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魂の謎(2/6) ~カラダ・脳・魂~ [哲学]

 人間は、魂とカラダと脳でできている。どれか一つでも欠けてると人間にはならない。これはどういうことかと言うと、アニキ哲学の基本のひとつに、人間が生まれてくる目的は修行だというのがある。。自分なりの克服すべきテーマを予め決めて生まれてくる。この考えにアニキは賛成だ。とても腑に落ちる。その考えを柱とすると、監視役としての脳がいる。脳については以前、「脳の謎」で説明したと思うが、読んでない人にために簡単に話すと、修行をちゃんとやってるかどうか、修行の成果が出てるかどうか、これを創造主に報告する存在が要る。それが脳の役割で、脳は自分ではなく別の生き物であるというのがアニキ論だ。じゃあ、魂は何のためにあるのか?それは簡単だ。魂こそが自分である。肉体が自分だと思ったら大間違いだ。今、考えたり、テレビを見たり、本を読んだりしているのは、カラダではない。魂がやってることなのだ。そう、魂が修行に来ているのであって、カラダが修行に来ているわけではない。カラダは単に、今世の修行に使う乗り物だ。輪廻転生の理屈から言えば、今回の乗り物であって、来世は別の乗り物に乗ることになる。男になったり女になったりと、生まれ変わる度にいろんな乗り物に乗ることになる。この話は後日ブログ、「今世の乗り物を乗りこなせ!」で詳しく話そう。今は、カラダとは自分ではないということだけ覚えておいてくれ。だから、魂こそが自分であり、生まれてくるときにどのカラダにしようかと、自分で選んできただけのことだ。
 つまり、魂がカラダという乗り物を操縦して今世修行しに来てて、その監視役が脳だ。どうだ、腑に落ちるだろう。「人間はなぜ生まれてくるのか」なんて命題は、難しいロジックを組み立てなくても、シンプルに説明できる。たぶん、100年後ぐらいには、アニキが言ってることが証明されるんじゃないか。
 おっと、話を元に戻そう。魂は修行しに来てる。カラダという乗り物がぶっ壊れたら魂は帰る。うまく成果が出てればよいが、出てる人なんか少数だろう。だからまた、生まれてくる。何回でも生まれてくる。どんな優秀な人間でも、それはこの世での話だ。だから正直、うらやましがることはない。今世、女にもてなくても卑下することはない。もてない奴は、もてるような修行は何世も前にクリア済みだからだ。だから今世は、女にもてないようにしようと決めてきただけのことだ。もてない奴の魂のランクはかなり上位だと言える。そう考えると、もてるイケメンなんかに腹も立たないだろう。魂のレベルが低いわけだから。実は「嵐」なんてのも魂のレベルが低いことになる。
 そんな連中に嫉妬するのもばかばかしいだろう。そして、彼らと今世で勝負するからおかしくなるんだ。勝負するなら、あの世でしな。みんな平等だから。これが魂の謎のひとつだ。さらに謎はまだある。

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魂の謎(1/6) ~生き物は作れない~ [哲学]

