の会社に帰りしばらくすると、いきなり常務とか専務となってしまう。「会社は人」という理念がわからないまま戻ったハナタレ小僧は、従業員の価値なんかわからない。だから、やはりバカ殿になる確立は高い。そういう人ばかりじゃないが、まあ、そういう人が「多い」という話だ。人の価値の重要性は、やっぱり自分で経験してものにしてゆくしかないのだ。
 従業員がいかに大事かという概念は、人に教えてもらうんじゃなく、自分が壁にぶつかって初めてわかることになる。従業員が財産だということに気づかないバカ社長じゃ、その会社の将来の発展などありえない。そんな初歩的なことは、歴史上の名経営者は皆気づいていることだ。気づかなきゃ会社を潰すか小さくしてしまう。だから、二代目はそういう機知に富んだ頭の良さが必要だということになる。

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「オーナー社長」という生き物の生態(2/11) ~はみ出し者~ [哲学]

 オーナー社長と雇われ社長との違いを話そう。だれでも知っていると思うが、アニキ哲学における違いもあるから聞いてくれ。雇われ社長とは、いわゆるサラリーマン社長のことだ。オーナーから社長を任命されて、会社を指揮することが使命だ。王様と首相のようなもんだ。国は王様のものだが、王様には政治がよくわからないから、有能な政治家に任せる。それの会社版だ。大手企業のほとんどはこのタイプで、サラリーマン社長として会社から給料をもらっている。
 そして、オーナー社長はオーナーだ。会社の持ち主で、自分で金払ったり、銀行から借りたりして会社を興した者だ。そのほとんどがはみ出し者だ。はみ出し者が会社の頂点に立っているのだから、当然人間も出来てない。だから、大概威張った奴が多い。それがオーナーだ。オーナーというだけでスゴそうだと、呑まれてはいけない。
 まずオーナーにはいろんなパターンがあるのだが、サラリーマンができないから独立した者がほとんどだ。会社を飛び出すようなこのタイプは、仕事はできるのだが、バカな上司にはついて行けないというタイプだ。頭の回転が速く、機転も利く。型破りな発想とバイタリティが旺盛で、上司の能力を上回る。まるで暴れ馬のようだから、生半可な上司では手綱さばきに苦戦させられる。ここで上司を立てられるような人は、そのままサラリーマンで出世してゆく。立てられない人は、能力のない上司をバカにし、そんなバカ上司を飼っている会社をバカにする。挙げ句の果てに、そこで働く自分をバカにするようになり、最終的には会社を飛び出すという形だ。頭が切れるだけに、相手の能力がわかってしまう。だから、上司や会社にアイデアを潰されるより、自分でやった方がましだという考えになる。商売に対する信念もあり、筋も通っているのだが、元々、クラッシャー上司タイプのため、独立してオーナーになっても人使いが荒く、なかなか従業員が定着しない。独善的で自分がすべて正しいと思っていることと、自分が一番優秀だと思っている。だから、自分で会社を興したあとも、何でも自分一人で決める。基本的に人の意見を聞かない性格で、人に意見されるとカチンとくるからだ。自分を神だとでも言いたげな雰囲気を醸しだし、すり寄って崇めてくれる部下が大好きなのだ。
 しかも、独立事業がうまく軌道に乗ってお金が自由になってくると、成金的な遊び方をするようになる。本当に金持ちはそんなことをしないのだが、派手な衣服を身に纏い、高級車を乗り回し、高級志向を目指す。その姿は、成金そのものだ。で、必ず女を囲うのだ。わからないでもないが、例外なく成金は女を囲うよな。
 お金を持ったらやってみたいと思っていたのだろうが、それで自滅する人も多い。ホント、男はダメな生き物だと思う。


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「オーナー社長」という生き物の生態(1/11) ~オーナーとは?~ [哲学]

