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脳の謎(6) ~悟り~ [哲学]

 では、今日は昨日の続きで、「脳との上下関係」について話そう。この概念は言わば、「脳を従える」ということだ。常に脳よりも上の地位確保し、脳に命令できる立場だ。肉体の身分でこんなことが果たしてできるのか? かなり困難だが可能だと言いたい。しかし、これは選ばれた人しか無理じゃないかと、アニキは思う。それは、「悟りを開く」という行為で脳を従わせるのだ。要はものすごい精神力の持ち主だ。
 「悟り」とは、なんだかよくわからない概念だ。偉い坊さんや行者を想像するが、ここでスッキリさせよう。実は、脳を従える観念が「悟り」である。主従関係で、肉体の意思が脳の主人となった状態を「悟りの境地」という。悟りに関しては数多くの考え方があるが、アニキの研究からの「悟り」はまさに脳を従えること。悟りとは、完全に自分の脳を支配した状態を言うのだ。「悟りとは何か」と、永遠のテーマのように語られているが、端的に言えばこういうことだ。偉いお坊さんや行者、宗教の教祖と呼ばれる人達は、自分の脳を支配した人達である。
 悟りを開くために荒行をするが、これは何かというと、脳をねじ伏せる為に、自分の脳と闘っているのだ。脳は、肉体という乗り物に乗っているため、昼間は肉体の意思が主であるから、脳は日常生活では大概の命令には従う。しかし、極端な、例えば肉体や精神が壊れるまでの命令は聞きたくない。なぜなら、壊れてしまっては、脳自体も生きてはゆけないからだ。その一つのカギが自律神経だ。
 自立神経を通して、脳は肉体を操縦しているのだが、この自立神経を麻痺させるような行為には、脳は従いたくないのだ。だから、脳は勝手に肉体の限界点を作ってるのだが、修行者はこのストッパーをはずそうとするのだ。滝に打たれるとか、断食とはまさにこの行為だ。脳は普通、肉体を部下と見ているから、脳が決めた限界点は超えてこないと高をくくっているのだ。だから、肉体とその意思(魂)がこの限界点を超えてみせ、脳が「これ以上は無理」という状況において、肉体は脳に「まいった」と言わせるのだ。これが目的だ。だから、肉体の主である意思(魂)が勝つのか、肉体を制御している脳が勝つのかだ。本当にギリギリの闘いだ。肉体の精神力が負ければ、頭がおかしくなるか、死だ。だから、荒行において脳は、あの手この手でやめさせようとする。きわまってくると、脳は幻覚まで見せる。これでもかって感じだ。
 これがまず、「剛の闘い」だ。

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