  人間の中には「魂」というものがあるという。なぜか昔からそう言われている。なぜ昔の人は、魂の存在を知っていたのであろうか?「火のないところに煙は立たない」というのがアニキの信条だ。何かしら秘密がある。昔の人が勝手に作ったものではない。そのきっかけは過去に必ずあったのだ。だから、アニキもそれを信じている。魂はあるのかないのか。あることが前提でなければ、この話は進まない。魂とは、どんな形でどんな大きさで人の体のどこにあるのかはわからない。しかし、人間の存在を考える上で「魂はある」と考えるのが妥当であり、とても腑に落ちるのだ。
 魂がなぜあるのかを考える時、動物はなんで生きてるのかを考える必要がある。ここでの「なんで?」とは、目的のことではない。生きているしくみのことだ。つまり、「どのようなしくみで動物は動いているのか?」ということだ。科学がある程度発達しているこの現代で、ほとんどものは人工的に作ることができる。人体のパーツも人工化できるほどの科学力だ。今では内蔵なんかもほとんど人工的に作れるし、皮膚も骨も可能だ。脳などはコンピュータなどで代用できるかもしれない。そんな科学力があるにもかかわらず、いまだに人間を作ることができない。「人道的に作らないのだ」という考えかもしれないが、できないのではないだろうか。クローンなどのように培養の技術はあるが、生き物そのものを作ったという話は聞いたことがない。形は近いものができるかもしれないが、それがひとりでに大きく成長していくような生き物は、無理だろう。できるなら、人間以外のものですでに応用できているはずだ。
 例えば自動車なんかは、傷がついたら傷薬塗って1週間ぐらいで治るとか。でも、実際にそんな話は聞いたことない。自動車ができてから100年ぐらい経つのに、未だにそれができない。そうなのだ、現代の科学技術を持ってしても、形はできても生き物は何一つ作ることができないというのが現状なのだ。
 なぜか。それは動かす何かが足りないとしか言いようがない。その足りないもの、それは「魂」というものと考えるべきである。魂というものは非科学的だと言うが、科学的に説明できないものはすべて非科学的であり、それで一蹴して収まる話ではない。そう、アニキは言う、魂を無視して人間を語ることは不可能であると。
 昔、子どもの頃テレビで、人が死ぬ前と死んだあとでは5gぐらい重量が軽くなるという番組を見た。これが魂の重さかと、子ども心に魂はあるものだと確信した。以降アニキは魂というもに興味を持った。

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サラリーマンの謎「なぜ脱ぐことを強要されるのか」(4/4) ~「脱ぐ」最大の理由~ [哲学]

 アニキが言いたいことは、「スペックという値札をすぐに捨てろ」ということだが、なかなか自分ではできないから「脱ぐ」ということをやらされる。これは精神的意味合いの中で説明した通りなのだが、無理矢理「脱がされる」のは本人のためであるからなのだ。そして、営業的意味とは対外的な措置だ。会社として、スペックをちらつかせて周りにアピールされたら迷惑なのだ。つまり、値札を付けたまま出勤してきて仕事をするような社員は、会社の評判を落とす。一流企業ならなおさらだ。だから、ここで一気に片を付ける意味がある。
 つまりこういうことだ。高学歴や語学の技能、海外でのバックパッカー経験などを引きずってこられると、会社としては非常に困るということだ。この理由はなぜかわかるか?例えばだ、営業に配属されたとしよう。いくら偏差値の高い大学を出てようと、営業で売る先は一般の商店街の八百屋や魚屋だったりする。八百屋や魚屋のオヤジは高学歴じゃない人がほとんどだ。しかし、金は持ってる。彼らの自慢は絶え間ない努力が生んだ有り余るお金なのだが、逆に学歴コンプレックがある人がものすごく多い。だから、大学出というだけでさぶイボが出るということだ。そこに高学歴をちらつかせたり、口に出そうものなら、不快感をバリバリに与えてしまう。そんな奴が営業に来ても、「絶対買ってやんない」となってしまう。本人の営業成績も上がらないが、このように会社に損害を与えてしまう結果となる。だから最初に、脱ぐことを強要して本人のプライドを破壊するのだ。
 頭の切れる人ならピンと来るのだが、「なぜ、脱ぐことに繋がるのか?」ここがよくわからないという未熟者にあえて説明しよう。就職するためにスペックを極めてきた奴は、脱ぐことなんかしたことがない。しかも、人前で脱ぐなんて行為に対しては、軽蔑視していたに違いない。そういう固定観念を打ち破るのが目的だ。魚屋のオヤジは、英語のスピーチより裸踊りの方が好きだからだ。だから、「人前で脱ぐことなんて、なんの抵抗もない」というレベルまで最初の段階で突き落とすのだ。すると、魚屋のオヤジとの飲み会で、裸踊りを披露することができる。エリート風情がそんなことをするわけがないと魚屋のオヤジは思っていたから、突然のサプライズに一気に距離は縮まる。課長時代の「島耕作」だってできなかったんだぞ。この場合のサプライズはプラス側のサプライズだから、アニキブログ「かっこよさの定義」のごとく、魚屋のオヤジの気持ちを掴むことができる。こういうことだ。だから、対外的な意味合いとして、「脱ぐことを強要する」ことが重要なのだ。
 そうなると、人前で脱ぐことが癖になる。新人でもないのにいい歳して自分から脱ぐ人がいる。これはやめてほしい。本人はサプライズと思っているかもしれないが、サプライズでもなんでもない。ただ汚いだけでみっともない。大人なら、「新人と同じ芸で乗り切ろうと考えるな!」といいたい。社会経験何十年という人は、別の方法でお客をうならせるべきである。宴会でお客をうならせてどうするんだ?実務でいかなきゃな。それを部下に見せなきゃダメだろう。じゃないと、部下もいつまでもお客の前で脱ぐことになるから惨めだろう。
 まあ、それは余談だが、要するにわかってほしいのは、会社に入ったらまず、「脱ぐ」ことは覚悟しろということだ。脱げば明るい未来が待っているぞ。脱ぐということが、どれだけ深い意味があるのか、理解してくれたと思う。
 では若者よ、宴会の前の日は、おちんちんをちゃんと洗っとけよ!それは、最低限のマナーだ。

