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アニキの「信者論」(3/12) ~信者の定義~ [哲学]

 まあ、大概の父親は次第に信者になっていくものだからあまりがっかりしないでくれ。父親のモビルスーツは、家族を守るという使命があるから、大きくて強い。そのモビルスーツを自由自在に使いこなす術を子どもに教えてやる役割がある。父親は母親を守るためだけのものではない。だてに攻撃な性格と頑丈なモビルスーツを与えられているわけじゃない。家族の信者となるべくして、父親のモビルスーツは存在する。がしかし、動かすのは操縦者である魂だ。いかに強大なモビルスーツでも、貧弱な魂では充分にその能力を発揮できない。だから、そのモビルスーツをどう動かせば充分な能力を発揮することができるのかを、子ども達に教えるという大事な役割がある。そのためには、子どもの信者とならなければその役割をこなすことはできないのだ。
 しかし、父親は母親と違ってなかかなか子ども信者とはなれない。なぜなら、父親はイマイチ子どもの心がわかっていないからだ。特に女の子の心は全くといっていいほど理解できない。男の子は、あくまで自分の経験からの類推にて把握することは可能なのだが、女の子は無理だ。全くわからないのだ。そんな状態では、子どもは自分の信者として父親をカウントできるはずがない。しかしながら子どもは、父親を信者とは見てはいないものの、自分の味方としては見ているのだ。その立ち位置は、兄弟も同じだ。味方であっても信者ではない。ここが微妙なのだが、信者になるには更なる一歩の踏み込みが要る。自分からの働きかけが要るのだ。その道は、子どもの性格にもよるから一概には言えないが、それを見いだすのも父親を選んで生まれてきた修業であると言える。信者を作る又は信者になるというのは、かように難しいものであり、それを学んでいくのも人生なのだ。
 じゃあ、このブログのタイトルでもある信者とは一体何なのか?ここを定義づける必要がある。両親が子どもにとっての信者であることはわかった。これは当たり前と言えば当たり前だ。子どもが成長する課程で作っていかねばならない信者はすべて他人だ。そんな他人を信者とするためには、まずは「信者とは何か」がわかっていなければ話にならない。
 アニキ哲学の信者とは、宗教的な意味合いの信者ではない。一般的にぴったりくる言葉がないから、一番近いニュアンスである「信者」という言葉を用いただけだ。宗教の信者とは、その教義や教祖に洗脳された一方的な関係だ。それとは違う。心の強固な関係という意味においては同じであるが、洗脳による一方的なものではない。アニキ哲学の信者とは、お互いの信頼関係で結ばれた「心が繋がった関係」である。がっちりと心がスクラムを組んだ状態で、安定度が抜群だ。ちょっとやそっとの問題が起こっても、崩れるものではない。宗教の信者同様に崩れにくい心の状態は似ているものの、アニキのそれは、信頼関係がベースとして成り立っている。
 しかし、心が繋がった関係とは言っても、飲み会などで隣の初対面の人と意気投合して、肩組んでカラオケを歌うというレベルの話ではない。

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