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「折れる」と「妥協」(2/4) ~折れるとは~ [哲学]

 人は別に、好きで妥協しているわけではない。人生経験の中で、損得を計算して妥協しているのだ。この場合、目の前の直接的な損得だけでなく、長い目で見た時の損得を特に重要視する。当然、妥協してはいけない場面では、徹底的に戦う。ここで戦えない人は自分が嫌いになってくる。自分が嫌いになると、段々やる気がなくなる。やる気がなくなると、することなすことすべてが後手後手に回ってしまい、さらに自分が嫌になる。負の連鎖が始まるのだ。そう、妥協とはすべて後ろ向きの結果になる決定を下すことを意味する。
また妥協にも積極的な概念は多少ある。例えば、膠着した物事を進めてゆくために仕方なく選ぶという時もある。サラリーマンは時間との闘いだ。スピードが重視される現代において、膠着状態はなるべく避けて通らないといけない。この場合、多少の不満はあるものの、妥協という結論を選んでしまうこともある。結果が望んだ通りであればよしとするところであるが、相手が勝ち誇ったような態度を示すと、途端に後悔の念にかられてしまい、心にシコリが残ることになる。これでは、精神的にはマイナスであり、妥協を選んでしまった自分が情けなくなる。ここでも、やはり妥協は後ろ向き決断としての色が濃い。
では、その反対概念である「折れる」とはどういうことなのか。ここで言う「折れる」とは、「骨が折れる」とかの話ではない。「自分から折れる」という意味での折れるだ。他にぴったりくる言葉がないので、アニキはよくこの言葉を使うのだが、ここで言いたいのは、「自分から」という修飾語だ。つまり、積極的に働きかける行動だ。よく考えた末に、ここでは「自分から折れる」ことが重要だという決定を積極的に下すのだ。つまり、相手を思いやる心があってはじめて、「折れる」ことができる。妥協するわけではない。「妥協」は折り合いという渦の中心に飲み込まれてしまうような形だが、「折れる」というと自分から渦の中心へ向かっていくという感じだ。
 よく、「妥協と折れるは、何が違うというのだ?」という反論を受ける。どっちも結果としては、「同じところに行き着くことになるから同じではないか」、ということらしい。確かに結果は同じだ。しかし、世の中にはそんなことはいくらでもある。特に、アニキ哲学の読者はよくわかってるはずだ。結果とは、あくまで考え方で決まる。よい結果か悪い結果かは、すべて考え方で決まるのだ。見た目の結果は同じであっても、それは180°違う。
例えば、自動車を運転している時の高速道路での合流を考えてみればいい。予め「どうぞ」といわんばかりに隙間を空けて入れてあげるわけだが、入ってきた車がウインカーで合図しない場合、腹が立つのが「妥協」であり、腹が立たないのが「折れる」だ。「妥協」は、本当は入れてやりたくないが仕方ないから入れてやる。なのに、ウインカーでお礼を言わない態度に腹が立つ。しかし、「折れる」は、予め入れてやると決めているから、お礼を言おうが言うまいがそれは関係ない。俺が入れてやると決めたのだかから、別にお礼など気にしてない。だから腹も立たないのが「折れる」である。まあ、そんな感じだ。
 つまり、見た目の結果はたとえ同じでも、自分から「折れる」ことにより、自分の積極的な意思であり、それは自分の思い通りの結果だと考える。それが最終的に違った方向へ行ったとしても、自分が積極的に働きかけた結果であるから、ドンマイなのだ。積極的な行動が失敗しても、ドンマイと考えればよい。この世には、実にいい言葉がある。
人生は攻めないと意味がない。古の聖人はいいことを言っている。女は大地で男はカラスなのだと。そう、カラスは動かないでじっとしていても何も得られない。攻めて初めて人生といえるからだ。


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