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サラリーマンの謎「なぜ脱ぐことを強要されるのか」(3/4) ~三つの意味~ [哲学]

 まずは儀式的な意味からいこう。アニキはよく、社会人になるということは「嵐の大海に小舟でこぎ出すこと」と言っている。この例えは、生き馬の目を抜くようなプロ集団の中に、ハナタレ小僧が入っていくということだ。自分の鼻水が垂れていることすら気付かないハナタレが、プロがひしめく社会に出て行くのだ。すぐにカモにされるのが目に見えている。だから、一旦裸になり心を引き締めろということだ。鼻水を垂らしていることに気付かないということは、垂れた鼻水が衣服に付いていることにも気付かないでいるということだ。アニキがよく言う「ぼくちん」の定義のひとつなのだが、要は自分のことを自分でできてない社会人を指す。だからまず、「今まで着ていたものをまず脱げ」ということで、言わば「鼻水が着いた服を脱げ」という意味なのだ。これが儀式的意味だ。
 次に精神的な意味だ。「恥ずかしい」という感情を封印する目的がある。人前で肌になるのは恥ずかしいものだ。それを乗り越えさせる目的がある。心のストッパー-を外させることを第一義としている。これからはプロがひしめく荒海に出て行くのに、「裸になる」ということぐらい屁でもないという強い心を作る。そして昨日も話したが、想定外の問題に対して備える心構えを作る。これは経験でしか身につかないから、いきなり新人歓迎会という初っぱなのこの時点からすでに教育が始まっているのだ。恥ずかしさを取り払う心と想定外の問題に対して動じない精神を作る。
 次に営業的な意味合いだが、アニキはこれが最も大事だと考えている。ここで考えなければならないのは、「なぜ裸なのか?」だ。想定外の問題なら他にあるだろう。儀式的に衣服を脱ぐということだって、取って付けたような話だ。脱ぐ必要はないではないか?ということだ。精神的な意味としての「裸になる」だって、別に他に手段はありそうなものだ。
 そう、だから営業的な意味合いこそが脱ぐことの真の理由である。サラリーマンになるということは、学生から社会人になることだ。そんなことは当たり前だな。で、例えば一流企業に入るとする。一流という定義は難しいが、就職するのが難しい大手企業と考えてくれ。名のある大手企業は人事の目も肥えているから、スペックの高い学生を獲得するはずだ。だから、学生は目指す一流企業のためにいろいろ頑張ってスペックを上げる。学歴だったり、語学だったり、海外バックパッカーだったりと、自分を企業がほしがる学生像に仕上げてゆく。しかし、実際に入社したら、そんなスペックのほとんどはいらない。以前のブログ「技能と能力」でも話したが、スペックとは入社するまでの「ただの値札」だ。入社したらいらないのだ。高いワイシャツ買ったからと、いつまでも値札付けたままで会社行く奴はいないだろう。値札は買ったらすぐ捨てる、それと同じだ。

