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人間の仕掛け(6/7) ~不幸は満ち潮時の波の如し~ [哲学]

 もうひとつは、常に物事を前向きにとらえる人だ。何でも良い方向に物事を考える心を持つ。小さな不幸が身に起こった時、「この程度で済んでよかった」と考えられる人だ。この手の人は、起きた不幸が都度リセットされるから、次の大きな不幸が襲ってこない。不幸というのは前にも言ったが、満ち潮時の波のようなものである。
 最初は小さな波が足に当たる程度だ。自分が同じ場所にいたなら、潮が満ちてくるに従い、足にかかる程度ではなく、膝から腰、さらには上半身まで波にかかる。それがわかかっているから、足にかかったときに対処することになる。不幸な出来事も、実はこれとかなり似ているのだ。最初は小さな不幸が少し起こる。そのことを無視していると、次第に自分に降りかかる不幸が大きくなる。不幸がかなり大きくなった時点でそのことに意識するのだが、不幸にどっぷりと浸ったその状態では、冷静に不幸が起こるしくみを考えることはできない。その場で右往左往しながら、「なんでこんな不幸が俺ばかりに起こるのか?」と嘆くだけとなる。まあ、相手がどんなものかわからない場合、一歩引くのが人間だ。いきなりトラが襲ってきたら逃げるよな。それと同じで、「わからない場合は逃げる」のが、生き物の正しい姿だ。逃げないでその場にたたずんで嘆いているから、物事は好転しない。さらには、神頼みと称してお祓いとかに頼るから、より状況は悪くなる。言ってみれば神頼みとは、前に出るような行為である。相手が何で、そのしくみがわからないのに神頼みするのだ。これは、創造主にケンカ売ってるようなものだ。お守りを掲げて、「来るなら来い!」と叫んでいるような行為だ。満ち潮時に、自分の足に波がかかり、お守り掲げて前進してゆくようなものだ。モーゼじゃないんだから、お守り掲げても絶対に海は割れない。頭まで水に浸かり、自殺行為もいいとこだ。実は不幸な出来事はとは、人間に降りかかる多くの事柄と同様だ。ただ、それが目に見えるか見えないかの違いで、相手が何者かわかってるかわかってないかの差だけである。
 とにかくだ、不幸を始めとして、わけのからないことが自分に起こった場合、足にかかった波と同じで、少し後ろへ下がればよい。または逃げてもよい。相手が何者かわからないのに戦うことは危険きわまりない。そして、その場合のポイントは自分が動くこと。当たり前のことなのだが、波ではできるくせに不幸が起こった場合はなぜかできない。不幸が起こったら、自分でよくその原因を考えて、後ろに下がるのだ。前に動くのではなく、後ろに下がる。ここが重要だ。
 後ろに下がるとは、つまり、なぜ足に波がかかったのかの原因を追及することだ。そうすると、なぜ自分が波のかかるところに来ているのか?という根本理由まで明らかになってくる。この探求が「後ろへ下がる」いうことであり、原因がわからないのなら、元の場所へ戻ってみることが大事になる。神社参りや断捨離の前にまず我に返ることだ。


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