 「オーナー社長」、この言葉は日常よく耳にするはずだ。聞こえはものすごくいい。成功者という匂いがプンプンする。社長はやり手で金持ちだという雰囲気も伝わる。年齢が若ければなおかっこいい。頭も切れるというイメージのオマケ付きだ。だれもが憧れる存在だ。な、マスコミにはかっこうの餌食だ。創業者である本人もまんざらじゃない。いっぱしの成功した経営者だ。成金だろうが何だろうがそんなことはこの時代には関係ない。成功者として名を売ることができる。しかし、それはあくまでも表向きの話である。世の中すべて、表舞台と舞台裏が存在する。オーナー社長がかっこよく見えるのはあくまで表舞台から見た場合の話であり、裏舞台では悲惨なケースが多い。従業員がいる側が舞台裏で、お客や外部が表舞台だ。それは、オーナー社長も創業段階ではただの未熟者であり、この時はまだ人間という生き物の領域にかろうじて残っている。それが、時が経つにつれ、人間から別の生き物へと変貌を遂げることになる。姿形は変わらないのだが、中身は完全に変わってしまう。自分がサラリーマンだったときのことを忘れ、傍若無人に振る舞う様を、アニキ哲学では満身創痍にあやかって、「慢心相異」と呼ぶ。
 このオーナー社長とは、ルールでガチガチに縛られたサラリーマン社会において、唯一何でも許される存在だ。自分に会社においては、万能の神であるが、こいつは人間であって人間じゃない。人と同じ形をしているが、別の生き物である。頭の中身の構造が全く違うのだ。アニキの人類分類において、オーナー社長は一般の人間と区別する。特にこの日本においては、この違いは大きい。
 人間は本来、脳と心を自由に使うことを許された生き物だ。しかし、それを野放ししておくと、一人一人が身勝手な行動を取ってしまう。そんな身勝手連中ばかりでは社会の統制が取れないと考え、羊の群れを作ることを始めた。それが効を成して、現在の日本が存在するのだが、どんな組織においてもこれは都合がよかった。
 過去ブログ「サラリーマンの謎『評価』」の中でも少し触れたが、オーナーほど勝手な人間はいない。世の中、会社の創業者のほとんどはオーナーだ。それだけでかっこよく聞こえてしまうのだが、実はサラリーマンに適合できないために、自分で会社を飛び出して会社を興した連中がほとんどだ。やりたいことがあり、会社に居てはできないからとか、夢があるからとか耳障りのいいことを言ってはいるが、その正体はただのはみ出し者だ。しかし、侮ってはいけない。ただのはみ出し者じゃ、会社は興せない。はみ出し方がハンパじゃないのだ。つまり、はみ出すエネルギーの大きさが、常人のそれを超えている。その異常さのエネルギーが尋常でなく、身勝手さもサラリーマンの域をはるかに超えてしまう。ゆえに、サラリーマンという羊の群れに全くなじまない。
 与えられた牧草だけでは満足しない連中なのだ。

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女は武装する「番外編」(2/2) ~機転の利く脳~ [哲学]

 女は、未知の物事や敵の力がわからずに突っ込んで行った場合、強靱な肉体を持たないためにイチコロでやられる可能性が高い。命の危険を感じたとしても、機転の利く脳も日頃から訓練していないため、うまくそこから逃げることも困難だ。だから女は、未知の物事や敵の力が分からなかった場合、絶対にそこへは行かない。そこへ行きたいという好奇心でさえ持ち合わせていない。どうしてもそこへ行かなければならないとしたら、できる限りの情報を入手した上で、武装してゆくことになる。
 ここで勘違いしてもらいたくないのは、女の脳が男より「機転が利かない」と言っているわけではない。女の脳も元は男と同じだ。女の脳も機転が利く要素はある。ただそれが、成長の過程で発達してないだけだ。機転の利く脳とは、先天的なものではない。肉体は先天的なものだが、脳をどう発達させるかどうかは、後天的な要素だ。発達する方向が違うだけだ。これは男女の性格に起因する。幼児の頃を思い出してほしい。男の子は好奇心が旺盛だから、興味があればすぐにそれに向かって突進してゆく。親がどこにいようがお構いなしだ。女の子は、興味があったものでも親の目の届く範囲にしか行かない、という習性がある。まあ、これは一般論だから、個体差のよりぴったり当てはまる話ではないが、こういう傾向がある。生まれた時点から、発達の方向は違うのだ。
 だから、機転の利く脳を作りたいと思ったら、危機的状況を数多く経験すればいいだけのことだ。よい知恵はそういった切羽詰まった状況の積み重ねから生み出される。アニキ過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したはずだ。女は男より、そういった場面に出くわしていないだけのことで、脳の優劣の問題ではない。現代でも、海外の大企業の幹部など、男と競り合ってきた経験の女は世界中にいる。彼女達は皆、機転の利く脳を持っている。日本以外の国は、「女は優秀」という思いが強い。だから、全く卑下する必要はないし、機転の利く脳がほしいのであれば、好奇心を旺盛に行動し、積極的に鍛えてゆけばいいだけの話だ。まあ、リスクも大きいというハードルはある。
 これはしょうがない。人間の創造主がそういう風に人間を作ったからだ。好奇心旺盛な性格は、強靱な肉体があって初めて機能する。例えば、ライオンという動物を知らなかったとしても、男はまずそれに挑んでいく。挑んでいかなければ、ライオンがどんな生き物でどんな性質のものかがわからないからだ。最初の何人かはライオンに食われるかもしれないが、頑丈なカラダのお陰で逃げ帰ってくる男が必ずいる。そいつが他の男達と対策を練ることでできる。この、危機に直面して逃げ帰るという機能こそが、機転の利く脳を育てる。元々、家族を守るボディガードとして女の派生種として誕生した男と、それに守られて生活してきた上位種の女とでは、当然に脳の発達方向が異なるのは当たり前である。女の脳の方が優れている部分の方が断然多いのだが、それは「女は武装する(本編)」で説明しているから割愛させてもらう。
 アニキは何が言いたいのかと言うと、この現代では、女も社会という外界へ狩りに出なければならない時代になったということだ。ただ、現段階では日本は男社会であるために、男の脳の方が有利だよと言うだけのこと。そんな男と女の原始機能の性質さえ理解しておけば、機転の利く脳を作ればいいだけだ。
 なら、どうするのか?そうだ、女は武装すればよい。