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サラリーマンの謎「なぜ脱ぐことを強要されるのか」(2/4) ~すべてに理由がある~ [哲学]

 昨日は、新人は「脱ぐことが強制だ」と話した。喜んで脱ぐ体育会系の奴は例外だから、ここでは取りあげない。あくまでも、いやいややらされる新人の話だ。
 脱ぐだけならまだしも、さらにそれから罰ゲーム的な芸をやらされるのだが、終わったあとも後味が悪い。先輩連中は、自分達がやらせたにもかかわらず、「汚い!」とか、「やめろ!」とかを連発するのだ。しかも次の日、会社ではその話題で持ちきりだ。汚いものでも見るような女性社員の視線が刺さる。やらされた方は、「なんなんだ」と憤りを隠せない。しかし、ここで新人は腐ってはいけない。新人が考えなければいけないのは、「こんな地獄のような経験がなぜ何十年と繰り返されているのだろうか?」ということなのだ。ここを考えなければ、お下劣芸はただの「さらし者」だ。アニキは言う、「すべての習慣には理由がある」だ。ただ単に面白ろおかしくそれが何十年と繰り返されてるわけではない。「なぜ、こんなバカらしい習慣が続いているのか?腐ってないで、その意味を考えろ!」が正しい対応だ。
 何でもそうだが、世の中、意味のないことは少ない。くだらないことでも、実は非常に重要なことが隠されていることが多い。人はその意味に気付かないままでいるが、そのくだらないことをやることにより、無意識に身についていることがあるのだ。これが、サラリーマンの謎のひとつであり、気がつけば、会社が違うにもかかわらず、感性が似ているということがあるはず。例えば酒の席のマナーだ。他の会社の人間と酒の席のマナーについて交流したことはないはずなのに、なぜか同じようなマナーが身についている。「注ぎたいときは注がれたい時」とか、「瓶ビールのラベルは上に向け、両手で注げ」とかだ。
「酒の席のマナー」については後日ブログで詳しく説明するが、ここでアニキは何が言いたいのかというと、くだらないことを強要されることにより、自然にいろんな感性が身についてきているのだということだ。だから、「裸になること」からも学ぶことがあるということなのだ。
 では、「なぜ、男は脱ぐことを強要されるのか」ということなのだが、ここに深い理由は存在する。実は三つの意味が隠されている。儀式的な意味と精神的な意味、それに営業的な意味だ。そこを理解していないから新人は抵抗するのだ。最初から分かっていれば何も恐れることはないとも言えるのだが、それでは効果がなくなるとも言っておこう。
 あくまでサプライズ的に強要され、想定されてないことをいきなりクリアしないといけない状況を周囲がわざと作るのだ。ここが最も重要なのだ。

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サラリーマンの謎「なぜ脱ぐことを強要されるのか」(1/4) ~会社は共産圏~ [哲学]

