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「お寺参り」の秘密Ⓐ [哲学]

 人は何か願い事があったらお寺へ参りに行き願い事をする。“神様仏様”の仏様の方だ。昔から日本人の習慣になっている。多くの日本人は、仏様へお願いして叶えてもらおうと考えている。でも、願い事叶った奴はそういないはずだ。なぜなら、お寺参りの方法が間違ってるからだ。お坊さんは皆それを知っているが、事実を公表してしまうといろいろ問題あるから、皆黙っている。しかしそれでは誰も願いが叶わないから、本当のお寺参りの方法ってやつを、今からアニキが教えてやる。「ウソだろ-。」と思うなら、別に信じなくてもいい。アニキが勝手に言ってることだ。まあそんな考えもあるのかな程度で思ってくれればいい。アニキはいろんな世の中のカラクリに気づいてるのだが、これもその一つだ。まあ、実行する奴は願いが叶うかもよ。
 さて皆、毎年年初にお寺へ行って同じ事をお願いしてないか。「いい人見つかりますように。」とか、「お金持ちになりたい。」とか、毎年お願いしてないか。でも、叶ってないから毎年同じ事をお願いするんだよね。願い事自体にも問題があるけど、それはまた話が長くなるので、次回以降に話そう。とにかく、毎年同じ願い事してるなら、ちょっとアニキに耳貸してくれ。よろしく。さあ、いい話するぞ。
 まず、がっかりすることを教える。そもそもお釈迦様の仏教は、人の願いを叶えてくれるためのものではない。願いを叶えることが本意ではなく、人々を幸せにすることが目的だ。それを勝手に人は、「幸せ=願いが叶う」と結びつけただけなのだ。それがわかると、次第に仏教の人気が落ちてきたため、今度は密教という願を叶えてくれる宗派が出てきた。だから、密教は願いを叶えてくれるというから流行った。ここで矛盾が生じる。密教も仏教だ。お釈迦様の教義の派生なのに、どういう根拠で人の願いを叶えるのかということだ。ここに実はひとつのカラクリがある。実は密教は知っていたのである。仏教は本来、人々の願いを叶えることができると。お釈迦様もそれはわかっていたが、安易に願いだけを叶えてしまうことは人々の人生には良くないと考え、「幸せに生きる」ということにすり替えて、人々に説いたのだ。実は仏教とは、願い事を叶える強力な魔法なのである。それを表に出してきたのが密教だ。そして、密教の仏像崇拝こそ、願いを叶えるための手段で、いわば仏像は、仏様に願いを届かせるための「願い増幅器」なのだ。別に信じない人は信じなくてもいい。仏様にしてみれば、願いを聞く競争が減るだけだから。では、次回はその仏像のカラクリについて教えよう。

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