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人生の準備期間「学校」(14/17) ~「大学」というパラダイス~ [哲学]

 そんな高校での専門的な授業は、将来の人生においてはほとんど役に立たない。役に立つのは、難しい難題をどうクリアしていったかということだ。カンニングでもいい、一夜漬けでもいい。要は、どうやって乗り切ったかが重要なのだ。正攻法で乗り切れない奴は、他の手段で乗り切ればいい。それを考えて実行する。これは、勉強でもスポーツでも恋愛でも同じである。困難をクリアした時の成功体験や、クリアできなかった時の挫折感をしっかり学ぶことに意味がある。「成功と挫折」、これをキッチリ学ぶことが、心に磨きをかけることになる。これで、幼稚園からの柔軟な心に、さらにストレッチをかけることができる。

 心が固いままのヒヨッコじゃ、社会に出たら簡単にひねり潰されるだけだからな。そして、自分の思い通りにならないからといって、自暴自棄になるようでは、まだまだ心が固いガキだ。思い通りにならないのが人生であって、目の前の思い通りにならない課題をやっつけてゆくことが人生の意味である。だから、結果がうまくいってもいかなくても、それは大した問題ではない。どちらの結果からも学びがあり、出た結果が自分に必要な学びのチャンスだからだ。自分に足りないものが、結果として目の前に表れることになっている。

 もうひとつ言うと、結果は生まれる前から自分で決めてきており、そこから自分に必要なことを学ぶことになっているのだ。小中学校でできあがった心の柔軟性をさらに広げる。高校では、その広がった心にプレッシャーという刺激を与えて、心にテンションをかけて、その伸び縮みを実際に試しておかないと、いざという時に使えない。それができていないのならば、まだ社会に出て行くレベルではない。

 そうなると、高校でもまだ心の柔軟性がなく固い奴は大学へ行く。大学とは、高校まででまだ心の固い奴が柔らかくしに行く場所だ。大学という4年間の有り余る時間をかけて、ゆっくりと心を広げて、自分の軸を確保する場所である。今まで詰め込み式の窮屈な高校という環境では心が伸びなかったわけだから、逆に4年間かけてゆっくりと自分の好きなように伸ばしてやるという意味がある。大学はそういう場所で、勉強するところではない。

 大学の授業をまともに受けている学生には気の毒だが、勉強などそこそこでいいのだ。落第しない程度でかまわない。大学の授業で学ぶことは、定期テストで単位を取る要領の良さと、やっぱり自分には勉強は向いてないとうことを知ることに意味がある。「学問にしがみつくな」というダメ出しだ。大学に入学して早い段階でまずこれを理解して、別なことを見つける。4年間の自由なパラダイスを頂いたわけだから、この期間を自分の好きなように使わなければならない。

 遊びほうけてもよい。但し、卒業時までにはしっかりとした心の柔軟性と軸を見つけていなければ意味がない。大学で一生懸命に勉強して大物になったって話を、アニキは聞いたことがない。

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