 女の話ではない、男の話だ。誤解があるといけないから、初めに言っておく。がっかりしたか?女にそんなことをしたら、今のご時世、セクハラで捕まってしまう。セクハラについては、「サラリーマンの敵シリーズ」でこき下ろすつもりだから、楽しみにしていてくれ。では、はじめよう。男が脱ぐ話だな。
 だれでも経験があるだろう。新入社員として会社に入ったら、なぜか必ず脱ぐ芸をやらされる。新人歓迎会という名の下に脱がされる。よく考えたら理不尽な話だ。新人歓迎会なら、新人が主賓だ。なのになぜか芸を強要される。で、ほとんどの奴は芸がないから、先輩から指示を受けそれをやれと言われる。いわゆる脱ぐ芸だ。たまに芸を持っている奴もいるが、面白くなければやはり脱がされる。結局は皆が脱ぐハメになる。それはお約束事だからだ。部長や課長あたりになると表だって強要はしないものの、脱がない芸が出ないと、「今年の新人は元気がないな」の一言が出る。この一言はまさに「脱げ」の命令で、先輩社員はそれを聞くやいなや目の色が変わり、新人に強要する。
 日本は自由主義のはずだ。人権をも否定する扱いだ。憲法でも保障されている。基本的人権の尊重は、日本憲法の柱のはずなのだが、そんなことは知ったことじゃないという雰囲気だ。そうなのだ、日本の会社という所はまことに理不尽な場所で、入社してしまうと何も通用しない。端から見るとまるでいじめなのだが、日本中のあちこちで平然と行われている。会社の外は資本主義だが、会社の中は共産圏だ。ここをはき違えると、会社生活は楽しくない。共産圏だと思って行動すれば、案外ストレスはたまらない。就職とは、この覚悟は必要だ。とりあえず儀式だと思ってうまくやるしかない。日本の会社は入社式で会社の一員となるわけではない。新人歓迎会を経てやっと仲間と認められるのだ。ここが日本の会社の特徴で、他のどの国の会社にもこんな風習はない。かつてアニキは他国で見たことがない。欧米人は、アフリカやニューギニアなどで行われている成人の儀式に近い感覚で、この日本の新歓の儀式を見ていると聞く。
 話がだいぶ逸れたから戻そう。この「脱げ」という圧力は、何も裸が見たいわけではないから、脱いだあとは先輩が命令することをこなさなくてはならない。通常は3つから選ぶことになる。①象さん、②ちょんまげ、③花火、この3つだ。以前のアニキブログ「とっておきの宴会芸」でも紹介したが、それこそ新人にとってはまさに地獄。知らない人のために、簡単に内容を説明しておこう。①象さんは「袋を広げる」、②ちょんまげは「同僚の頭に乗せる」、③花火は「毛に火を付ける」だ。これでわかんなければ、だれかに訊いてくれ。大概の人は知っているぞ。常識だからな。ま、こんなの喜んでやるのは、体育会出身者ぐらいなものだ。イケメンがもてはやされる昨今では、こんな旧態依然とした芸は、地獄以外のなにものでもない。
 いまや、アニキもやらせる側になっているが、気の毒だと思う時も多い。

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アニキの組織論(5/5) ~組織の舵を取る~ [哲学]

 話を戻そう。小さい組織を大きく発展させてきた社長は、昔のイメージをそのまま持っているから、全く人の言うことをきかない。社長とは勝っ手なものだからしかたないのだが、いつも自分が正しいと思っている。社長は不甲斐ない会社の現状を見ると悲しく写るのであるが、それは自業自得である。小さな組織時代は皆で強力しあってフォローしてきてうまくいっていたのに、なぜ今それができないのか?と社長は悩むのだが、社長自身が変わってしまったことに本人は気付いてない。だから、ここで社長が昔のように、「みんなで助けあうぞ。」と声をあげても、会社は生き物だから昔と違って変化しているのでうまくいかない。気持ちが変わってしまった社長についてゆく部下はすでにいない。が、部下達も生活があるから、淡々と業務をこなすだけだ。しかも会社は大きくなったために実際の業務量も多いので、まわりのことなど考えてる余裕もない。ここに、かつての創業当時の一枚岩がなくなって、無味乾燥としたただの魂の抜けた会社組織が残る。
 そうだ、会社が生き物であるということの本質がここにある。創業当初の熱い想いが消えてしまったために、会社が抜け殻同然となったのだ。抜け殻ではあるのだが、業務自体は残っているからそれをこなすことでしばらく会社は存続する。なぜ会社が思い通りしかなくなったのかわからないまま社長も高齢となり、次の社長にバトンタッチする。そうなると、次の社長の色に次第に染まってゆく。生え抜きの創業幹部が社長になれば昔に戻そうとがんばるが、途中の抜け殻状態の時代のツケが足を引っ張り、志半ばにしてこれも引退だ。そうやって次々と社長は代わり、カリスマ性を備える者の登場を待つことになる。この組織の流れは、歴史が証明している。
 結局こうなってしまった要因、それは「トップの理念のブレ」だ。創業当時の熱い社会貢献的な意識や使命感は、現実の経営の中で変化を起こし、「もうけること」が何より優先していったため、理念がブレ、又は消失に至る。これが最も致命的なのだ。経営コンサルタントはここをよく強調する。アニキも同感だ。理念やビジョンとは経営哲学である。じゃ、哲学とは何か。哲学とは、「行動時の判定基準」である。個人の哲学においても、物事の判定基準であるから、己の哲学というものは人生の中においては常に構築してゆかねばならない。学問における哲学とは違うのだ。いつも、判定を他人に委ねているようでは、一人前ではない。理念とは魂。会社の重要決定の方向性はその魂によって判定すべきなのである。変化への柔軟性においては、理念は関係ない。理念を変えるのではなく、理念に沿って作戦を変えるのである。理念と作戦は別物である。理念は軸であり、軸足はしっかりと地に着け、作戦を柔軟に変えるのである。
 つまり、トップ理念のブレによる哲学の消失が、会社という組織を歪ませる。組織とは海を航海する船である。理念のブレとは、舵がきかなくなること意味する。世の中は大海であり、世の中の流れが海流だ。だから、船は船長がバカでも勝手に進むことになるのだが、どこへ向かうのかはわからない。海には海流があるから会社という船は常に流されてゆく。そして、至るところで魂のない乗組員が乗ってきてそれぞれが勝手な意見を言うために、船長が指差した目的地には向かわず別の場所に到着する。そうして会社は紆余曲折していろんな形に変化してゆく。それは創業者が望んだ形なのかどうかは別にして魂がないままどこかへ進む。そんな組織を利口な経営者が引き継いだ時に、腐りきったその組織の状態を見て、配られたポーカーのカードを全部変えることを決断するかもしれない。
 だから、アニキは「組織は生き物である」と定義するにすぎない。

