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親の謎「親の心、子知らず」(4/9) ~親は未熟者~ [哲学]

 それと、親は自分の実力がよくわかっていて、自分の子供がどこまでできるかが何となくわかってしまう。親は、自分が今まで、「何一つ長続きしたものがない」ことがわかっており、「何一つ満足に達成したものがない」のだ。そのことを子供は知らない。さらに、自分が子供を叱るのと同じように、会社では上司に毎日罵倒されているのだ。子供が自分と似たもの同士であることに一種の悲壮感を覚えている。「なぜ、こんなくだらないところが自分と似てるのか?」と、憤りを感じている。だから、他愛もないことで急に怒ったりするのは、ある意味、その子供の行動や言動が、過去の自分のそれと似ていることに対する苛立ちなのだ。ここに、子供には隠している親のヒミツのひとつがある。
 親は、子供の頃、同じように夢を抱いて大きくなった。しかし、いつの日かその夢に挫折してしまった。夢を見るだけでほとんど努力をしなかったのかもしれない。努力はしたが、途中で挫折したのかもしれない。優柔不断で、夢もコロコロと変えて、そのまま大人になってしまったのかもしれない。親はそんな中途半端な人間なのだが、子供にはそれが見えない。夢を実現できなかった悔しさはいつでも心に中あり、消えない。だから、いつまでも現実性のない夢を見ている子供に対し、理由なく叱ってしまう。それは、自分に対する怒りでもあり、若かりし頃の自分の弱き心を叱っているのだから、子供には理不尽な態度にしか見えない。考えることもやることも似ているのだから、うんざりしている。親は普段から偉そうなのだが、子供と共に親として成長する段階であり、「親は未熟者」なのだ。
 本当は、我が子を信頼して「何でもやってみろ」と言いたいが、自分の子供である以上、無理だろうと考えてしまう。鳶が鷹を生むことはめったにないと考えるのが一般的だから、子供に「無理だからやめろ」といってしまう。親は自分が中途半端な性格であることにずっと悩み続けてきた。その子供である我が子もたぶん同じだろうと、憂いでしまう。自分が大したことないのに、子供に過度な期待はできない。必ず、自分と同じ場所で悩み、自分と同じところで躓くと考えてしまう。だから、我が子も当然親に似て大したことないはずだから、中学卒で職人の道に入ったとしても、根性の出来具合も推し量ってしまうことになる。寂しい限りである。
 「自分の人生は自分で決めればいい」とかっこよく言いたいのだが、夢に挫折した後、ケツを拭いてやることを考えると、どうしても賛同できない。「挫折してもケツを拭かなきゃいいじゃないか」と思うかもしれないが、それは子供もったことがない人のセリフだ。子供をもつ親なら、挫折した子供が辿る道のりが荒んだものなることを避けねばならないと考える。つまり、人生の旅路の修正だ。ほっといたら自暴自棄になったり、精神を病んだりする。当たり前だ、まだ子供だからな。簡単に心が折れてしまう。そこを救ってやるのが親の仕事なのだが、先にも話した通り「親も未熟者」だから、なかなかうまくいかないのだ。

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