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「優しさ」と「甘さ」(4/9) ~エセ親分~ [哲学]

 友人や親子などの間において、飾らない真の優しさのやり取りが行われるのが一般的だろう。だが、それだけではもったいない。人生の内、睡眠の次に多くの時間を占める仕事において、こいつを使わなきゃダメだ。優しさを仕事に応用してこそ、人生が生きてくる。友達や家族と過ごす時間なんぞ、人生の中の時間にすれば微々たるものだ。それなのに、なかなか仕事に応用できる人はいない。実は、「親兄弟や友達には厳しいことを言えるが、会社ではちょっとねぇ…」という人は、「実は私は仕事に真剣に取り組んでない」と暴露しているようなものだ。仕事に対する心構えが足りないという問題だ。親友の身には真剣になれるくせに、仕事には真剣になれない。そういう人に訊いて見たいことは、「親友には真剣になれるのに、なぜ仕事仲間には真剣になれないのか?」と。このことは何を意味するのか?
 話は逸れるが、親分肌って言葉を聞いたことがあるだろう。親分肌と言えば、優しさの代名詞だ。男気があって義理人情に厚い。そんなイメージだな。で、誰でも知っている通り、親分肌の奴の周りには、多くの人が集まってくる。親分の人間性に惹かれているからなのだが、なぜ集まるのか?それは、親分の厳しい優しさに惚れるからだ。でも、ここでもそれが本当の優しさか甘さかに分かれる。そう、親分には2種類のタイプがいる。
 1つは、甘さという優しさで周りの人気を稼ぐエセ親分だ。エセ親分は、根っからの親分肌ではない。本当の親分肌というのは、自分から周りに仕掛けていかないものだが、エセ親分は違う。優しさというエサ撒く。見てればすぐわかる。特にわかりやすいのは、「おごり」だ。メシなどを奢ってやることが日常化している。無理矢理周りの人間を飲みやメシに連れて行く。奢ってくれることがわかっているから、金のない若い奴らはホイホイついて行く。知らない人間からすれば、若い奴に人気のある親分だと見えてしまう。飲みに行っても、作られた優しさを振りまき、八方にいい顔する姿はまるで営業そのものだ。最初は優しくていい人だと思ってついてゆくが、何度か集まりに参加していると、信念の矛盾や哲学の浅さなどが露呈してくる。親分肌というメッキがはがれてくるのだ。「なんだ、少しおかしいぞ」と思ったら、メッキのはがれ方は著しい。とはいいながら、「まあ、害もないし、奢ってくれるなら、いいか」ぐらいの感覚だ。しかし、お金で釣った魚は長続きしない。金の効果がなくなるとついて行かなくなる。財力が尽きた瞬間から、人気がなくなる。肩書きを振りかざしてくる親分も同じだ。肩書き親分は見てればわかるが、周りから集まった訳ではなく、本人自らが集めている。だから、肩書きに効力がなくなると、やはり見捨てられる。人柄に集まっているわけじゃない。
 巧言令色少なし仁だな。これがエセ親分の特徴だ。

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