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アニキの組織論(4/5) ~エアポケット~ [哲学]

 組織は生き物だから意思がある。組織は時間と共に変化してゆくから、トップの思う通りに動かなくなる。それはなぜか!今日はその原因を追及してゆこう。
 いくつか原因はあるが、まずは言葉の定義である。どんな組織でも、トップが自分の思い通りに組織を動かそうと思ったら、ルールを作ってそれで縛ろうとする。それ自体は悪くないのだが、ここに一つ問題がある。ルールの中に出てくる言葉をきちんと定義付けることだ。ここがあいまいだと、ルールを読む人によって理解が異なる。解釈が異なるから、自分に有利に解釈しようとする。結果、統制は取れずにルールが意味をなさない。で、トップはさらに細かいルールを作ることになる。そしてルールは煩雑になり膨大な量に増えるから、ルール全体を理解し運用する専門家が必要になってくる。悪循環もいいところだ。だから、いくつにも理解できないように言葉は定義付けなければならない。
 次に責任の範囲の明確化である。組織が大きくなると「エアポケット」と呼ばれる問題が必ず生まれる。要は、各部所・各人の責任範囲の隙間だ。だれでも自分達の責任範囲には注意を配るものだが、範囲外には注意が向かない。業務の責任範囲を明確にすればするほど隙間ができて、どうしてもエアポケットができる。しかし、そこを監視するのはあまり意味がない。日々の業務ではどうしてもイレギュラーなことが起こる。イレギュラーな問題が発生すると大体エアポケットが発生する。だから、エアポケットができることを避けられない。エアポケットができないようにするのも大事だが、できたエアポケットの対処の方が重要で、大概の企業は対処重視で組織をを作っているはずだ。
 しかしエアポケットを見つけて対処するのだが、旗振る上司は、協力して「うまくやれ」とか、「いい方法を考えろ」とか、とにかく「何とかしろ」とか、抽象的な圧力しかかけない。曖昧な指示だけ出して上司は逃げるものだからエアポケットはなかなか閉じないのだ。アニキは思うが、部門間を跨ぐその隙間のエアポケットの問題なら、その両方の部門を見ている上司がその穴を埋めるべきだと思う。まあ、その辺りの役職となると、昼夜と社長や役員に張り付かないといけないポジションの人だから、社内の危機とかには関心がないんだろうと思う。社長や役員の機嫌取りに忙しくてそれどころじゃないのだ。エアポケットは管理ミスでもあるから、その火消しを真剣にやらないといけないのだが、それよりも、上役の機嫌を取って、多くのミスを許してもらう事の方がそれ以上に大事だからだ。ま、その辺りは「役員の謎」でまた説明しよう。
 組織が小さい会社でまだ黎明期なら、それぞれ各人が気を配りながらエアポケットに注意して仕事をする。エアポケットができたらすぐにトップに報告するという姿勢もできている。社長やトップも緊張してるから、想定させるエアポケットに注意が向くため、対処することはそんなに難しくない。エアポケットはどんな組織にも必ず存在し、エアポケットが出てくる度につぶしていってるのが現状ではないかと思う。問題が起こる度に責任の所在を明らかにし、再発しないように責任を持たせていくという繰り返しになる。
 結局、極力エアポケットが出てこないように細かく責任範囲を決めて行くために、ルールや手順がややこしくなるのは避けられない。ルールブックが分厚くなるのを避けることはできないし、体系的にそれらを理解・運用・管理してゆく部門も必要となる。先の話とは矛盾するが、大きな組織はどうしてもシンプルにはできない。法律だってそうだ、5人ぐらいの小さな組織なら、「盗んじゃやダメ」「人をキズつけたらダメ」ぐらいで済むが、国家のような1億人の組織となると社会も複雑となり、百科事典並みの法律がいくつも必要となり、それを管理する特別な資格を持つ専門家集団も要る。
 組織という生き物の手足を縛ることがどうぢても必要となるのだ。ルールを厳しくしているのは、実は自分達なんだということだ。
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アニキの組織論(3/5) ~意思を持つ組織~ [哲学]

