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人生の準備期間「学校」(7/17) ~昔の日本の「運」教育~ [哲学]

 中学校を卒業したら、大海へこぎ出す奴がいるというのに、何の武器も持たせないで行かせることは、見殺しにするのと同じだ。前途を期した旅立ちではなく、やっていることはまるで流刑だ。武器も持たずにリアル人生ゲームで勝てるわけがない。だから、武器を持たせて旅立たせるのが学校の役目なのだが、小手先の技能ばかりに注目するものだから、肝心の心が疎かになる。心の成長に教育の焦点を当てないでどうするのだ。親は、自分の子どもの心が全く成長していないことがわかるから、進学しろというのだ。親は、もう一つ上の高校へ行かせて、心の成長を願う。創造主もまた魂がカワイイから、心が育ってないなら、自然と進学の道を選ばせることになる。
 そう、だから人生最大の武器である運を手に入れて社会へ出ることが理想だ。だが、運とはアウトプットだ。直接鍛えることはできない。運というアウトプットを出すためには、インプットである心を鍛える必要があるのだ。これができてないまま社会に出て行くものだから、大人になっても運のない奴がどれほど多いことか。それで、世の中が荒むことになる。
 結局、小中学校では競争ばかりに目がゆく。この教育を変えるためにまず必要なことは、先生の質だろう。子どもに心を教える先生の心がどうなのか?という問題だ。教える人間がわかってなければ、それを教えることはできない。今の先生は、社会で最も大事な技能は「運」で、それは「心」を育てなければ手に入らないということを知らない。それは、本人もそういう教育を受けてきていないからだ。だから、別に先生に責任はない。今、エラい誰かがこの教育の流れの過ちに気づき、これからどうするかということが重要だ。日本を運の悪い奴らの巣窟にする前に、気づかなきゃダメだ。正直、これは陰謀かもしれないとも感じる。
 その答えは日本の過去を見ればよい。まだ日本が西洋の影響を受けていない頃だ。その当時は日本独自の文化で教育を行ってきた。その元は仏教だ。そう、仏教こそが日本の教育の源泉だ。アニキは特に仏教を奨励しているわけではないが、仏教など宗教がベースにあると、必ず心の教えから始まる。宗教の教育は、それを受け取る人間の器を整えるところから始まるからだ。仏教がベースにあるなら、そこには、科学的に証明されている事実を踏まえる必要性はなかった。なぜなら、仏教はお釈迦様の教えであり、それが科学的に証明されているかどうかなどは愚問だ。「そういうものだ」ということで、疑問を持つなど誰も考えなかった。仏教の教えが胡散臭いと思う人は、野良仕事に精を出し、勉強などしなくても生活できたから、近づかなければよかった。そして庶民は学校で物事を学んでいった。学校って昔からあったの?と思うかもしれないが、学校は昔からあった。
 昔は寺で勉強を教えていたのだ。奈良時代から面々と作られてきたお寺の目的、それは学校だ。寺とは元々学校だ。寺は死んだ人にお経をあげてもらうだけの場所ではない。庶民やその子どもに勉強を教える場所だ。当然、先生は坊さんだ。坊さんは、仏教やお経を勉強してきているが、そのことを教えるわけじゃない。お釈迦様からの教えを、世の中でどういう風に使うのかということを教える。そして、それをすることにより「運がよくなる」ということを教えていたのだ。

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