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「優しさ」と「甘さ」(1/9) ~言葉は己で定義付けろ!~ [哲学]

 どうも最近、「優しさ」の意味をはき違えている若い人が多い。アニキから見ると、それは優しさではなく、甘さだろうと思うのだが、優しさだと誤認している。優しさの本質がわかってないんじゃないかと感じる。優しさも甘さもともに、相手を気遣う気持ちから発している。そして、ともに相手に何かをしてあげる行為には変わりがないが、それぞれの意味がわかってないと、効果は全く違った意味を持つ。意味がわかっていないと、期待していた結果と180度違った結果になることもあるのだ。
 じゃあ、優しさと甘さの違いとは何か?まずはそのことをきちんと認識しておく必要がある。アニキの言葉の定義は一般的な定義とは異なる。ちょっと話は逸れるが、アニキ哲学の一つのポイントだから説明しておこう。アニキ哲学における言葉の定義は、辞書なんかで調べても出ていない。何でもそうだが、言葉は生かして使う必要がある。アニキは、辞書でしらべた言葉の定義など、死んだ言葉だとよく言っている。死んだ言葉とは、辞書を作った人には失礼な話かもしれないが、要するに、そのままでは人生に活用できないってことだ。言葉とは、魂を吹き込んでこそ生かすことができる。辞書の言葉には魂が入ってないから、アニキは死んだ言葉と呼ぶのだ。
 では、言葉を生かすにはどうすべきか?言葉を生かすには、そこに自分の哲学がなければ生きた言葉とはならない。己の哲学により、言葉に魂を吹き込むのだ。魂が入ると、自分なりの解釈にてその言葉を使うことができる。これこそが言葉の生きた使い方で、他人がなんと言おうが、己の信念を纏ったその言葉の定義を誰も否定することはできない。なぜなら、それはその人の哲学までも否定することになるからだ。他人の哲学を否定するなら否定してもよいが、そのためには、その否定者の哲学は、さらに上回った哲学でなければ否定することはできない。つまり、確固たる信念の軸を持って人生に臨んでいる人を否定するには、それなりの信念の柱で対抗しなければならないということだ。それができるほどの信念と覚悟があるかどうかだ。信念を持った人間には、生半可なノンポリ人間では熱くて近寄れない。ましてや、口先だけのにわか哲学評論家なんかが近寄れる隙はない。簡単に蹴散らされるのがオチだ。しかも、アニキ哲学が認める哲学とは、行動で示しているかどうかが重要だ。行動で示せない口先だけのにわか哲学では、すぐにメッキがはがれてしまう。要するに、行動で示していない哲学では、矛盾だらけで一貫性がないから、言葉に全然説得力がない。論客にすらならない。全く議論の相手にならないのだ。
 アニキは何が言いたいのかというと、「言葉は自分で定義付けろ」と言うことだ。他人が使う使い方がたとえよいとしてもだ、他人が魂を入れた言葉は、その人にとっては生きた言葉だ。しかし、自分が魂を吹き込んだものではないから、それは死んだ言葉と同じだ。他人の言葉の定義が腑に落ちたとしても、そのまま使うのではなく、自分でしっかりと言葉の定義を咀嚼し、自分の行動において使ってみて、納得してはじめて自分の魂を吹き込んだことになる。
 繰り返すが、「言葉は己で定義付けろ!」だ、いいな。自分で言葉に魂を吹き込んでみろよ。女にもてるぞ。

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