 なぜこれが間違いなのか?大勢の社長連中はわかってないのだが、「社長=会社」ではない。中小オーナー企業のような小さな組織でもそれは成り立たない。創業者又はオーナーが間違えているのは、「会社は自分のもの」という認識だ。確かに、株を押さえているから自分の持ち物という意識なのかもしれない。物理的にはそうだ、だが会社は「生き物」だと言った。これはどういう意味かと言うと、年数が過ぎると会社は変化する。大きく成長してゆく。それは当たりまえだよな、会社はそれを目的としているからだ。会社が成長するということは、そこで長年利益を生み出し、従業員も増える。ルールも複雑になり、社会的信用度も上がる。このように会社を成長させてきたのは、そこで働く従業員である。だから会社とは、「そこで働く人とその人達が作り上げてきた環境そのもの」なのだ。社長が、生まれたばかりの会社を「自分のものだ」と主張することに対してはまあいいだろう。しかし、大きく成長した会社は社長が一人で大きくしたわけじゃない。出資金額以上の価値を生み出すようになった会社は個人のものではない。先にも述べたが、「働く人とその環境」であり、みんなで作り上げた結果なのであるが、面白いことに、成長した会社には魂が宿る。ここからが、「会社は生き物」であるという本質がある。
 大きく成長した組織には、それ自体に意思に似た何かが存在するようになるのだ。というのも、社長がいくら大声を張り上げて独裁政治を執行しようが、ルールを厳しくしようが、その組織はすぐには思い通りに動かないもの。トップの意思通りにならない。まさに、大きな船である。大きな船は、船長が大声を張り上げても、操舵長が思いっきり舵を切っても、簡単に向きを変えないのと同じである。まるで、それ自体に意思があるかのように。それはなぜか?このブログの初っぱなでも話したが、「人は言葉ではなく、行動で動くもの」ということだ。組織が大きくなると、トップの行動が全く見えない。トップの言葉でしか判断できなくなるから、容易には動かない。動いたとしても、その動きは緩慢だ。人は「納得しないと動かない」、組織や会社も人と同じなのだ。この為に、命令が末端までなかなか届かないし、その命令伝達の中間層の理解が異なると、命令の意図があやふやになり、組織は生き物だから手足がバラバラとなり、統一的な動きができない。そうすると組織という生き物は、元々の考えのまま進もうとし、なかなか融通が利かない頑固な性格となる。
 そう、組織が小さいうちは抽象的な指示でも何とか伝わるが、組織が大きくなると、今まで抽象的な指示で済んでいたことが済まなくなる。それは、直接トップの意思が末端まで直接届いていたものが、届かなくなるからだ。組織が小さい時は、抽象的な指示でも社長の性格や人間性ってものを直接感じていたから、社長の言葉がよくわからなくてもその方向性を推測できたり、または直接社長に確認したりしてやってくることができた。しかし、組織が大きくなると、そうはいかない。あいまいな指示はあいまいな解釈が生まれ、いくつもの解釈が発生する。だから、トップが期待した結果は出てこなくなるのだ。
これが大きな組織という生き物の難しいところだ。

