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「折れる」と「妥協」(3/4) ~共通概念「許す」~ [哲学]

 日本には、ドンマイというすばらしい言葉がある。このドンマイというすばらしい言葉があれば、常に積極的に物事を進めることに及び腰にならずに済む。「折れる」の場合にも使える。ドンマイ精神があれば、自分から折れて歩み寄ることは苦ではない。物事の真の目的を考えれば、自分から步み寄るしか目的達成はできない。例えば、細い路地で正面から人が歩いてきた場合、自分からよけてあげればそれでよいではないか。たとえ相手が、「俺の勝ちだ」と思おうが、目的達成には関係ない。目的は、早く向こう側へ到着することで、対面してきた人は適当にやり過ごすべきだからだ。出会い頭の邪魔者とは、勝ち負けを争う相手ではない。それでも相手に勝ち誇られるのが気になるような「折れる初心者」ならば、こう考えてやり過ごすことを進める。
 自分は、「あいつに道を譲ってやった」心の広い人間なんだと考えればよい。譲ることができる分、心が広い「あなたの勝ち」である。勝ち負けが重要な初心者には、この考えではじめてみることを薦める。がしかし、そのうちそんなことはいらなくなってくる。折れることで、自分の周りがうまく回っていくようになり、そのことに気づくからである。人生がプラスに動いてゆく。人間の心は大船のようなもの。最初はなかなか動かないが、動き始めたら止まらない。プラスに動き始めたらなら、だれにも止めることはできないのだ。
 まさに折れるとは、妥協とは反対の思いっきりプラス概念なのだ。じゃあ、妥協は本当にマイナスの後ろ向きな概念でしかないのか?妥協は悪いだけなのか?いや、妥協にもよいところはある。アニキの二面性論では、ひとつの概念ですら二つの面を持つという。つまり、妥協のよい部分についてだ。それは、「折れる」にもある概念ある。
 「折れると妥協」には、共通の概念がある。それは、許すということだ。どちらにも共通する許す概念であり、相手の我を許してやるという意味においては同じだ。折れるという考えで積極的に步み寄ることと、妥協で相手に押し切られることの共通性。それは、共に「相手を許す」という意味が含まれている。許すとは、相手の我を通してやることだ。自分が步み寄る時、相手側からも步み寄ってくれれば大いに結構だ。が、大概の人はこちらから歩み寄ることにより、歩み寄ってくれるものだ。それが人間関係社会なのだが、どこにでも変人はいる。だから、ここで注意することは、相手からの歩み寄りを「期待してはいけない」ということだ。「見返りは期待するな!」もアニキ哲学の基本理念でもある。なぜなら、見返りを期待するとは、それが実現しなかった時、大きなストレスとして自分に跳ね返ってくるからだ。

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