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女は武装する「番外編」(1/2) ~動物チックな男~ [哲学]

 「女は武装する」本編でも触れたが、男と女の歴然とした考え方の違いについて補足しておきたい。本来、男と女にはそれぞれの役割があって、人類の歴史の中でそれぞれの性格が作られてきた。しかし、何の危険もない現代では男女の性質の差は必要なくなってきていることに問題がある。
 男の性質のひとつに注目したい。男は常に丸腰で物事に望む者が多い。行き当たりばったりで何でも挑戦してみる。そこでボコボコにされて初めて、「これじゃダメだ」と気づき、前向きな意識が芽生えはじめる。まあ、人間の派生種だからしかたないのだが、そんな行き当たりばったりの性質がある。一方女は、絶対にそんなことはしない。慎重に物事を進める性質がある。元々男に守られていた立場だから、未知のことに丸腰で挑戦するという好奇心など持ち合わせていない。これらは、「女は武装する」本編(1/14~14/14)に詳しく書いてあるから、ぜひ読んでもらいたい。この番外編では、その性質の違いにスポットを当てたい。
 例えば、素人参加OKの長距離マラソンなんか、男はノリで参加するが、女はノリでは絶対参加しない。未経験者を無理矢理誘ったところで、参加をOKするのは男だけだ。男は未知のことに対して、簡単に「やってみようかな」と思う。反対に女は、未経験であれば絶対に出場しない。仮に、無理矢理誘って何とか参加する女がいたとしよう。それは、過去になにがしかの経験があり、全く未知の物事ではなく、少し理解もあり自信もあるからだ。そして、恥をかかないように直前まで練習もするはずだ。しかし男は、自信がなくても練習する奴の方が少ない。何とかなると思っているから、行き当たりばったりでいいのだ。女は芸能人ではない限り、決してノリだけで参加することはない。このことは、別にマラソンに限ったことではない。新しい物事へ挑戦する場合における男と女の考え方の違いであり、大概当てはまる。
 これはどういうことかというと、男はまず行動して物事を判断するのだが、女はそれができない。男はまず物事や敵にぶつかっていって、それでコテンパンにやられたら、次に考えて対策を練る生き物だ。この当たりはサルやなんかと同じだ。有史以前から持つ狩人としての本能であろう。これは、強靱な肉体と好戦的な性格と機転の利く脳があってできる技だ。相手がどれほどの力があるのかわらずに挑戦してボコボコにされたとしても、強靱な肉体で防御できる。そして、危機的状況に陥ったとしても、機転の利く脳があるため、すばやく逃げる道を考える。そして、自分の体験により物事や敵の強大さを思い知るが、そのために具体的な対応策も充分に練ることが可能だ。要は、やってみなければわからないという発想が根底にある。しかもそこには、好奇心と強靱な肉体とはセットで備わっている必要があるのだ。そこはさすがに人間の創造主だ。男を木の枝から作った割には、うまくできていると言える。
 さらに、男は素直さに欠けている。人の話を鵜呑みにしない。命からがら逃げ帰ってきた男を見ても、それを聞いた他の男は「俺なら倒せた」と思ってしまうところがある。要は、自分ならぶざまな負け方はしないというのだ。ここでも好戦的な性格を反映している。変な自信があるために、素直さという大切な性格が欠如している。さらに、天の邪鬼という性格も持ち合わせている。これらはプラスに働けばいいのだが、なかなか厄介だ。
 アメリカ映画などで、人の言うことを聞かない自分勝手なヒーローに人気があるのは、この現在社会では粗野でいたいがそれができない日常のストレスに対して、画面で自分勝っ手に振る舞う姿に心地よさを感じ、それに憧れるためだ。「いいね、あの態度」ってもんだろ。
 男とは、全く野蛮きわまりない性質を持つ動物チックな種なのだ。

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