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「折れる」と「妥協」(1/4) ~その違いと言葉の定義~ [哲学]

 世の中は住みづらい。我を通せば必ず誰かとぶつかる。これが人間の世界である。人間関係が修行だとアニキは言う。関わる相手をとうまく進んでゆくか、うまくかわすか、その都度その都度で結論を迫られる。相手が動物なら、頭ごなしに命令したり、言うことをきかせたりすればよい。ペットの大半は、人間の無理強いだ。人間はそうはいかない。必ず相手との間には調整が要る。お互いの着地点を見いだす。お互いが「折れる」ことが不可欠なのだ。
 しかし、これは妥協ではない。自分から折れることと、妥協するのとは意味が違う。妥協とは、圧力に屈すること。折れるとは、自分の考えで着地点を見つけること。着地点の模索という意味においては似ているが、本質は全く違う。その物事の解決において、「後ろ向き(妥協)」なのか「前向き(折れる)」なのかということだ。ここをはき違えて、すべてを妥協であるとかたづけてはいけない。「妥協点を見つける」という言葉は存在するが、これは「折れる」という意味で使っている「妥協」であり、混同しがちなのだが、自分の頭の中では、言葉はきっちりと定義づけする必要がある。
 では、なぜ言葉の定義づけが必要なのかというと、あいまいな使い方では誤解が生じるからである。詳しくは、後日ブログ「言葉は定義づけろ!」で話していこうと思う。簡単に言えば、日本語には類似語が非常に多い。そして、その中には似てて非なる言葉も多い。言葉の定義を取り違えると、自分の信念や軸がブレる原因ともなる。信念を胸に焼き付ける時、その行動や言動のひとつひとつが重要になってくる。自分の軸がブレてないかどうかは、その言葉の定義をきちっと確認できているのかということが大切なのだ。過去ブログ「仕事と作業」などでも話したが、こういった言葉の定義をいちいち考えることは、軸がブレない生き方には重要な要素であり、ぜひ、「言葉は常に定義づける」という考えを習慣付けてほしいのである。
 それと一言付け加えておくと、この言葉の定義づけは、アニキ哲学における定義であって、広義の定義ではない。広義における定義は辞書や用語辞典に載っている解釈だ。だが、これではあいまいすぎて、信念や軸としての行動レベルにおいては頼りない。一般的な意味としてはそれでもいい。というか、そうじゃないとダメだ。難しく解釈してしまうと、わけがわからなくならからだ。しかし、アニキ哲学においては、生き様としてその言葉を使う。そして、自分の信念を貫くためには、時には相手を説得することも必要だ。定義づけされた言葉は、そのままサラリーマンの武器として使えるのだ。定義付けされた言葉と、その信念に従って行動することにより、細かな考え方や心の動きなども言葉と共に蓄積されてゆく。その信念に基づく行動の歴史は言葉の重みを生む。
 そして、長い年月己の中で練られたその言葉には、多くの深い意味が練り込まれ、重厚感がにじみ出てくる。その言葉ひとつで、そこに含まれた深い意味ごと相手の魂に突き刺さり、言われたその人の魂を揺さぶる。まさに、魂の言葉だ。そこまで言うと大げさだが、言葉の重みとはそんな感じだ。
 言葉を定義づけて正しく使うことが、軸がブレない生き方において非常に重要な要素であるということをわかってほしい。

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