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アニキの組織論(2/5) ~合体ロボと百年の恋~ [哲学]

 創業者のこの小さな「傲り」、これが会社という生き物の体調を悪くさせると昨日話した。具体的な例を紹介しよう。
 この創業者の「傲り」が表面化すると、創業時の部下は離れてゆく。なぜなら、彼らがついてゆく心の柱は創業者の「人間性」と「理念」である。それ以外に、目に見えるものはない。つまり、目に見えない社長の人間性を信じてついてゆくことを決めていたのだ。だから彼らには、社長の「心のゆがみ」や「心の隙間」などすぐにわかってしまう。言葉の端々で前と違う部分に違和感を覚えるからだ。そこで、小さな成功で傲り高ぶる社長をいさめようとするわけだが、社長の目に映る景色はすでに変わっている。元々は腹心の部下としていた創業当初メンバーが自分を諫めるために、次第に煙たくなってくるのだ。そんな腹心の部下達に対して社長は、「自分の考えに反発する」という意識が芽生える。ここに、社長との心の隔絶が生まれてくる。逆に、社長から煙たがられているという印象は、本人にも感じ取ることができるから、益々心が離れていくことになる。社長は煙たい人間は邪魔なので、耳障りのいいことしか言わない部下を重用し、本心から会社のことを考えている人間を辞めさせようと考える。クビにするわけにはいかないから、重職からはずしたり、減俸したりで、自分から辞めていくように仕向ける。で、気がつけば周りにはボンクラ社員が固めており、業績にも影響を及ぼす。しかたなく社長はいろんな手を打つが、行き当たりばったりの対応策しか出せないために、借金が増えてゆく。こんな流れで、5年~10年でつぶれる会社はこのパターンが多い。そう、社長は自分の間違いに気づけなければならなかったのだ。
 アニキは何がいいたいかというと、会社は生き物だ。この生き物が健康な生き物として成り立っているのは、「企業理念」があるからだ。そしてそこに「社長の人間性」がプラスされる。これが会社という無機物に魂を入れて生き物化させる。この二つが従業員を結合させる接着剤だ。だから、これが欠けてるとたちまちバラバラに崩れる。で、この接着剤は市販の接着剤と違い、くっつけたらずっとくっついたままというわけではない。社長はそこがわかってないと、会社という合体ロボを動かすことはできない。
 実は、会社は社長のものではない。創業者、すなわちオーナー社長は、会社は自分のものだと思っている。無理もない、法律では会社は株主のものだからだ。法律はそれでいい。法律とは規範であってただのルールだ。アニキはいつも言うが、「人は言葉(ルール)では動かない、行動で動く」ものだ。つまり、この会社という生き物は、社長の人間性の下で、企業理念を柱に動くのだ。だから、「会社は自分が作ったから自分のもの」だという考えがちょっとでも従業員に見えると、従業員は離れていく。大概の社長もこれを知っているから表面的には出さないが、社長も人間だ、怒った時につい口に出してしまったりする。しかし、従業員は敏感だ。少しでもこのことを耳にすると、それは「社長の本音だな」ということなり、社長や会社に対する「百年の恋」も冷めてしまう。「失言は本音」だ。
 つまり、心の中だけの話であっても、この社長の考えはすでに病み始めているのだ。

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