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人生の準備期間「学校」(13/17) ~「高校」で人生のコツを学べ~  [哲学]

 だから、本当は高校でしっかりと心に磨きをかけねばならないのだが、日本の教育はそうではない。高校ではものすごく高度で専門的な課目を教わる。入学してまもなくは簡単だが、すぐに難しくなる。適当にやっていると授業について行けない。授業が二次曲線的に難しくなるからだ。挫折する奴が続出だ。「みんなが行くから俺も」的に高校へ行くのが普通だが、高校での履修内容がとてつもなく難しいために、授業は全然面白くない。授業について行けなくなるから、勉強を半分捨てた状態になる。楽しいことにしか興味が湧かない年齢だから、勉強がつまらなくなるとやらなくなる。ここにも負のスパイラルがある。先生は、履修カリキュラムにのっとって授業を進めてゆかねばならないから、落馬した奴は置いてゆく。教職者の魂はどこへやら、淡々と授業を進めてゆく。高校教師は学科の専門家で教職者ではない。だから、向学心のない学生は相手にしないのだ。

 そんな状況じゃ、学生も心に磨きをかけているヒマはない。学校側も、「そんなことは自分で学んで成長しろ」という感じだ。けれども、自分で磨けるほど心は簡単なもんじゃない。高校生という年代は多感期だ。気分の上下も激しい。考え方もころころ変わる。本来は、この時期にしっかりと心を鍛えて、自分の軸を持たねばならないのだが、なかなか自分をコントロールするのは難しい。それは、人には脳という厄介な代物が付いているからだ。「脳は別人だ」とアニキ過去ブログ「脳の謎」で話したよな。しかも、カラダと共に脳も勝手に成長している。心の言うことを聞かないじゃじゃ馬に成長しているのだ。脳は怠け者だ。心が成長すると脳の仕事が増えるから、怠けることができなくなる。だから、脳が心の成長を止めてしまうのだ。

 そうなるとどうなるのか?結局、心が育ってないと、プレッシャーに押しつぶされそうになり、楽ちんなおもちゃへと逃げる。脳は、心がおもちゃに逃げてもらった方が都合がいい。脳はその方が楽だからだ。それでまた、人生回り道となる。

 そんな高校の実態だが、社会で役に立つかどうかわからない難しい課目を学ぶ意味はあるのか?クイズ王にでもなるのなら話はわかるのだが。その意味は自分で考えなければならない。学ぶ学科そのものが役に立つわけはなく、その難しい学科をいかにクリアしてゆくのかが大事と考えるのだ。それで心が成長する。当たり前といえば当たり前なのだが、そう考えるのと考えないのとではストレスが違う。要するに、高校での勉強はプレッシャーであり、二次曲線的に内容が難しくなる教科によりプレッシャーも大きくなる。それをいかにクリアしてゆくかが高校の意味である。アニキの過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したよな。嫌なことは自分への試練だと思って、「おっ、また来たな」と歓迎するべきだ。そして、「今度はどうやってやっつけてやろうか」と考えるのだ。これが、前向きに考えるということだ。本当のことを言うと、自分に必要なことが起こっているだけだ。未熟者だから、後ろ向きに考える思考態度だから、何度でも試練がやってくる。前向きに捉えた瞬間に、次からの試練は易しくなるようになってるのが人生だ。

 人生のコツとは、たったそれだけだ。

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