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親の謎「親の心、子知らず」(9/9) ~かっこいい親~ [哲学]

 アニキは何が言いたいのかというと、親は子供がかわいいからこそ、中学卒というヨチヨチ歩きの時期に、プロがひしめく社会に入れたくはない。それが親心だ。「勉強が嫌いだから就職する」だとか、「やりたいことがあるのになんでダメだと言うのか」とか、子供は親に楯突くが、親が子供の意見を否定する理由はちゃんとあるのだ。中学卒業してすぐに、何の武器も持たずにプロがしのぎを削る世界に入ったところで、あっさりやられてしまうのがわかってるからだ。それに親は、「仮に、俺でもだめだったろう」との思いもあるからだ。
 でも、想いが高まった子どもは、親の言うことなんかはきかない。「なんでやる前から失敗することを言うのだ」と、子どもは憤慨するのだろうが、自分ができる人間だと思っている若者よ、ここでちょっと耳を傾けてもらいたい。自分ができる人間かどうかは、親を見ればわかるということを。自分の親をよく観察してほしい。親は自分の将来の鏡である。すべてそうだとは言わないが、ほとんど当たる。親をよく見た暁に、「全然ダメじゃん、大したことないな」と思ったら、その子どもも大したことないのだ。親がオリンピック選手や総理大臣だったら、子どもは自分もすごいのだと勘違いしてもかまわない。が、現実はそうじゃない。「俺は親父みたいには絶対ならない」なんて吹聴する奴ほど、「おまえは間違いなく、親父みたいになる」と。そう思う性格も親譲りなわけだ。
 理由はこうだ。子どもは生まれる前に、自分で親を選んで生まれてくる。親が子どもを選ぶんじゃない。子どもが親を選ぶんだ。自分の魂が親を選んで、生まれてくるその胎児の肉体に入り込む。親は肉体の親であり、魂の親ではない。で、魂の目的は何だ?そうだよな、修行だよな。この世で修行するんだよな。ということは、親を選ぶ時、修行に適した親を自分で選ぶということになる。例えば、「社会的に地位があっても威張らない」という修行が今世の目的だったとしたら、やはり社長かまたは相応の地位者である親を選んで生まれてくるものだ。そうではなく、自分の親が一般的なサラリーマンであるなら、自分の修行も親と似たような経験をすることになる。で、肉体は親に育ててもらうことになるが、魂は自分で磨くのだ。子供の魂も親の魂も、魂レベルではフィフティフィフティだ。上も下もない。親が偉そうに言う言葉には、知識と経験とそこから導かれる哲学が組み込まれて、子供にアドバイスしているにすぎない。魂のレベルに親子はない、親子という役割を演じながら修行することを決めてきただけである。親も、親として自分の魂を磨く。子供も、子供として魂を磨く。そういう意味においては、親子は修行者としての同僚であると言えるのだ。
 だから、最初から立派な親などどこにもいない。立派な親とは、自分が未熟な親であることを最初から認め、子供と共に成長することを受け入れて、日々の一生懸命な姿を子供に見せる親だ。やっていることがいいか悪いかではない、一生懸命かどうかだ。それが立派な親の基準であり、その一生懸命な姿を子供が見たとき、その姿を「かっこ悪い」と思うかもしれない。しかし、自分が大人になり、子供を持った時、あの時の親の一生懸命な姿を思い出し、「あれは実は立派だったのだ」と感じればいいのだ。
 つまり、立派な親とは後々の評価であり、子育てに直面している時はかっこ悪くていいのだ。かっこよく子育てしている親など、実は子供にはなにも伝わっていない「かっこ悪い親」なのだ。アニキ哲学は言う、「人は言葉で判断するな、行動で判断しろ」と。
 人は、「親の一生懸命でかっこ悪い姿こそが、実はかっこいい姿だったのだ」とわかる時、初めて一人前になったといえるのではないだろうか。

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